視界の端で空が白み始めている。
十二月末の海岸は風が強い。
耳が冷えて痛い。手首から先が冷水に浸かっているように冷たい。手袋をしてくればよかった、と後悔しながら服の袖を伸ばして手を包んだ。
道の先に看板が目に入る。
古びた博物館の案内板には「博物館駐車場100メートル先右」の文字。あそこまで走ったら休憩——。
二十メートルほど先を走る一果と、そう約束していた。寄せては返す波の音よりも自分の呼吸の方が耳にうるさい。
息が上がり、少しでも酸素を吸い込もうと顎を上げて走る。前後に振る腕が重い、太ももが上がらない。歩幅が歩いているのと変わらない。
看板まで先に着いた一果が止まる気配もなく走り過ぎていく。
「え、あれ? 一果——!」
私の叫ぶ声に、一果がちらりと振り返り、またすぐに前を向いて走ってゆく。
「一果、待って!」
やっと看板までたどり着いた私は、肩で息をしながら看板を指差した。
「はあっ、はあっ、ここまで走ったらっ……、休憩って言ったでしょ……!」
一果は看板を指差す私を見て、ゆっくりと引き返してきた。
「一果、走るの早いよ。一緒に走ろうって言ったのに、どんどん先に行っちゃうんだもん」
「またそうやってすぐ愚痴を言う」
一果が冷ややかな目線で言う。
「愚痴じゃないもん。私は運動不足なんだから、ちょっとくらいスピード落としてくれてもいいじゃない」
「知らないね、そんなこと。花音が勝手に付いてきたんでしょ」
「一果の鬼」
「何度も言うけど、一人で走りなよ。走り方は昔教えたでしょ」
「だって一人じゃ寂しいもん」
「面倒臭いヤツ。朝は起きないし、文句多いし」
一果は文句を言いながらまた走り出した。
「ま、待ってよ、一果——!」
一果の冷酷な毒舌が懐かしい。高校生の頃も、こうして海岸を二人でランニングしていた。
また走り出したものの、疲れて歩いていたら数十メートルほど先で一果が仁王立ちしているのが目に入った。
……怒ってる。
鋭い眼差しで、瞬きもせずこちらをにらんでる。慌てて私は走りだした。
やっぱり一緒に走ろうなんて言うんじゃなかった。
疲れきって息が上がって、思考が真っ白になった時、ふと体が軽くなるのを感じた。
荒く息づいていた呼吸が、一定のリズムを刻むようになり、足が自然と前に出る。
風に乗ったような不思議な感覚。
さっきまでの苦しさが、嘘みたいに清々しく気持ちいい。
ああ、懐かしい、この感覚。
どこまででも走れそう——。
「一果」
私が追いつくのを待っていた一果に言った。
「なんか急に体が軽くなった……!」
「ああ、セカンド・ウィンド」
「セカンド……? 何それ」
「走っているうちに心拍数や血圧、酸素供給が運動に慣れて軽く感じる。それをセカンド・ウィンドっていうの」
「さすがスポーツクラブのインストラクター」
「前にも教えたでしょ」
それから一果に合わせて五十メートルほどがんばって走ったけれど、気力も体力も使い果たし、またのろのろと歩いた。
海辺ののどかな土地では、空気に合わせて人の気質も馴染むのか、こんなに寒い早朝に私たち以外にも散歩をしている人がいる。
東京に比べれば田舎臭い。けど、今はその素朴さがありがたい。
両親の離婚と高校進学をきっかけに東京を離れ、私は一時期この海辺の町で暮すことになった。そして、この町には母方の従姉妹の一果がいた。
高校卒業を機に私と母はまた東京に戻り、服飾専門学校に進学し、今は一人暮らしをしている。
母とはたまに会って食事をしていたけれど、母が再婚をしてからはあまり会ってはいない。食事に誘われても、忙しいからまた今度ね、とあいまいにメールを返していた。
父親とは離婚以来会っていない。たぶん、仕事人間だったから今も仕事に没頭して働いているんだと思う。
冬休みに入ってすぐ、一果からメッセージがきた。高校卒業以来、初めてだった。
