ブルー・アワーに舟を放つ

1
「親ガチャ」という言葉がある。
子供は親を選んで生まれて来ることができない、という若者の嘆きから、その言葉は生まれた。その言葉を耳にするたびに、僕はいつも思ったものだ。僕は人生のスタート地点から、不運だったのだろうか、と。
しかし、よく考えてみれば、それはおかしな話だ。僕の遺伝子はその親本人から生み出されたものであって、親を選んで生まれてくることなど最初から出来ない。
先日、国語の授業で、論説文の授業があった。育てる親によって子供の性質が変えられてしまうか否かがテーマだった。
国語の先生は大学で心理学を専攻し、主な研究内容が「父と息子のつながり」だったらしい。
先生は言った。
「父親と息子との関係の難しさは、父親の子に対する理想が高ければ高いほど生じやすいという研究結果がある。例えば、子供に継がせなければならない事業があるとか、父親が何かの才能に秀でていて、同じ道に進ませたい、といった場合などに。親の目指す姿を、子供に強要することで、子供にはさまざまな試練が待ち受ける」
遠い昔から、息子が越えなければならないのは、大小問わず、父親という「壁」ーーそして、その壁を乗り越えるために、反抗期があり、親に反発するという過程を経て、子供は少しずつ自立していく。しかし、そういった「支配的な子育て」の下では、子供の自我が育ちにくいと言うのだ。
僕は、その話が思い当たることばかりで、最後には耳を塞ぎたくなった。事実、父もそのような「毒親」の一人で、僕自身も「自我の弱い子供」の一人だった。
父はかつて、画家を目指していた時代があった。エコール・ド・パリの時代の画家が好きで、いつか自分もパリに留学して、絵画を学ぶことを夢見ていた。
しかし、「芸術の道では食べていけない」と、両親から猛反対され、父は美大に行く夢を諦めた。そして、最終的には、東京の大学に入学し、大企業に就職したということだった。堅実な道を選んだのは、生活に苦労した親からの強い願いがあったからだと言う。
おそらく、思い残したことがあるのだろう。父はいつも僕に対して、こんな質問をした。
「理人は将来何になるのかな」
それは、父から受ける質問の中で、答えるのに最も苦痛の伴うものだった。僕はそのたびに、まだよくわからない、と返事をし、すぐに二階の自室に戻った。
二階の廊下には、父がかつて若い頃に描いたという油絵が一枚飾られていた。僕は、その絵が自分の視界に入るたびに、直視しないようにして通り過ぎた。
「葛藤」という名の題名がついたその絵は、黒味がかった絵の具で塗りたくられており、その中央には赤いリンゴのようなものがひとつ描かれていた。抽象画というものをよく知らない僕の目には、それが真っ黒焦げになった人間の心臓のように見えた。――あるいは、闇にひそむ獣の目のようにも。自室の傍に存在するその不気味な絵のことを、僕は心の底から忌み嫌っていた。
しかし、そんなある日――おそらく、中学校に入ったばかりの頃だったと思う。父はその絵の前に僕を連れて行き、こう言ったのだった。
「父さんは、なりたいものになれなかった。だから、最後にこの思いをカンバスにぶつけた。これは父さんが学生生活最後に完成させた絵なんだ。この赤いものは、理人、お前だ。そのころはまだ存在しなかったけれど」
それは、真っ暗な子宮の中に命を宿した、赤子らしかった。父は、自分自身の無念を晴らすために、この絵を描いたと言った。つまり、まだ見ぬ赤ん坊に、自分の夢を託したのだった。
その執拗なまでの思いに、僕は身震いした。僕は、彼の代わりになるために生まれてきたのか、と。
――この家を早く出なければならない。彼の納得のいく方法で、できるだけ早く。
その日から、死に物狂いで勉強をした。東京には寮を完備した私立高校がたくさんあるというので、入念に調べて受験校を絞った。
しかし、皮肉にも、その決断は父のかねてからの要望を満たすことになった。父は、僕がなりたいものになるために、勉強を頑張っていると思ったようだった。
