ブルー・アワーに舟を放つ

夏休みが終わりに近づいていく。そう感じるのは、お盆の帰省ラッシュのニュースが流れる時期で、小さな頃はお盆が来ると憂鬱な気持ちになったものだった。
列車のホームの混雑や高速道路の渋滞。みんなが同じ方向に流れていく光景は、日常が戻ってくることを予感させた。
そして、思った。夏休みはこんなに長いのに、どうしてこの時期だけ人は一斉に動くのだろう。誰かが大号令をかけたみたいにみんな一斉に集まって、そのまっすぐな列は次第に長く伸びていく。まだ小さかった僕の目には、それが少し奇妙で、滑稽で、煩わしいことに思えた。
それから何年か経った今、僕は帰省客でごった返している下田駅構内にいる。
昨夜、帰宅してすぐに荷物をリュックに詰めた。夏芽があの作品に隠したメッセージを読み解くには、約束の場所に行くしかないと思ったのだった。
スマホで時間を確認する。午後1時半。
ふと、スミさんから、一件のメールが届いていることに気が付く。「朝霧先生から」というタイトルで、何か文書が添付されている。
おそらく講評の件だろう。僕はファイルを開封せずに、急いで駅前のレンタサイクル店に向かった。
店で自転車を借りると、まずは夏芽と通った小学校まで行くことにした。
ペダルをこぐたびに、見慣れていた景色が視界に入ってくる。真っ青な海と小さな島が、懐かしかった。
――この町は、何も変わらない。
二羽の白いかもめが、旋回しながら頭上を飛んでいく。その光景に、心が次第に晴れやかになっていくのがわかった。不思議と、夏芽に会えることへの期待があふれ始めていた。
傾斜の緩い下り坂を、スピードを上げて走った。小学校の校門が見えてきたところで僕は自転車を降りて、自転車を押して歩いた。
夏芽と肩を並べて歩いた記憶が蘇る。校門をくぐると、白い二階建ての校舎が見えてきた。
校舎の見える風景は、五年前と変わらないままだったが、広いと思っていたグラウンドは、狭く感じられた。
鉄棒や登り棒などの遊具も、少し色が剥がれ落ちてしまっていたが、以前と同じ場所にあったことが嬉しかった。
僕は、グラウンドのそばにある鉄棒のところまで行くと、えいやっと声を上げて、何回か逆上がりをした。夏芽が逆上がりをすることが出来なくて、出来るようになるまで手伝ったのを思い出したからだった。
「あの夏芽にも、一人で出来ないことがあったんだよなぁ」
成績優秀で、運動神経もよかったのに、と、僕は鉄棒にぶら下がりながら独り言を言った。
そして、あの頃と少しばかり景色が違うことにふと気が付いて、あたりを見回した。
鉄棒のそばには、大きな銀杏の木があったはずだった。夏は青々とした葉で木陰を作り、秋は美しい黄色の葉が僕たちの目を楽しませてくれた。
僕は、少し残念な気持ちで空を仰いだ。古い木だったから倒れてしまったか、切り倒されてしまったのだろう。
振りかえると、鉄棒の後ろに切り株が残っているのが見えた。切り株から伸びた緑の新芽が、僕に挨拶をしているみたいに風に揺れていた。
「夏芽、ここにいるの」
彼女がすぐそばにいる気がして、僕は彼女の名を呼んだ。しかし、辺りに響くのはジリジリというアブラゼミの鳴き声だけで、どこからも返事はかえってこなかった。
鉄棒から離れ、校舎の辺りを散策してみた。窓から見える教室は薄暗く、ひんやりとした印象だった。
夏休みの学校は静かすぎて、まるで映画のセットのようだった。
そして、ここは確かに自分が過ごした母校なのに、本物だという実感は湧かないのだった。
ここに今あるものは、昔あったものとまったく同じではない。手を加えられたり、あるいは寂れたりして、少しずつ違うものへと変化していく。変わらないものなんて、どこにもない――。
夏芽について何か分かるかもしれないと思ってここに来たのに、そのことに気づいたとたん、僕は急に暗澹とした気持ちになった。
夏芽と約束したのは、下田で一緒に海を見ることだった。しかし、この町から海を見る場所は山ほどある。
夏芽に近づける場所は何処なのか、考えてみたがよく分からなかった。しかし、このまま途方に暮れていても、埒があかない。
「‥‥‥何やってる。まだあそこに行ってないじゃないか」
自分を励ますようにそう呟くと、僕は来た道を引き返し、ペダルを踏んで坂道を登り始めた。目指したのは、夏芽のお墓だった。
上京する前に、何度かお参りに行ったことがある。夏芽の家のそばにある大きなお寺の敷地内に、その墓地はあった。海の見える高台の上にあり、ここからはそう遠くない。
「待っていてくれ、夏芽」
 風を切って、前に進む。息が上がる。苦しい。しかし、僕はこぐことを止めなかった。汗が、滝のようにからだを流れていく。
「今日は、きみに会いにきたんだ。必ず、探し出す」
体じゅうの水分を奪われていくのを感じながら、ただ、前へ、前へと進んだ。
しばらくすると、古びた寺の門が見えてきた。
僕は寺の近くの店で菊の花を買うと、自転車を停めて寺の門をくぐった。
お盆が近づいてきていることもあって、墓地の中にはお参りをする人々がちらほら見られた。
灯篭や沢山の花を見て、この周辺に住むたくさんの人たちがご先祖の霊を迎える準備をしているのが分かった。
僕はバケツを借りて、水を汲んだ。そして、夏芽の墓の墓石を綺麗に拭き掃除すると、買ってきた花も丁寧に活け
「夏芽‥‥‥。本当にごめん」
僕は墓の前で目を閉じ、ゆっくりと話した。
「約束する。これからは、自分が何をしたいのか、もっと自分に耳を傾けてみるよ。自分の人生を、自分の意思で進んでいくために」
目を開き、墓石を見上げる。辺りはひっそりとして、期待した夏芽からの返事はなかった。
しかし、ふいに、僕の背後から長い影が伸びた。僕は慌てて立ち上がると、すぐに後ろを振り返った。
そこに立っていたのは、白髪の老人だった。手にはバケツと、花束を抱えている。
彼は僕の顔を見て驚いていた様子だったが、すぐに「理人くんか」、と言って笑った。いつもの、朗らかな調子だった。
「夏芽に会いに来てくれたんだね、ありがとう」
「白川さん…‥‥」
 僕の目の前に立っていたのは、夏芽のおじいさんだった。
「びっくりしたよ、久しぶりだねえ。大きくなったなあ!」
「はい‥‥‥、長い間ご無沙汰しています」
「帰省していたんだね。連絡してくれたらよかったのに。あとでうちに寄っていきなさい」
「は‥‥‥はい、いいんですか」
「もちろん」
白川さんはそう言って、花束の花をバケツの水の中に漬けた。そして、墓石を見て、僕の方を振り返った。
「綺麗に、掃除してくれたんだね。ありがとうね」
僕の差した白い菊の横に、自分の持ってきた花を飾りながら言う。
「たくさんの花に囲まれて、夏芽も喜んでいるだろうなぁ」
白川さんは線香に火をつけると、静かに手を合わせた。ぶつぶつと、何か小声で言っている。
僕も、ふたたび手を合わせた。

