1
頭が重い。何も考えられないし、何もしたくない。
あれからもう一週間が経とうとしているのに、夏芽はまだ戻って来ない。僕の時計は、夏祭りの日で止まったままだ。
夏芽が消えた――その事実は、僕にとって受け入れがたいものだった。今までの楽しい日々が、幻だったかのように思えた。
しかし、スマホが大きな音を立てて、僕の意識は一気に現実に引き戻される。今日も変わらず、スミさんから催促のメールが届く。「進捗どうですか」と、いつもの七文字。
スミさんに、なかなか返事が出来ない。答えはもちろん「進捗ダメです」だ。
進むはずがなかった。執筆できる気力など、あるはずがなかった。僕の頭の中は、夏芽がなぜ消えてしまったのか、という疑問でいっぱいだったから。
僕は、のそのそとベッドから起きあがると、パソコンを取り出して、思いつくままに文章を書いた。
『どうして彼女は僕の前にだけ現れたのか。あの時、なぜ急に消えてしまったのか。』
書き始めると、疑問は次々と浮かんだ。
『夏芽は今どこにいる?まだこの世にいるのか?』
ここまで書いて、僕は指を止めた。他人が見れば、まるで推理小説か何かのプロットだと思うにちがいない。
『僕は最低だ。あんな軽はずみな行動をとるべきではなかった。』
実に情けないが、夏芽がどこかからこの文章を見ていてくれることを心の片隅で願いながら、懺悔の思いを綴った。
しかし、それでも彼女はこの部屋に現れることはなかった。
「リーヒート!」
ドアの向こう側から、クロードの声がする。暇を持て余しているのか、いつもよりノックの音が大きい。
無視しようかと思ったが、壁が薄いこの寮では、居留守を使ってもすぐばれてしまう。
仏頂面でドアを開けると、クロードが驚いたような調子で声をあげた。
「オウ‥‥‥?リヒト、どうしたんだい、そんな暗い顔して。大丈夫なの」
「‥‥‥ううん。全然大丈夫じゃない」
クロードの優しい口調に、僕はつい弱音をこぼしてしまった。
「どうしたんだよ~。楽しい夏休みじゃないのかぁ?」
僕は、ぶんぶんと首を振ると、「全然」と素っ気なく言葉を返した。
「なんかあった?」
「別に‥‥‥、執筆が進まなくて、悩んでただけ」
「そっか。そういうときは、一緒にお茶でもしようぜ。話聞いてやるよ」
クロードはそう言って自室に戻り、紅茶の入ったペットボトルと氷、クッキー缶を持ってきた。グラスに氷を入れ、紅茶を注ぐ。クッキ―缶には、フランス語で何か書かれている。缶を開ける気になれなくて、じっとその文字を見つめていると、クロードが言った。
「『人生は短い。思うように生きろ』って書いてあるよ」
くすくすと笑うクロードに、僕は「嘘だね」と返事をした。書いてある文字は、ラング・ド・シャ。日本でも有名なお菓子の名前なのだ。そのくらい、僕にだってわかる。
「そうか、まぁ、言い返すくらい元気ならよかったよ」
クロードは、クッキー缶を開けながら、床の上にあぐらをかいた。そして、僕のパソコンの画面の文字に気が付くと、「これって何?今書いている小説?」と聞いた。
僕は慌ててパソコンを閉じると、「いや、小説のメモ書きみたいなものかな」と言って、話を逸らした。今の僕の心境など、クロードに話しても理解してもらえるはずがない。
「で、伊豆にはいつ戻るの」
「え?」
「取材、行くんだろ?ここでくすぶってるより、そうしたほうが気分も変わるんじゃない」
「‥‥‥それが、まだ」
「え、帰るんじゃなかったの」
「あっちで会う予定の友達が、なかなか連絡つかなくなって。でも、そのうち帰るよ」
つい、嘘をついてしまった。夏芽がいない状態で、地元に帰る理由などないくせに。
「そっかー。俺、リヒトの小説楽しみにしてんだからね。次はどんなストーリーにしようと思ってるの?」
クロードがパソコンを指さして、興味津々といった様子で僕に訊く。
僕は適当に、「あの世とこの世の住人の往復書簡」と答えた。実際そんなものは書いていない。しかし、今というこの瞬間に僕が興味あることと言えば、夏芽との交信だけだったので、僕はそう答えた。
「あの世と、この世の住人の‥‥‥か」
「‥‥‥どうかした?」
「いや、小説のネタになるかはわかんないけどさ。俺の小さいころの体験。聞きたい?」
「うん」
「小学校に入ったばかりで‥‥‥、フランスに住んでた頃の話なんだけど」
クロードは、記憶をたどるように目を伏せ、話し始めた。
「俺、近所の子供たちから、日本人の血が入ってることを理由にいじめられてて。だから、学校に行くのも嫌で‥‥‥、家に閉じこもってばかりだった。けどね、おばあちゃんが、ある日俺に会いに来てくれたんだ。わざわざ日本からね。俺の部屋に入ってきて、そして、悩みを聞いてくれたんだ。両親にも話したことなかったのに、おばあちゃん、俺のこと何でも知っているみたいだった」
「何でも?」
「うん、透明人間なのかなってくらい、俺のことをどこかから見ていたみたいなんだよね。そのときは、まだ気づいていなかったんだけど」
「うん」
「あとから気づいたんだ。あれは、生きてるおばあちゃんじゃなかった、って」
「‥‥‥!え、え……?どういうこと」
僕は、似たような境遇にいる人間だ。その話、もっと聞かせてくれ――、そう思いながら、僕はクロードの次のことばを待った。
