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なぜこの記憶が長い間埋もれていたのか。
人の記憶とは不思議だ。匂い、触感、音、風景――、そういった日常に溢れたものが、眠っていた記憶をふいに呼び覚ますことがある。
今もそうだ。潮の匂い、長く続く坂道、そして軋むペダルの音が、僕を七年前のあの日に連れ戻していた。
2017年7月。
僕たちの小学校には、「二分の一成人式」という四年生のための行事があった。それは、十歳の子供たちが、育ててくれた家族に感謝の気持ちを伝えるという、親子のための集会だった。
「お父さん、お母さん、この十年間、ありがとうございました。僕はこれからも習い事や勉強を、一生懸命がんばります」
発表を終え、席に座った後、僕は見に来てくれた両親のほうをちらりと見た。母は目を潤ませて微笑んでいたが、父は僕と目を合わせようともせず、終いには席を立ってしまった。
いっぽうで、夏芽の番が回って来た時は、その場にいた全員が彼女に注目した。彼女の話す言葉は、他の誰よりも大人びていて、愛情深く、素晴らしいスピーチだった。夏芽のご両親は嬉しそうに、何度も頷いてその言葉を聞いていた。僕はあらためて夏芽のことが羨ましくなった。
その日は半日で学校が終了したので、夏芽の家に遊びに行った。
夏芽の部屋で一緒にお菓子を食べていると、その日の式のことが話題にのぼった。
夏芽はその式の合唱が楽しかったらしく、ソファに腰かけて一人で喋っていたが、何かいいアイデアでも浮かんだのか、「そうだ」と言って立ち上がった。
「ねえ、あたしたちも、何か十歳の記念になることをやろうよ」
「なに、急に。記念って?どんなこと?」
夏芽は目の前のクッキー缶に入っているクッキーを全部外に出すと、空いた缶の内側を僕に見せながら言った。
「ここに、十年後の私たちへ、っていう手紙を入れて二人で埋めるの。名付けて、タイムカプセル大作戦!」
「わぁ、いいね!面白そう」
僕もすっかりその気になって、夏芽と一緒に手紙を書いた。お互いに何を書いたかが分からないように、二人背を向けあって。
そのときの僕は、夏芽が数年後にこの世を去ってしまうことなど、想像もしていなかった。もちろん僕は、二人で掘り起こせる未来があることを前提に、手紙を書いた。
しかし、夏芽はどうだったのだろう。余命いくばくもない体で、十年後の僕に、何を伝えたかったのだろう。
夏芽の提案で、タイムカプセルは爪立灯台のふもとに埋めることになった。
僕らは、灯台まで自転車を走らせた。アップダウウンのきつい坂道で、思ったよりも時間がかかった。
その灯台は広い海浜公園の中にあり、切り立った崖の上に立っているのだった。
灯台に続く道には、夕顔が一面に咲いていて、その白く可憐な花は、海から吹き寄せる風に揺れていた。
夕暮れがもうすぐそこまで来ていることを、僕らにそっと告げているようだった。
僕らは灯台のふもとの分かりやすい場所に、急いでタイムカプセルを埋めた。
「また、十年後に」
埋め終わると、僕らは灯台を見上げてそう言った。灯台の向こう側に、落ちていく太陽が見えた。
白亜の灯台は最後の陽の光を浴びて、きらきらと輝いていた。
その灯台を、僕は今目指している。
何てことだ。何度も心の中で繰り返す。
そんな大切な記憶が、僕の中から抜け落ちていたなんて。いつも遠回りしてしまう自分に嫌気がさす。
心の中で夏芽に詫びながら、僕はペダルを懸命に踏んだ。
スピードを出し続けたせいか、だんだん息が上がってきた。疲労感から、自転車をこぐ足に力がうまく入らない。太ももの筋肉が、悲鳴を上げているのがわかる。
しかし、ここで足を止めるわけにはいかない気がした。この夜を逃すと、もう夏芽には会えないかもしれない—―、そんな嫌な予感が焦燥感に変わり、僕を激しく衝き動かしていた。
急な登り坂を一気に駆け上がると、灯台の明かりが見える場所まで来た。その時すでに深夜零時を過ぎていて、爪立公園に続く道は、静寂に包まれていた。
目に映るのは、遠くにある灯台から伸びる一筋の光線だけで、辺りは漆黒の闇――。
急に、不安に襲われる。このまま、灯台まで行って、彼女に会えないまま終わってしまったら……?夏芽が僕と行きたかった場所は、あの灯台で間違いないだろうか。
疑問が、ぐるぐると頭の中を駆け巡る。しかし、自分の勘を信じるしかなかった。
風の中に、唸るような息遣いが響いた。心にかかる不安の靄はいつの間にか消え失せていた。
しばらくすると、見覚えのある爪立公園の門が目の前に現れた。僕はその門をくぐり抜け、駐輪場に自転車を停めた。