墓参りを終えると、白川さんのお宅に招かれることになった。
家に帰るまでのあいだ、白川さんは夏芽が亡くなってからの三年のあいだに、身の回りに起こったことを話してくれた。
夏芽のお父さんとお母さんは、横浜の元の家に戻ってしまったこと。夏のあいだは八ヶ岳の避暑地で執筆するのだけれど、お盆の間は家に帰ってきていること。猫のメグが、今は自由に外を出歩いていること。
僕は、自転車を押しながら、ふと思った。白川さんは、僕の小説のことを知っているだろうか、と。
白川さんのような大物作家が、新人賞をチェックすることはないだろう。——そう思っていたのだが、僕は自宅に着いてから、リビングのテーブルに置いてあったものを見て驚いた。それは、「言わずもがな いと恋し」の単行本だった。読みかけなのか、栞がはさんである。
「まあ、好きなところにかけて。今、お茶を用意するから」
「ありがとうございます」
緊張した面持ちでテーブルのそばに置かれた大きなソファに腰かけると、白川さんも隣に座った。薄緑色の冷茶の入ったグラスが、目の前に置かれる。僕はお礼を言ってお茶を飲みながら、テーブルの上にある本を見た。
そして思った。この小説を、彼はどこまで読んで、どう感じただろう、と。
「ところで」
 テーブルの上の本を手に取って、白川さんが言った。
「驚いたよ、理人くん。遅くなったけど、受賞おめでとう。ちょうど、きみに手紙を書こうと思っていたんだ。でも、作品をすべて読んでからにしたほうがいいと思ってね」
「…‥‥そうだったんですか。ありがとうございます」
「この本の表紙の仕掛けも、実に面白いね。気に入ったよ」
そう言って、白川さんは、自分の鼻を本に近づけた。
「もちろん、内容も面白いよ。きみが書いたものは、みずみずしくて、純粋で、どこか懐かしい感じがした。若いころに抱いた、秘めた恋心というものを思い出させてくれた」
——懐かしい感じ。その言葉は正しく言えば、あなたが与えたものなのです。
僕は、心の中でそう言って、キャビネットに飾られた数々のトロフィーに視線を移した。ここで作家になることを夢見ていた少女は、夢を現実のものにしたのだった。
僕は、意を決して白川さんの目を見た。叶葉に話したときと同じように、あらすじは夏芽が考えた、と白川さんに話そう、と。夏芽のつくった物語が世に出たということを伝えて、彼以上に喜んでくれる相手はほかにいないはずだ。
しかし、その気持ちが僕を衝き動かす前に、白川さんは僕をまっすぐに見据えて言った。静寂の中に、優しい声が響いた。
「理人くん‥‥‥不躾な質問だけれど」
「はい」
「これは、本当にきみが書いたのかい?」
「‥‥‥!」
 僕は、どうして、とすぐさま訊き返した。白川さんは、何も言わなかった。何も言わないかわりにただ微笑んで、本を開いた。
ここにも、あそこにも、書いてある、と言うように、彼は「なにか」を指で示した。それは、夏芽と彼の間にだけある、暗号みたいなもののように僕には感じられた。
「白川さん、どういう意味ですか」
「画家に特徴的な筆致があるのと同じように、作家にも文体や、言い回しなど、様々な特徴がある。私は、この作品を読んで涙が止まらなかった。夏芽に再び会えた気がした。だから、そのことを、きみに訊きたいと思っていた」
「そのこと、とは?」
「これを、どうやって書いたかということを」
 白川さんが本を閉じ、そっと差し出したので、僕はその本を受け取った。白川さんの口ぶりでは、僕が書いたと信じてくれてはいるのだろう。しかし、僕はどう話したらいいのかわからなくて、白川さんを直視することが出来なかった。
言葉もなく俯いた僕に、白川さんは、「話したくなければ、いいんだよ」と言った。いつも通りの、優しい口調だった。
この人には、もう嘘をつけない。僕は、白川さんを見つめ返した。本を受け取った手が、知らず知らずのうちに震えているのが分かった。犯人が自白に追い込まれるときのように、真実を隠し通そうとしても無駄だと気付く瞬間が、僕の中に訪れていた。
「——すみません。僕はもう、これ以上嘘をつくのは無理みたいです」
「‥‥‥理人くん?」
「おっしゃる通り、その小説の本当の作者は、夏芽です。正確に言えば‥‥‥、僕は、夏芽が話すことをパソコンにそのまま入力して、賞に応募しただけの人間です。でも、誤解を招かないようにお伝えしておきます。これは、僕の利益のためにやったことではなく、夏芽の夢を叶えるためにやったことなんです」
「‥‥‥そんな、まさか。私はてっきり、きみが夏芽の文体をどうにか真似て書いたのだと思っていたんだ」
 その言葉に、僕は首を弱々しく振った。そして言った。僕はそんな真似ができるほど、器用ではありません、と。
「でも、どうやって‥‥‥。夏芽は、もうこの世にはいないのに」
「信じられないかもしれませんが」
 僕は、単刀直入に説明した。
「去年の冬、夏芽が僕の部屋に現れて‥‥‥、つまり、あの世から戻って来ました。そして、たった一か月で、この作品を完成させました」
白川さんは、信じられない、といった顔をしてソファに深く腰掛けた。
そして、気持ちを落ち着かせるために、グラスに入ったお茶を一口飲んだ。僕の伝えたかったことが理解しがたいものであったことは、火を見るより明らかだった。僕の言葉に、ひどく動揺しているのが分かった。
そのとき、柱に掛けられていた時計が五時を指し、ゴーン、とゆっくり五回鳴った。
白川さんは、時計の音が鳴り終わると、僕のほうをまっすぐに見据えて言った。その瞳には、うっすらと涙がにじんでいた。
「それがもし本当なら‥‥‥、教えてほしい。夏芽がなぜこれをきみに書かせたかを」
「それは、まだ、わかりません。でも、本当に信じてくれるんですか。僕の話」
「もちろん。幼馴染のきみになら、起こりうる話かもしれない。それに、これはやっぱり夏芽が書いたものに間違いないと思うから」