「理人がやりたいことがあるなら、東京に行って、しっかり頑張りなさい」
父は仏頂面だったが、いつもより優しい声色から、心の中では喜んでいるのだと分かった。
そして、そこまでのことを見越して、父はその「制作秘話」を明かしたのかもしれない、と思えてきた。
僕は、彼の術中にはまったふりをして、「父さんの期待に応えられるよう、頑張ります」と言葉を返した。
僕は思う。僕が「なりたいもの」になったことを知れば、父の葛藤は消えるのだろうか、と。
そして、良くも悪くも他人のために生きているこの現実は、僕にとって何の意味があるのだろう、と。
                       
2
朝霧まどか先生との食事会は、高級ホテルの中にあるフランス料理店で開かれた。
重版出来のお祝いも兼ねているからと、スミさんは一番高いフルコースを注文してくれていた。
どの料理も素晴らしい食材が使われたものばかりだった。しかし、祝ってもらうべき作家は、僕ではない—―その事実が心に引っかかっているせいで、目の前の料理をしっかりと味わうことが出来なかった。
料理の皿は下げられ、あとはデザートを待つばかりとなった。まどか先生は、とても満足した様子で微笑んでいる。
「今日は理人先生と素敵な時間を過ごせて嬉しいわ。ほんとにありがとうね」
まどか先生が、僕にワイングラスを傾けながら言う。
「そんな‥‥‥、お礼を言うのは僕のほうです。き、恐縮です」
ひきつった僕の顔を見て、まどか先生は吹き出して笑った。
「やっぱ、かわい~い!ねえスミちゃん、私、今あの気持ちよ‥‥‥」
「あの気持ち‥‥‥、さてはて、何ですか?」
隣にいるスミさんが、前のめりで訊く。
「ほら、ちっちゃな子犬を拾ったときの気持ち」
「がくっ、そっちでっかぁーっ。もぉ~期待しちゃったじゃないでふか。ガハハ」
お酒は大丈夫、と自信満々だったスミさんも、呂律が回っていない。だいぶ酔いが回っているようだ。
それとは対照的に、まどか先生はケロリとした様子で、違う種類のワインをオーダーしている。
「ところで、理人くん。あなたの小説、すごーくよかったわ」
「あ、ありがとうございます」
「とくに、物語の設定とラストシーン。最後は、古典の知識がない人には難しいところもあったけど。でも、設定は万人にわかりやすくてよかったわ」
「どの設定ですか」
「主人公の美月が、神社でお願いして平安時代にタイムスリップしたでしょう。展開としては、その世界でうまくいって、愛する人たちと幸せに暮らしましたで終わる形でもよかったとは思うの。‥‥‥だけど、歴史を変えてしまうと、現世に混乱が生じる。だから、過去に生きた人物と子供を作ったりしないように、神様は美月に『恋愛は禁止』というルールを課した」
「はい」
「でも、源光と美月は恋に落ち、その恋が実りそうになった瞬間、神様の使いが美月を現世に連れ帰ってしまう‥‥‥あそこが、ぐっときた。切ないラブストーリーを完成させるのに不可欠な舞台装置だと思った」
「ありがとうございます」
「最初、源光からもらった和歌から彼の好意に気が付いた美月は、それをはねのけた。自分の気持ちをひた隠しにしてまで、ずっと一緒にいたかったのよね」
 まどか先生は、光り輝く夜景を見つめながら言った。美月の心模様を想像しているのだろうか。物憂げなその横顔は美しかった。
「けれど、最終的に美月は源光に告白することを選んだ。現世に連れ戻されるリスクを冒してまで——。これは、いうなれば、日本版『ロミオとジュリエット』ね。異なる世界で暮らす者どうしは、愛し合っていてもどうしても引き裂かれる。運命が邪魔をする」
「運命、ですか‥‥‥」
そこで、デザートが運ばれてきたので、僕は口から出かけた言葉を飲み込んだ。
デザートを見て、まどか先生は顔を輝かせた。それは、ちいさなタルト生地の上に白桃のコンポートがまるごと一個載せられた、目にも美しい一品だった。