「つまりは、俺のことが心配で、帰ってきたんだ」
「あの世から?」
クロードはこくりと頷くと、ここだけの話、と続けた。
「俺、おばあちゃんから処世術を教えてもらったんだよね」
「うん」
「おばあちゃんは言ったんだ。子供は未熟だから、分からないことだらけなんだ。怯まずに、日本についてよく学びなさい――、そして世界にはまだまだ素晴らしい場所がたくさんあることを、彼らにも見せてやりなさい、って。だから、俺はいじめてきた子たちに、日本の良さを伝える努力をしたんだ。最初はもちろん、理解してもらえなかったけどね。でも、自分の意見をしっかり言えるようになってから、友達が少しずつ増えていったんだ」
「‥‥‥すごい。自分から、殻を破ったんだ」
「完全に、自分からじゃないよ。おばあちゃんが励ましてくれたお陰なんだ」
クロードが、窓の外に広がる空を見上げたので、僕も一緒に見上げた。そこには青い空しか見えなかったけれど、彼の翡翠色の瞳には、別の何かが映っているように思えた。
「おばあちゃんと話した最後の日‥‥‥。今でもよく覚えてる」
クロードが、僕のほうに視線を移して言った。神妙な顔つきだった。
「俺はその日まで、おばあちゃんは生きていると思ってたんだよ」
「うん」
「だから、すごく驚いたよ‥‥‥。まさか、ってね。おばあちゃんは俺に言ったんだ。もうすぐ天使様が迎えに来るから。だから、もう会えない、って」
「天使様‥‥‥?」
呆然としている僕の目を見つめながら、クロードは続けた。
「おばあちゃんは言ったんだ。天使様はこの世のあちこちに存在していて、死者だけでなくこの世の人間までも助けてくれる、って」
「‥‥‥それで、おばあちゃんは、どうしてクロードのところに戻って来たの?」
「うん……。そのことについては、何も聞けなかった。でも、そのときのおばあちゃんの笑顔を見て確信したんだ。もう大丈夫そうだから、いくね、って‥‥‥、そんな風に言われた気がしたんだ」
僕は、言葉を失ったまま、ただクロードを見つめていた。
グラスに入っている氷が解けて、部屋の中にカラン、という音が小さく響いた。
「――そのあと、そのあとは?」
「何もない」
クロードは、眉根を寄せて笑ったあと、寂しそうに言った。ずっと待ってたんだけどね。現れなかった。本当におばあちゃんは天に召されてしまったんだ、と。
考え込んでしまった僕を前に、クロードはにっこり微笑んで言った。
「まあ、この話はここまで。ところで、いいネタ浮かんだ?」
「あ‥‥‥ああ。ちょっと、驚いたけど」
「ま、この話を信じるか、信じないかは、リヒト次第だけどね」
「うん‥‥‥ありがとう。話してくれて」
――僕は、信じるよ。
心の中で、クロードに言う。それは、信じることが友情の証であるからだけではない。変わりばえのない毎日を、色鮮やかなものに変えてくれた夏芽のことを、僕も待ちわびているから。
「ねえ、もうひとつ、聞いてもいい」
僕は、クロードに尋ねた。
「うん、なに?」
「今、主人公の描写に行き詰っているんだ。誰かの代わりになって、その人の為に生きていく人物っていう設定で‥‥‥。そういう生き方は、人としてダメだろうか?」
小説の話にすり替えて、僕はクロードに訊いた。「自分の人生を生きていない」と僕を責めた、夏芽のその言葉が、ずっと心から消えないでいたから。
「一概にダメとは言えないさ」
「‥‥‥?」
「それが自分を犠牲にしてしまう生き方でなければね」
クロードの言葉は、僕の心の傷にそっと触れた。
その声は優しく、温もりに満ちていて、その傷を静かに癒やそうとしているみたいだった。
「想像してみて。もし、きみが主人公で、その誰かが本当に大切な人だったら。そして、その生き方が、きみが生きたい人生なのだとしたら。それはきみの人生の『選択』だっていうことになるよね。それに‥‥‥」
「うん」
「自分の人生を捧げられるほどに誰かを愛したとき、その愛する人は、きみの命になるから」
空気の粒子みたいな何かがはじけて、僕の目の前を駆け抜けていく。
一瞬、時が止まった気がした。そして、思った。もしやり直せるなら、僕は時計の針を巻き戻したい。夏祭りの日の、あのブルーアワーまで。
あの時の青い光景が、この世とあの世の境目のように思えたのは、夏芽と同じ時間軸を生きているという実感があったからこそだ。
夏芽に伝えられなかった想いが、喉元までこみ上げてきたとき、こらえきれず僕は後ろを向き、顔を伏せた。
一度こぼれた涙は、止まらなかった。
クロードは、何も言わなかった。ただ、「ちょっとコンビニ行く用事思い出した」と言って部屋を出て行った。
僕は礼の代わりに、片手を小さく上げた。
誰もいなくなった部屋に、僕の嗚咽だけがかすかに響いた。
僕は、心の中の夏芽に言った。
きみが輝けるのなら、僕はきみの影として生きることになっても、構わなかったんだ。
――きみは僕の光で、僕の命だ。
2
気が付けば、八月になっていた。夏芽からの音信は、依然途絶えたままだ。
蝉のジリジリという鳴き声に煽られ、僕は開け放していた窓を閉めた。そしてベッドに寝そべり、天井を見つめながら思った。
