体育祭当日の朝は、よく晴れて秋の匂いがした。
午前七時には、体育祭委員や各々係りをもった生徒が登校し始め、八時になると生徒の家族も学校に集まり始めた。同じ年頃の生徒だけの世界に、いつもと違う人並みが流れこんでくるのは不思議な感覚だった。
九時に全校生徒が校庭に集合し、開会式が始まった。トラックの周りにクラスごとに固まり、観客は応援団と化した。
リレートラックの内側では幅跳びが行われている。百メートルで同じクラスの男子が負けてがっかりしていると、幅跳びで「一位、三年三組」のアナウンスが響き、どよめく。
文化部系の部活の女子が、記録を伸ばしていた。得点係りが、校庭の隅に掲げられた得点ボードをめくる。順位が入れ替わり、三位から二位へ。ガッツポーズで喜ぶ男子に、歓声を上げる女子。興奮が校庭を包んでいた。そうして一喜一憂する中で私の出番がついにやってきた。
お昼休憩手前の、午前の部最後の競技。
「二百メートル走の参加者は、青い旗の下に集まってください」
アナウンスが私を呼んでいた。
何度も深呼吸をしているうちに、前の走者が次々にスタートしていく。そして私の順番が回ってきた。
ただ走るだけでいいんだ。
ピストルが鳴ったら走る。
前の走者が、ピストルの音と共にスタートを切る。
スタートラインに立った。
両手の指を地につける。
そういえばスタートの練習をあまりしていなかった、とその時になって気づく。
体育の先生がピストルを高々と掲げた。
「ヨーイ」
腰を上げ、前を見据える。
パンッというピストルの音と同時に走り出した。スタートはほんの少し出遅れ三番手。でも走るうちにスピードに乗り、一人を追い越した。
わっと上がる歓声が心地良い。
モデルで注目されていた時のような優越感。
私の名前が叫ばれる応援に後押しされる。中間あたりで一番手を追い抜き、先頭になると視界が開けた。
まだ平気、まだ走れる!
そのまま私は一着でゴールを駆け抜けた。
息が上がって喉が痛くて、額からも背中からも脇からも汗が流れて……。
「一着、三年三組!」
放送委員が言うと、どっとクラスの応援席から歓声があがった。気持ち良い。笑顔がこぼれてそのままクラスの応援席に戻ると、みんなの笑顔が待っていた。
そうして午前の部が終わり、お昼休憩になった。家族が見学に来ている生徒は家族席でお昼を食べる。上機嫌で叔母さんのもとに駆け寄ると、一果もいた。叔母さんは興奮気味に一着だったことを褒めてくれる。
「やるじゃない、花音。花音があんなに早いなんて。もっと鈍臭いと思ってたわ。帰ったら姉さんにちゃんと報告しなくちゃ」
お母さんは私が走るのが速いかどうかなんて、たぶん関心ない。今日も私より仕事を優先したんだから。今は叔母さんが素直に喜んでくれるのが嬉しかった。
私は喜んでくれる人がいるともっと頑張りたくなる性格だ。でも、お父さんとお母さんは段々お金のことで衝突するようになった。特にお母さんはどんどんビジネス業界にのめり込んで、『マネジメント』という本を読み出した。今は起業して自分の会社を育てるのが楽しいみたい。
「花音、何してるの? 早く来な。弁当作ってきたから食べるよ」
小さなビニールシートの中心に叔母さんがお重箱を三つ広げる。一つ目の箱はおにぎり、二つ目にはから揚げとプチトマト、三つ目の箱はサラミと枝豆と柿ピー。叔母さんが働いている飲み屋から持ち帰ったおつまみの残りもの弁当だ。でも、秋晴れの空の下、お重箱に入っていると美味しそうに見えるから不思議だ。一個めのおにぎりを水筒の麦茶で喉の奥に流しこんで、一果に話しかける。
「一果はどうだった?」
「何が?」
「百メートル走に出てたよね」
