セカンド・ウィンド

「花音、いつまで寝てるの。起きな」

 浅い眠りの夢をさまよっていると、一果の声が聞こえた。どれくらい眠っていたんだろう。
 もう日が高く、部屋の中が明るい。

「私、高校の時の夢見てた」

 寝ぼけながら一果に言うと
「ふうん、そう」 と、一果が興味なさげに答えた。部屋の奥の押入れからリュックを取り出している。

「一果、どこか行くの?」

「行くの? じゃないでしょ。バイトから帰ったらおせちの材料買いに行くって言ったでしょ」

 確かにそんなことを言っていた。壁に掛かった時計を見ると一時を過ぎていた。

「その格好でスーパー行くの?」

 一果に聞かれ、私は自分の服を見た。種類の違うジャージ上下の上に首元がヨレヨレになったトレーナーを重ね着。髪はボサボサ、ノーメイク。近所のスーパーとはいえ、大晦日(おおみそか)の日に二十歳の女子が外を歩く格好じゃない。鞄を引き寄せ、セーターとスカートとタイツを引っ張り出し、そのまま布団の中へ引きずり込み、着替えた。くしゃくしゃの短い髪は手櫛で整える。

 出かける準備に十分も掛からなかった。
 私はどちらかというと鈍くさい方だけれど、支度の早さだけには自信がある。モデル時代に身につけた技だ。

 玄関を開けると冷たい風が頬をさした。
 早朝よりは気温が上がっているけれど、布団で暖まった身体に、冷えた空気が体の中にまで染み込んでくる。

 一果が家の裏から自転車を押してきた。
 最寄りのスーパーまでは歩いて三十分以上かかるし、この辺りは坂の上だ。近所の人は買い物はバスか車を使うのが普通だ。一果の家には当然、車なんてない。自転車も無料の駐輪場がないところには乗っていかない。今回自転車を使うのは、買い物で荷物が多くなるから荷車代わりにするんだろう。

「普段の生活で歩けば良い運動になるのに、わざわざ高いお金払ってスポーツクラブにくる客の気が知れない」 

 以前、一果はそんな風に言っていた。
 一果はスポーツクラブで長く真面目に働いているけれど、少しも貢献意識はない。生活費を稼いでいるだけ、と。その割りに一果の厳しくさっぱりした指導を好む客は少なくないようで、スポーツクラブにいかないと運動をしない自堕落な人に人気があるのだろう。

 一果と一緒じゃなきゃ朝起きて走れない私も自堕落な人間なので、そういう人たちの気持ちはよく分かる。

 一果が自転車のハンドルを握り、ブレーキをかけながらゆっくりと坂を下った。下りきったところで二車線の広い道路にぶつかり、右に行けば朝走った海岸に、左に曲がればお店やスーパーがある駅方面に行く。私たちは左に曲がった。

 手袋をしてくればよかった、とまた後悔しつつ一果の少し後ろを歩いていると、

「電話での話だけど」 と、一果が前を向きハンドルを押したまま聞いてきた。

「もう連絡とってないの?」

 頭の中にハテナがいっぱい浮かんだ。
 そして一果が勘違いしていることにはっと気付いた。勘違いというか、私の嘘を鵜呑みにしたままだった。

「連絡は取ってないよ」

 私はうつむきながらぼそぼそと言った。

「そう。付き合ってどれくらいだったの」

「一年半くらい」

「まあ、長さじゃないものね、こういうのは。出会って心惹かれて、両思いになっても仕方のないこともあるよ」

 一果はつぶやき空を仰いだ。

「留学かあ……」

 やばい。これ以上、一果に嘘をつき続けるのは私の良心が痛む。

 一果からメッセージが来た日、私は寂しさに耐え切れず、一果に電話をした。

 誰かになぐさめて貰いたかった。
 でも一果に正直に話したらなぐさめられるどころか、呆れられて延々と説教される。確かに反省から学ぶのも大事だけれど……。
 当時の私は優しさに飢えていた。
 それで……、一果にはちょっと別れの設定を変えて、彼とは『彼が海外に留学することになって別れた』ことにしてしまった。とても美しく悲しい別れ話に……。
 ありきたりな純愛ラブストーリーのような作り話だったけれど、別れが辛かったと語った気持ちは本気だったし、わあわあ泣き崩れたので、一果は信じてしまった。