「まあ、美味しそう。いただきます」
まどか先生がフォークで桃を割ると、断面にムースと果肉があらわれ、その中央から濃い桃色のソースがとろり、とあふれ出た。思わぬ仕掛けに、テーブルの上で「わぁ」と女性陣の声が上がった。
この美しいデザートを作ったパティシエは、切り分けたときの感動までを計算しているのだろうか。このお店では、出てくる料理がすべて芸術的だ。このデザートを完成させるために、どれだけの時間が費やされたのだろう。中からとろけ出すソースは、もしかすると偶然の産物かもしれないし、意図的に作り出したものかもしれない。どちらにせよ、ものを作る人というのは、サプライズを最後に用意したがるものだ。
その瞬間、僕は夏芽の書いた数々の作品を思い出した。夏芽の物語にも、いつも最後にサプライズと心地よい後味があった。
――運命が邪魔をする‥‥‥夏芽は、どうしてそんな悲しい運命の物語を書いたのだろう。
まどか先生の前で飲み込んだ言葉が、僕の中に戻って来た。悲運の男女を描こうとした夏芽の頭の中には、何か目的があったのだろうか。そもそも「運命」とは何なのだろう、とも。
「運命」について考えることはたびたびあった。たとえば、僕があの父親の遺伝子を引き継いで生まれてきた意味。夏芽と出会った意味。そして、作家として、まどか先生とこの場所で会話をしている意味。果たして、これらの出来事はすべて運命なのだろうか。
意味なんてないような気がした。僕という人間は、父親と母親がたまたま出会って結婚して、その偶然の結果、実った果実だ。夏芽との出会いも、ただ同年代で同じ学校に通っていたからだ。
しかし、運命の糸はからまり、意図せぬ方向に人を衝き動かし、思わぬ結果を招くこともある――そのことは、僕が身をもって知っていることだった。まどか先生と今こんな風に話が出来ているのも、その結果のひとつなのだ。まどか先生は、僕が夏芽の言うことを聞かなければ、会うはずのなかった人間なのだから。
「先ほどの話に戻ってすみません……。運命が邪魔をする、って先生は言われましたが。運命って一体何なんでしょう。僕は自分で書いておきながら、その意味がよく分かっていないんです。なぜそれをテーマに書いてしまったのかも」
僕の言葉に、まどか先生は一瞬固まった様子で、目をパチパチとさせながら言った。
「自分が書いたのにおかしなことを聞くのね。そんなの分からないわ。勿論、書いている本人にも分からないことはあるかもだけど。きっと、あなたの潜在意識の中に、伝えたいことがあったから書いたのではないの?」
「伝えたいこと‥‥‥ですか」
「若い時は、感じたことを勢いに任せて書くときもあるだろうから。‥‥‥そうね。テーマがよく見えないまま書くことって、私も昔はあったかも」
「そうですか‥‥‥」
「だけど、運命って、私はあると思ってるわよ。偶然起こったことのように見えて、実は必然だった――、そう信じることは悪いことではないわ。物語ってそこが面白いんだもの」
物語における運命について質問したつもりはなかったのだが、図らずも僕はその言葉に惹き込まれることになった。
まどか先生は、デザートの半分をフォークに刺すと、ソースにからめて一口で食べた。そして、食べ終わると、残りの半分の桃を、フォークでつついた。
「もともと、半分は偶然。だけど、私は、もう半分は運命になりうると信じてる」
まどか先生は、真面目な顔でそう言った。また、作家とは、そういった偶然から必然性のある結末を手繰り寄せながら生きていく生き物なのだ、とも。
「物語の主人公が、偶然『一滴の水滴』として生まれたとする。その水滴は、次第にほかの水滴を集めて、やがて小川となり、海となることもある。その水滴自身は、最初は何者にもなれず、孤独に蒸発すると思っていたのに」
「どういうことですか」