一果は陸上部でも、長距離走が専門だ。なのに体育祭では短距離走。たぶんこの競技選択は一果の意思じゃないと思う。一果はからあげを頬張りながら、面倒くさそうに答えた。
「一位」
そっか……。いや、そうだよね。それでこそ一果だよ。
「まったくこの子は。一位になってもこの態度でしょう。誰に似たんだか。花音の方が一緒に喜べて楽しいよ」
叔母さんの話しによると、一果は体育祭始まって第一競技の第一走者だったそうだ。一着で走りぬけ、その後、自分の競技が終わった後は、クラスの応援席は陽が当たって暑いので校舎内の陰で寝ていたそうだ。
午後の部が始まりのチャイムが鳴り、各クラスの応援席に生徒は集合するよう校内アナウンスが流れる。参加競技を終え、後は応援するだけ。気楽だ。
一果と分かれ、自分の席に向かう。
何やらクラスの応援席の雰囲気が不穏なことに気づいた。三人の実行委員と先生二人が神妙な顔をしていて、何か起こったらしいと察した。そのうちの一人、実行委員の佐々木さんが私を見つけると駆け寄ってきた。
「何かあったの?」
私が聞くと、佐々木さんが私にだけ聞こえるように小声で言う。
「実は午前の競技で深山さんが怪我しちゃって」
「ええっ? 大丈夫なの?」
「うん、一応病院にも行ったけど、軽い捻挫みたい。でも午後の競技は無理だろうって。それで今、他の参加競技の調整をしてるところなんだけど、豊田さん、最後の学年混合対抗リレー、出てくれない?」
「え、私!?」
「お願い、豊田さんしかいないの。前も引き受けてくれたでしょ?」
佐々木さんが両手を合わせて、頭を下げる。
「……他の人は?」
「他の人は無理なの。一人二種目までしか出れないから。豊田さんはまだ一種目しか出てないよね? だから」
「う、うん。私でよければ」
午後の目玉の借り物競争も先生たちが踊る余興も学年対抗応援合戦もまったく目に入らなかった。平穏を取り戻していた心臓がバクバク鳴りだし、席に座っていられなくなって、一果を探した。一果もリレー選手だったはずだ。
一果のクラスの応援席まで来ても一果の姿がない。近くにいた生徒に聞くと、「水飲みに行くっていってたよ」と教えてくれた。
私は緊張で吐きそうだった。完全に場の空気に呑まれていた。
学年混合対抗リレーといえば、体育祭の大トリ。加点が一番大きい競技で、当然、他の学年からも足の早い人がエントリーする。プレッシャーは午前の二百メートル走どころじゃない。
一人最後尾を走って大恥をかくんじゃ……。
その惨めな姿を想像するだけで、足が震えた。
校舎と体育館の間の水飲み場でやっと一果の姿を見つけた。
「一果!どうしよう、私、学年混合対抗リレーに出ることになっちゃった!」
泣きつかんばかりの叫びに、一果は冷めた目線を返す。
「それはおめでとう」
「おめでとうじゃないよ! どうしよう、どうしよう、どうしよう!助けて一果」
一果は手をバタバタさせて混乱する私を見て小さくため息をつき、タオルで口元を拭く。校舎の日影に入って腰を下ろす。
「とりあえず、落ち着いて座れば?」
言われるがままに一果の隣りに腰を下ろした。私は完全にパニックになっていた。小心者で落ち着きがないのはいつものことだけど、今ほど緊張したことはない。
「一果はどうしてそんなに落ち着いていられるの? みんなの期待とか感じない? 自分のせいで負けたらどうしようとか考えない?」
「花音さ」一果が落ち着いた声で話し始めた。同じ競技に出るのに、どうして一果はこんなに冷静でいられるんだろう。どうして私はこんなにいつもジタバタしているんだろう。どうして……。涙が込み上げそうだった。
「がんばってたと思うよ」