この世に起こる奇跡とは、天使の悪戯なのだろうか、と。
そして、クロードの話を思い出した。それは、夢物語のようだったが、とても納得のいく、筋の通った話のように思えた。
クロードを見守っていたおばあちゃんには、間違いなくこの世界を去ることのできる正当な理由が出来たのだ。
クロードの話が真実なら、夏芽も何か理由があってここに戻って来たに違いない。
そして、何か言えないことを隠している。夏芽がいない今の状態では、そのことを確かめようもない。
僕はパソコンを開くと、今まで書いてきた小説のデータファイルを消去した。そして、真っさらな文書データの白い画面を起こすと、自分自身に向かって言った。
自分の物語を一から書きなおせ、と。
夏芽に伝えたいすべてのことを、ストーリーにすることにした。今までの弱い自分と決別をするために。そして、新しい未来を生きるために。
彼女にもう一度会いたい。そうするには、これを完成させるしかない気がした。そして、ふたたび会えたら、絶対一番に読んでもらいたい。そんな気持ちで僕は机に向かい、小説を書き続けた。
夜が更けてきたころ、突然スマホの着信音が大きく鳴り響いた。慌てて電話をとると、スミさんの声が耳元に響いた。
「理人先生?ニュースです!」
スミさんは鼻息が荒く、いつになく興奮気味だ。
「どうかしましたか」
「‥‥‥何と!重版出来ですっ!」
「じゅうはん‥‥‥しゅったい?」
「先生の本が売れて、本が増刷されるってこと。新人作家がこのペースで重版かかるなんて、凄いよ!おめでとう」
「本当に‥‥‥?あ、ありがとうございます」
「それで、来週の金曜日なんだけど、空いてる?」
「え‥‥‥?はい、大丈夫ですけど」
「良かった。先ほど朝霧先生から連絡が来てね。理人先生に会ってみたいから、受賞作の書評の原稿を渡す機会に、食事会セッティングしてほしいって言われたの。これからホテルのレストランを予約するので。また詳しく決まったら連絡するね」
「ええっ‥‥‥あんな大御所の先生と?」
「あ~、緊張しなくて大丈夫。朝霧先生はかなりのお酒好きで有名だけど、理人先生は未成年だし、朝霧先生とお話してくれるだけでいいんだ。お酒のお相手は、私がやるから」
「スミさんはお酒強いんですか」
「まあ‥‥‥、嗜む程度だけど、それなりにはね」
恋愛小説家で、酒豪とは。何だか面倒くさそうな相手だ。未成年で良かった、と心の底から僕は思う。
「わかりました。では、よろしくお願いします」
電話を切ると、数分でスミさんから『SNS新規投稿』の通知が来た。
僕は、ベッドの上に横になって、その公式アカウントのリンクを開いた。『祝 重版決定』というフォントの横に『清郷理人』という文字が見えた。
自分の名前の文字を指でなぞってみる。それは自分のものなのに、まるで実体のない、架空の人物のもののように感じられた。
――本物の作者は、白川夏芽なのに。
そう心の中で呟いたとき、急に寂しさが胸に押し寄せてきた。こんなに喜ばしいニュースのはずなのに、一緒に喜びたい人が傍にいないなんて……。
――そもそも、夏芽は傍にいない人だったじゃないか。
無理やりにも、自分にそう言い聞かせてみる。けれど、心の痛みは軽くなるばかりか、ますます重症化するように思えた。それはおそらく、その事実をずっと直視できないでいたから。夏芽が亡くなって三年経った今も、受け入れられない事実なのだ。
夏芽の亡くなった日のことは、思い出さないようにしてきた。
――そういえば、生きている夏芽に最後に会ったのは、いつだったんだっけ‥‥‥。
生きている夏芽を思い出そうとするも、時間が経てば経つほど、記憶の中の彼女はぼんやりとしていくような気がした。そして、夏芽を失った日のことよりも、夏芽を思い出せなくなることのほうが残酷なことのように思えるのだった。
――たしか、夏休み前の終業式の日だった。一緒に下校して、夏芽の家の近くの国道沿いの道で別れた。最後に交わしたことばは、何だったっけ。
「またね」だったかもしれないし、「バイバイ」だったかもしれない。
あの時が最後になるなんて、予想もしなかった。この間だってそうだ。夏祭りが終わっても、この部屋で二人楽しく過ごしたり、伊豆に行ったりできると思っていた。けれど、現実は異なるものとなった。
――約束された未来なんてないってわかっていたはずなのに。夏芽だけをしっかり見て、二人の時間を大切にすればよかった。
僕は寝返りを打つと、枕元に置いてあった夏芽の小説を手に取った。
「夏芽‥‥‥やったね。重版出来だって」
部屋はしん、と静まり返って、何の返事もない。しかし、僕は話し続けた。
「どのくらいの人に届くんだろうな。何千人、いや、何万人かな‥‥‥?夏芽の夢だったもんね。この本が、日本を飛び出して、世界中を旅してくれるといいね」
返事を期待した僕のことばは、他人が聞くと空振りで、馬鹿みたいに聞こえるのだろうか。
僕の声は、静まった部屋に虚しく響くばかりだった。しかし、僕は、夏芽がそこにいることを願って言った。
「夏芽の小説‥‥‥やっぱ凄いや」
僕は目を閉じた。目を閉じなければ、涙が零れ落ちそうだった。
そのうちに、深い闇が僕を包んだ。いつの間にか、僕は眠りの淵に落ちてしまっていた。