「でも…‥‥、やっぱり不思議です。どうして、死んでしまった夏芽が僕の前に現れて、これを書かせたと信じられるんですか。僕は、このことをずっと黙っていました。言ったところで、頭がいかれていると思われるだけだと思ったから」
そう言った瞬間、僕の背中に、優しい温もりが感じられた。白川さんは僕の背中を、手のひらでポンポン、と叩くと、「大変だったね」と言った。誰にも理解されないことを抱えるのは、とてもつらいことだ、とも。
「理人くん、実を言うとね。これを読んでいて、三年前の夏のことを思い出したんだよ」
「え‥‥‥?」
「生前、夏芽は、書いたものはすべて私に添削を受けるために持って来ていた。血のつながりはあるけれど、彼女は、作品と向き合うときだけは、私のことを先生と呼んでいたんだ」
「‥‥‥はい」
「けれど、この小説は、一度も読んだことはなかった。夏芽が文化祭のために書いた脚本に、プロットに二つ候補があって、そのうちの一つにこの小説によく似た恋愛物語があったのは覚えている。でも、そのときは二つのプロットを比較して『女神の勝利』のほうを私が選んだ。あの話のほうがどちらかというとコミカルで、文化祭で盛り上がると思ったからね」
「そうです。その通りです」
「だから、この「言わずもがな」は、プロットを書いただけでお蔵入りになったはずなんだ。夏芽は、夏休みにこの小説を書こうとしていたが、病気が悪化して書けなかった」
「‥‥‥だから、戻って来たんでしょうか」
「それは、夏芽に訊いてみなければ、分からないだろうなぁ」
 白川さんはそう言って、窓際に飾った夏芽の写真を見つめた。そして、「夏芽は、今どうしてるんだい」と訊いた。
「‥‥‥いなくなってしまいました」
「いなくなった?どうして」
「それは‥‥‥」
そのとき、背後からコロコロ、と小さく鈴の音がした。リビングに設置された小さな扉から、三毛猫のメグが帰ってきたようだった。しっぽを立てて白川さんの足元にまとわりつくと、餌を求めてミャアと鳴いた。
「おっと、おやつの時間だね。メグはいつも腹を空かせては帰って来て、ほんとにいい気なもんだ」
「わあ、大きくなりましたね、メグ」
「うん、きみと夏芽が拾ってきてから、もう何年経つかな」
「あれは、確か十歳の時でしたから、もう七年か、早いですね」
 白川さんがキャットフードの袋を持ってくると、僕は、ひとついいですか、と言って手のひらにキャットフードを載せてもらった。餌を差し出すと、メグは手から舌でうまく取って食べた。ああ、この感覚、と僕は懐かしく思った。猫の舌はザラザラとして、少しくすぐったい。
「そういえば‥‥‥、木の上に登って降りられなくなった子猫のメグを助けたとき‥‥‥、夏芽は泣いちゃったんですよね」
「‥‥‥どうして?」
「理由までは分かりません。でも、私たちの家族だね、って、そう言いました。母親を失くした子猫がかわいそうで、でも、出会えたことが嬉しくて……、両方の感情が入り混じっているように感じました」
「‥‥‥そうか。小さな夏芽にも、母性っていうものがあったのかもしれないね」
「はい」
「夏芽も、生きていれば今はもう高校生で、あと十年もすればお母さんになって、子供を産み育てていたかもしれない。私も、そんな想像をすることがあるよ。私も老い先短い人生だけれど、夏芽と一緒の時間を生きられたら、ってね」
「そうですね‥‥‥」
 僕は、メグを撫でながら思った。一緒に生きられたとしても、夏芽だけ年を取れないのは残酷だ。幽霊の夏芽はこの世にいても、大人にはなれない。他のみんなが老いても、ずっと彼女だけ十四歳のままなのだ、と。
「夏芽がいなくなった訳は、はっきりはしませんが‥‥‥」
 僕は、ソファにふたたび腰かけると、白川さんに今まで起こったことをすべて話した。次の小説は、僕自身の力で書くべきだと夏芽に言われたこと。僕がいつも他人を優先し、自分のための人生を生きていない、と憂いていたこと。そして、夏祭りの日に口論になり、急に消えてしまったこと――。
白川さんは僕の話を聞くと、しばらくの間目を閉じた。柱時計のカチカチという音だけが、部屋の中を響いていた。そして、何かひらめいたのか、ゆっくり目を開けると、「見えてきた」と呟いた。どこか、確信をもった口調だった。
「おそらくあの小説の中に、ヒントはある」
「どういうことですか」
「今読んでいる作品は、以前のプロットとは違う筋書きになっていた。美月は恋に落ちると現世に戻されてしまうという設定。きっと、そうしたのは意図的だ。きみが何かに気づくように作られている」
 白川さんはそう言うと、読みかけの小説を手に取った。
「‥‥‥実は、僕も友達から最初の設定と違う、と聞かされて、ひょっとしたら、とは思っていました。それで、伊豆に来ました。何か手掛かりでも見つかれば、と思って」
「そうだったんだね」
「でも、白川さんはどうして自信をもって、意図的だ、なんて言えるんですか」
「夏芽はそういう子なんだよ。小説でしか、自分をうまく表現できない。ところで、他にこの作品を読んで、何か言っていた人はいないかね。私はまだ全て読んでいないから、これを今から全部読むよ」
「ほかに、と言えば、朝霧まどか先生が講評を書いてくださったくらいで‥‥‥、そのほかに詳しい感想を言ってくれたひとは、担当編集者くらいです」
そのとき、僕はスミさんからのメールを思い出した。「朝霧先生から」というタイトルのメールを、僕はまだ開けていない。
小説を読み始めた白川さんの横で、僕はポケットからスマホを取り出した。そして、スミさんから届いたメールを開き、メッセージを読んだ。
『朝霧先生から講評、いただきました。文芸誌は来週発売なので、どうぞお楽しみに。それから、こないだはお酒が進み過ぎて、あまり理人くんに作品の感想言ってあげられなかったからって、お手紙送ってくれましたよ』
添付されたファイルを開く。僕はごくりと唾を飲み込んで、画面をスクロールした。先生なら、何かヒントを与えてくれるかもしれない――そう願いながら。