一果の言葉に顔を上げた。
「朝のランニング。弱音や泣き言を吐くわりにはやめないし。いつもどおり走るだけでいいんだよ。助け合いっていうのは、それぞれが全力で走る時、ふと隣りを見ると同じ速度で走っているヤツがいる。そいつが転びそうになる時、手を貸したい、助けたいっていう衝動が湧く。それを協力とか助け合いっていうんじゃないかな」
いつもより優しい、まるで本当の姉妹の姉のような言い方に、私は心を優しく撫でられたような感覚になった。思えば一果は幼馴染でもあり、ずっとわたしの近くにいた。
「全力で走って負けて責めるやつがいたら、それは友達でも仲間でもなんでもないよ。だから勝ち負けは気にしなくていい」
「陸上は、一人で走るものだから?」
自分との戦いだ。
「そう」
先に立ち上がった一果に、私はうつむいたまま手を伸ばした。一果が眉間にしわを寄せて、嫌そうに、それでも仕方なさそうに手を引っ張り上げ、立たせてくれる。
「重い。もっとやせろ」
もうさっきの優しい口調はなかった。いつもの毒舌の一果だった。
「負けても、いいんだ」
先に歩き始めた一果の背中に向かって投げかけた。
「いいわけないでしょ、勝負なんだから。ちゃんとバトン運んできてよね。途中で逃げ出したりしたら許さないから」
「……え? どういう」
「知ってて私のところに来たんじゃないの? 同じチーム」一果が私と自分を交互に指差す。「私はアンカー」
「えええっ!?」
確かに学年混合チームは三学年で四人走者。青、赤、黄、緑の四チームになる。どの学年から二人出すかはそれぞれのチームに任されているし、三年から二人出るのは珍しくないけれど……。同じ青色チームだったとは
「聞いてない!」
「聞かれてない」
そして一果が目を細めて言う。
「全力で走れ」
クールに見えて内に高温の青白い炎を燃やし続ける一果。一果の中にある情熱が私に飛び火した。
——一果と一緒なら
震えはいつの間にか止まり、代わりに静かな闘志が湧き上がるのを全身に感じていた。
日が傾いて校舎の窓に反射している。
校舎のスピーカーから絶えず流れる音質の悪い音楽。
得点ボードの数字が入れ替わるたびに上がる拍手と歓声。十月の爽やかな風が吹き抜けていく。海から吹いているのか、潮の匂いがする。
「次は最終種目の学年混合対抗リレーです。選手の方はスタート地点にお集まりください」
アナウンスを聞きながら、スタート地点の近くで準備運動をした。緊張はしている。でも不思議と落ち着いている。
学年混合対抗リレーは赤、青、黄、緑のバトンの色がチームカラーで、私のチームは青色。
一位から四位、順位ごとに得点が配分される。この得点が他の競技よりも大きい。
私のチームは第一走者が一年生、第二走者が二年生、第三走者が私、そして第四走者が一果。
「それでは、学年混合対抗リレーを始めます」
アナウンスに観客からどっと歓声が上がった。各クラスの応援団の声援がいっそう大きく激しくなる。
第一走者がスタートラインに並んで立った。
「第一走者位置について。よーい」
ピストルのパンッという音と共に四人の選手が一斉にスタートを切った。
第二走者がスタートラインにつく。
四百メートルトラックを一周走り、一番最初にバトンを渡したのは赤色チーム。他のチームとの差はほとんどない。バトンが次々に渡され第二走者が走り出す。
心臓が大きく鼓動し始めた。他の選手がやたら早そうに見える。
第二走者の順位で第三走者のスタート位置が変わる。一番に走ってくる走者からバトンを受け取る人が一番内側へ。
私のチームは……、三番手だった。トラック内側の走者がバトンを受け取り、走り出していく。
早く!早く!