灯台の小道までは、この公園の駐輪場から一キロあるかないか、という距離だ。白川さんが懐中電灯を貸してくれたのはありがたかった。自転車のライトがなくなったら、何も見えないところだった。公園の正面入り口の場所を除いては、ほとんど外灯がないのだ。
僕は、懐中電灯を手に歩き始めた。あまりに暗いので、足元に光を当てて、転ばないように注意して歩いた。気温は普段より低く、強めの風が潮の匂いを運んでくる。
公園の奥まで来て、ようやく灯台に続く一本道の手前の看板が見えてきた。矢印の形の標識に、「爪立灯台」と、大きな文字で書かれている。
「来たぞ‥‥‥」
僕は懐中電灯を両手でぎゅっと握りしめて、一歩踏み出した。懐中電灯の頼りない光では、一本道とその脇に咲く夕顔の花影しか見えない。僕は、あまりの暗さに、身震いがするほど心細くなった。今夜こそ、夏芽に会えますように。心の中で祈りを捧げ、ゆっくりと前進していく。
一本道の先にある白亜の灯台は、最初は遠目にぼんやりとしていたが、歩を進めるごとに、少しずつ輪郭がはっきりとしてきた。
――ようやく、ここまで来た。
懐中電灯で、辺りを照らす。白い灯台の外壁にも光を当ててみたが、人影はない。
「夏芽!」
大きな声で呼んでみたが、何の反応もない。
僕はタイムカプセルが埋めてあるあたりの場所に行き、地面の状態を確認した。幸い、その場所は当時と変わっておらず、アスファルトで舗装されたような跡もない。
――よかった‥‥‥・ここは、あの頃のままだ。
感極まって、うまく息が出来なくなった。自分のものとは思えないような、かすれた声が口から漏れた。夏芽に会いたい、と。
その直後、何か心にざわざわとする感覚をおぼえ、僕は夜空を見上げた。背後から誰かに呼ばれたような、そんな気がしたのだった。
「‥‥‥⁉」
一瞬、時空が歪んだ気がした。視界を覆いつくす、震えるほどの光景に眩暈がした。
驚きの世界が、そこには広がっていた。灯台の西側に広がる夜空に、天の川が、海から宙に向かって垂直に立ち昇るように流れていた。
数多の星たちが集まるその川は、まばゆいほどの輝きを放ち、青白い月の船がその水面をのぼっていく。
櫂を握り、優雅にその川を渡る夏芽の姿が、船の上に見えるようだった。
そして、その川岸に佇んでいるのは、彼女を探し求めている、一人ぼっちの僕。この星の川をただ見上げることしかできない、ちっぽけで、無力な存在——―。
ああ、神様、と僕は知らず知らずのうちに呟いていた。どうか、どうか‥‥‥、夏芽をまだ連れて行かないでください、と。
僕は、握りしめていたこぶしを開くと、手のひらをじっと見つめた。
「早く、探し出さなければ‥‥‥!」
一秒でも早く、夏芽との約束を果たさなければならない。そんな気持ちが、心の奥底からふつふつと湧きあがってきたのだった。
僕は、タイムカプセルを埋めたあたりの場所の土を、手で掘り返した。地面はひんやりとしていて、思ったよりも硬かった。 手で掘り進めるのが、どのくらい時間がかかるのかまでは、初めは予想もしていなかった。しかし、それは予想以上に難航した。
自分たちがわかりやすい場所に埋めたはずだったのに、クッキー缶ほどの大きさのものを堀り出すことが、こんなにも難しいことだとは、思ってもみなかった。
疲れ果てて、空を見上げると、天の中央に会った月が、次第に西に傾いていくのが見えた。
指先には、うっすらと血が滲み始めていた。
しかし、僕は、諦めなかった。夏芽の思いが、綴られている一通の手紙を探し出したい。そうすれば、夏芽に会える。十歳のころの夏芽に。そして、今の夏芽にも――。
彼女の本当の気持ちや、彼女がここに戻って来た意味も、分かるかもしれない。絶対に、タイムカプセルは掘り起こしてみせる。――そんな一心で、僕は懸命に手を動かし続けた。
どのくらい、時間が経ったのだろう。
もう腕に力が入らない――そう思った時に、僕の指先に、カチン、と硬いものがぶつかった。
「‥‥‥あった、あったぞ」
僕は大急ぎで、缶に巻かれたビニール袋をはぎ取り、そっと蓋を開けた。カラン、という金属音とともに、二通の手紙が現れた。 手紙には、あて名は書かれていなかった。おそるおそる、一枚を開いた。
最初に開いたのは、僕が書いた手紙のほうだった。
懐中電灯を手元に置き、地面に膝を付けてその文面を目で追った――、そのときだった。
「十年後の僕へ――」
背後から、聞き慣れた声がした。
「夏芽のことを守れるくらい、強い男になっていたい」
振り向くと、夏芽が空中を浮遊して、その手紙を覗き込んでいた。
「うわっ!わっ、わっ‼」
「何よ?人をバケモノみたいに!」
「ちが‥‥‥」
違う。僕は心の中で、夏芽に言った。自分の手紙を夏芽に音読されてしまったことの恥ずかしさから、言葉も出ないし、夏芽の顔も見れない。