 
清郷理人様

理人先生、この間は楽しい時間をありがとう。
書評の原稿では書き切れなかったこともあるので、あなたに具体的な感想をお伝えしたくて、今日は筆をとりました。
私が感じたことを、何点かに分けてお伝えするわね。

◇主人公美月について
美月は才女であるにも関わらず、現世では地味で目立たない、ただの古典オタクとして扱われた。けれど、違う時代に移動して、その能力を生かして大活躍する。この急展開がとても面白いし、魅力的だと思いました。

◇美月のお相手の源光について
このキャラクターも、うまく造形されていると思いました。源光は、宮廷の官職の従者で、その美しさから屋敷内では「光る君」というニックネームを付けられる。しかし、源光は美少年ではあるけれど、貴族ではなく身分の低いお仕えの身。十分な教育を受けていないので、求愛の歌を詠むことさえできない上、シャイで不器用だった。また、恋多き光源氏とは対照的に、一人の女性に一途なタイプ――その落差に、読者はぐっと惹きつけられたと思います。

◇ストーリーや設定について
源光は、才のない自分を嘆き、美月に「光る君」という呼称が苦痛であることを相談する。そして、そこから、二人の距離は急接近する。お互いに、それぞれの時代で輝けないことへの苦悩をもっていたから、共感できた。気持ちが接近するときには、必ず「親近感」というものが湧くものです。少しずつ距離を縮めていく二人が素敵でした。
「太陽がなければ、月は真っ暗な夜空に漂うだけの、悲しい存在なのです」
美月が源光に何気なく言ったこの言葉――この台詞が私は大好きです。美月は自分のことを「月」に、そして大好きな源光のことを「太陽」に喩えることで、彼に恋心を仄めかしたのですよね。内向的だった美月が少しずつ変化していく様子が、そこはかとない情緒とともに伝わってきました。
またいっぽうで、源光も美月にアドバイスをもらいながら成長していきました。彼は美月の教えで和歌を詠めるようになり、そして最後には、美月に和歌をしたためて勇気を出して求愛する。
美月と源光は、距離を縮めるたびに理想の自分に近づいていった。本当に素敵なひとこまだったわ。恋愛って、お互いを高めあえる存在をもつことでもあるものね。
それから、最終章について。先日少しお話したかもしれませんが、古典に詳しくないと、理解するのが少し難しいかもしれない、と思ったところがひとつありました。
あなたは作中で、「言わずもがな いと恋し」という台詞を美月に二度言わせましたね。
一度目は、源光が美月に和歌を送り、美月に恋心をほのめかした後の場面。美月は源光に「言わずもがな、いと恋しと」と手紙で伝える。古語での「言わずもがな」は現代語のそれとは意味が異なっていて、「愛してるなんて、言わないでもらいたい」という、『願望』をあらわしています。美月は自分の心をひた隠しにしてまで、源光の傍にいたかったからそう伝えたんですね。
そして、二度目の「言わずもがな」は、美月が源光に告白して、現世に連れ戻されてしまった後の場面。千年後の現代、紫式部の屋敷跡から源光の書いた和歌が発掘され、「源氏物語」に関わる歴史的資料ではないかと大きなニュースになる。この句は、解りやすいものではあったけれど、現代語に訳すとこんな感じかしら?
「夕顔がしぼむ朝に、美しい月が白んで、その光は消えてしまった。あなたの気持ちがわからない」という嘆きの句。
それを見た美月が、その句が自分に宛てられた歌だと気づき、「言わずもがな、いと恋し」ともう一度言うところは、秀逸でした。
現代語の意味は、「言うまでもなく、あなたを愛している」—―古語とは意味が違うワードを利用して、感動を生んだところは、心が震えました。
実を言うと、私は最初、古語にあまり詳しくない読者のためにも、二つの意味の説明を加えてもよいのでは、と思っていたの。
でも、最後まで読み終わったときに、気持ちは変わった。あなたは美月の心情を説明するのではなく、しめやかな情緒として、心で感じさせてくれた。源氏物語が「もののあはれ」を体現した作品であることへのオマージュでもある気がしました。
あなたの書いたものが、千年先の世界でも読み続けられていることを、私は渇望しています。