二番目と三番目の走者はほぼ同列で競っていた。隣りの走者が助走を始めた。私も後ろに手を伸ばしたまま、徐々に走り出す。
同じ青色チームの二年生の苦しく歪む顔が迫ってくる。すぐ後ろにも四番手の人がいる。私はバトンを受け取ると同時に、全力で走りだした。走り出してスピードに乗る。
左右に振る腕と足、呼吸が連動する。
二番手を走る黄色チームはすぐ目の前だ。
——もっと早く、もっと早く
体中の筋肉が熱を持ち柔らかくなって、頭の中が空になってゆく。歓声が遠く聞こえる。
第四コーナーを曲がる手前で息が上がってきた。太ももが重くなる。
視界が直線になったところで一果の姿が目に入った。斜め前を黄色いバトンを持った走者がスピードを落すことなく走っている。そしてその先に赤いバトンを持つ選手。
――一果……!
絶対に勝ちたいよ!
歓声が聞こえる。
「行けー!」
分かってる! 黄色チームの走者と並んだ。
せめてこの人だけでも抜きたい……!
すぐ目の前の走者を追い抜いた、その時だった。
私は第四走者の立ち位置を見誤っていた。黄色チームを抜いた勢いのまま、うっかり内側に寄って走ってしまった。一果はまだ外側で待っているのに。慌てて外側に戻ろうとする。右左に振る腕のテンポがずれる。足が滑ったせいで体勢が崩れて、転倒はしなかったけど、バトンを渡すタイミングは完全に外した。バトンパスのミスはタイムロスになる。
――一果!
助走を始めていた一果が、助走スピードを落とし、私のバトンを取りにくる。
――お互いが全力で走る時
本来なら腕を伸ばしきったところでバトンを渡すのに。一果が取りにきた。
――横を見ると同じ速度で走ってるやつがいる。
ごめん、一果。
――そいつが転びそうになる時、手を貸したい、助けたいっていう衝動が湧く
一果は遅れて走り出した。完全なバトンミスだ。一度追い抜いた黄色チームは、もう先に行っている。私はコースから外れ両膝に手をついて、肩で大きく息をした。
一果……!
祈る思いだった。
その時、観客席からどよめきが起きた。
顔を上げ走者を目で追う。一果がどんどんスピードを上げていく。第二コーナーで黄色チームに追いついた。一歩地を蹴るたびに距離を縮め、追い越す。
一果のしなる体に長い足の大きなスライド。
直線であっという間に距離を引き離し、第三コーナー手間の一番手の赤色チームをとらえた。
「速い、速い!青色チームが赤色チームに追いつきそうです!」
興奮するアナウンスに歓声がさらに大きくなる。観客席から生徒が身を乗り出す。
一果は……、抜く気だ。
「行けー!一果——!!!!」
両手を口に当て大声で叫んでいた。
第四コーナーで赤色チームの走者が振り返る。一果はさらにスピードを上げてゆく。割れんばかりの歓声に皆立ち上がって身を乗り出していた。
怒号に似た声援に後押しされ、最後の直線で二人が並ぶ。赤色チームの人が、表情が歪んでいるのに、一果の眼差しはまっすぐだった。
迷いのない、自分の全力だけを出し切る姿勢。ゴール直前で、ついに一果が一歩前に出た。
「抜いたー!!」
放送委員が叫ぶ。そのまま一果はゴールを駆け抜けた。
会場は興奮に包まれた。
私はもう泣いていた。放送委員が何か言っているのも聞こえない。
ゴールの後、軽く走りながら一果がこっちに向かってくる。
「一果ぁ……!」
息を弾ませながら、一果は今まで見せたことのないくらい爽やかな笑顔で私に笑いかけた。
胸がいっぱいで言葉が出てこない。
代わりに涙がとめどなくこぼれ落ちてくる。そして一果に抱きついた。細い肢体にやわらかい胸、熱い体温、鼓動が聞こえる。
「勝ったね」
一果が誇らしげに言った。
「一位、青色チーム!」