現れてくれてよかった、という安心感もあいまって、僕は力が抜けたみたいになって、思わず頭を地面につける形になった。うっ、うっ、と声を漏らして泣く僕を、夏芽は黙って見つめているだけだった。
僕が落ち着いたころに、すぐ隣で夏芽の声がした。
「理人、思い出してくれたんだね」
顔を上げると、夏芽は僕の横に座っている。
涙でぐちゃぐちゃの顔の僕を見て、夏芽が「あーあ」と言う。夏芽は、ハンカチを出して僕の頬に触れようとするが、虚しくもその指はすり抜けて、僕の頬には届かない。
「強い男とは程遠いよね‥‥‥」
僕は、シャツの袖で涙をぬぐって、夏芽に謝った。
望んでいた未来が来ないことは、分かっていた。僕は変わる努力をしようともしなかったのだ。
「でも、ここまで来てくれたじゃない。強い意思で。あたしを絶対見つけ出す、って‥‥‥。全部聞こえてたよ。おじいちゃんとの会話も」
「そうなの‥‥‥?」
「相変わらず、涙もろいなって思ったけど‥‥‥。でも、頑張ってくれた。理人は強いよ」
「でも、きみを守ることはできなかった‥‥‥」
「守ってたよ」
「え……?」
「理人は気が付いていないだけで、ずっとあたしを守ってた」
僕は、夏芽の目を見つめ返した。夏芽も、僕を見つめていた。
その大きな黒目には僕が映っていて、僕はその中に落ちるように吸い込まれた。
気が付くと、暗闇の中、映写機から流れてくるみたいに、古い映像が目の前に飛び込んで来た。
そこには、小学生のころの僕がいた。クラスの男子たちに大声を出して、夏芽を庇うために立ち向かう僕。苦しくなった夏芽をおんぶして走る僕。木の枝からメグを夏芽に手渡す僕。夏芽が逆上がりをするのを手伝う僕。中学で夏芽と一緒に登下校する僕。
少しずつ成長していく僕の姿は、夏芽の目を通して浮かび上がり、走馬灯のように流れ、消えていく。
そして、最後に映ったのは、夏芽と最後に言葉を交わした日。国道前で手を振って別れたとき、僕は振り向いて夏芽にもう一度声をかけていた。
「夏芽、ほんとに家まで送らなくていい?」
すると、夏芽の声が、間近に響いた。
「だいじょうぶってば。理人は心配性なんだから。いつもありがとね」
夏芽の瞳の中に映る映像は、そこで止まった。
僕は現実に引き戻され、ふたたび夏芽の目を見つめていることに気づいた。夏芽は、静かに言った。
「最後まで、守ってくれようとしてた」
「でも、今の僕は‥‥‥。夏芽、あの夏祭りの日のこと、まだ怒ってる?」
夏芽は、うつむいたまま、弱々しく首を振った。怒ったりしてない、と。
「…‥‥どうして、消えちゃったの」
夏芽は、「言わずもがな」と言った。僕は、その一言に大きく目を見開いて、次の言葉を待った。
「理人が予想したとおりよ」
「‥‥‥え?」
「言わずもがな。古語では、『言わないでほしい』、という意味。あの夜、理人が言ってはいけない言葉を言いそうになった。だから、消えた」
「‥‥‥?どういうこと」
「死者は、天使様に許された期間だけ、この世に戻ってくることができるの」
「‥‥‥‥!」
「天使様は、思い残しがある人間に、この世での猶予を与えてくださる。私が長期間にわたってこの世に留まれたのは、若すぎる死で、思い残したことが多かったから。
だけど、天使様には、約束させられるの。思い残したことが叶ったら、すぐに天国に帰らなければならない約束なの…‥‥。あたしが消えたのは、あの夜で終わりにしたくなかったから」
「夏芽の思い残しって‥‥‥、何?」
「それは、その手紙を見たら分かるよ」
夏芽は、缶の中に入っているもう一通の手紙を指さした。
十歳の夏芽が書いた手紙。僕は、その手紙を手に取った。便せんを開く手は、緊張のあまりふるふると震えた。
ゆっくりと、夏芽の字が僕の目の前に現れる。
十年後のあたしと理人へ
白川夏芽、という人間、まだこの世に存在しているかな?それとも、もう旅立ってしまったあとかなぁ?
本当は、十年後の自分にあてて書く約束だけど、あたしにはその確かな未来が約束されていない。だから、もしものことがあった時は、理人が読んでくれるといいなと思って書いています。
この世でやりたいことは、まだまだあります。今日、そのことを書いておきます。
あたしがこれらのことを叶えられたかどうかは、今のあたしにはわからない。
だから、理人が証人になって、見守っていてほしい。
あたしがこの世で、やりたいこと
一、中学、高校でも、理人と机をならべて勉強したい
二、理人と一緒に、物語をつくりたい
三、ハイヒールの似合う大人の女性になって、理人とデートがしたい
四、浴衣を着て、夏祭りデートもいいな。
五、理人と美味しいものを食べたい。
六、理人と、下田の海を見たい。この灯台にまた一緒に来れたら、最高!