                                             朝霧 まどか
                                                              
まどか先生からの手紙のファイルを閉じると、僕はスマホをポケットにそっとしまった。窓から部屋に差し込む陽の光が、少しずつ赤みを帯びてきたのがわかった。窓の外では、ひぐらしが鳴き始めていた。
 僕は、振り返って白川さんを見た。白川さんは、ときおり切なそうな表情を浮かべながら、小説を読み続けていた。僕は、彼と夏芽の「対話の時間」を邪魔しないように、しずかに目を閉じた。そして、まどか先生がくれた講評について考えた。
「言わずもがな」に二つの意味があったことは、まどか先生からの手紙を読むまでは知らなかった。しかし、美月が源光に、「愛していると言われたら、現世に帰らなければならなくなるから、その言葉は言わないでほしい」と思っていたことは、心情描写から理解はできていたつもりだ。しかし、その「言わずもがな」という語に何か重要なサインがあるとしたら――。
古語と現代語では意味が違うと説明しなかったことに、なにか意図があるような気がした。夏芽ほどの人間が、古語の意味を作中で説明しないのには違和感が残るのだった。
彼女は、「読者にうまく伝わらなければ、いい作品とは言えない」と言っていた。「俯瞰して作品を見つめることが大切だ」とも。
――もしかして、「もののあはれのオマージュ」でも何でもないのではないか?夏芽があえて、この作品には「綻び」があるとわかるように、僕に示したものだとしたら?
僕は思い立って、腰を上げた。
「すみません、お手洗いをお借りします」
白川さんは僕を一瞥すると、どうぞ、と言うように片手を上げた。僕はリビングを出て、トイレに行くふりをして、一階の奥の部屋を目指した。そこは、夏芽の部屋だった。ドアノブに手をかけると、ひんやりとした感触が手に伝わった。
夏芽の両親が引っ越ししてしまった今、この先には、もう夏芽の部屋はないのかもしれない、と僕は思った。小学校を訪れたときの落胆が、ふたたび僕を襲うことになるかもしれなかった。しかし、僕は意を決してドアノブを回した。直感的に、そこに何かが待ち受けている気がしたのだった。
ギイ、という鈍い音がして、そのドアはすぐに開いた。西向きのその部屋は、カーテンが引かれていて薄暗く、最初は何も見えなかった。埃の匂いと、蒸し暑い空気が立ち込めるその部屋に、僕は思わず目を細めた。
思わず、あ、と声が漏れた。瞬時に、夢の中の記憶とその光景は結び付いた。
ピンク色のカーテン、夏芽の使っていた学習机、赤いランドセル、そして大きな書棚――すべてのものが何一つ変わらない状態で目の前にあった。
僕はそのまま、部屋の電気をつけずにゆっくりと書棚の前に行った。目を凝らして見ると、そこには夏芽の好きだった数々の名作がびっしりと並んでいた。僕は、彼女の古い友達に再会したような気持ちになって、その書棚に並ぶ本の背表紙ひとつひとつに優しく指で触れた。「風と共に去りぬ」、「舞姫」、「坊ちゃん」、「星の王子様」――。
僕の瞳の奥に、夏芽の姿が浮かんだ。書棚の前のソファに腰かけて、じっと本から目を離さない夏芽。
本を読んでいるときだけは主人公になって、世界じゅうを冒険したり、恋をしたりすることができると言った夏芽。
体が弱く、遠くに行けない彼女は、これらの本を読むことをよすがに生きていたのだった。夕日の差し込むこの部屋で、本に視線を落としている夏芽の頬に、長いまつ毛の陰影が落ちた。僕は、瞬きのたびに揺れるその影を見つめるのが好きだった。その影が揺れるたびに、彼女の瞳の中で色鮮やかな世界が繰り広げられているのを想像した。そして、彼女が見ている世界を、僕も一緒に覗くことができたらと願ったのだった。
ふたたび書棚の前に置かれたソファに視線をやると、二人の子供たちが肩を並べて会話をしているのが薄闇の中に見えた。
彼らは僕がいることに気づきもせず、楽しそうに話を続けた。
「どうしたの?理人。あたしの顔に何かついてる?」
「ううん。ただ、見ていただけ。読書は一人でするものでしょ?だから、夏芽が本を読んでいるあいだ、どんな気持ちでいるのか、覗いてみたい気分になるんだ。夏芽が楽しそうなところ、悪いんだけど‥‥‥」
「どうしたの?急に黙っちゃって」
「いや……なんか、夏芽がお話に夢中だと、独りぼっちになった気分になるんだ」
少年は照れ臭そうに、うつむいている。
「あはは。理人って、寂しんぼね。じゃあ、こうしない?あたしと、理人が交代で小説を書くの。交換日記みたいな感じで。そうすれば同じ世界を見ていられるし、お互いが考えたことを、キャッチボールするみたいに語りあえるじゃない」
「それは、面白そうだな。じゃあ、やってみよう。でも面白いお話、僕に書けるかなあ?」
「だいじょうぶってば。まずは、楽しんでやろう。そんで、完結させられなくてもオッケーにしよう。小説には、どうして終わりなのか、よくわからないお話もあるから。どっちが面白いものを書くかを競うんじゃなくて、二人で一緒に力をあわせて、素敵なお話を作れたらいいんじゃないかな」
「うん、何だか楽しみだな。」
「うふふ。いつか本当に、二人で本を出版できたらいいね」
「僕と夏芽が?それは、夢みたいな話だね」
「交換ノートは、おうちの人に見られないように、ここにしまっておくね」
少女はそう言って、書棚の下段の端にある黒く分厚い背表紙の本の中にノートを挟んだ。黒い背表紙の本には、題名は書かれていなかった。しかし、実際にそれはただの洋書のオブジェで、中を開くと箱になっている仕掛けなのだった。
――そうだ‥‥‥、あのノートはあそこに。
僕は、この部屋で起きた「できごと」を傍観している自分に気づき、咄嗟にふーっ、と息を吐いた。吐かなければ、どこかほかの世界に連れていかれそうだった。すっかり脳内から消えてしまっていた過去の記憶は、この部屋の空気を吸うことで甦り、僕の中に突如戻って来たのだった。
すぐさま書棚の下段に目線を移した。一目見て、それと分かった。その段の端に、その黒い背表紙の箱はあった。
僕は手を伸ばし、箱を開けようとした。そのとき、部屋がぱっと急に明るくなった。
「理人くん」と背後から声をかけられ、僕は振り向いた。なかなか戻って来ない僕を気に掛けたのか、白川さんが様子を見に来たようだった。
「どうしたんだい。何か、思い出せそうなのかい?」
 勝手に部屋に入り込んだ僕を、咎めるふうもなく、白川さんは言った。
「すみません。勝手にここを開けてしまって。夏芽の部屋だったって思い出して‥‥‥つい」
 白川さんは、いいんだよ、と言って、優しい声で続けた。
