恐竜王の花嫁


 日奈子は「冷静に、冷静に……」と呟いて祈りの形に手を合わせた。
 無駄に動いたり叫んだりはせずに、体力を温存して待つことにする。
 それでもなかなか思うようにはいかず、殺意を行動に移す人が実在したショックで心臓がバクバクと鳴っていた。
「冷静に、冷静に……」と繰り返し呟くが、その呪文が効くにはもう少し時間が必要だった。


 井戸の底にいても学校のチャイムだけは辛うじて聞き取れたので、六限目の授業が終わった時は心底嬉しく、人心地がついた。
 放課後になればあとは時間の問題だ。
 普段の自分ならそろそろスーパーに行っている頃だろう。
 いつも第一寮の誰かしらが声を掛けてくれて、荷物を持ってくれたりする。
 皇牙と綾人はD4よりもあとに帰ってくることが多いが、今日の皇牙は綾香に会う予定があるため、綾香が帰宅する前に高等部に現れる可能性が高い。
 綾香はどんな顔をして皇牙と会うのだろうか。
 腕に引っかき傷などがついているはずだが、皇牙はそれに気づくだろうか。
 どういう形にせよ、あと一時間もすればここから出られると思った。
 絶対に大丈夫──そう信じて、また祈りの形に手を合わせる。
 ──でも実際に助けてくれるのは皇牙さんじゃないかもしれない。こんな暗くて狭いところ、閉所恐怖症の皇牙さんには無理だ。きっと綾人さんかD4の誰かが梯子を下ろしてくれる。そうだ、怪我とかしてないし、自力で上がろう。梯子さえ下ろしてくれたら大丈夫。あとは自分でなんとか上がれる。
 日奈子は全身ずぶ濡れの体を抱いて、腕をこすって暖を取る。
 風邪を引きそうだと思ったが、気温が高めの日でよかったとポジティブに考えた。
 天気予報によると、明日は少し冷えるらしい。
 井戸に落とされたのが今日でよかったと、そう思うことにした。
 以前の自分だったら、こんなふうにポジティブに捉えることはできなかっただろう。
 もし同じ状況に陥ったら冷静さを失って、助けがくるまでしくしくおいおいと泣くばかりだったかもしれない。