ここまで読んで、僕は理解できた。夏芽がこの世に戻って来た理由は、すべての思い残しを叶えるためだった。
そして、僕だけが唯一、証人になるように書かれているのは、夏芽が僕のことを愛していたからだ。夏芽は、僕と歩む未来を、夢見てくれていたのだ。
僕は、その次の言葉を読んだ。そして、気が付くことになった。最後の二つは、これからの僕に託されているものだったということに。
七、理人に愛されたい
八、ずっと、理人の物語に生きたい
すべて読み終えて、僕は茫然としたまま夏芽を見つめ返した。
夏芽は、照れ臭そうに笑って、僕に言った。
「十歳のあたし、かなりおませだよねぇ‥‥‥」
夏芽は、空を見上げた。長い髪が、空を舞うようにそよいだ。美しい横顔だった。
僕も、夏芽につられて空を仰いだ。真っ暗だった空は群青色に変わり、少しずつ白んでいく。
僕は、夏芽が旅立ってしまうことがわかった。
太陽が迫ってくる時間に、夕顔が顔を閉じ、月が光を失ってしまうように。
二人の物語が終わりに近づいていくのを全身で感じ取っていた。
「夏芽」
「‥‥‥どうしたの?」
「夏芽‥‥‥、僕はずっと、自分の気持ちを伝えられなかった。そのことを、きみがいなくなってから、どれだけ後悔したか‥‥‥。でも、今わかったんだ。僕がきみに本当の気持ちを伝えたら、きみは天に消えてしまうんだね」
「うん……」
「でも、それが運命だと‥‥‥、きみは、それを伝えようとして、あの和歌にしたためた」
――「二度目の死」という名の別れ。それが、僕の手にかかっている。その事実は、あまりにも残酷で、重すぎる。
僕は目を伏せて、弱々しく首を振った。
「嫌だ‥‥‥。夏芽と別れたくない」
空が、刻一刻と、明るさを増していく。夏芽のからだの輪郭が、ほのかに光りはじめている。
ああ、あの時間がきてしまう、と僕は思った。風が止まり、音も止まり、移り行く空の色が空気を振動させている。
目に映るものすべてが、天に帰するように迫ってくる。光も影も、すべてのものを青く包み込んでしまう時間が、もうすぐ来る。
「理人、あたしは平気だよ」
「‥‥‥夏芽?」
「だって、楽しかったもの。理人がいてくれたから、あたしは素敵な人生が送れた」
「‥‥‥夏芽‥‥‥夏芽、待ってくれ」
「今なら大丈夫。あたしは、この場所での最期を望んでいたの」
「そんな‥‥‥」
「ほら、もうすぐ舟を出す時間だよ」
その言葉に、僕は眉根を寄せて夏芽を見つめ返した。思い出したからだった。砂浜に打ち上げられた小舟の――肩と肩が触れる距離で、夢を語りあった、あの狭い空間を。
あの頃の僕らは、夢ばかり見ていた。その夢を、ひとつひとつ、二人で叶えていくはずだった。
でも、夏芽はもうじゅうぶんだと言うように、満ち足りた微笑みを浮かべていた。
まるで天使のように穢れのない、美しい笑顔だった。
「理人、あたしが消えても、憶えていて」
振り絞るような声で、夏芽が言う。
「あたしには、理人だけだった。理人の代わりになるひとは、誰もいない」
夏芽の瞳に、一筋の青い光が反射する。その澄み切った色に心奪われたまま、僕は息をのんだ。
やがてその色は、僕の瞳の奥にも滲むように満ちていった。
僕たちは、互いを見つめ合った。互いの目に映る、思い出の空の色も。
ブルー・アワーの空の色。きみと僕は、この空を一緒に見上げ、たくさんの日々を重ねてきたのだ。
きみに代わる人など、いるはずがない。僕が隣にいてほしいと望んだひとは、ずっときみひとりだった。
「忘れるわけない‥‥‥。それは、僕にとっても同じだから」
気が付くと、僕たちは青い光の中にいた。
空と海が溶けあったような、深く澄んだ青さに世界は染まった。
「夏芽、約束する――。きみのことを絶対に忘れない。きみはずっと、僕の中にいる」
彼女の瞳に吸い込まれるように、顔を近づける。
夏芽は、僕の想いすべてを受け入れるように、瞳を閉じた。
「――好きだ」
僕は、夏芽のからだを抱きしめ、そっとその薄紅色の唇に口づけた。
そのやわらかな感覚が実体をともなって僕の唇に伝わったとき、夏芽も、僕も、呼応するようにお互いを求めた。
夏芽の肌や唇は、やわらかった。髪の毛からは、彼女の香りがした。すべてが愛おしいと思った。彼女が僕の背に回した手の温もりも、彼女の鼓動も。
神様は、夏芽だけでなく、僕の願いまでも叶えてくれたのだ――。
「理人‥‥‥、あたしも、愛してる」
僕の目の前で、夏芽が微笑んでいる。
――行かないで、夏芽。
僕は、彼女のからだをきつく抱いた。
絶対に、離れたくない。愛している。
そう、心の中で叫んだ時だった。
ありがとう
夏芽の声が、耳元に大きく響いた。
夜明けの光が、水平線をまっすぐに貫いたときに、それは起こった。
青い世界は消え去り、辺りは一面の光で覆われた。
きらめく光の中、夏芽のからだが少しずつ溶けて、空に消えていく。