「私も、あとでこの部屋をきみに見せてあげようと思っていたんだ。娘は‥‥‥、夏芽の母親は、夏芽が死んでしまったことをひどく悲しんでね。この部屋だけは、そのままにしてほしいと言って、片付けられなかったんだ」
「そうだったんですか」
「夏芽の両親が横浜に移ったのは、娘の心が病んでしまったせいでね。夏芽が亡くなってからは、この部屋に入って、ずっと泣いていたんだよ。それを見かねた彼女の夫が、思い切って元居た場所に引っ越しをしたというわけなんだ。娘の気持ちを思うと、この部屋はどうしても片付けられなくてね‥‥。久しぶりに開けたから、少し埃っぽいだろう」
白川さんは、空気を入れ替えるために締め切ったカーテンを開け、窓も開放した。夕暮れ時特有の熱でこもった風が入り込んできて、レースのカーテンがゆらゆらとはためいた。
白川さんは、僕が手にしようとしていた黒い箱を指さすと、「その箱に、何かあるのかい?」と訊ねた。僕は頷いて、その箱にそっと触れた。
「それは‥‥‥。たしか、わたしがロンドンからお土産に買ってきたものだ。何が入っているのかまでは確認していないけれど」
 僕は、その箱を机の上に置いて、ゆっくりと開いた。箱には、見覚えのあるツバメノートが出てきた。「N&L」と、表紙に青いペンで書いてある。夏芽と理人のイニシャルを示しているそのノートは、言葉を換えれば、僕たちの秘密基地だった。
「あった…‥‥」
「それは?」
「僕と夏芽の、交換ノートです。一人が小説を書いたら、もう一人がそれに続く小説を書くという形で、夏芽と交換していました」
「交換日記ならぬ、交換小説か‥‥‥。それは、どんなお話だったんだい?」
「とりたてて意味のない話だった気がします。はっきりは覚えていません。情けない話ですが、僕にとってこれは大切な記憶のはずなのに、時間が経つたびに、おぼろげになってしまって。すべてを記憶に留めておくことは難しいものですね」
すると、白川さんは大きな笑い声を立てて、僕に言った。
「まだ若いのに、きみも物忘れが激しいんだね。私くらいの年齢になると、そんなことはしょっちゅうだ。テレビを見て大笑いしても、次の日には何について笑ってしまったのか、分からなくなることだってあるんだよ」
僕は笑っていいものか迷ったが、夏芽が白川さんを大好きだった理由が分かった気がした。そして、夏芽がこの朗らかな気質を受け継いでいるのだとわかったとき、僕の顔は自然と笑顔になっていた。
「夏芽は白川さんのことが大好きだ、って言ってました。明るくて、面白くて、って」
「そうかい。でも、それは、きみについても同じだと思うよ」
「…‥‥え?」
「夏芽は、きみのことが大好きだったよ。きみが想像しているよりも、ずっとね」
「‥‥‥そうなんですか。でも、今はきっと違うと思います」
「どうしてそう思うんだい?」
僕は、夏祭りの日の口論のことを、詳しく白川さんに話した。僕がいつも誰かの言いなりで、自分の人生を生きていない、と激しく責めた夏芽。そのときの彼女の気持ちを、白川さんなら理解してくれるかもしれない、と思ったのだった。
「僕は‥‥‥、うまく自己主張できなくて。昔っから、日影の存在なんです。夏芽は、向日葵みたいに明るくて、才能だけじゃなく、行動力もあって。それに比べ、僕なんて‥‥‥」
すると、白川さんは「そんなことはない」と遮った。
「夏芽がきみにどれだけ救われたことか」
「え……?」
「あの子は、体が言うことを聞かないときは、半ばやけっぱちになって、よく泣いたりわめいたりしていたんだ。そんな夏芽が学校に行ったり、楽しく遊んだりできたのは、きみがいつも見守ってくれていたからだ」
「‥‥‥夏芽が、やけっぱちに‥‥‥」
思いもよらない言葉に、僕はそのときようやく気づいた――夏芽は、人知れず苦しんでいたのだ、と。
「それに、きみは日影の存在なんかじゃない」
白川さんは、そのノートの表紙を僕に見せて言った。
「君は、いつだって夏芽の光だった」
「光‥‥‥?」
「そう、光。暖かくて、優しくて、夏芽の陽だまりだった」
 そして、白川さんは、夏芽の書いたイニシャルの筆跡を、愛おしそうになぞった。
「理人くん…‥‥、あの小説とこのノートを見て、私は夏芽の気持ちがわかったんだよ」
白川さんの指は、「N&L」の「L」の文字を指している。釈然としない僕に、白川さんは、そのノートを手渡しながら言った。
「生前、きみの名前について夏芽が話していたのを思い出したんだ。ユダヤのイディッシュ語では、「リヒト」には光という意味があるらしい。夏芽は、そのときに言ったんだ。理人は、自分が周囲に与えている光に、まだ気づいていない、って」
「どういうことですか?」
「きみは、あの小説を代筆したんだろう? ならば、光という言葉に聞き覚えがあるはずだ」
「——‥‥‥!」
一瞬ののちに、僕の頭の中に、彼女の紡いだ物語の平安京の時代の世界が広がった。
黄昏時に文を差し出して美月に求愛した男性。
美月が恋焦がれた相手の名は、源光。――その美しさからつけられた呼称は、「光る君」。
「あれは、きみと夏芽の物語だ」
唇が、震えていた。まさか、と声が漏れた。涙が次から次へと零れて、その雫はぽたぽたとノートの表紙に落ちた。
彼女の気持ちに、もっと早く気づいていれば。後悔が、嗚咽とともに喉元からこみ上げてくる。
「好き」というたった二文字の言葉をどうして僕は彼女に早く伝えられなかったのだろう。お葬式で棺の中にいる夏芽の顔を見たときもそうだった。大好きだと言えばよかったと、帰り道にあれだけ後悔したのに。
「僕、分かっていたはずなんです。自分の気持ち。なのに、夏芽にずっと伝えられなかった」
夕暮れの時間が訪れたことを、僕は肌で感じていた。いつのまにか風は止み、窓から差し込む斜陽が、涙で濡れた僕の頬を赤く照らしていた。白川さんは、泣きはらした目をした僕に、「大丈夫」とだけ言って窓を閉めた。
「理人くん‥‥‥。今日はそれが分かっただけで、十分なんじゃないかな」
「‥‥‥そうでしょうか?」
「うん。きみは、自分と向き合う旅をしたんだ。夏芽も、きっと、わかってくれる」
 白川さんは、にっこりとほほ笑むと、ポケットから携帯電話を取り出して言った。
「今日は、鰻を一緒に食べよう。夏芽の大好物だから、仏前に供えようと思って、出前を取ることにしていたんだ。良かったら、食べて行きなさい」
 白川さんは、そう言って、電話をしに表に出て行ってしまった。僕は、ありがとうございます、とお礼を言うと、抱きしめていたノートを見つめた。夏芽の書いた、丸っこいイニシャルの文字が、涙でぼんやりと滲んでいた。
僕は、落ち着きを取り戻すために、数回呼吸をして、ノートの表紙をそっとめくった。ノートの最初のページには、『二〇一七年五月六日スタート』とある。七年前。十歳になったばかりの頃のことだ――この文字の感じ、懐かしい。小学校時代の夏芽に再会できたような気分で、僕は読み進めた。