また、不思議な夢を見た。
地元の浜辺で夏芽と遊んでいる僕。二人は水着を着ていて、体は小さい。小学校時代の夏休みだ。波の音と透明な海水だけが、僕らを包みこんでいた。
海から上がると、体からたくさんの雫がぽたぽたと落ちた。僕は、「ああ、疲れた」と言って、砂浜の上に寝転がった。
「そのまま横になっててね」
砂浜に寝そべった僕のからだに、夏芽が砂をどんどんかぶせていく。海水浴で冷えたからだに、温かい砂がかかって心地よい。その砂はどんどん僕の体を覆い、やがて僕は砂の上に顔だけ出す形になった。夏芽はその姿を見て可笑しそうに笑うと、僕の隣に寝そべった。
ふいに、夏芽が空を見上げたまま、「あの約束、覚えている?」と言った。僕は、何のことか思い出せない。
わからない、と首を振ると、「片方が覚えていて、片方が忘れる。そういうことってあるよね」と言って、少しかなしそうに笑った。
すると、急に砂がくずれ、蟻地獄に飲まれるように、僕たちは砂の中に吸い込まれた。いつか見た夢と、少し似ている、と僕は思った。
次の瞬間、気が付くと、僕はどこか別の場所に移動していた。ふかふかのベッドの中。ここはどこだろう。
身を起こして辺りを見回すと、部屋の奥に大きな書棚、窓辺にはピンクのカーテン、その横に学習机があった。赤いランドセルがかけられているのを見て、そこが夏芽の部屋だということが分かった。夏芽は、窓辺にたたずんでいたが、僕が目を覚ましたことに気が付くと、「おはよう」と言って微笑んだ。そして、一冊の分厚い本を書棚から取り出すと、僕にそっと差し出した。「何」と訊いたが、夏芽は頷いただけで、何も言わなかった。
窓からは、夕焼けの赤い光が差し込んでいた。
僕は、その光の眩しさに目を細めた。
♪ ♬ ♬ ♪ ♪ ♬ ♬ ♪
どのくらい眠っていたのだろう。携帯電話の大きな着信音で、僕は目を覚ました。
着信画面に、「瑞野叶葉」という文字が見える。慌てて、電話に出る。
「‥‥‥もしもし」
「理人くーん、おめでとっ!」
「え……?」
「公式アカウントのお知らせ見たよ!」
僕は、壁にかかった時計を見た。ネットの拡散力、恐るべし、だ。スミさんからSNSアップの知らせが来てから、まだ一時間も経っていないことに気が付く。
「ありがと。僕もびっくりしたんだ」
「ほんと凄いよ~!またどこかでお祝いしようよ!ご馳走するよ」
「うん、ありがと…‥‥」
そこまで言いかけて、僕は夏芽が消えてしまった日のことを思い出した。叶葉と接点を持ち続けるのは賢明ではない気がして、僕は躊躇した。
「だけど‥‥‥僕たち、もうあんまり会わないほうがいいんじゃないかな」
迷った挙句、その言葉が口から滑り出た。何だかおかしな台詞だと、言った直後に思った。これではまるで、別れを切り出す恋人みたいだ。
「え……?どうして」
「だって……、えっと‥‥‥その、叶葉は女優でしょ?お仕事に影響あるでしょ。僕みたいな奴と会っていて、変な噂でも立ったら‥‥‥」
そこまで言いかけると、叶葉は笑った。
「なぁんだ、そんなこと」
叶葉は、少しも怯んでいない様子で、「そんなの、気にしない!何なら、マネージャー挟んで会う?」と言って笑った。強気な叶葉に、僕はいつも太刀打ちできない。
「冗談はさておき。そんなに心配なら、あたしの部屋に来ればいいじゃない」
「それはもっとやばいって…‥‥!それに、若い女の子が、そんなこと簡単に言っちゃだめだよ」
「理人くんこそ、その物言い、おじさんみたいだよ」
「え……っ、マジか」
「まあ、あたしはそんなに売れっ子じゃないから、理人くんが心配するほどのことじゃないよ。気軽に遊びに来て」
「そっか‥‥‥、ありがと。じゃあ、またいつかの機会に」
僕は叶葉にお礼を言うと、電話を切った。
すると、数分後に再びスマホが鳴った。叶葉からのメッセージだった。
『来週の土曜日、空いてる? よかったらうちに来て。お店より、うちでお祝いするほうが落ち着くし。また作品について聞かせてよ。プロット作りなら、少しは力になれると思うよ』
メッセージの最後に、叶葉のマンションの住所が記載されていた。心に迷いが生じたものの、しばらく考えて、僕は結局OKの返事をした。夏芽の過去について、叶葉から何か聞き出せるかもしれないと思ったからだった。
メッセージを送信すると、僕はパソコンを開き、書きかけの小説に取り掛かった。主人公が暗い過去を乗り越え、新生する物語。
それは独白に近い書き出しだった。まるで日常を切り取っただけの、筋書きのない物語。
あとさきは、何も考えていなかった。ただ、主人公の心の内側と対峙したとき、主人公の抱える闇や弱さが浮き彫りになる気がした。それは言い換えれば、僕自身のすがたをした影なのだった。
その影は、僕が文章を書き連ねていくごとに、大きくなったり小さくなったりもした。しかし、僕は願いにも近い気持ちで物語を書き進めた。この影が消える日はかならず来る、と。
書き続けて、書き続けて――、どのくらい経ったのだろう。気が付くと夜が明けていた。
この物語がどんな結末になるのか、僕自身もまだよくわかっていなかった。
頭が重い。何も考えられないし、何もしたくない。