太陽が水平線から顔をのぞかせ、潮騒の音も、風も、僕のもとに戻って来た。
びゅうと強い風が吹いて、野に咲いていた夕顔の花が、一斉に風に舞い散っていった。
「夏芽‥‥‥夏芽・・・・・っ!」
僕は、彼女の名を大声で呼んだ。
声が枯れるまで――何度も、何度も。
地面に膝をつき、空を仰いだまま、僕はひとり泣いた。
真っ白な花びらは、天に帰る夏芽とともに、はらはらと空に落ちていった。
なぜこの記憶が長い間埋もれていたのか。
人の記憶とは不思議だ。匂い、触感、音、風景――、そういった日常に溢れたものが、眠っていた記憶をふいに呼び覚ますことがある。
今もそうだ。潮の匂い、長く続く坂道、そして軋むペダルの音が、僕を七年前のあの日に連れ戻していた。
2017年7月。
僕たちの小学校には、「二分の一成人式」という四年生のための行事があった。それは、十歳の子供たちが、育ててくれた家族に感謝の気持ちを伝えるという、親子のための集会だった。
「お父さん、お母さん、この十年間、ありがとうございました。僕はこれからも習い事や勉強を、一生懸命がんばります」
発表を終え、席に座った後、僕は見に来てくれた両親のほうをちらりと見た。母は目を潤ませて微笑んでいたが、父は僕と目を合わせようともせず、終いには席を立ってしまった。
いっぽうで、夏芽の番が回って来た時は、その場にいた全員が彼女に注目した。彼女の話す言葉は、他の誰よりも大人びていて、愛情深く、素晴らしいスピーチだった。夏芽のご両親は嬉しそうに、何度も頷いてその言葉を聞いていた。僕はあらためて夏芽のことが羨ましくなった。
その日は半日で学校が終了したので、夏芽の家に遊びに行った。
夏芽の部屋で一緒にお菓子を食べていると、その日の式のことが話題にのぼった。
夏芽はその式の合唱が楽しかったらしく、ソファに腰かけて一人で喋っていたが、何かいいアイデアでも浮かんだのか、「そうだ」と言って立ち上がった。
「ねえ、あたしたちも、何か十歳の記念になることをやろうよ」
「なに、急に。記念って?どんなこと?」
夏芽は目の前のクッキー缶に入っているクッキーを全部外に出すと、空いた缶の内側を僕に見せながら言った。
「ここに、十年後の私たちへ、っていう手紙を入れて二人で埋めるの。名付けて、タイムカプセル大作戦!」
「わぁ、いいね!面白そう」
僕もすっかりその気になって、夏芽と一緒に手紙を書いた。お互いに何を書いたかが分からないように、二人背を向けあって。
そのときの僕は、夏芽が数年後にこの世を去ってしまうことなど、想像もしていなかった。もちろん僕は、二人で掘り起こせる未来があることを前提に、手紙を書いた。
しかし、夏芽はどうだったのだろう。余命いくばくもない体で、十年後の僕に、何を伝えたかったのだろう。
夏芽の提案で、タイムカプセルは爪立灯台のふもとに埋めることになった。
僕らは、灯台まで自転車を走らせた。アップダウウンのきつい坂道で、思ったよりも時間がかかった。
その灯台は広い海浜公園の中にあり、切り立った崖の上に立っているのだった。
灯台に続く道には、夕顔が一面に咲いていて、その白く可憐な花は、海から吹き寄せる風に揺れていた。
夕暮れがもうすぐそこまで来ていることを、僕らにそっと告げているようだった。
僕らは灯台のふもとの分かりやすい場所に、急いでタイムカプセルを埋めた。
「また、十年後に」
埋め終わると、僕らは灯台を見上げてそう言った。灯台の向こう側に、落ちていく太陽が見えた。
白亜の灯台は最後の陽の光を浴びて、きらきらと輝いていた。
その灯台を、僕は今目指している。
何てことだ。何度も心の中で繰り返す。
そんな大切な記憶が、僕の中から抜け落ちていたなんて。いつも遠回りしてしまう自分に嫌気がさす。
心の中で夏芽に詫びながら、僕はペダルを懸命に踏んだ。
スピードを出し続けたせいか、だんだん息が上がってきた。疲労感から、自転車をこぐ足に力がうまく入らない。太ももの筋肉が、悲鳴を上げているのがわかる。
しかし、ここで足を止めるわけにはいかない気がした。この夜を逃すと、もう夏芽には会えないかもしれない—―、そんな嫌な予感が焦燥感に変わり、僕を激しく衝き動かしていた。
急な登り坂を一気に駆け上がると、灯台の明かりが見える場所まで来た。その時すでに深夜零時を過ぎていて、爪立公園に続く道は、静寂に包まれていた。
目に映るのは、遠くにある灯台から伸びる一筋の光線だけで、辺りは漆黒の闇――。
急に、不安に襲われる。このまま、灯台まで行って、彼女に会えないまま終わってしまったら……?夏芽が僕と行きたかった場所は、あの灯台で間違いないだろうか。
疑問が、ぐるぐると頭の中を駆け巡る。しかし、自分の勘を信じるしかなかった。
風の中に、唸るような息遣いが響いた。心にかかる不安の靄はいつの間にか消え失せていた。