このメールは私にとって一筋の光りだった。好きな人と別れて三ヶ月、どん底から浮上するどころか、奈落の底に落ち続けていた。
そんなところへの、一果からのメッセージだ。
内容は今度職場のお偉いさんに会うことになった。スーツにはどんな鞄を持てばいいのか相談したい、という内容だったけれど、それは無視してすぐに一果に電話をかけた。
懐かしい一果の声が聞きたかった。
一果は地元の高校を卒業してからも、海辺の町に母親と一緒に暮らしている。
無性に帰りたくなって、一果に年末に一果の家に泊まりに行ってもいいか聞くと、一果はウチは別にかまわない、と言ってくれた。
こうして十二月二十九日の昼には荷物をまとめて、夜には一果の家に着いていた。
翌朝、つまり今日は、一果が毎朝ランニングをしているというので、私も付き合っている。
海岸からの帰り道、コンビニで肉まんを買いたいとごねて、一果の腕を引っ張る。
「家までの十五分も我慢できないの?」
冷ややかに呟く一果の言葉は無視し、無理やりコンビニに引っ張り込む。結局、一果もつられて肉まんを買い、一緒に食べながら帰った。
「なんだか部活帰りの学生みたいだね」
「学生の時は今よりはるかに貧乏だったけどね。肉まんなんて買うお金もないくらい」
湯気の出る肉まんを頬張りながら一果が遠くを見た。
学生の頃の一果の家は超がつくほど貧乏だった。私服は全部私のおさがりだったし、教科書も先輩から貰ったもので、私と同じ私立高校に進学したのも、「成績特待生かスポーツ特待生の学費免除、高校進学はこの二択しかない」と、言って学費免除で選んだほどだ。一果が成績優秀でスポーツ万能なのは、家がそれくらい崖っぷちの経済状態だったからだ。そんなド貧乏生活を、クラスメイトたちは知らない。
ただでさえ大人びた雰囲気を持つ一果は、高校では一匹狼で一目置かれていた。一果の貧乏さは、そのクールさに拍車をかけて見えた。
高校生の時、私が一果と走り始めたのはダイエットが目的だった。子供の頃は大人たちに、ふっくらしていて可愛いともてはやされていた。けれど、モデルの仕事をやめて中学校に通っていたある日、クラスの男子に「お前、モデルなのに全然痩せてないな。ダイエットとかしなくていいのか?」と、悪気なく聞かれた。
崩れ落ちてしまいそうなくらいショックだった。確かにふっくらはしていた。でもそれは愛嬌だと思っていた。生まれつき色素の薄い茶色がかったふわふわの髪に、大きな垂れ目、少しふっくらした赤い頬。癒し系ともてはやされ、自分ではヨーロッパの宗教画に出てくる天使のイメージのつもりだった。ところがクラスメイトの男子に突然、ただの太った女子という現実を突きつけられた。
私の中の積みあがった自信が崩壊する音が聞こえた。
大人たちの商業の世界から一歩引いて、鏡に映った自分を冷静に見た。すべてが自分に都合よく見える魔法の眼鏡を外して、現実の世界を見るような感覚。
確かに、少しだけぽっちゃりしているかもしれない。首とフェイスラインの境があいまいだ。というか首が短い。ボリュームがある髪型のせいだと思っていたけれど、たぶん違う。
高校生になると確信した。
従姉妹の一果と比べるとよく分かる。身長の伸びは止まったのに体重だけは順調に成長したせいだろう。一果の長い足、引き締まった太もも、小さなお尻、くびれた腰。服の胸元から覗く鎖骨。程よくやわらかそうな二の腕。長い首。あごから耳への吸い付くような瑞々しい肌。高い鼻。そして……涼やかな切れ長の眼に、薄い唇。真っ直ぐ腰までとどく長い黒髪。
いつか一果に言ったことがある。
「一果はスタイルがいいね」
「筋トレしてるから」
「私も……、子供の頃はモデルの仕事と学校の勉強で忙しかったから運動しなくても自然に痩せてたのに、今は何にもしてないから太っちゃって」
「花音、前は痩せてたような言い方に聞こえるけど、前から太ってたよ」