あれからもう一週間が経とうとしているのに、夏芽はまだ戻って来ない。僕の時計は、夏祭りの日で止まったままだ。
夏芽が消えた――その事実は、僕にとって受け入れがたいものだった。今までの楽しい日々が、幻だったかのように思えた。
しかし、スマホが大きな音を立てて、僕の意識は一気に現実に引き戻される。今日も変わらず、スミさんから催促のメールが届く。「進捗どうですか」と、いつもの七文字。
スミさんに、なかなか返事が出来ない。答えはもちろん「進捗ダメです」だ。
進むはずがなかった。執筆できる気力など、あるはずがなかった。僕の頭の中は、夏芽がなぜ消えてしまったのか、という疑問でいっぱいだったから。
僕は、のそのそとベッドから起きあがると、パソコンを取り出して、思いつくままに文章を書いた。
『どうして彼女は僕の前にだけ現れたのか。あの時、なぜ急に消えてしまったのか。』
書き始めると、疑問は次々と浮かんだ。
『夏芽は今どこにいる?まだこの世にいるのか?』
ここまで書いて、僕は指を止めた。他人が見れば、まるで推理小説か何かのプロットだと思うにちがいない。
『僕は最低だ。あんな軽はずみな行動をとるべきではなかった。』
実に情けないが、夏芽がどこかからこの文章を見ていてくれることを心の片隅で願いながら、懺悔の思いを綴った。
しかし、それでも彼女はこの部屋に現れることはなかった。
「リーヒート!」
ドアの向こう側から、クロードの声がする。暇を持て余しているのか、いつもよりノックの音が大きい。
無視しようかと思ったが、壁が薄いこの寮では、居留守を使ってもすぐばれてしまう。
仏頂面でドアを開けると、クロードが驚いたような調子で声をあげた。
「オウ‥‥‥?リヒト、どうしたんだい、そんな暗い顔して。大丈夫なの」
「‥‥‥ううん。全然大丈夫じゃない」
クロードの優しい口調に、僕はつい弱音をこぼしてしまった。
「どうしたんだよ~。楽しい夏休みじゃないのかぁ?」
僕は、ぶんぶんと首を振ると、「全然」と素っ気なく言葉を返した。
「なんかあった?」
「別に‥‥‥、執筆が進まなくて、悩んでただけ」
「そっか。そういうときは、一緒にお茶でもしようぜ。話聞いてやるよ」
クロードはそう言って自室に戻り、紅茶の入ったペットボトルと氷、クッキー缶を持ってきた。グラスに氷を入れ、紅茶を注ぐ。クッキ―缶には、フランス語で何か書かれている。缶を開ける気になれなくて、じっとその文字を見つめていると、クロードが言った。
「『人生は短い。思うように生きろ』って書いてあるよ」
くすくすと笑うクロードに、僕は「嘘だね」と返事をした。書いてある文字は、ラング・ド・シャ。日本でも有名なお菓子の名前なのだ。そのくらい、僕にだってわかる。
「そうか、まぁ、言い返すくらい元気ならよかったよ」
クロードは、クッキー缶を開けながら、床の上にあぐらをかいた。そして、僕のパソコンの画面の文字に気が付くと、「これって何?今書いている小説?」と聞いた。
僕は慌ててパソコンを閉じると、「いや、小説のメモ書きみたいなものかな」と言って、話を逸らした。今の僕の心境など、クロードに話しても理解してもらえるはずがない。
「で、伊豆にはいつ戻るの」
「え?」
「取材、行くんだろ?ここでくすぶってるより、そうしたほうが気分も変わるんじゃない」
「‥‥‥それが、まだ」
「え、帰るんじゃなかったの」
「あっちで会う予定の友達が、なかなか連絡つかなくなって。でも、そのうち帰るよ」
つい、嘘をついてしまった。夏芽がいない状態で、地元に帰る理由などないくせに。
「そっかー。俺、リヒトの小説楽しみにしてんだからね。次はどんなストーリーにしようと思ってるの?」
クロードがパソコンを指さして、興味津々といった様子で僕に訊く。
僕は適当に、「あの世とこの世の住人の往復書簡」と答えた。実際そんなものは書いていない。しかし、今というこの瞬間に僕が興味あることと言えば、夏芽との交信だけだったので、僕はそう答えた。
「あの世と、この世の住人の‥‥‥か」
「‥‥‥どうかした?」
「いや、小説のネタになるかはわかんないけどさ。俺の小さいころの体験。聞きたい?」
「うん」
「小学校に入ったばかりで‥‥‥、フランスに住んでた頃の話なんだけど」
クロードは、記憶をたどるように目を伏せ、話し始めた。
「俺、近所の子供たちから、日本人の血が入ってることを理由にいじめられてて。だから、学校に行くのも嫌で‥‥‥、家に閉じこもってばかりだった。けどね、おばあちゃんが、ある日俺に会いに来てくれたんだ。わざわざ日本からね。俺の部屋に入ってきて、そして、悩みを聞いてくれたんだ。両親にも話したことなかったのに、おばあちゃん、俺のこと何でも知っているみたいだった」
「何でも?」
「うん、透明人間なのかなってくらい、俺のことをどこかから見ていたみたいなんだよね。そのときは、まだ気づいていなかったんだけど」
「うん」
「あとから気づいたんだ。あれは、生きてるおばあちゃんじゃなかった、って」
「‥‥‥!え、え……?どういうこと」
僕は、似たような境遇にいる人間だ。その話、もっと聞かせてくれ――、そう思いながら、僕はクロードの次のことばを待った。