アナウンスに大きな歓声と拍手が沸きあがった。私は顔をぐしゅぐしゅにして泣いた。あんまりにも一果がかっこよくて、感動して。
一果と二人、トラックの向こうのみんなのいるところへもどりながら涙を拭いていると、深山さんがいた。そして泣きながらタオルを渡してくれた。
午前七時には、体育祭委員や各々係りをもった生徒が登校し始め、八時になると生徒の家族も学校に集まり始めた。同じ年頃の生徒だけの世界に、いつもと違う人並みが流れこんでくるのは不思議な感覚だった。
九時に全校生徒が校庭に集合し、開会式が始まった。トラックの周りにクラスごとに固まり、観客は応援団と化した。
リレートラックの内側では幅跳びが行われている。百メートルで同じクラスの男子が負けてがっかりしていると、幅跳びで「一位、三年三組」のアナウンスが響き、どよめく。
文化部系の部活の女子が、記録を伸ばしていた。得点係りが、校庭の隅に掲げられた得点ボードをめくる。順位が入れ替わり、三位から二位へ。ガッツポーズで喜ぶ男子に、歓声を上げる女子。興奮が校庭を包んでいた。そうして一喜一憂する中で私の出番がついにやってきた。
お昼休憩手前の、午前の部最後の競技。
「二百メートル走の参加者は、青い旗の下に集まってください」
アナウンスが私を呼んでいた。
何度も深呼吸をしているうちに、前の走者が次々にスタートしていく。そして私の順番が回ってきた。
ただ走るだけでいいんだ。
ピストルが鳴ったら走る。
前の走者が、ピストルの音と共にスタートを切る。
スタートラインに立った。
両手の指を地につける。
そういえばスタートの練習をあまりしていなかった、とその時になって気づく。
体育の先生がピストルを高々と掲げた。
「ヨーイ」
腰を上げ、前を見据える。
パンッというピストルの音と同時に走り出した。スタートはほんの少し出遅れ三番手。でも走るうちにスピードに乗り、一人を追い越した。
わっと上がる歓声が心地良い。
モデルで注目されていた時のような優越感。
私の名前が叫ばれる応援に後押しされる。中間あたりで一番手を追い抜き、先頭になると視界が開けた。
まだ平気、まだ走れる!
そのまま私は一着でゴールを駆け抜けた。
息が上がって喉が痛くて、額からも背中からも脇からも汗が流れて……。
「一着、三年三組!」
放送委員が言うと、どっとクラスの応援席から歓声があがった。気持ち良い。笑顔がこぼれてそのままクラスの応援席に戻ると、みんなの笑顔が待っていた。
そうして午前の部が終わり、お昼休憩になった。家族が見学に来ている生徒は家族席でお昼を食べる。上機嫌で叔母さんのもとに駆け寄ると、一果もいた。叔母さんは興奮気味に一着だったことを褒めてくれる。
「やるじゃない、花音。花音があんなに早いなんて。もっと鈍臭いと思ってたわ。帰ったら姉さんにちゃんと報告しなくちゃ」
お母さんは私が走るのが速いかどうかなんて、たぶん関心ない。今日も私より仕事を優先したんだから。今は叔母さんが素直に喜んでくれるのが嬉しかった。
私は喜んでくれる人がいるともっと頑張りたくなる性格だ。でも、お父さんとお母さんは段々お金のことで衝突するようになった。特にお母さんはどんどんビジネス業界にのめり込んで、『マネジメント』という本を読み出した。今は起業して自分の会社を育てるのが楽しいみたい。
「花音、何してるの? 早く来な。弁当作ってきたから食べるよ」
小さなビニールシートの中心に叔母さんがお重箱を三つ広げる。一つ目の箱はおにぎり、二つ目にはから揚げとプチトマト、三つ目の箱はサラミと枝豆と柿ピー。叔母さんが働いている飲み屋から持ち帰ったおつまみの残りもの弁当だ。でも、秋晴れの空の下、お重箱に入っていると美味しそうに見えるから不思議だ。一個めのおにぎりを水筒の麦茶で喉の奥に流しこんで、一果に話しかける。