岩で頭でも殴られたのかなと思うくらい、ショックなことをさらりと言う。私は口を尖らせた。
「それは子供だったからそう見えてただけでしょ? あんまり痩せてると可愛くないって、事務所のスタッフの人も言ってたし」
すると、一果があきれたように長いため息をついた。
「忘れてた。花音は昔から物事を自分に都合よく解釈する天才だった。大人になったら変な詐欺に簡単に引っかかりそう」
その一果の言葉を思い出してふと我に返った。前を歩く一果に聞く。
「一果、昔さ、私に自分の都合のいいように解釈する天才だって言ったよね」
何をいきなり、と一果が振り返りつつ
「さあ、いつ言ったかは覚えてないけど。常日頃思ってはいた」と言う。
「その後なんて言ったっけ? もっと酷いこと言われたんだけど、なんだったかな」
「勘違いし続けて生きてるならまだいいけど、途中で自分の勘違いに気付く。それでウダウダ落ち込んでは周りに心配してほしいオーラを出すから面倒くさいって、言ったかどうかは覚えてないけどいつも思ってた。それかな」
一果の鋭い言葉が胸に突き刺さった。相変わらずだ。言葉のキャッチボールどころか、鋭い槍で突き刺してくる。でもその言葉が今も響くということは、何年経っても私は変わっていなかった、ということか。
肉まんの最後の一口を食べ終えた頃、一果の家が見えてきた。周囲の綺麗な住宅の中に、一軒だけ木造平屋建てのボロ家がある。二年前に少し修繕したという家は、これでも多少はマシになっている。高校生の頃はもっと酷く、馬小屋のようだった。台風の日はいつも一果と叔母さんが家に泊まりに来ていたほどだ。
ホクホクと体も口の中も温まったまま、家の玄関を開ける。
「ただいまあ」
小さく声をかけてみるものの、叔母さんからの返事はなく、家の中は冷え切っていた。
叔母さんは二階でまだ寝ている。後ろから入ってきた一果は靴を脱ぐと、そのままシャワーを浴びに奥のお風呂場に向かった。私はシャワーが長いので、一果が先に入るというのが暗黙のルールだ。
玄関横の居間にあるストーブに火を入れた。
一果も叔母さんも、昔から中々自分たちではストーブをつけてくれない。ライターもなく、安いから、という理由でマッチしかない。この家の生活はアウトドアに来た感覚に似ている。
ストーブは付いたものの、部屋の中は極寒で、じっとしていると凍えてしまう。こんなところも変わってないなんて懐かしい……、なんて言ってられない。
居間の奥の一果の部屋に入り、走ってきて温まった体の熱が冷めてしまう前に急いで部屋着に着替えた。部屋着というのは一果から借りている黒いジャージだ。そしてその上からダウンジャケットを羽織り、丸くなった。雪山で救難ヘリを待つ人のように。
私がシャワーを浴び終えて台所に行くと、一果が朝ごはんの仕度をしてくれていた。狭い台所の窓から朝日が明るさを増す。目玉焼きとハムとパンと湯気の立つインスタントコーヒー。苺ジャムまである。一果の家の朝食にしては豪華だった。いつもは食パンと牛乳だけなのに。
「どうしたの、これ」
私が聞くと、一果が自慢げに言う。
「一応、今日は大晦日だから豪華にしようと思って。ホテルの朝食とまではいかないけど」
狭い台所にはテレビもなくて、何を話すでもなく、黙々と食べた。安い苺ジャムなのに、やけに美味しい。
「一果の家で食べるものって、どうしてこんなに美味しく感じられるんだろう」
「家みたいな貧乏な家にいると、食べ物が貴重に見えるからでしょ」
一果が冗談交じりに言う。たぶん違う。少し前まで、私は失恋のショックから食べ物の味が感じられなかった。お寿司もピザもラーメンも大好きだったケーキも、何を食べても味がしない。ただ学校に行って帰ってくる燃料のために食べていた。