「つまりは、俺のことが心配で、帰ってきたんだ」
「あの世から?」
クロードはこくりと頷くと、ここだけの話、と続けた。
「俺、おばあちゃんから処世術を教えてもらったんだよね」
「うん」
「おばあちゃんは言ったんだ。子供は未熟だから、分からないことだらけなんだ。怯まずに、日本についてよく学びなさい――、そして世界にはまだまだ素晴らしい場所がたくさんあることを、彼らにも見せてやりなさい、って。だから、俺はいじめてきた子たちに、日本の良さを伝える努力をしたんだ。最初はもちろん、理解してもらえなかったけどね。でも、自分の意見をしっかり言えるようになってから、友達が少しずつ増えていったんだ」
「‥‥‥すごい。自分から、殻を破ったんだ」
「完全に、自分からじゃないよ。おばあちゃんが励ましてくれたお陰なんだ」
クロードが、窓の外に広がる空を見上げたので、僕も一緒に見上げた。そこには青い空しか見えなかったけれど、彼の翡翠色の瞳には、別の何かが映っているように思えた。
「おばあちゃんと話した最後の日‥‥‥。今でもよく覚えてる」
クロードが、僕のほうに視線を移して言った。神妙な顔つきだった。
「俺はその日まで、おばあちゃんは生きていると思ってたんだよ」
「うん」
「だから、すごく驚いたよ‥‥‥。まさか、ってね。おばあちゃんは俺に言ったんだ。もうすぐ天使様が迎えに来るから。だから、もう会えない、って」
「天使様‥‥‥?」
呆然としている僕の目を見つめながら、クロードは続けた。
「おばあちゃんは言ったんだ。天使様はこの世のあちこちに存在していて、死者だけでなくこの世の人間までも助けてくれる、って」
「‥‥‥それで、おばあちゃんは、どうしてクロードのところに戻って来たの?」
「うん……。そのことについては、何も聞けなかった。でも、そのときのおばあちゃんの笑顔を見て確信したんだ。もう大丈夫そうだから、いくね、って‥‥‥、そんな風に言われた気がしたんだ」
僕は、言葉を失ったまま、ただクロードを見つめていた。
グラスに入っている氷が解けて、部屋の中にカラン、という音が小さく響いた。
「――そのあと、そのあとは?」
「何もない」
クロードは、眉根を寄せて笑ったあと、寂しそうに言った。ずっと待ってたんだけどね。現れなかった。本当におばあちゃんは天に召されてしまったんだ、と。
考え込んでしまった僕を前に、クロードはにっこり微笑んで言った。
「まあ、この話はここまで。ところで、いいネタ浮かんだ?」
「あ‥‥‥ああ。ちょっと、驚いたけど」
「ま、この話を信じるか、信じないかは、リヒト次第だけどね」
「うん‥‥‥ありがとう。話してくれて」
――僕は、信じるよ。
心の中で、クロードに言う。それは、信じることが友情の証であるからだけではない。変わりばえのない毎日を、色鮮やかなものに変えてくれた夏芽のことを、僕も待ちわびているから。
「ねえ、もうひとつ、聞いてもいい」
僕は、クロードに尋ねた。
「うん、なに?」
「今、主人公の描写に行き詰っているんだ。誰かの代わりになって、その人の為に生きていく人物っていう設定で‥‥‥。そういう生き方は、人としてダメだろうか?」
小説の話にすり替えて、僕はクロードに訊いた。「自分の人生を生きていない」と僕を責めた、夏芽のその言葉が、ずっと心から消えないでいたから。
「一概にダメとは言えないさ」
「‥‥‥?」
「それが自分を犠牲にしてしまう生き方でなければね」
クロードの言葉は、僕の心の傷にそっと触れた。
その声は優しく、温もりに満ちていて、その傷を静かに癒やそうとしているみたいだった。
「想像してみて。もし、きみが主人公で、その誰かが本当に大切な人だったら。そして、その生き方が、きみが生きたい人生なのだとしたら。それはきみの人生の『選択』だっていうことになるよね。それに‥‥‥」
「うん」
「自分の人生を捧げられるほどに誰かを愛したとき、その愛する人は、きみの命になるから」
空気の粒子みたいな何かがはじけて、僕の目の前を駆け抜けていく。
一瞬、時が止まった気がした。そして、思った。もしやり直せるなら、僕は時計の針を巻き戻したい。夏祭りの日の、あのブルーアワーまで。
あの時の青い光景が、この世とあの世の境目のように思えたのは、夏芽と同じ時間軸を生きているという実感があったからこそだ。
夏芽に伝えられなかった想いが、喉元までこみ上げてきたとき、こらえきれず僕は後ろを向き、顔を伏せた。
一度こぼれた涙は、止まらなかった。
クロードは、何も言わなかった。ただ、「ちょっとコンビニ行く用事思い出した」と言って部屋を出て行った。
僕は礼の代わりに、片手を小さく上げた。
誰もいなくなった部屋に、僕の嗚咽だけがかすかに響いた。
僕は、心の中の夏芽に言った。
きみが輝けるのなら、僕はきみの影として生きることになっても、構わなかったんだ。
――きみは僕の光で、僕の命だ。
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気が付けば、八月になっていた。夏芽からの音信は、依然途絶えたままだ。
蝉のジリジリという鳴き声に煽られ、僕は開け放していた窓を閉めた。そしてベッドに寝そべり、天井を見つめながら思った。