「一果はどうだった?」
「何が?」
「百メートル走に出てたよね」
一果は陸上部でも、長距離走が専門だ。なのに体育祭では短距離走。たぶんこの競技選択は一果の意思じゃないと思う。一果はからあげを頬張りながら、面倒くさそうに答えた。
「一位」
そっか……。いや、そうだよね。それでこそ一果だよ。
「まったくこの子は。一位になってもこの態度でしょう。誰に似たんだか。花音の方が一緒に喜べて楽しいよ」
叔母さんの話しによると、一果は体育祭始まって第一競技の第一走者だったそうだ。一着で走りぬけ、その後、自分の競技が終わった後は、クラスの応援席は陽が当たって暑いので校舎内の陰で寝ていたそうだ。
午後の部が始まりのチャイムが鳴り、各クラスの応援席に生徒は集合するよう校内アナウンスが流れる。参加競技を終え、後は応援するだけ。気楽だ。
一果と分かれ、自分の席に向かう。
何やらクラスの応援席の雰囲気が不穏なことに気づいた。三人の実行委員と先生二人が神妙な顔をしていて、何か起こったらしいと察した。そのうちの一人、実行委員の佐々木さんが私を見つけると駆け寄ってきた。
「何かあったの?」
私が聞くと、佐々木さんが私にだけ聞こえるように小声で言う。
「実は午前の競技で深山さんが怪我しちゃって」
「ええっ? 大丈夫なの?」
「うん、一応病院にも行ったけど、軽い捻挫みたい。でも午後の競技は無理だろうって。それで今、他の参加競技の調整をしてるところなんだけど、豊田さん、最後の学年混合対抗リレー、出てくれない?」
「え、私!?」
「お願い、豊田さんしかいないの。前も引き受けてくれたでしょ?」
佐々木さんが両手を合わせて、頭を下げる。
「……他の人は?」
「他の人は無理なの。一人二種目までしか出れないから。豊田さんはまだ一種目しか出てないよね? だから」
「う、うん。私でよければ」
午後の目玉の借り物競争も先生たちが踊る余興も学年対抗応援合戦もまったく目に入らなかった。平穏を取り戻していた心臓がバクバク鳴りだし、席に座っていられなくなって、一果を探した。一果もリレー選手だったはずだ。
一果のクラスの応援席まで来ても一果の姿がない。近くにいた生徒に聞くと、「水飲みに行くっていってたよ」と教えてくれた。
私は緊張で吐きそうだった。完全に場の空気に呑まれていた。
学年混合対抗リレーといえば、体育祭の大トリ。加点が一番大きい競技で、当然、他の学年からも足の早い人がエントリーする。プレッシャーは午前の二百メートル走どころじゃない。
一人最後尾を走って大恥をかくんじゃ……。
その惨めな姿を想像するだけで、足が震えた。
校舎と体育館の間の水飲み場でやっと一果の姿を見つけた。
「一果!どうしよう、私、学年混合対抗リレーに出ることになっちゃった!」
泣きつかんばかりの叫びに、一果は冷めた目線を返す。
「それはおめでとう」
「おめでとうじゃないよ! どうしよう、どうしよう、どうしよう!助けて一果」
一果は手をバタバタさせて混乱する私を見て小さくため息をつき、タオルで口元を拭く。校舎の日影に入って腰を下ろす。
「とりあえず、落ち着いて座れば?」
言われるがままに一果の隣りに腰を下ろした。私は完全にパニックになっていた。小心者で落ち着きがないのはいつものことだけど、今ほど緊張したことはない。
「一果はどうしてそんなに落ち着いていられるの? みんなの期待とか感じない? 自分のせいで負けたらどうしようとか考えない?」
「花音さ」一果が落ち着いた声で話し始めた。同じ競技に出るのに、どうして一果はこんなに冷静でいられるんだろう。どうして私はこんなにいつもジタバタしているんだろう。どうして……。涙が込み上げそうだった。