「あなたも物書きならわかるでしょう。主人公や適当に配置した登場人物たちが命を吹き込まれて、勝手に動き出すことがあるってことを。最初は作家の裁量で進行すると思っていたはずの筋書が、予定外の軌道を進み、思わぬ結末に至ることもある‥‥‥私は、そういうのを運命だと思ってる」
僕は、言葉を失った。僕には、即答で「分かる」と言えるような経験がなかったから。
「もし今わからなくても、いずれわかるときが来ると思う。物語の中で偶然起こった出来事が、まるで最初から決められていた約束のように、ひとつの結末に導かれることもある。仮にそれが、作り手の望んだ結末であっても、なかったとしてもね。でも、そこで初めてその偶然に意味を見出すことになるはずよ。それが果たして、いつになるかは分からないけれど‥‥‥」
「‥‥‥はい」
「その時まで、わたしたちは辛抱を強いられることになるわね」
まどか先生は、何かを思い出したように宙を見つめたあと、僕に言った。
「でも、物語を紡ぐときは、そういうのを抜きにして楽しみなさい。主人公たちの人生は、それぞれ一度きりよ。彼らに素晴らしい人生を生きさせてあげて」
そのとき、舌に載せていた桃の繊維が、噛みしめる間もなくほろりとほどけた気がした。
その直後、得体の知れない何かが形を成して、風を切るように僕の中を走り抜けて行くのがわかった。
それは、夏芽が小説の冒頭で書いた文章が、まどか先生の言葉とほぼ同義であることに気付いたのと同時だった。
「人生における大切な瞬間は、一度きり」であること――。その一瞬のきらめきを、夏芽は宝物のように集めていたのだ。
もしかすると、あの夏祭りの日は、僕だけじゃなく、彼女にとっても特別な一日になるはずだったかもしれない。それなのに、僕がそれを台無しにしてしまった。
それだけじゃない。何より酷いのは、僕が自らの人生の「大切な瞬間」を無意識に見過ごしてきたことだ。
これまでずっと、僕は自分の人生が「終わっている」と思っていた。何かを成し遂げたいと願う反面、心のどこかで諦めてしまっている自分がいた。「自分の人生を生きていない」と僕を責め立てた夏芽。彼女が怒るのも、無理はない。
本当の意味で「人生が終わっている」彼女が、これほどまでに心の炎を燃やし、物語を完成させたというのに。
この世に戻ってくるのだって、もしかしたら何かを犠牲にしたかもしれないのに――。
僕は、いつも何かを理由に、真正面から立ち向かおうともしなかった。
本当に、僕は最悪だ。 
彼女の気持ちなんて、これっぽっちも分かっていなかったのだ。
 
デザートを食べ終わって一息ついたころ、パーティーはお開きとなった。
まどか先生が書いた書評は、間宮書房の文芸誌に掲載されることになっていて、発売日はもうすぐだった。
僕はお礼を言って、まどか先生の乗った車を見送った。太陽が落ちた後も、熱が地表に残っているような気がした。風のない、蒸し暑い熱帯夜だった。
僕はすぐに寮に戻る気になれず、神保町の書店に立ち寄ることにした。
書店は閉店間近だったが、最上階のカフェは、深夜も営業しているようだった。
七夕の日に訪れてから、一か月が経とうとしている。窓際の席で見たてるてる坊主はもう吊るされていなかったけれど、代わりにひまわりの花が一輪、カウンターの花瓶に生けてあった。青い壁を背景に、黄金の大輪の花が光を放っているように見えた。
ひまわりは、夏芽のイメージの花だ。僕は夏芽を見つけた気がして、しばらくのあいだその花から目が離せなかった。
好きなお席にどうぞ、と声をかけられたので、僕は夏芽と座った席に腰かけ、コーヒーを注文した。
僕は、一瞬目を閉じた。夏芽がこの場所で、楽しそうにおしゃべりしている姿が、すぐにまぶたに浮かんだ。明るい笑い声も、どこかから聞こえてくるような気がした。
コーヒーを待つ間、僕はぼんやりと店内を眺めていた。そうしているうちに、青い壁の色が前に来たときとは少し違って見えることに気がついた。少し姿勢を低くして角度を変え、天井までも見回してみた。おそらく、照明の角度や窓から入る光量が違うせいだろう。前回来たときは、明けてゆく空のように感じたが、今は暮れる直前の空のように感じる。