 スーパーについて買い物をすませ、自転車の前かご、一果のリュック、私の両手いっぱいに買い物袋を持ち、家までの坂をのぼる間、一果とはほとんど会話らしい会話はしなかった。

「しいたけ探してきて」とか、「牛乳は2パック買おう」とかそのくらいだ。私は、いつ一果に本当の話を切り出そうか、そのことだけが頭をぐるぐる回っていた。
 一果は私の話を信じているから気遣って優しくしてくれていた。そのことに失恋の傷心より罪悪感の方が勝ってきた。

 坂を上る時、スピードが落ちる。今しかないと腹をくくった。

「一果、あのね、電話で話した……彼との別れ話なんだけどね。あれね、ちょっと違う風に話しちゃったんだ……」

「違う風って?」

 一果が息を切らしながら振り返る。違う。違うよ。私は確かに彼を本気で好きになったけれど、彼にはもう一人彼女がいたんだよ。私は馬鹿みたいに騙されて、甘い言葉に勘違いして、浮かれていたの。自分の都合のいいように勘違いできる天才だから。おどけてそう言いたかったけれど、一果に怒られそうで、びくびくしながら一気に答えた。

「彼が海外留学するから別れたって、言ったけど、留学はしてないし、全然日本にいて、普通に別れたんだ。その……、合コンで知り合った大学生だったから、なんていうかあんな嘘になっちゃって。とにかくごめん!」

 一果は怒るかと思ったけれど、そうでもなかった。というか、事情が飲み込めてない。

「なんだ、普通に別れたんだ。同情して損した。花音はいつもそう。必要以上に悲劇のヒロイン気取って他人の同情引きたがって」

 と言っただけだった。このまま終わらせておけばよかったのに、私は余計なことを言ってしまった。

「悲劇のヒロインは本当だよ! だって私、騙されてたんだもん!」

「騙されたって、詐欺にでもあったわけ?」

 私は首を振る。すると一果がうんざりした顔で言う。

「ほらまた大げさに言う」

「詐欺じゃない。でももう一人彼女がいたの!」

 絶句してるとも呆れてるともとれない表情で一果が私を見た。

「もう一人彼女がいたって……。二股かけられてたってこと?」

 私はうなずいた。

「偶然、二人がデートしてる所に居合わせて。元々彼女がいるなんて言ってなかったし、第一、彼女持ちが合コンに来るなんて思ってもみなかったから聞かなかったし。『その人、誰?』って聞いたら、彼が『ああ、彼女』って普通に言われて」

 思い出すだけで泣けてきて、涙がぽろぽろ落ちたけど、吐き出した感情はもうとまらなかった。一果は立ち止って目を丸くしながら私の話しを聞いていた。

「その日の夜に電話して、どういうことか問い詰めたけど、『何が?』って、悪びれることもなくて。合コンで出会った日にメッセージ交換して、食事に誘ったら『いいね、行こう』って言ってくれて、イタリアンを食べた帰りに『困ったことがあったら何でも相談してね』って言ってくれて、頼りになる人だと思った。三回デートして、私から『あなたのこと好きかも』って言ったら『僕も』って言ってくれて。それから二人で旅行したり私の部屋に来たりしてたから、私はてっきり付き合っていると思ってたんだけど、彼は『付き合う、なんて言った覚えないよ』って」

 私は一気にしゃべった。

「それで、どうしたの?」

 一果がためらいがちに聞く。

「『じゃあ私との関係は何だったの?』って聞いたら『遊びでしょ』って。私たち、もう会わない方がいいかもねって言ったら、『そう』って」

「そ、それで終わり?」

 私は泣きじゃくりながら大きくうなずいた。
 坂を下りてくる親子連れの子供に、すれ違う時に指をさされた。母親があわてて子供に「こらっ」と言い、注意する声が遠ざかっていく。
 私は弁明するように続けた。

「こんな話し、一果にしたらまた呆れられるって思って、だから嘘をついたの。ごめん」

 それから私たちはほとんど無言で家に帰り着いた。辰美叔母さんは仕事に行ったようだった。叔母さんが食べ散らかしたカップラーメンの容器を洗ってゴミ箱に捨て、買ってきた食材を冷蔵庫に入れ、包丁を出し、お重箱を洗い、野菜を切った。私たちは料理屋の厨房で働く人たちのように、ただ黙々と料理した。