「がんばってたと思うよ」
一果の言葉に顔を上げた。
「朝のランニング。弱音や泣き言を吐くわりにはやめないし。いつもどおり走るだけでいいんだよ。助け合いっていうのは、それぞれが全力で走る時、ふと隣りを見ると同じ速度で走っているヤツがいる。そいつが転びそうになる時、手を貸したい、助けたいっていう衝動が湧く。それを協力とか助け合いっていうんじゃないかな」
いつもより優しい、まるで本当の姉妹の姉のような言い方に、私は心を優しく撫でられたような感覚になった。思えば一果は幼馴染でもあり、ずっとわたしの近くにいた。
「全力で走って負けて責めるやつがいたら、それは友達でも仲間でもなんでもないよ。だから勝ち負けは気にしなくていい」
「陸上は、一人で走るものだから?」
自分との戦いだ。
「そう」
先に立ち上がった一果に、私はうつむいたまま手を伸ばした。一果が眉間にしわを寄せて、嫌そうに、それでも仕方なさそうに手を引っ張り上げ、立たせてくれる。
「重い。もっとやせろ」
もうさっきの優しい口調はなかった。いつもの毒舌の一果だった。
「負けても、いいんだ」
先に歩き始めた一果の背中に向かって投げかけた。
「いいわけないでしょ、勝負なんだから。ちゃんとバトン運んできてよね。途中で逃げ出したりしたら許さないから」
「……え? どういう」
「知ってて私のところに来たんじゃないの? 同じチーム」一果が私と自分を交互に指差す。「私はアンカー」
「えええっ!?」
確かに学年混合チームは三学年で四人走者。青、赤、黄、緑の四チームになる。どの学年から二人出すかはそれぞれのチームに任されているし、三年から二人出るのは珍しくないけれど……。同じ青色チームだったとは
「聞いてない!」
「聞かれてない」
そして一果が目を細めて言う。
「全力で走れ」
クールに見えて内に高温の青白い炎を燃やし続ける一果。一果の中にある情熱が私に飛び火した。
——一果と一緒なら
震えはいつの間にか止まり、代わりに静かな闘志が湧き上がるのを全身に感じていた。
日が傾いて校舎の窓に反射している。
校舎のスピーカーから絶えず流れる音質の悪い音楽。
得点ボードの数字が入れ替わるたびに上がる拍手と歓声。十月の爽やかな風が吹き抜けていく。海から吹いているのか、潮の匂いがする。
「次は最終種目の学年混合対抗リレーです。選手の方はスタート地点にお集まりください」
アナウンスを聞きながら、スタート地点の近くで準備運動をした。緊張はしている。でも不思議と落ち着いている。
学年混合対抗リレーは赤、青、黄、緑のバトンの色がチームカラーで、私のチームは青色。
一位から四位、順位ごとに得点が配分される。この得点が他の競技よりも大きい。
私のチームは第一走者が一年生、第二走者が二年生、第三走者が私、そして第四走者が一果。
「それでは、学年混合対抗リレーを始めます」
アナウンスに観客からどっと歓声が上がった。各クラスの応援団の声援がいっそう大きく激しくなる。
第一走者がスタートラインに並んで立った。
「第一走者位置について。よーい」
ピストルのパンッという音と共に四人の選手が一斉にスタートを切った。
第二走者がスタートラインにつく。
四百メートルトラックを一周走り、一番最初にバトンを渡したのは赤色チーム。他のチームとの差はほとんどない。バトンが次々に渡され第二走者が走り出す。
心臓が大きく鼓動し始めた。他の選手がやたら早そうに見える。
第二走者の順位で第三走者のスタート位置が変わる。一番に走ってくる走者からバトンを受け取る人が一番内側へ。
私のチームは……、三番手だった。トラック内側の走者がバトンを受け取り、走り出していく。
早く!早く!