やはり、この壁は絵画だ、と僕は思った。きっと、誰かが意図的に塗料を載せたのだ。奥行きがあるうえに、見る者に何かを語りかけてくる。
そんなことを考えているうちに、子供のころの記憶がおぼろげながら甦って来た。
父が休日に僕を車に乗せ、美術館に連れて行ってくれた。そのとき、美術館では、父の大好きなシャガールの特別展が開催されていた。あの日初めて、僕はシャガールという画家の名前を知ったのだった。
ユダヤ人で、世界大戦の戦火の中で生まれたと聞いた。迫害、亡命、愛する妻の死。数々の苦難を経てもなお、平和や愛のメッセージを発信し続けた画家だ。彼の作品の多くに見られる青い色彩は、「シャガール・ブルー」と呼ばれ、多くの人々を魅了した。
僕がシャガールの絵をはっきりと覚えているには、理由があった。父と美術館に入る前に、ある約束をしたからだった。
「この美術館の中で、理人が一番気に入った絵を、後でひとつだけ教えてほしい。父さんの好きな絵も、あとで教えるから」
「うん‥‥‥、わかった」
幼かった僕にしてみれば、それは少し難しいリクエストだった。好きだと思える絵は複数あったが、ひとつに絞ることは難しかった。迷いに迷った挙句、僕は数ある名画の中から、いちばん心に残った絵を選び、父に伝えることにした。
ひととおり展示を見終わったあと、美術館に設置された図録を見て、それぞれが選んだ絵の番号を言い合うことになった。
「せーの」の掛け声のあと、父と僕は同時に番号を言い合った。そのとき、父と同じ番号を言ったことは、今もはっきりと覚えている。たしか青色の絵の具一色でパリの街並みやエッフェル塔が描かれていて、空に人や動物が浮かんでいる絵だった。彼らもまた、その空間に溶け込むように、青い光に染まっていた。そして、その青い世界の真ん中には、大きな太陽があかあかと輝いていて、その明るい色彩は、画家の心に潜む情熱的な何かを想像させるものだった。
その絵が、父さんのお気に入りだと聞いた時は、僕は思わず「わぁ」と声を上げた。芸術を学んだ父さんと同じものを好きだと思える感性があることが、何より嬉しかった。
あの頃、僕は父が大好きだった。父が教えてくれることは面白く、芸術の扉を開くことは心を豊かにすることだと知った。
たとえ描画や楽器の演奏が上手くいかなくても、僕は与えられた機会に感謝して、楽しんで取り組んでいた。
しかし、僕が大きくなるにつれ、父は次第に「成果」を求めるようになった。社会で生きていくためには、成果を確実に出していくことが大切なのだ、と父は言った。
けれど、どのコンテストにおいても、僕の作品や演奏は賞賛されることなく、それは常に落選となった。そのたびに、また父を喜ばせることができなかった、と酷く落胆した。「ごめんなさい」と謝っても、父は何も言わなかった。その沈黙は、子供の心が受け止めるにはあまりにも重く、耐えがたいものだった。
「失礼します。コーヒーをお持ちしました」
壁の色を見つめながら空想の世界に漂っていた僕は、その声によって現実に引き戻された。
顔を上げると、背の高いウェイターがこちらを見ていた。
すぐに、夏芽と来た日に給仕してくれたウェイターであることを思い出した。
「あ、ぼーっとしてて。すみません」
ウェイターはにっこり微笑むと、コーヒーをテーブルに置きながら言った。
「壁の色が、何か気になりましたか?」
「はい‥‥‥絵画みたいに綺麗で、見入ってしまってました」
「そうだったんですか。実はこの壁、私が塗ったんです」
「え……!そうだったんですか」
「はい。今、美大で絵を勉強していて。腕前はまだまだですけど、そう言ってもらえて嬉しいです」
「もしかして、空をイメージしたとか…‥‥?」
ウェイターは、そうです、と微笑んでいる。雲一つない空です、と付け加えて。