しばらくすると、見覚えのある爪立公園の門が目の前に現れた。僕はその門をくぐり抜け、駐輪場に自転車を停めた。
灯台の小道までは、この公園の駐輪場から一キロあるかないか、という距離だ。白川さんが懐中電灯を貸してくれたのはありがたかった。自転車のライトがなくなったら、何も見えないところだった。公園の正面入り口の場所を除いては、ほとんど外灯がないのだ。
僕は、懐中電灯を手に歩き始めた。あまりに暗いので、足元に光を当てて、転ばないように注意して歩いた。気温は普段より低く、強めの風が潮の匂いを運んでくる。
公園の奥まで来て、ようやく灯台に続く一本道の手前の看板が見えてきた。矢印の形の標識に、「爪立灯台」と、大きな文字で書かれている。
「来たぞ‥‥‥」
僕は懐中電灯を両手でぎゅっと握りしめて、一歩踏み出した。懐中電灯の頼りない光では、一本道とその脇に咲く夕顔の花影しか見えない。僕は、あまりの暗さに、身震いがするほど心細くなった。今夜こそ、夏芽に会えますように。心の中で祈りを捧げ、ゆっくりと前進していく。
一本道の先にある白亜の灯台は、最初は遠目にぼんやりとしていたが、歩を進めるごとに、少しずつ輪郭がはっきりとしてきた。
――ようやく、ここまで来た。
懐中電灯で、辺りを照らす。白い灯台の外壁にも光を当ててみたが、人影はない。
「夏芽!」
大きな声で呼んでみたが、何の反応もない。
僕はタイムカプセルが埋めてあるあたりの場所に行き、地面の状態を確認した。幸い、その場所は当時と変わっておらず、アスファルトで舗装されたような跡もない。
――よかった‥‥‥・ここは、あの頃のままだ。
感極まって、うまく息が出来なくなった。自分のものとは思えないような、かすれた声が口から漏れた。夏芽に会いたい、と。
その直後、何か心にざわざわとする感覚をおぼえ、僕は夜空を見上げた。背後から誰かに呼ばれたような、そんな気がしたのだった。
「‥‥‥⁉」
一瞬、時空が歪んだ気がした。視界を覆いつくす、震えるほどの光景に眩暈がした。
驚きの世界が、そこには広がっていた。灯台の西側に広がる夜空に、天の川が、海から宙に向かって垂直に立ち昇るように流れていた。
数多の星たちが集まるその川は、まばゆいほどの輝きを放ち、青白い月の船がその水面をのぼっていく。
櫂を握り、優雅にその川を渡る夏芽の姿が、船の上に見えるようだった。
そして、その川岸に佇んでいるのは、彼女を探し求めている、一人ぼっちの僕。この星の川をただ見上げることしかできない、ちっぽけで、無力な存在——―。
ああ、神様、と僕は知らず知らずのうちに呟いていた。どうか、どうか‥‥‥、夏芽をまだ連れて行かないでください、と。
僕は、握りしめていたこぶしを開くと、手のひらをじっと見つめた。
「早く、探し出さなければ‥‥‥!」
一秒でも早く、夏芽との約束を果たさなければならない。そんな気持ちが、心の奥底からふつふつと湧きあがってきたのだった。
僕は、タイムカプセルを埋めたあたりの場所の土を、手で掘り返した。地面はひんやりとしていて、思ったよりも硬かった。 手で掘り進めるのが、どのくらい時間がかかるのかまでは、初めは予想もしていなかった。しかし、それは予想以上に難航した。
自分たちがわかりやすい場所に埋めたはずだったのに、クッキー缶ほどの大きさのものを堀り出すことが、こんなにも難しいことだとは、思ってもみなかった。
疲れ果てて、空を見上げると、天の中央に会った月が、次第に西に傾いていくのが見えた。
指先には、うっすらと血が滲み始めていた。
しかし、僕は、諦めなかった。夏芽の思いが、綴られている一通の手紙を探し出したい。そうすれば、夏芽に会える。十歳のころの夏芽に。そして、今の夏芽にも――。
彼女の本当の気持ちや、彼女がここに戻って来た意味も、分かるかもしれない。絶対に、タイムカプセルは掘り起こしてみせる。――そんな一心で、僕は懸命に手を動かし続けた。
どのくらい、時間が経ったのだろう。
もう腕に力が入らない――そう思った時に、僕の指先に、カチン、と硬いものがぶつかった。
「‥‥‥あった、あったぞ」
僕は大急ぎで、缶に巻かれたビニール袋をはぎ取り、そっと蓋を開けた。カラン、という金属音とともに、二通の手紙が現れた。 手紙には、あて名は書かれていなかった。おそるおそる、一枚を開いた。
最初に開いたのは、僕が書いた手紙のほうだった。
懐中電灯を手元に置き、地面に膝を付けてその文面を目で追った――、そのときだった。
「十年後の僕へ――」
背後から、聞き慣れた声がした。
「夏芽のことを守れるくらい、強い男になっていたい」
振り向くと、夏芽が空中を浮遊して、その手紙を覗き込んでいた。
「うわっ!わっ、わっ‼」
「何よ?人をバケモノみたいに!」
「ちが‥‥‥」