朝ごはんを食べ終えると、一果はバイトに行った。一果は高校卒業後、ホテルのレストランでウェイトレスの朝食バイトとスポーツクラブでインストラクターのバイトを始め、今もそのバイトを続けていた。スポーツクラブのバイトはもう今年のシフトはなく、今日はホテルの朝食バイトで仕事納めだという。
朝ごはんのお皿を洗っていると、二階から階段を降りてくる足音が聞こえた。一果の母親の辰美叔母さんが起きてきた。辰美叔母さんは飲み屋で働いていた。辰美叔母さんをひと目見ただけで、『飲み屋』はスナックか、場末のパブだと分かる。
「ああ、花音、おはよう。来てたのね」
少しハスキーな声で叔母さんが言う。
「おはよう。ごめね、うるさくして。起こしちゃった?」
叔母さんは私の隣りに来て、水道の蛇口から出る水をコップにくむと一気に飲み干した。頭には髪をクルクル巻いてとめたピンクのカーラーがいくつもついている。ジャージの上に半纏を羽織っており、昭和の匂いがした。この木造の古くてボロい家によくマッチしている。辰美叔母さんは痩せていて、目が細くて眼差しが鋭い。一果の顔立ちは母親似だとすぐに分かる。
「酒飲んでぐっすり寝てたから全然平気。喉が渇いて起きてきただけ。一果は? バイト?」
「うん。今日はホテルの朝食バイトだけだからお昼には帰るって。午後からおせちの食材買いに行ってくる」
「そう。あたしは今日の夜も仕事だからまた寝るわ。年越しは一果と二人でして。明日の朝にはいるから」
「わかった。美味しいの作って待ってるね」
「よろしくね。ああ、あとこれも洗っといて」
コップを流しに置くと辰美叔母さんは二階に戻っていった。辰美叔母さんは自由奔放で、子供に対しては放任主義、それに対して私の母親は真面目で子供をコントロールしたい干渉主義、と正反対だった。
食器を洗い終えた後で、私はまた布団にもぐりこんだ。心地いい疲れが眠気を誘う。ついこの前まで不眠に悩まされていたのが、嘘のように意識が遠のいてゆく。
十二月末の海岸は風が強い。
耳が冷えて痛い。手首から先が冷水に浸かっているように冷たい。手袋をしてくればよかった、と後悔しながら服の袖を伸ばして手を包んだ。
道の先に看板が目に入る。
古びた博物館の案内板には「博物館駐車場100メートル先右」の文字。あそこまで走ったら休憩——。
二十メートルほど先を走る一果と、そう約束していた。寄せては返す波の音よりも自分の呼吸の方が耳にうるさい。
息が上がり、少しでも酸素を吸い込もうと顎を上げて走る。前後に振る腕が重い、太ももが上がらない。歩幅が歩いているのと変わらない。
看板まで先に着いた一果が止まる気配もなく走り過ぎていく。
「え、あれ? 一果——!」
私の叫ぶ声に、一果がちらりと振り返り、またすぐに前を向いて走ってゆく。
「一果、待って!」
やっと看板までたどり着いた私は、肩で息をしながら看板を指差した。
「はあっ、はあっ、ここまで走ったらっ……、休憩って言ったでしょ……!」
一果は看板を指差す私を見て、ゆっくりと引き返してきた。
「一果、走るの早いよ。一緒に走ろうって言ったのに、どんどん先に行っちゃうんだもん」
「またそうやってすぐ愚痴を言う」
一果が冷ややかな目線で言う。
「愚痴じゃないもん。私は運動不足なんだから、ちょっとくらいスピード落としてくれてもいいじゃない」
「知らないね、そんなこと。花音が勝手に付いてきたんでしょ」
「一果の鬼」
「何度も言うけど、一人で走りなよ。走り方は昔教えたでしょ」
「だって一人じゃ寂しいもん」
「面倒臭いヤツ。朝は起きないし、文句多いし」
一果は文句を言いながらまた走り出した。
「ま、待ってよ、一果——!」
一果の冷酷な毒舌が懐かしい。高校生の頃も、こうして海岸を二人でランニングしていた。
また走り出したものの、疲れて歩いていたら数十メートルほど先で一果が仁王立ちしているのが目に入った。