二番目と三番目の走者はほぼ同列で競っていた。隣りの走者が助走を始めた。私も後ろに手を伸ばしたまま、徐々に走り出す。
同じ青色チームの二年生の苦しく歪む顔が迫ってくる。すぐ後ろにも四番手の人がいる。私はバトンを受け取ると同時に、全力で走りだした。走り出してスピードに乗る。
左右に振る腕と足、呼吸が連動する。
二番手を走る黄色チームはすぐ目の前だ。
——もっと早く、もっと早く
体中の筋肉が熱を持ち柔らかくなって、頭の中が空になってゆく。歓声が遠く聞こえる。
第四コーナーを曲がる手前で息が上がってきた。太ももが重くなる。
視界が直線になったところで一果の姿が目に入った。斜め前を黄色いバトンを持った走者がスピードを落すことなく走っている。そしてその先に赤いバトンを持つ選手。
――一果……!
絶対に勝ちたいよ!
歓声が聞こえる。
「行けー!」
分かってる! 黄色チームの走者と並んだ。
せめてこの人だけでも抜きたい……!
すぐ目の前の走者を追い抜いた、その時だった。
私は第四走者の立ち位置を見誤っていた。黄色チームを抜いた勢いのまま、うっかり内側に寄って走ってしまった。一果はまだ外側で待っているのに。慌てて外側に戻ろうとする。右左に振る腕のテンポがずれる。足が滑ったせいで体勢が崩れて、転倒はしなかったけど、バトンを渡すタイミングは完全に外した。バトンパスのミスはタイムロスになる。
――一果!
助走を始めていた一果が、助走スピードを落とし、私のバトンを取りにくる。
――お互いが全力で走る時
本来なら腕を伸ばしきったところでバトンを渡すのに。一果が取りにきた。
――横を見ると同じ速度で走ってるやつがいる。
ごめん、一果。
――そいつが転びそうになる時、手を貸したい、助けたいっていう衝動が湧く
一果は遅れて走り出した。完全なバトンミスだ。一度追い抜いた黄色チームは、もう先に行っている。私はコースから外れ両膝に手をついて、肩で大きく息をした。
一果……!
祈る思いだった。
その時、観客席からどよめきが起きた。
顔を上げ走者を目で追う。一果がどんどんスピードを上げていく。第二コーナーで黄色チームに追いついた。一歩地を蹴るたびに距離を縮め、追い越す。
一果のしなる体に長い足の大きなスライド。
直線であっという間に距離を引き離し、第三コーナー手間の一番手の赤色チームをとらえた。
「速い、速い!青色チームが赤色チームに追いつきそうです!」
興奮するアナウンスに歓声がさらに大きくなる。観客席から生徒が身を乗り出す。
一果は……、抜く気だ。
「行けー!一果——!!!!」
両手を口に当て大声で叫んでいた。
第四コーナーで赤色チームの走者が振り返る。一果はさらにスピードを上げてゆく。割れんばかりの歓声に皆立ち上がって身を乗り出していた。
怒号に似た声援に後押しされ、最後の直線で二人が並ぶ。赤色チームの人が、表情が歪んでいるのに、一果の眼差しはまっすぐだった。
迷いのない、自分の全力だけを出し切る姿勢。ゴール直前で、ついに一果が一歩前に出た。
「抜いたー!!」
放送委員が叫ぶ。そのまま一果はゴールを駆け抜けた。
会場は興奮に包まれた。
私はもう泣いていた。放送委員が何か言っているのも聞こえない。
ゴールの後、軽く走りながら一果がこっちに向かってくる。
「一果ぁ……!」
息を弾ませながら、一果は今まで見せたことのないくらい爽やかな笑顔で私に笑いかけた。
胸がいっぱいで言葉が出てこない。
代わりに涙がとめどなくこぼれ落ちてくる。そして一果に抱きついた。細い肢体にやわらかい胸、熱い体温、鼓動が聞こえる。
「勝ったね」
一果が誇らしげに言った。
「一位、青色チーム!」
アナウンスに大きな歓声と拍手が沸きあがった。私は顔をぐしゅぐしゅにして泣いた。あんまりにも一果がかっこよくて、感動して。
一果と二人、トラックの向こうのみんなのいるところへもどりながら涙を拭いていると、深山さんがいた。そして泣きながらタオルを渡してくれた。