違う。僕は心の中で、夏芽に言った。自分の手紙を夏芽に音読されてしまったことの恥ずかしさから、言葉も出ないし、夏芽の顔も見れない。
現れてくれてよかった、という安心感もあいまって、僕は力が抜けたみたいになって、思わず頭を地面につける形になった。うっ、うっ、と声を漏らして泣く僕を、夏芽は黙って見つめているだけだった。
僕が落ち着いたころに、すぐ隣で夏芽の声がした。
「理人、思い出してくれたんだね」
顔を上げると、夏芽は僕の横に座っている。
涙でぐちゃぐちゃの顔の僕を見て、夏芽が「あーあ」と言う。夏芽は、ハンカチを出して僕の頬に触れようとするが、虚しくもその指はすり抜けて、僕の頬には届かない。
「強い男とは程遠いよね‥‥‥」
僕は、シャツの袖で涙をぬぐって、夏芽に謝った。
望んでいた未来が来ないことは、分かっていた。僕は変わる努力をしようともしなかったのだ。
「でも、ここまで来てくれたじゃない。強い意思で。あたしを絶対見つけ出す、って‥‥‥。全部聞こえてたよ。おじいちゃんとの会話も」
「そうなの‥‥‥?」
「相変わらず、涙もろいなって思ったけど‥‥‥。でも、頑張ってくれた。理人は強いよ」
「でも、きみを守ることはできなかった‥‥‥」
「守ってたよ」
「え……?」
「理人は気が付いていないだけで、ずっとあたしを守ってた」
僕は、夏芽の目を見つめ返した。夏芽も、僕を見つめていた。
その大きな黒目には僕が映っていて、僕はその中に落ちるように吸い込まれた。
気が付くと、暗闇の中、映写機から流れてくるみたいに、古い映像が目の前に飛び込んで来た。
そこには、小学生のころの僕がいた。クラスの男子たちに大声を出して、夏芽を庇うために立ち向かう僕。苦しくなった夏芽をおんぶして走る僕。木の枝からメグを夏芽に手渡す僕。夏芽が逆上がりをするのを手伝う僕。中学で夏芽と一緒に登下校する僕。
少しずつ成長していく僕の姿は、夏芽の目を通して浮かび上がり、走馬灯のように流れ、消えていく。
そして、最後に映ったのは、夏芽と最後に言葉を交わした日。国道前で手を振って別れたとき、僕は振り向いて夏芽にもう一度声をかけていた。
「夏芽、ほんとに家まで送らなくていい?」
すると、夏芽の声が、間近に響いた。
「だいじょうぶってば。理人は心配性なんだから。いつもありがとね」
夏芽の瞳の中に映る映像は、そこで止まった。
僕は現実に引き戻され、ふたたび夏芽の目を見つめていることに気づいた。夏芽は、静かに言った。
「最後まで、守ってくれようとしてた」
「でも、今の僕は‥‥‥。夏芽、あの夏祭りの日のこと、まだ怒ってる?」
夏芽は、うつむいたまま、弱々しく首を振った。怒ったりしてない、と。
「…‥‥どうして、消えちゃったの」
夏芽は、「言わずもがな」と言った。僕は、その一言に大きく目を見開いて、次の言葉を待った。
「理人が予想したとおりよ」
「‥‥‥え?」
「言わずもがな。古語では、『言わないでほしい』、という意味。あの夜、理人が言ってはいけない言葉を言いそうになった。だから、消えた」
「‥‥‥?どういうこと」
「死者は、天使様に許された期間だけ、この世に戻ってくることができるの」
「‥‥‥‥!」
「天使様は、思い残しがある人間に、この世での猶予を与えてくださる。私が長期間にわたってこの世に留まれたのは、若すぎる死で、思い残したことが多かったから。
だけど、天使様には、約束させられるの。思い残したことが叶ったら、すぐに天国に帰らなければならない約束なの…‥‥。あたしが消えたのは、あの夜で終わりにしたくなかったから」
「夏芽の思い残しって‥‥‥、何?」
「それは、その手紙を見たら分かるよ」
夏芽は、缶の中に入っているもう一通の手紙を指さした。
十歳の夏芽が書いた手紙。僕は、その手紙を手に取った。便せんを開く手は、緊張のあまりふるふると震えた。
ゆっくりと、夏芽の字が僕の目の前に現れる。
十年後のあたしと理人へ
白川夏芽、という人間、まだこの世に存在しているかな?それとも、もう旅立ってしまったあとかなぁ?
本当は、十年後の自分にあてて書く約束だけど、あたしにはその確かな未来が約束されていない。だから、もしものことがあった時は、理人が読んでくれるといいなと思って書いています。
この世でやりたいことは、まだまだあります。今日、そのことを書いておきます。
あたしがこれらのことを叶えられたかどうかは、今のあたしにはわからない。
だから、理人が証人になって、見守っていてほしい。
あたしがこの世で、やりたいこと
一、中学、高校でも、理人と机をならべて勉強したい
二、理人と一緒に、物語をつくりたい
三、ハイヒールの似合う大人の女性になって、理人とデートがしたい
四、浴衣を着て、夏祭りデートもいいな。
五、理人と美味しいものを食べたい。
六、理人と、下田の海を見たい。この灯台にまた一緒に来れたら、最高!