……怒ってる。
鋭い眼差しで、瞬きもせずこちらをにらんでる。慌てて私は走りだした。
やっぱり一緒に走ろうなんて言うんじゃなかった。
疲れきって息が上がって、思考が真っ白になった時、ふと体が軽くなるのを感じた。
荒く息づいていた呼吸が、一定のリズムを刻むようになり、足が自然と前に出る。
風に乗ったような不思議な感覚。
さっきまでの苦しさが、嘘みたいに清々しく気持ちいい。
ああ、懐かしい、この感覚。
どこまででも走れそう——。
「一果」
私が追いつくのを待っていた一果に言った。
「なんか急に体が軽くなった……!」
「ああ、セカンド・ウィンド」
「セカンド……? 何それ」
「走っているうちに心拍数や血圧、酸素供給が運動に慣れて軽く感じる。それをセカンド・ウィンドっていうの」
「さすがスポーツクラブのインストラクター」
「前にも教えたでしょ」
それから一果に合わせて五十メートルほどがんばって走ったけれど、気力も体力も使い果たし、またのろのろと歩いた。
海辺ののどかな土地では、空気に合わせて人の気質も馴染むのか、こんなに寒い早朝に私たち以外にも散歩をしている人がいる。
東京に比べれば田舎臭い。けど、今はその素朴さがありがたい。
両親の離婚と高校進学をきっかけに東京を離れ、私は一時期この海辺の町で暮すことになった。そして、この町には母方の従姉妹の一果がいた。
高校卒業を機に私と母はまた東京に戻り、服飾専門学校に進学し、今は一人暮らしをしている。
母とはたまに会って食事をしていたけれど、母が再婚をしてからはあまり会ってはいない。食事に誘われても、忙しいからまた今度ね、とあいまいにメールを返していた。
父親とは離婚以来会っていない。たぶん、仕事人間だったから今も仕事に没頭して働いているんだと思う。
冬休みに入ってすぐ、一果からメッセージがきた。高校卒業以来、初めてだった。
このメールは私にとって一筋の光りだった。好きな人と別れて三ヶ月、どん底から浮上するどころか、奈落の底に落ち続けていた。
そんなところへの、一果からのメッセージだ。
内容は今度職場のお偉いさんに会うことになった。スーツにはどんな鞄を持てばいいのか相談したい、という内容だったけれど、それは無視してすぐに一果に電話をかけた。
懐かしい一果の声が聞きたかった。
一果は地元の高校を卒業してからも、海辺の町に母親と一緒に暮らしている。
無性に帰りたくなって、一果に年末に一果の家に泊まりに行ってもいいか聞くと、一果はウチは別にかまわない、と言ってくれた。
こうして十二月二十九日の昼には荷物をまとめて、夜には一果の家に着いていた。
翌朝、つまり今日は、一果が毎朝ランニングをしているというので、私も付き合っている。
海岸からの帰り道、コンビニで肉まんを買いたいとごねて、一果の腕を引っ張る。
「家までの十五分も我慢できないの?」
冷ややかに呟く一果の言葉は無視し、無理やりコンビニに引っ張り込む。結局、一果もつられて肉まんを買い、一緒に食べながら帰った。
「なんだか部活帰りの学生みたいだね」
「学生の時は今よりはるかに貧乏だったけどね。肉まんなんて買うお金もないくらい」
湯気の出る肉まんを頬張りながら一果が遠くを見た。
学生の頃の一果の家は超がつくほど貧乏だった。私服は全部私のおさがりだったし、教科書も先輩から貰ったもので、私と同じ私立高校に進学したのも、「成績特待生かスポーツ特待生の学費免除、高校進学はこの二択しかない」と、言って学費免除で選んだほどだ。一果が成績優秀でスポーツ万能なのは、家がそれくらい崖っぷちの経済状態だったからだ。そんなド貧乏生活を、クラスメイトたちは知らない。
ただでさえ大人びた雰囲気を持つ一果は、高校では一匹狼で一目置かれていた。一果の貧乏さは、そのクールさに拍車をかけて見えた。