『今日は記念すべき日。理人とあたしが、交かんノートを始める日。さてさて、どんなぼうけんが始まるでしょうか~? パチパチパチ・・・☆。
 ここは、銀河系海王星二十三番地。地球から一番遠く寒いこの地から、SOSを発信しています。エイリアンがおそってきました。だれかいませんか?応答、どうぞ。   なつめ』                                        

——ああ、こんな書き出しだったのか。ちょうど僕らが十歳になる年に始まった物語だ。
夏芽の文の下には、可愛らしいエイリアンのイラストがある。次の文に目線を移すと、今度は僕の文字があった。

『こちら、銀河系水星六番地。エイリアン?それは大変。きんきゅうで向かいます。おっと、大変。あばれん坊のいて座のケンタウロスくんが、じゃましてきます。遠回りしていきますので、時間がかかりそうです。     りひと』    

 そこから、数十ページに渡って、二人の物語はますますへんてこな展開になっていく。よくもまあ、こんな面白おかしい話が書けたものだ。子供のころの想像力は、果てしなく広がる宇宙のようだ。
しばらくして、リビングから白川さんの声がした。
「理人くん、ちょっと来てくれないか」
 はい、と返事をしてリビングに行くと、テーブルに白い発砲スチロールの箱が置かれているのが見えた。
「さっき、市場に勤めてる友達が持ってきてくれたんだ。どうだい、これ。すごいだろう」
 箱の中を覗き込むと、そこには氷が敷き詰められていて、その上に、大きな金目鯛が一匹入っていた。
「ラッキーだね、理人くん。何がいいかな?煮つけかな?それとも、刺身?」
 白川さんが、目を細めて優しく僕を見つめる。元気づけようとしてくれているのがわかって、僕は胸が熱くなる。
「うわあ……。すごい。刺身がいいです。僕も、お手伝いします」

 白川さんとの夕飯は、最高だった。金目の刺身に、鰻重、そして色とりどりの夏野菜のサラダ。久しぶりの地元の食材を使ったご馳走に、僕はすっかり満足していた。
「そういえば、実家には、戻らなくていいのかね。もし、お母さんが夕飯を用意してくれていたら悪かったかなと、今になって気が付いたんだが」
夕飯を食べ終えた頃、少し心配そうな表情で、白川さんが訊いた。
「ああ、それなら大丈夫です。実を言うと、両親には連絡していなくて」
「そうか‥‥‥、ひょっとして訳ありだったかな。泊まって行く場所はあるのかい?」
「ご心配なく、大丈夫です」
「もし、何も予定がないなら、もう少しゆっくりしていくといいよ」
「はい、ありがとうございます」
それから、白川さんとお茶を飲みながら夏芽の話をした。夏芽の写真や、夏芽が生前書いた原稿も見せてもらった。
僕は、窓辺に置かれた夏芽の遺影を見つめた。白川さんにとって、夏芽はたった一人の孫娘だった。もうすぐ三回忌がくる。今日僕がいきなり訪ねてきても、温かく受け入れてくれたのは、夏芽を一緒に思い出して、語りあえる相手が欲しかったからかもしれない。
夜も更けてきたころ、白川さんは言った。
「ところで、夏芽との交換ノートは、最後まで読んでみたかい?」
「いえ‥‥‥、結構ページがあって。途中までです」
「私が持っていても仕方ないから、そのノートは持って帰っていいよ。それは、二人だけの思い出だろうからね」
 僕は、ソファの上に置いたままにした交換ノートを見つめた。
「はい。思い出でいっぱいでした」
 僕の言葉に、白川さんは何も言わずに頷いて、お茶を飲んだ。ノートの中身を見せてほしい、と言わないのが白川さんらしいと思った。僕は、ノートをめくってみた。しかし、夏芽を探し出す手がかりが、この膨大な量の物語の中にあるとは、とても思えないのだった。
「理人くん、私は、あの小説を読み終えて考えていたんだが‥‥‥」
「はい」
「小説どおりに、きみたちの物語が進んで行ったとしたら、終着点はどこなんだろう、とね。もしかして、あの小説の最後と、関係があるのかと‥‥‥。美月が源光に恋する気持ちを素直に告白したことから、源光と引き裂かれてしまう。これを読んでいる読者は、儚い恋だ、と感じ入るものがあるが、彼らからすればただの悲劇だ」
「確かに‥‥‥。夏芽が望んでいることとは違うような気がします」
「このラストシーンから夏芽がきみに何を望んでいるのか‥‥‥、想像できるかね?」
「‥‥‥よくわかりません。だけど、夏芽は僕が告白しようとしたとたんに消えてしまったんです。それは、あの小説で源光に伝えた、『言わずもがな』の古語の意味と同じような気がするんです。おそらく、僕が彼女に好きだと言ってはいけなかった。そこには理由があって、夏芽のいる世界のルールになにか関係があるのではないかと思うんです」
「ルール、とは?」
「たとえば、主人公美月のように、誰かに好きだと言われたら夏芽はこの世にいられなくなる、とか‥‥‥。これは、あくまで推測ですが」
「なるほど。最初のプロットから筋書を変えた意図はそこにある、ということか。自分自身を主人公に置き換えていて、小説の中に隠れたメッセージを残したかったというのなら、納得がいく」
「夏芽は、きっとまだこの世にいます。あのまんま消えてしまうなんて思えない。僕は、もう一度会いたいと思って伊豆に来たんです。彼女と約束をしていたので」
「‥‥約束?」
「はい、一緒に下田の海を見る約束をしました。最初は二作目の小説の取材のためだと言っていましたが、僕には、夏芽がただ単純に僕と海に行きたがっているようにしか思えませんでした」
 僕は、夏芽の言葉を思い出しながら言った。あのとき、夏芽はほかの場所を譲らなかった。きっと、僕と一緒に故郷の海を見たい、はっきりとした理由があるに違いない。
白川さんは、ううむ、と唸ったあと、小説を手に取った。そこには、いくつか付箋紙が貼られている。
「夏芽は作家だ。自分の思う終着点があるのかもしれないね」
「そうですね。ヒントがあればいいんですけど」
白川さんは、付箋の貼ってある場所を開くと、僕に見せながら言った。あくまで推測だが、と付け加えて。
「この中にね、夏芽らしくない、と気になった部分が二か所あった。ひょっとしたら、そこにヒントがあるかもしれない」
「その二か所って、どこですか」
「まずは、『言わずもがな』という二つの意味をもつ言葉。夏芽は作中で、古語の説明をしなかったね。わかりやすさを心掛けている夏芽にしては、粗雑だった」
「白川さんも、そう思いましたか?」
「うん。あれは、きっときみへの強いメッセージだ」
「はい。きっと、何かあります」
「あと、もうひとつは、ラストシーンだ。紫式部の邸宅跡から、古い書簡がいくつか見つかって、その中に、源光が書いた和歌が見つかるだろう?」
「はい」
「あの歌にも、解釈が書かれていなかった」
「そういえば、そうですね。朝霧先生は、あの和歌の解釈はこういう意味でしょうか、とわざわざ現代語訳を付けてくださいました」
 僕は、まどか先生からもらったメールを、白川さんに見せた。白川さんは、そのメールに目を通しながら頷いた。
「うん。この解釈でいいだろうね。これは現代語に近く分かりやすい和歌だから、編集サイドからは注釈は不要とOKが出たのだろうけど、夏芽が書いたとなると、やはり違和感が残る」
 そう言って、白川さんは、小説に挟んだメモ用紙を取り出しながら言った。
「私も、私なりに解釈を書いてみたよ」