「時間帯によって色合いが変わりますよね。夜明け前の空と、暮れる前の空のような」
「凄い。そこまで分かっていただけたんですね。時間帯によって、雰囲気が変わるように描いたつもりです。あの明かり取りの窓が一役買ってくれています」
彼はそう言って、カフェの天井にある、明かり取りの小窓を指さした。
「なるほど‥‥‥。あそこから自然光が差し込むから、雰囲気が変わるのか」
小窓に目をやる。そこから漏れている月の光が、店内の空間を幻想的なものにしていることに気が付く。
「実は僕、シャガールの青い絵のことを思い出していたんです」
つい、心を許してそんなことまで話してしまった。初めて会話を交わす相手なのに。
すると、彼は大きく目を見開いて、二度目の「凄い」を口にした。
「本当に?そこまで感じ取ってくれる方がいらっしゃるなんて、驚きです。私の一番好きな画家は、シャガールです」
「えっ。もしかして、シャガール・ブルーですか」
「はい。シャガール・ブルーです!」
思わず同じ言葉を口にし、僕たちは顔を見合わせて笑った。まるで、昔からの知り合いのように。
ウェイターは、嬉しさを隠し切れない様子で、そのまま話し続けた。
「夜明け前と日暮れ前の、空全体が青く染まる時間帯のことを、フランス語で「ラール・ブル(l’heure bleu )」というの、ご存じですか」
「ブルー・アワーなら聞いたことがあります」
「英語だとそうですね。ちなみにこの店の名前は、そこから来ているんですけど‥‥‥。私ね、壁を塗りながら想像したんですよ。パリで活動していたシャガールも、きっとその時間を愛したのではないかと。青は、シャガールにとって深い意味があるので」
「どんな意味ですか」
「彼はもともとユダヤ人で、敬虔なユダヤ教信者です。ユダヤ教での青はテカレットと呼ばれ、イスラエルの国旗にも使われている特別な色なんです。言うなれば、彼自身のアイデンティティをあらわす色で......」
「そうだったんですか」
「はい。だから、青い絵を描くことで、彼自身の内面や、彼が見たい世界を表現したいと願ったのでは、と。迫害や差別を受けたシャガールは、世界に絶望したと思います。実際に、シャガールは、『自分がユダヤ人でなければ、芸術家にはならなかっただろう』と言っているんです。だから、彼には叶えたい理想の世界があったはずです。それは例えば、平和な故郷だったり、愛する人と生きる世界だったり――」
「そうなんですね‥‥‥知りませんでした。でも、すごいです。その色を再現できるなんて」
「そんな‥‥‥、ただ、真似ただけです。私もいつか、彼のように、自分が見たい世界を描ける画家になりたい、と思っているんです。でも、それをうまく表現するには、自分自身の色を出すことが必要で。‥‥‥・これがなかなか難しくて」
「自分自身の、色‥‥‥」
彼の見たい世界とは、伝えたいこととは、何なのだろう。それを想像した瞬間、僕は彼の目から視線を逸らすことが出来なくなった。
まるでそれが、自分に向けられている疑問であるような気がしたからだった。
僕は小説の中で、一体何を描きたいのだろう。僕は、誰に何を伝えたいのだろう。そのことを、僕自身まだよく分かっていない。
しかし、僕が「見たい世界」については、はっきりと言葉にすることができる。それは、夏芽がいる世界。僕の隣で、夏芽が微笑んでいる世界だ。
 呆然としている僕に何かを感じ取ったのか、ウェイターは、少し喋りすぎたようです、と頭を下げた。
「‥‥‥そんな、気にしないでください。だけど、この壁の色の秘密が分かって、よかったです。前来たときから気になってたので」
 僕の言葉に、ウェイターは嬉しそうに頷いたあと、何かを思い出した様子で続けた。
「あっ、そういえば‥‥‥。間違ってたらごめんなさい」
「‥‥‥?」
「いつだったか、昼間にもいらっしゃってましたよね。私、深夜にシフト入れることって滅多にないんですが」
