ブルー・アワーに舟を放つ

1
『夏休みが来る。
一生に一度しかない、十七歳の夏休み。
当然ながら、それは誰にとっても一度しかないのだけれど――、きっと掛け値なしに素晴らしく、特別なものになると私は信じている。』


これは、夏芽の書いた『言わずもがな いと恋し』の冒頭の一節だ。
十七歳の夏休みが、ほんとうに「素晴らしく、特別なもの」になるのか、そんなことまではまだわからない。
しかし、もうすぐやってくる夏休みの計画を頭の中で練りながら、僕は少しばかり浮き足立っていた。
まず、最初のプランは、夏芽と下田に行くこと。そして、小説を仕上げること。できるなら甘酸っぱい思い出も伴うとなおよし、というのが僕の理想で、妄想だ。
「来週から夏休みの学生さんも多いですね。猛暑日が続きそうですので、熱中症対策をしてお出かけください」 
寮の食堂にある大型テレビから、天気予報のお姉さんの明るい声が聞こえてくる。
テレビ画面をぼんやり眺めながら朝食を食べていると、正面の席に座っていたクロードが口を開いた。
「リヒト、夏休みの予定立てた?」
「うん……。今年の夏は、帰省するつもりなんだ」
「え!どうした?入学して、帰省したことなんてなかったくせに」
「ちょっとね。‥‥‥自分探しの旅、みたいな感じ」
クロードは、「ねえ、何それ?もったいぶって」と僕の足を蹴飛ばしてくる。
「もしかして、例のカノジョと?」
「……カノジョって?」
「噂になってるよ! 校門での待ち合わせ!」
クロードが眉毛を動かして、意味深な笑みを浮かべている。
「えええええっ?」
「またまた、白々しい」
「違う違う‥‥、あれはただの知り合い!」
「みんながいる前で、ぐいぐい引っ張っていくリヒトがカッコよかった、って、あちこちで噂になってるよ」
困ったことになった、と僕は思った。叶葉との待ち合わせを皆に目撃されてから、一週間近く経つ。
もうあのことはすっかり忘れ去られたものとばかり思っていたのに、そんな噂になっていたとは——。
最近、生徒たちの視線が以前に増して刺さると思っていたのはそのせいだったのか。
「きみやみんなが想像しているような関係では、断じてない!」
「なんだよ~そんなムキになるなよ。で、地元で何するの?」
「夏休みは、伊豆が舞台の小説を書くつもりなんだ。だから、取材に行く」
「おお~!次の作品、伊豆が舞台?どんな小説?」
「実は‥‥‥。まだ説明できるほど進んでいない」
「オッケー、企業秘密ね。でも、頑張れよ! 楽しみだな!」
クロードはすっかり僕の小説のファンになってしまったらしく、先日も本にサインをねだってきた。
そして、「何か身の回りで困ったことがあれば、なんでも手伝うから」と言ってくれた。
クロードみたいな友人がいてくれて、本当に心の支えになる。
「ねえ、リヒト。やっぱ気になるから聞くけど。叶葉ちゃんは、いつからの知り合いなの?」
「中学の同級生なんだ」
「そうだったんだ!親密そう、って聞いたから、てっきりカノジョかと」
「んなわけ、ないだろ~」
「でもさぁ。リヒトには、好きな人とかいないわけ?」 
クロードは、いつもこういうデリケートな質問を、「ごはん食べた?」くらいの感覚で聞いてくる。
僕は、赤くなった顔を見られないよう、天井を仰いで答えた。
「いるっちゃいるけど、いないっちゃいないような‥‥‥」
――「この世には」、と心の中で付け足す。
僕のおかれている状況は、誰にも理解できない。いくら親友でも、夏芽の存在や、その正体までは明かせない。
けれど、クロードは人のいい奴なので、根掘り葉掘りまで訊くことはしなかった。
その代わりに、「オーケー。でもそのひとにだけは、正直な気持ちを伝えなよ」と笑顔で言うのだった。