夕顔の 隠れたりし 光なき                        朝ゆく月よ その心知らず


夕顔が(朝になり)顔を隠してしまった。
早朝に白んでしまった光のない月(美月)よ、きみの心はわからない


「『隠る』には、隠れるという意味のほかに、『死ぬ』という意味もある。『夕顔は朝に死ぬ』という最初のタイトルは、おそらくそこからつけたのだろう。また、『朝ゆく月』というのは、朝の残月のことを指すが、『ゆく』もまた、死ぬという意味のある言葉でもある。つまり、『死』を指す言葉を二つ使っている」
白川さんが、その二つの言葉の横に、「死?」とクエスチョンマークをつける。
「それが二つあるのは、何か意味があるのでしょうか」
「どうだろうね・・・・・。あとは、掛詞があるね。わかるかい?」
「光なき、のところでしょうか」
「そのとおり。ここでは、『光なき』は『朝ゆく月』にかかっている。この月は、美月のたとえであることから、美月が放っていた光が『無い』、つまりは消えてしまった、というふうに解釈できる。しかし、この光は、源光の呼称である『光』でもある。」
 白川さんはそう言って、「光なき」 を、「光泣き」、と書き換えた。
――なるほど。掛詞か。これだと、源光の悲しい気持ちにも置き換えられる‥‥‥。
「夏芽は、言葉遊びが好きな子だったんだよ。知ってのとおりね」
白川さんの言葉に、僕は交換ノートをふたたび開いた。文章のあちこちに、それが散りばめられていることがわかった。回文になっているものもあれば、二つのことばをかけて、意味を二重にしているものもある。僕は、ノートに書かれた物語を一気に読み進めた。
――きっと、ここにも何かがある。このノートに書かれたお話の最後は、いったいどんなエンディングになっているんだ?
 貪るように読んで、ノートの最終ページまで来た時だった。
「あ‥‥‥」
 僕のちいさな反応に、白川さんが目線を上げた。じっと僕を見つめる白川さんの目から見ると、それは少し奇妙で、不可解な反応に映っただろう。しかし、僕の顔は硬直したままで、色を失い、それ以上喉から言葉は出てこなかった。

『‥‥‥宇宙船リヒト号は、エイリアンをたおし、無事に水星に戻ってきたのでした。 完

 夏芽、明日は卒業式だね。今日までありがとう。交換ノート楽しかったよ。中学になっても、これまでどおり、仲良くしてね。           りひと』  
                              
 そうだ。この最後の文で、このノートは終わったはずだった。僕は、夏芽にこのノートを返して、それきり、このノートは僕に返されていないのだ。
しかし、この文章に対して、夏芽からの返信が最後に記されていた。この一文は、誰の目にも触れられる予定はなかったはずだ。しかし、丁寧な、筆圧の高い彼女の文字は、何年ものあいだ待ちわびていたかのように、僕の目の前に現れたのだった。

『こちらこそ。これで終わりだなんて思ってないよ。二〇二七年も、楽しみにしてるね』

夏芽の笑い声が、どこかから聞こえたような気がした。
突き抜けるような青空が頭上に広がり、爽やかな潮風が吹き抜け、辺りはさざなみの音で満ちた。
目の前にあるのは、足元から伸びる、長い一本道。その先に、出口は見えた。
「二〇二七年」、というその言葉が、僕を遠い昔に連れ戻していた。そして、夏芽が海に行きたがった理由や、不思議な夢の意味、物語の終着点など、今まで不明だったすべてのことが、頭の中で紐とかれていく感覚をおぼえた。
——すっかり忘れてしまっていた。夏芽は、あの場所に僕を連れて行きたかったんだ。
「白川さん、分かりました‥‥‥」
不思議そうにこちらを見ている白川さんに、僕は言った。
「夏芽が行きたかった場所」
「本当に?何処だい?」
「爪立(つまだち)灯台です」
「爪立灯台?ここからそんなに遠くないな‥‥‥。しかし、なんでまた、そんな場所に」
「僕たちには、ずいぶん前に交わした約束があったんです。僕らが十歳のときに、その灯台のふもとにタイムカプセルを埋めました」
「…‥‥!」
「お互いに、十年後の自分たちを想像して、それぞれが手紙を書いたんです。二十歳になったら掘り起こそうね、って。でも、僕はすっかり忘れていました。きっと、夏芽は僕に、そのことを思い出させたかったんだと思います」
「ああ‥‥‥そういうことなんだね」
 白川さんが、うっすら涙を浮かべているのがわかった。そして、大切な孫娘をいつくしむように、小説を胸に抱きしめて言った。
「千年経って発掘された、源光の和歌はそういうことか。あの描写で、理人くんにタイムカプセルのことを思い出させようとしたんだね‥‥‥」
「はい。僕‥‥‥、これから行ってみます」
白川さんにお礼を言って、僕はすぐに玄関を出た。
真っ暗な中庭には、夏の虫の合唱が響いていた。
自転車にまたがると、スマホの地図アプリで灯台の場所をチェックする。一度行ったことがある場所だが、夜に行くのは初めてだ。迷わないように、ルートを入念に確認する。
――今度こそ、夏芽を見つけ出してみせる。
僕はペダルを踏みこんで、真っ暗な夜道を走り始めた。空に浮かぶ細い三日月が、僕の姿を青白く照らしていた。