「はい」
「今日は、おひとりなんですね」
予期せぬその言葉に少し迷ったけれど、僕は「はい」と答えた。なぜだか、それが適切で正しい返事だと思えたから。
僕は、カウンターに咲くひまわりに、ふたたび目をやった。ひまわりは背筋をぴんと伸ばして、僕を見つめているような気がした。
きっと、ここに夏芽はいないだろう。けれど、夏芽がどこかから、僕たちの会話を聞いているといい、と思った。
これが真夏の一夜の夢のような話であったとしても。
ひまわりの花も、シャガール・ブルーの壁も、あのウェイターとの再会も、ただの偶然かもしれない。
でも、きっとこんなこともあるのだろう。とりわけこんな風のない、熱帯夜の晩には。

                    
3   
まどか先生との食事会の次の日、僕は叶葉の家に呼ばれた。        
中目黒の駅から住宅街を少し歩いたところに、叶葉の住むマンションはあった。分譲タイプなのだろうか、エントランスも広くてお洒落だ。
インターホンを押すと、叶葉の声がして、すぐに玄関の扉が開いた。
「いらっしゃーい、わぁ、ありがと」
叶葉に手土産を手渡すと、嬉しそうに声を上げた。
「こちらこそ、いつもありがとう。ほんの気持ちだけど」
「もしかしてフィナンシェ?ここの人気だよね。あとで一緒に食べよう。あ、そこのソファに座って待ってて」
言われるがままに、ソファに腰かける。ふとサイドテーブルの上に目をやると、ドラマの台本が置かれているのが見えた。
「お仕事、忙しいんじゃない?」
台本を指さして、キッチンにいる叶葉に訊ねる。
カウンターキッチンから顔をのぞかせながら、叶葉は「ああ」と笑った。
「その台本のことね。超売れっ子ってわけじゃないから、理人くんが心配するほどじゃないよ」
「そっか。これ、分厚いからセリフ覚えるの大変だろうなぁって」
「役によるわね。あたしのは、脇役だからほんの数行よ」
そして、少し恥ずかしそうな、けれど決意に満ちた眼差しで、僕に言った。
「まだ半人前だけど‥‥‥、いつか主役を勝ち取ってみせるね」
「できるよ、叶葉なら」
「‥‥‥え?」
「だって、あの文化祭の女神役。僕は、本物がそこにいると思ったんだから」
 すると、叶葉は、懐かしいものを見つめるような目をして僕に言った。
「ありがと‥‥‥。でも、ここまで来れたのは、夏芽のお陰なんだよ」
「そうなの?」
「あたしが女優になろうと思ったのはね、文化祭の後、夏芽が「叶葉なら女優になれる」言ってくれたからなんだ。いつもみたく励ましてくれた。『だいじょうぶってば』って」
夏芽の弾ける笑顔が、僕の頭の中に浮かんだ。その一言は、僕にとっても魔法のことばだ。
「オーディションに応募しようと決意したのは、夏芽のお葬式のとき。夏芽のぶんまで生きるよ、って約束したの。だから、あたしがここにいられるのは、夏芽のお陰。‥‥‥あ、そろそろ支度してくるね」
「うん、ありがとう。何作るの?」
「パエリア」
「凄い。そんな難しそうなもの作れるの?」
「簡単なんだよ」
 叶葉はそう言うと、パエリア鍋を火にかけた。野菜や魚貝などの具材を炒め、そこに白米を入れたあとに、サフランスープを流し込む。なかなかの手際の良さだ。しばらくすると、鍋からほのかに湯気が立って、香ばしい匂いが漂ってきた。
「ところで、次の小説はどう?あれから進んだ?」
「実を言うと、このあいだ話した筋書は、ボツにした。すべて消して、書き直してるんだ」
「‥‥‥全部?どうして」
「ダメなものは、ダメだから。一度リセットしたんだ」
 僕は、お恥ずかしながら、と続けた。
「『言わずもがな』は夏芽が作った小説なだけに‥‥‥、さすがにあれを越えられるような小説は、書けないような気がするんだ」
「そんなことないでしょ」
 叶葉が、不思議そうな顔をして、こちらを見ている。
「理人くんの表現力は素晴らしかったもの。それに、あの小説、理人くんが筋書を変えたんでしょ?あれが、かえってあの作品を良くしたんじゃないかな」