高校生の時、私が一果と走り始めたのはダイエットが目的だった。子供の頃は大人たちに、ふっくらしていて可愛いともてはやされていた。けれど、モデルの仕事をやめて中学校に通っていたある日、クラスの男子に「お前、モデルなのに全然痩せてないな。ダイエットとかしなくていいのか?」と、悪気なく聞かれた。
崩れ落ちてしまいそうなくらいショックだった。確かにふっくらはしていた。でもそれは愛嬌だと思っていた。生まれつき色素の薄い茶色がかったふわふわの髪に、大きな垂れ目、少しふっくらした赤い頬。癒し系ともてはやされ、自分ではヨーロッパの宗教画に出てくる天使のイメージのつもりだった。ところがクラスメイトの男子に突然、ただの太った女子という現実を突きつけられた。
私の中の積みあがった自信が崩壊する音が聞こえた。
大人たちの商業の世界から一歩引いて、鏡に映った自分を冷静に見た。すべてが自分に都合よく見える魔法の眼鏡を外して、現実の世界を見るような感覚。
確かに、少しだけぽっちゃりしているかもしれない。首とフェイスラインの境があいまいだ。というか首が短い。ボリュームがある髪型のせいだと思っていたけれど、たぶん違う。
高校生になると確信した。
従姉妹の一果と比べるとよく分かる。身長の伸びは止まったのに体重だけは順調に成長したせいだろう。一果の長い足、引き締まった太もも、小さなお尻、くびれた腰。服の胸元から覗く鎖骨。程よくやわらかそうな二の腕。長い首。あごから耳への吸い付くような瑞々しい肌。高い鼻。そして……涼やかな切れ長の眼に、薄い唇。真っ直ぐ腰までとどく長い黒髪。
いつか一果に言ったことがある。
「一果はスタイルがいいね」
「筋トレしてるから」
「私も……、子供の頃はモデルの仕事と学校の勉強で忙しかったから運動しなくても自然に痩せてたのに、今は何にもしてないから太っちゃって」
「花音、前は痩せてたような言い方に聞こえるけど、前から太ってたよ」
岩で頭でも殴られたのかなと思うくらい、ショックなことをさらりと言う。私は口を尖らせた。
「それは子供だったからそう見えてただけでしょ? あんまり痩せてると可愛くないって、事務所のスタッフの人も言ってたし」
すると、一果があきれたように長いため息をついた。
「忘れてた。花音は昔から物事を自分に都合よく解釈する天才だった。大人になったら変な詐欺に簡単に引っかかりそう」
その一果の言葉を思い出してふと我に返った。前を歩く一果に聞く。
「一果、昔さ、私に自分の都合のいいように解釈する天才だって言ったよね」
何をいきなり、と一果が振り返りつつ
「さあ、いつ言ったかは覚えてないけど。常日頃思ってはいた」と言う。
「その後なんて言ったっけ? もっと酷いこと言われたんだけど、なんだったかな」
「勘違いし続けて生きてるならまだいいけど、途中で自分の勘違いに気付く。それでウダウダ落ち込んでは周りに心配してほしいオーラを出すから面倒くさいって、言ったかどうかは覚えてないけどいつも思ってた。それかな」
一果の鋭い言葉が胸に突き刺さった。相変わらずだ。言葉のキャッチボールどころか、鋭い槍で突き刺してくる。でもその言葉が今も響くということは、何年経っても私は変わっていなかった、ということか。
肉まんの最後の一口を食べ終えた頃、一果の家が見えてきた。周囲の綺麗な住宅の中に、一軒だけ木造平屋建てのボロ家がある。二年前に少し修繕したという家は、これでも多少はマシになっている。高校生の頃はもっと酷く、馬小屋のようだった。台風の日はいつも一果と叔母さんが家に泊まりに来ていたほどだ。
ホクホクと体も口の中も温まったまま、家の玄関を開ける。
「ただいまあ」
小さく声をかけてみるものの、叔母さんからの返事はなく、家の中は冷え切っていた。