 一果は煮しめのにんじんを切っていた。私は出来上がってパックに入った昆布巻きや栗きんとんや黒豆をお重箱に詰めながら思った。言葉に出して話してみると、なんて自分は惨めだったんだろう。遊ばれていたこともそうだけれど、そんな人のために、落ち込み続けていたこともまた惨めに思えてきた。失敗、失敗と笑って、次の合コンで話しのネタにでもすればよかったのに。

 狭い台所で黙々と作業をして時間の感覚が麻痺していた。ふと、窓の外が暗いな、と思って時計を見ると六時を過ぎていた。

 おせちを作り終え、二段のお重箱の蓋をしめると、順番にお風呂に入った。一果が先に入り、私がお風呂から上がると、一果が年越しそばを作っていた。

「これ食べたら近所のお寺か神社にお参りに行こう」 と、一果が言い、そして「来年は変な男にひっかからないように」と、付け足した。

 一果の冗談が、許しを得た証と思えて私は嬉しくなって「うん」と答えた。

 それから居間で紅白を見ながらお蕎麦を食べ、家にあるありったけの服を着込んで家を出た。十二月の真夜中にたくさんの人が出歩いていた。駅に向かう途中には小さな神社やお寺がある。みんなきっとそこへお参りに行くんだろう。

 空を見上げると星がきれいだった。
 息は白く寒いけれど、こうして誰かと大晦日の夜に歩けるのは幸せな気分だ。今夜は手袋も忘れずにしてきた。


 神社でお参りをして、近くで配っていた甘酒を貰い飲んでいると、お寺のほうから除夜の鐘がゴーンと鳴った。

 夜空に余韻を残すきれいな音だ。
 年が明けた。
 お寺からの帰り道、一果のスマホが鳴った。
 一果はちらりと画面を確認し、すぐにポケットにしまった。

「彼氏から?」 と私が聞くと「うん」と、一果が小さく頷いた。

「会わなくていいの?」

「向こうが仕事だから」

 一果は私に気を使ってくれているのかもしれない。一果は高校の陸上部の時に知り合った先輩と付き合い、今も続いている。クールな一果がどういう風に男の人とデートしているのか、私には想像がつかなかった。
 私のように恋に盲目になってなんでも男の人に尽くしていないのは確かだ。どうしたら一果みたいに余裕を持って男の人と付き合えるようになるんだろう。

 私は彼氏が出来ると舞い上がって毎日彼のことで頭がいっぱいになってしまう。男の人には尽くしすぎてはダメとは聞くけれど……、と考えたところで頭を振った。

 新年からこんな俗的なことを考えるのはよそう。

「一果はお参りの時、何かお願い事した?」

「今年こそお金持ちになれますようにって」

 一果が俗的なことを言う。

「またまたあ。お金持ちになったからって幸せになれるわけでもないでしょ」

「本気だよ。私が好きで貧乏暮らししてると思ってる?貧乏人は誰だってお金持ちになりたいって思ってるよ。花音はお金に苦労したことがないから思ったことないでしょうけどね」

「一果は貧乏さえ自分の魅力に変えてすごいと思っていたんだけど」

「貧乏を魅力に変えるって何?」

 一果がぷっと吹き出して笑った。
 確かに言葉に出してみるとおかしな表現だ。きっと一果があまりにも堂々としているから、欠点や弱味さえも魅力的に見えていたんだと思う。
 
 
         ○

 朝の五時くらいだったと思う。目覚ましの音がピピピピピ……と鳴っていた。昨日の朝の起きる時間にセットしたままだった。眠い目をこすり、布団から顔を出すと一果が隣で着替えていた。

「走りに行くつもり?」

「初日の出を見ようと思ってね。花音も行く?」

「今日は……いい」

 お参りから帰ってきて、昨夜寝たのは午前二時くらいだった。まぶたが重すぎて走りになんていけない。一果が家の玄関を閉める音を聞きながら、私はもう一度、眠りの世界に戻った。やっぱり一緒に走りにいけばよかったかな、と思いながら寝たせいか、二度寝の夢は高校の体育祭の日のことだった。