「‥‥‥え?」
予期せぬ返事に、僕は言葉を失った。
「あの小説のもともとのプロットは、美月が平安時代に行って、紫式部と「源氏物語」の一部を完成させ、のちに源光と結ばれる。そういう筋書だったでしょう」
叶葉がもう一度スマホで画像を見せてくれたので、僕はその画像の最後の一文を読んだ。「美月と源光は平安時代で夫婦として結ばれる」とある。切ないラブストーリーとは真逆の結末だ。
僕はしばらくのあいだ、その一文から目が離せないでいた。やがて、意識の動線が夏芽の心の内側に向かったそのとき、僕はある言葉を思い出した。先日の食事会で、まどか先生に言われた「切ないラブストーリーを仕上げるのに不可欠な舞台装置」という言葉。
あの「装置」という表現が、心のどこかで引っかかっていた。――異世界から、もとの世界に戻すための装置。
もしも、夏芽が自分の身の上に起こっていることを作品に投影していたなら?今の夏芽と美月は、「別世界」に移り住んだ少女という意味では共通している。生前に考えていた構想と真逆のものに変えてしまった可能性もあるだろう。
夏芽がわざわざ筋書に手を加えて、「主人公をもといた場所に戻す」というあらすじに書き変えたのは、気まぐれからではないような気がした。
また、まどか先生が答えてくれた、「運命」という言葉の意味も、その日はすとんと心の中に落ちたはずなのに、今回のことでまた分からなくなった。美月がもとの世界に連れ戻されることになったのは、誰かと結ばれると歴史を変えてしまうという懸念からだった。源光と美月が結ばれなかったのは、変えようのない運命だったのだ。しかし、夏芽の立場に置き換えてみると、浮かぶのは疑問ばかりだ。いったい、夏芽から見た「運命」とは?――そもそも、彼女は一生を終えた人間なのだ。幽霊としてこの世に暮らしたとして、その先にどんな結末が待っているというのだ。
一瞬ののちに、クロードが話してくれたおばあさんの話も思い出された。そして、ふたたびあの疑問が頭をかすめた。
――夏芽は、何故僕のところに戻って来た?

『もう大丈夫そうだから、いくね」って、言われたような気がしたんだ』

クロードの声が、脳内で再生される。クロードの問題が解決したあとに、おばあさんは天に召された。
「天使が迎えに来る」という結末は、夏芽の小説の「神様の使いが迎えにくる」という結末と、あまりに似通いすぎてはいないか。
ひょっとして、この作品は、夏芽のいる世界のルールを示しているのではないだろうか。
「もしかして‥‥‥、そうなのか」
僕は、小さな声で、知らず知らずのうちにそう呟いていた。
叶葉が心配そうな面持ちで、こちらを見ている。
「理人くん、大丈夫?今、すごく怖い顔してた」
「‥‥‥え」
僕は彼女のことばで我に返った。手にじっとりと汗をかいている。僕は「ちょっと考え事してただけ」と言葉を濁した。
「ならいいけど‥‥‥あっ、もうそろそろだよ」
叶葉は立ち上がると、火にかけた鍋のようすを見に行った。パエリア鍋が煮立つ音が、部屋の中を静かに響いていた。
「出来上がったみたい、見て」
鍋の蓋を開けると、美味しそうな匂いとともに、色とりどりの野菜や魚貝の乗ったパエリアが現れた。
叶葉は、慣れた手つきでそれを取り分けると、明るい調子で言った。
「上手くできたと思う。理人くん、運ぶの手伝って」

それから、僕は叶葉とテーブルを囲んで食事をしたのだが、そこからの記憶は曖昧だ。
女の子から手料理を振舞われるのはこれが初めてだというのに、完全に上の空だった。
食事を終えると叶葉にお礼を言い、早々と腰を上げた。叶葉は「もう帰っちゃうの?」と寂しそうな口ぶりだった。
けれど僕は、用事を思い出して、と伝え、叶葉の部屋を後にした。
それは、帰るための言い訳ではなかった。
夏芽のためにやらなければならない様々なことが、僕の頭の中で駆け巡っていた。