朝食をすませ表に出ると、ぎらぎらと太陽が照り付けてきた。今日はかなりの猛暑になりそうだ。
校門のところまで来たところで、僕は足を止めた。そして、叶葉が立っていた場所に目をやった。
確かに、先週ここで彼女の腕を掴んだ。透き通るように白くて、やわらかい肌だった。そのことが、今になって現実のものとして、感覚の中によみがえってきた。じっと、手のひらを見つめる。
「りーひーとーくん!」
ふいに、誰かが僕の名を背後から呼んだ。
「え……っ?」
聞き慣れた声に、思わず硬直する。
「何、ぼうっとしてたのよ~?」
「わわ。なんで‥‥‥?」
振り向きざまに彼女と目が合って、うっかり大きな声を発してしまった。
夏芽が背後で浮遊していたのだ。
しかも、身に着けているのは、水色の半そでシャツにリボンタイ、タータンチェックのミニスカート。
「え、え、うちの高校の制服ー!」
僕が言うと、たちまち夏芽の顔が緩んだ。
「そうで~す!似合う?かわいい~?」
夏芽は、地面に足を下ろすと、その場でモデルみたいにポーズをつけた。
慌てて周りを見回したが、ほかの生徒たちは誰もこちらを気にかけることなく、横を素通りしていく。
誰にも見られてはいないようだ。
驚きのあまり言葉が出ず、まごついていると、夏芽がしびれを切らしたように声を上げた。
「ねぇってば!」
「に‥‥‥、似合うけど…‥‥。なんで学校に?」
ほかの人に気づかれないように、小声で質問する。
「がっこう・けんがくぅ~!」
 ちょっとおどけて、アニメキャラみたいな声で言うので、僕は吹き出しそうになる。
「ちょっ‥‥‥勘弁してくれよ」
 夏芽は、まあまあ、と僕をなだめるように言った。
「たまには、学校での理人を見てみたくってさ」
「いやいやいや‥‥‥、なんか親が授業参観に来てるみたいで、気になるし」
はっと気が付くと、夏芽は僕よりも先回りして、廊下を浮遊している。
しまいには職員室や教室にいる生徒たちに挨拶まで始めてしまって、僕は冷や汗が止まらない。
「お~い‥‥‥いい加減にしないと‥‥‥」
「誰にも見えないから平気だって」
「だとしても、僕は平気じゃないんだ‥‥‥。静かにして、頼むから‥‥!」
教室に入り席に着くと、すぐに朝礼のチャイムが鳴った。廊下で騒いでいた生徒たちと、担任の先生が入ってくる。
僕の席の隣の生徒がたまたま休みだったので、夏芽はその空いている椅子に腰かけることができた。
高校の制服を着た夏芽は、僕の目からみるとクラスの一員にしか見えない。
――夏芽だって、高校生活を体験してみたかったのかもしれない。
そう思うと、心の中が少しだけ、ずきん、と傷んだ。

その日の一限目は、古典の授業だった。
夏芽は中学のときから古典が好きで、久しぶりの授業に喜んでいた。教科書が手元にないので、僕のそばで一緒に教科書を見ながら授業を受けた。先生に当てられて、和歌の技巧について質問されたが、夏芽のおかげで答えることができた。
こういうとき、頭脳明晰な幽霊は頼もしい。夏芽はにっこりと笑って、僕にピースサインを見せた。
――それにしても、なんで学校までついてきた‥‥‥?
楽しそうに授業を受けている夏芽を横目に、僕は思った。 思えば、一週間前からだ。家に帰ってもそわそわしているし、夏芽の様子は少しおかしい。書きかけている小説のことには触れてこなくなったし、今どこまで執筆が進んでいるのかも訊かなくなった。
小説の続きは、満足いくように書けず放置している。
こんな時、いつもの夏芽ならもっと叱咤激励してくるはずなのに……、何かが変だ。
夏芽には、叶葉に会ったことは、知らせていない。
――まさか……、僕が叶葉に会ったことを知っている‥‥‥?
ふとそんな考えがよぎったが、違う、と僕は首を振った。叶葉は夏芽のよく知る相手だ。もし仮に夏芽があの場にいたとしても、何の問題もなかったではないか。
しかし、僕はなぜだか、夏芽に叶葉とのやりとりを伝える気分にはなれなかった。叶葉には、もうこれきり接点をもつこともないだろう、と思ったから。それに、あの作品が夏芽のものだとばれていた、だなんて、余計な心配もかけたくなかった。
僕は、ノートの端に走り書きをして、夏芽に見せた。

『今日はサボりたい気分だから、このあと一緒にここを出よう』

学校をサボろうと思ったのは、初めてかもしれない。
僕は昔から勤勉だったし、学校の先生に嘘をつくことは許されないと信じてきた。
しかし、今日は自分でも驚くくらいあっさりと嘘がつけた。やりたくないことは、後からでもいい。今日しか出来ないことをやろう、と、もう一人の自分が肩を叩いた気がしたのだ。――いや、実際は、夏芽が書いた『一生に一度しかない、特別な夏休み』という心躍るフレーズが、僕の気持ちを自由にしたのかもしれない。
「体調が悪いので、今日は早引きします」
職員室で担任に挨拶をすませると、僕は足早に廊下を歩き、玄関口のところまで行った。
夏芽は、少しばつが悪そうな顔をして待っていた。
「お待たせ」
「ねえ…。理人、本当にサボりたかったの?」
「まぁ、そうだな。学校で夏芽が傍にいると、その……」
本音が言えず、言葉がつまる。顔を見られないように、僕は夏芽に背を向けて、下駄箱から靴を取り出した。
「もしかして、あたしが学校にいるの、嫌だった?」
夏芽の声のトーンが低くなったことに気が付き、僕はすぐに振り向いた。
夏芽は申し訳なさそうに、俯いている。
「そうじゃない‥‥‥、ただ、僕は夏芽といると、気になって‥‥‥、ほかのことが手につかなくなるみたいなんだ」 
うっかり本音がこぼれ、一瞬どぎまぎとした。発した言葉は、回収することはできない。
しかし、幸い、夏芽は僕の気持ちには何も気付いていない様子で言った。
「ごめんね。理人の勉強の邪魔をするつもりじゃなかったんだよ」
夏芽は両手を合わせると、「ごめん」とふたたび頭を下げた。
「いいさ。どうせ、夏休み前なんだ。授業もそんなに進まないから、気にしないで」
さっきまでは、他の人の目が気になって視線を逸らしていたが、あらためてよく見ると、夏芽はうちの制服がよく似合っている。
中学のときの夏芽の姿が、目に浮かんだ。夏芽の身長は、160センチくらい。あの頃、僕よりも少し背が高かったはずだ。
あれから三年の月日が流れ、今では僕が夏芽を見下ろす視点にいることに気が付く。
――夏芽は、変わらないままなんだ。
そう思うと、ふたたび胸がずきん、と傷んだ。