この世に起こる奇跡とは、天使の悪戯なのだろうか、と。
そして、クロードの話を思い出した。それは、夢物語のようだったが、とても納得のいく、筋の通った話のように思えた。
クロードを見守っていたおばあちゃんには、間違いなくこの世界を去ることのできる正当な理由が出来たのだ。
クロードの話が真実なら、夏芽も何か理由があってここに戻って来たに違いない。
そして、何か言えないことを隠している。夏芽がいない今の状態では、そのことを確かめようもない。
僕はパソコンを開くと、今まで書いてきた小説のデータファイルを消去した。そして、真っさらな文書データの白い画面を起こすと、自分自身に向かって言った。
自分の物語を一から書きなおせ、と。
夏芽に伝えたいすべてのことを、ストーリーにすることにした。今までの弱い自分と決別をするために。そして、新しい未来を生きるために。
彼女にもう一度会いたい。そうするには、これを完成させるしかない気がした。そして、ふたたび会えたら、絶対一番に読んでもらいたい。そんな気持ちで僕は机に向かい、小説を書き続けた。
夜が更けてきたころ、突然スマホの着信音が大きく鳴り響いた。慌てて電話をとると、スミさんの声が耳元に響いた。
「理人先生?ニュースです!」
スミさんは鼻息が荒く、いつになく興奮気味だ。
「どうかしましたか」
「‥‥‥何と!重版出来ですっ!」
「じゅうはん‥‥‥しゅったい?」
「先生の本が売れて、本が増刷されるってこと。新人作家がこのペースで重版かかるなんて、凄いよ!おめでとう」
「本当に‥‥‥?あ、ありがとうございます」
「それで、来週の金曜日なんだけど、空いてる?」
「え‥‥‥?はい、大丈夫ですけど」
「良かった。先ほど朝霧先生から連絡が来てね。理人先生に会ってみたいから、受賞作の書評の原稿を渡す機会に、食事会セッティングしてほしいって言われたの。これからホテルのレストランを予約するので。また詳しく決まったら連絡するね」
「ええっ‥‥‥あんな大御所の先生と?」
「あ~、緊張しなくて大丈夫。朝霧先生はかなりのお酒好きで有名だけど、理人先生は未成年だし、朝霧先生とお話してくれるだけでいいんだ。お酒のお相手は、私がやるから」
「スミさんはお酒強いんですか」
「まあ‥‥‥、嗜む程度だけど、それなりにはね」
恋愛小説家で、酒豪とは。何だか面倒くさそうな相手だ。未成年で良かった、と心の底から僕は思う。
「わかりました。では、よろしくお願いします」
電話を切ると、数分でスミさんから『SNS新規投稿』の通知が来た。
僕は、ベッドの上に横になって、その公式アカウントのリンクを開いた。『祝 重版決定』というフォントの横に『清郷理人』という文字が見えた。
自分の名前の文字を指でなぞってみる。それは自分のものなのに、まるで実体のない、架空の人物のもののように感じられた。
――本物の作者は、白川夏芽なのに。
そう心の中で呟いたとき、急に寂しさが胸に押し寄せてきた。こんなに喜ばしいニュースのはずなのに、一緒に喜びたい人が傍にいないなんて……。
――そもそも、夏芽は傍にいない人だったじゃないか。
無理やりにも、自分にそう言い聞かせてみる。けれど、心の痛みは軽くなるばかりか、ますます重症化するように思えた。それはおそらく、その事実をずっと直視できないでいたから。夏芽が亡くなって三年経った今も、受け入れられない事実なのだ。
夏芽の亡くなった日のことは、思い出さないようにしてきた。
――そういえば、生きている夏芽に最後に会ったのは、いつだったんだっけ‥‥‥。
生きている夏芽を思い出そうとするも、時間が経てば経つほど、記憶の中の彼女はぼんやりとしていくような気がした。そして、夏芽を失った日のことよりも、夏芽を思い出せなくなることのほうが残酷なことのように思えるのだった。
――たしか、夏休み前の終業式の日だった。一緒に下校して、夏芽の家の近くの国道沿いの道で別れた。最後に交わしたことばは、何だったっけ。
「またね」だったかもしれないし、「バイバイ」だったかもしれない。
あの時が最後になるなんて、予想もしなかった。この間だってそうだ。夏祭りが終わっても、この部屋で二人楽しく過ごしたり、伊豆に行ったりできると思っていた。けれど、現実は異なるものとなった。
――約束された未来なんてないってわかっていたはずなのに。夏芽だけをしっかり見て、二人の時間を大切にすればよかった。
僕は寝返りを打つと、枕元に置いてあった夏芽の小説を手に取った。
「夏芽‥‥‥やったね。重版出来だって」
部屋はしん、と静まり返って、何の返事もない。しかし、僕は話し続けた。
「どのくらいの人に届くんだろうな。何千人、いや、何万人かな‥‥‥?夏芽の夢だったもんね。この本が、日本を飛び出して、世界中を旅してくれるといいね」
返事を期待した僕のことばは、他人が聞くと空振りで、馬鹿みたいに聞こえるのだろうか。
僕の声は、静まった部屋に虚しく響くばかりだった。しかし、僕は、夏芽がそこにいることを願って言った。
「夏芽の小説‥‥‥やっぱ凄いや」
僕は目を閉じた。目を閉じなければ、涙が零れ落ちそうだった。