叔母さんは二階でまだ寝ている。後ろから入ってきた一果は靴を脱ぐと、そのままシャワーを浴びに奥のお風呂場に向かった。私はシャワーが長いので、一果が先に入るというのが暗黙のルールだ。
玄関横の居間にあるストーブに火を入れた。
一果も叔母さんも、昔から中々自分たちではストーブをつけてくれない。ライターもなく、安いから、という理由でマッチしかない。この家の生活はアウトドアに来た感覚に似ている。
ストーブは付いたものの、部屋の中は極寒で、じっとしていると凍えてしまう。こんなところも変わってないなんて懐かしい……、なんて言ってられない。
居間の奥の一果の部屋に入り、走ってきて温まった体の熱が冷めてしまう前に急いで部屋着に着替えた。部屋着というのは一果から借りている黒いジャージだ。そしてその上からダウンジャケットを羽織り、丸くなった。雪山で救難ヘリを待つ人のように。
私がシャワーを浴び終えて台所に行くと、一果が朝ごはんの仕度をしてくれていた。狭い台所の窓から朝日が明るさを増す。目玉焼きとハムとパンと湯気の立つインスタントコーヒー。苺ジャムまである。一果の家の朝食にしては豪華だった。いつもは食パンと牛乳だけなのに。
「どうしたの、これ」
私が聞くと、一果が自慢げに言う。
「一応、今日は大晦日だから豪華にしようと思って。ホテルの朝食とまではいかないけど」
狭い台所にはテレビもなくて、何を話すでもなく、黙々と食べた。安い苺ジャムなのに、やけに美味しい。
「一果の家で食べるものって、どうしてこんなに美味しく感じられるんだろう」
「家みたいな貧乏な家にいると、食べ物が貴重に見えるからでしょ」
一果が冗談交じりに言う。たぶん違う。少し前まで、私は失恋のショックから食べ物の味が感じられなかった。お寿司もピザもラーメンも大好きだったケーキも、何を食べても味がしない。ただ学校に行って帰ってくる燃料のために食べていた。
朝ごはんを食べ終えると、一果はバイトに行った。一果は高校卒業後、ホテルのレストランでウェイトレスの朝食バイトとスポーツクラブでインストラクターのバイトを始め、今もそのバイトを続けていた。スポーツクラブのバイトはもう今年のシフトはなく、今日はホテルの朝食バイトで仕事納めだという。
朝ごはんのお皿を洗っていると、二階から階段を降りてくる足音が聞こえた。一果の母親の辰美叔母さんが起きてきた。辰美叔母さんは飲み屋で働いていた。辰美叔母さんをひと目見ただけで、『飲み屋』はスナックか、場末のパブだと分かる。
「ああ、花音、おはよう。来てたのね」
少しハスキーな声で叔母さんが言う。
「おはよう。ごめね、うるさくして。起こしちゃった?」
叔母さんは私の隣りに来て、水道の蛇口から出る水をコップにくむと一気に飲み干した。頭には髪をクルクル巻いてとめたピンクのカーラーがいくつもついている。ジャージの上に半纏を羽織っており、昭和の匂いがした。この木造の古くてボロい家によくマッチしている。辰美叔母さんは痩せていて、目が細くて眼差しが鋭い。一果の顔立ちは母親似だとすぐに分かる。
「酒飲んでぐっすり寝てたから全然平気。喉が渇いて起きてきただけ。一果は? バイト?」
「うん。今日はホテルの朝食バイトだけだからお昼には帰るって。午後からおせちの食材買いに行ってくる」
「そう。あたしは今日の夜も仕事だからまた寝るわ。年越しは一果と二人でして。明日の朝にはいるから」
「わかった。美味しいの作って待ってるね」
「よろしくね。ああ、あとこれも洗っといて」
コップを流しに置くと辰美叔母さんは二階に戻っていった。辰美叔母さんは自由奔放で、子供に対しては放任主義、それに対して私の母親は真面目で子供をコントロールしたい干渉主義、と正反対だった。
食器を洗い終えた後で、私はまた布団にもぐりこんだ。心地いい疲れが眠気を誘う。ついこの前まで不眠に悩まされていたのが、嘘のように意識が遠のいてゆく。