ここまで読んで、僕は理解できた。夏芽がこの世に戻って来た理由は、すべての思い残しを叶えるためだった。
そして、僕だけが唯一、証人になるように書かれているのは、夏芽が僕のことを愛していたからだ。夏芽は、僕と歩む未来を、夢見てくれていたのだ。
僕は、その次の言葉を読んだ。そして、気が付くことになった。最後の二つは、これからの僕に託されているものだったということに。
七、理人に愛されたい
八、ずっと、理人の物語に生きたい
すべて読み終えて、僕は茫然としたまま夏芽を見つめ返した。
夏芽は、照れ臭そうに笑って、僕に言った。
「十歳のあたし、かなりおませだよねぇ‥‥‥」
夏芽は、空を見上げた。長い髪が、空を舞うようにそよいだ。美しい横顔だった。
僕も、夏芽につられて空を仰いだ。真っ暗だった空は群青色に変わり、少しずつ白んでいく。
僕は、夏芽が旅立ってしまうことがわかった。
太陽が迫ってくる時間に、夕顔が顔を閉じ、月が光を失ってしまうように。
二人の物語が終わりに近づいていくのを全身で感じ取っていた。
「夏芽」
「‥‥‥どうしたの?」
「夏芽‥‥‥、僕はずっと、自分の気持ちを伝えられなかった。そのことを、きみがいなくなってから、どれだけ後悔したか‥‥‥。でも、今わかったんだ。僕がきみに本当の気持ちを伝えたら、きみは天に消えてしまうんだね」
「うん……」
「でも、それが運命だと‥‥‥、きみは、それを伝えようとして、あの和歌にしたためた」
――「二度目の死」という名の別れ。それが、僕の手にかかっている。その事実は、あまりにも残酷で、重すぎる。
僕は目を伏せて、弱々しく首を振った。
「嫌だ‥‥‥。夏芽と別れたくない」
空が、刻一刻と、明るさを増していく。夏芽のからだの輪郭が、ほのかに光りはじめている。
ああ、あの時間がきてしまう、と僕は思った。風が止まり、音も止まり、移り行く空の色が空気を振動させている。
目に映るものすべてが、天に帰するように迫ってくる。光も影も、すべてのものを青く包み込んでしまう時間が、もうすぐ来る。
「理人、あたしは平気だよ」
「‥‥‥夏芽?」
「だって、楽しかったもの。理人がいてくれたから、あたしは素敵な人生が送れた」
「‥‥‥夏芽‥‥‥夏芽、待ってくれ」
「今なら大丈夫。あたしは、この場所での最期を望んでいたの」
「そんな‥‥‥」
「ほら、もうすぐ舟を出す時間だよ」
その言葉に、僕は眉根を寄せて夏芽を見つめ返した。思い出したからだった。砂浜に打ち上げられた小舟の――肩と肩が触れる距離で、夢を語りあった、あの狭い空間を。
あの頃の僕らは、夢ばかり見ていた。その夢を、ひとつひとつ、二人で叶えていくはずだった。
でも、夏芽はもうじゅうぶんだと言うように、満ち足りた微笑みを浮かべていた。
まるで天使のように穢れのない、美しい笑顔だった。
「理人、あたしが消えても、憶えていて」
振り絞るような声で、夏芽が言う。
「あたしには、理人だけだった。理人の代わりになるひとは、誰もいない」
夏芽の瞳に、一筋の青い光が反射する。その澄み切った色に心奪われたまま、僕は息をのんだ。
やがてその色は、僕の瞳の奥にも滲むように満ちていった。
僕たちは、互いを見つめ合った。互いの目に映る、思い出の空の色も。
ブルー・アワーの空の色。きみと僕は、この空を一緒に見上げ、たくさんの日々を重ねてきたのだ。
きみに代わる人など、いるはずがない。僕が隣にいてほしいと望んだひとは、ずっときみひとりだった。
「忘れるわけない‥‥‥。それは、僕にとっても同じだから」
気が付くと、僕たちは青い光の中にいた。
空と海が溶けあったような、深く澄んだ青さに世界は染まった。
「夏芽、約束する――。きみのことを絶対に忘れない。きみはずっと、僕の中にいる」
彼女の瞳に吸い込まれるように、顔を近づける。
夏芽は、僕の想いすべてを受け入れるように、瞳を閉じた。
「――好きだ」
僕は、夏芽のからだを抱きしめ、そっとその薄紅色の唇に口づけた。
そのやわらかな感覚が実体をともなって僕の唇に伝わったとき、夏芽も、僕も、呼応するようにお互いを求めた。
夏芽の肌や唇は、やわらかった。髪の毛からは、彼女の香りがした。すべてが愛おしいと思った。彼女が僕の背に回した手の温もりも、彼女の鼓動も。
神様は、夏芽だけでなく、僕の願いまでも叶えてくれたのだ――。
「理人‥‥‥、あたしも、愛してる」
僕の目の前で、夏芽が微笑んでいる。
――行かないで、夏芽。
僕は、彼女のからだをきつく抱いた。
絶対に、離れたくない。愛している。
そう、心の中で叫んだ時だった。
ありがとう
夏芽の声が、耳元に大きく響いた。
夜明けの光が、水平線をまっすぐに貫いたときに、それは起こった。
青い世界は消え去り、辺りは一面の光で覆われた。
きらめく光の中、夏芽のからだが少しずつ溶けて、空に消えていく。
太陽が水平線から顔をのぞかせ、潮騒の音も、風も、僕のもとに戻って来た。
びゅうと強い風が吹いて、野に咲いていた夕顔の花が、一斉に風に舞い散っていった。
「夏芽‥‥‥夏芽・・・・・っ!」
僕は、彼女の名を大声で呼んだ。
声が枯れるまで――何度も、何度も。
地面に膝をつき、空を仰いだまま、僕はひとり泣いた。
真っ白な花びらは、天に帰る夏芽とともに、はらはらと空に落ちていった。