そのうちに、深い闇が僕を包んだ。いつの間にか、僕は眠りの淵に落ちてしまっていた。
また、不思議な夢を見た。
地元の浜辺で夏芽と遊んでいる僕。二人は水着を着ていて、体は小さい。小学校時代の夏休みだ。波の音と透明な海水だけが、僕らを包みこんでいた。
海から上がると、体からたくさんの雫がぽたぽたと落ちた。僕は、「ああ、疲れた」と言って、砂浜の上に寝転がった。
「そのまま横になっててね」
砂浜に寝そべった僕のからだに、夏芽が砂をどんどんかぶせていく。海水浴で冷えたからだに、温かい砂がかかって心地よい。その砂はどんどん僕の体を覆い、やがて僕は砂の上に顔だけ出す形になった。夏芽はその姿を見て可笑しそうに笑うと、僕の隣に寝そべった。
ふいに、夏芽が空を見上げたまま、「あの約束、覚えている?」と言った。僕は、何のことか思い出せない。
わからない、と首を振ると、「片方が覚えていて、片方が忘れる。そういうことってあるよね」と言って、少しかなしそうに笑った。
すると、急に砂がくずれ、蟻地獄に飲まれるように、僕たちは砂の中に吸い込まれた。いつか見た夢と、少し似ている、と僕は思った。
次の瞬間、気が付くと、僕はどこか別の場所に移動していた。ふかふかのベッドの中。ここはどこだろう。
身を起こして辺りを見回すと、部屋の奥に大きな書棚、窓辺にはピンクのカーテン、その横に学習机があった。赤いランドセルがかけられているのを見て、そこが夏芽の部屋だということが分かった。夏芽は、窓辺にたたずんでいたが、僕が目を覚ましたことに気が付くと、「おはよう」と言って微笑んだ。そして、一冊の分厚い本を書棚から取り出すと、僕にそっと差し出した。「何」と訊いたが、夏芽は頷いただけで、何も言わなかった。
窓からは、夕焼けの赤い光が差し込んでいた。
僕は、その光の眩しさに目を細めた。
♪ ♬ ♬ ♪ ♪ ♬ ♬ ♪
どのくらい眠っていたのだろう。携帯電話の大きな着信音で、僕は目を覚ました。
着信画面に、「瑞野叶葉」という文字が見える。慌てて、電話に出る。
「‥‥‥もしもし」
「理人くーん、おめでとっ!」
「え……?」
「公式アカウントのお知らせ見たよ!」
僕は、壁にかかった時計を見た。ネットの拡散力、恐るべし、だ。スミさんからSNSアップの知らせが来てから、まだ一時間も経っていないことに気が付く。
「ありがと。僕もびっくりしたんだ」
「ほんと凄いよ~!またどこかでお祝いしようよ!ご馳走するよ」
「うん、ありがと…‥‥」
そこまで言いかけて、僕は夏芽が消えてしまった日のことを思い出した。叶葉と接点を持ち続けるのは賢明ではない気がして、僕は躊躇した。
「だけど‥‥‥僕たち、もうあんまり会わないほうがいいんじゃないかな」
迷った挙句、その言葉が口から滑り出た。何だかおかしな台詞だと、言った直後に思った。これではまるで、別れを切り出す恋人みたいだ。
「え……?どうして」
「だって……、えっと‥‥‥その、叶葉は女優でしょ?お仕事に影響あるでしょ。僕みたいな奴と会っていて、変な噂でも立ったら‥‥‥」
そこまで言いかけると、叶葉は笑った。
「なぁんだ、そんなこと」
叶葉は、少しも怯んでいない様子で、「そんなの、気にしない!何なら、マネージャー挟んで会う?」と言って笑った。強気な叶葉に、僕はいつも太刀打ちできない。
「冗談はさておき。そんなに心配なら、あたしの部屋に来ればいいじゃない」
「それはもっとやばいって…‥‥!それに、若い女の子が、そんなこと簡単に言っちゃだめだよ」
「理人くんこそ、その物言い、おじさんみたいだよ」
「え……っ、マジか」
「まあ、あたしはそんなに売れっ子じゃないから、理人くんが心配するほどのことじゃないよ。気軽に遊びに来て」
「そっか‥‥‥、ありがと。じゃあ、またいつかの機会に」
僕は叶葉にお礼を言うと、電話を切った。
すると、数分後に再びスマホが鳴った。叶葉からのメッセージだった。
『来週の土曜日、空いてる? よかったらうちに来て。お店より、うちでお祝いするほうが落ち着くし。また作品について聞かせてよ。プロット作りなら、少しは力になれると思うよ』
メッセージの最後に、叶葉のマンションの住所が記載されていた。心に迷いが生じたものの、しばらく考えて、僕は結局OKの返事をした。夏芽の過去について、叶葉から何か聞き出せるかもしれないと思ったからだった。
メッセージを送信すると、僕はパソコンを開き、書きかけの小説に取り掛かった。主人公が暗い過去を乗り越え、新生する物語。
それは独白に近い書き出しだった。まるで日常を切り取っただけの、筋書きのない物語。
あとさきは、何も考えていなかった。ただ、主人公の心の内側と対峙したとき、主人公の抱える闇や弱さが浮き彫りになる気がした。それは言い換えれば、僕自身のすがたをした影なのだった。
その影は、僕が文章を書き連ねていくごとに、大きくなったり小さくなったりもした。しかし、僕は願いにも近い気持ちで物語を書き進めた。この影が消える日はかならず来る、と。
書き続けて、書き続けて――、どのくらい経ったのだろう。気が付くと夜が明けていた。
この物語がどんな結末になるのか、僕自身もまだよくわかっていなかった。