校舎の玄関口を出たところで、僕はいつも利用している門とは反対側にある、裏門から下校することに決めた。
裏門に続く小道には、たくさんの木陰があり、暑さもしのげる。
それに、学校での時間が久しぶりの夏芽に、もっと校内の風景を見せてあげたいと思ったせいもある。
僕らはしばらく無言で歩いていたが、夏芽が「あ」と声を上げたので、僕は振り向いた。
夏芽の視線の先にあったのは、礼拝堂だった。キリスト教に基づく建学精神を謳うこの学校には、自由に出入りできる礼拝堂があるのだった。
「ねえ、あそこって入れるの?」
「今はどうだろ。生徒たちにはいつも開放されているはずだけど。……覗いてみる?」
「うん、入ってみたい」
夏芽の返事に、僕はすぐに踵を返し、礼拝堂の扉に近づいた。
思い切って押してみると、その重厚な木製の扉は、ギィと低い音を立てて開いた。
礼拝堂の中は薄暗く、目が慣れるのに少し時間がかかった。祭壇の前と通路脇には、数本の蝋燭が灯されている。
しかし、ひっそりとしていて、中には誰もいないようだった。足を踏み入れると、ひんやりとした神聖な空気が僕たちを包んだ。
礼拝堂の奥に、存在感のある大きな十字架とマリアの像が見える。そして、大きな窓や天井に施された色とりどりのステンドグラスが、夏の日差しを受けて輝いている。
「……綺麗。別世界にいるみたい」
 祭壇に一歩ずつ近づきながら、夏芽が僕に訊いた。
「祭壇のところに書いてある、あの言葉は‥‥‥?」
「ラテン語だよ。聖書の言葉だったと思う。確か、キリストがこの世に来たのは、人々に仕え、自分の命を与えるためだった、っていう意味だったと思うよ」
僕は、キリスト教の授業で習ったことを思い出しながら言った。
「命を与えるため‥‥‥」
呟くようにそう言って、夏芽は歩みを止めた。そして、十字架を見上げたまま、傍にあった長椅子に腰かけた。
僕も、夏芽の横に座った。幽霊と人間が、こんな場所にいるのは少し滑稽な気もしたが、この礼拝堂の空気が不思議と肌になじんでくるのがわかった。
「ねえ、あたし、ずうっと疑問に思っていたことがあって」
「‥‥‥うん」
「人は、生まれたとき、結婚するとき、そしてお葬式のときに、神様の前に召されて儀式をするじゃない?」
「確かに。それは、教会でも神社でも同じだね」
「どうしてだろうなぁ、って、ずっと考えていたの。だけど、今すこしその理由が分かった気がする」
 僕は、横に座っている夏芽の顔を見た。夏芽は、天窓を見上げていた。赤や青のステンドグラスの模様が、まるで万華鏡を覗いたときのように、彼女の瞳の中を移りゆくのが見えた。僕も、彼女につられて天窓を見上げた。夏芽と一緒に、別世界を覗き込んでいるみたいに思えた。
「分かったって……何が?」
「それらはすべて、誰かに命を与えるほどの出来事、ってこと。その『命のやりとり』を、神様に見守っていてほしいんじゃないかな」
「そうか……。 確かに、この世に生まれるとき、赤ん坊は両親に命を与えられる」
「結婚もそう。苦楽をともにし、死が二人を分かつまで愛し合います、と誓う。それは、自分の命を削っても、伴侶を愛し、守り抜くという誓いだから」
「お葬式は?」
「死者の命は、生前関わった人たちの中に吹き込まれていると思う。その人たちは、死者が遺したものを、知らず知らずのうちに心の中で受け取っているの」
「‥‥‥そうだね」
 夏芽の背後に、燭台に載せられた蝋燭が温かな光を放っているのが見えた。その炎を見つめていると、夏芽のお葬式の日のことがぼんやりと脳裏に浮かんだ。
「でも‥‥‥。あたしは、その三つのうち、結婚式だけできないまま死んじゃった」
夏芽の声が今にも消え入りそうな感じに聞こえたので、僕は気になって、夏芽の方に顔を向けた。
夏芽の顔は、笑っているように見えた。けれど、その笑みはどこか痛々しく、無理に笑顔を作っているように思えた。
僕の視線に気がついたのか、夏芽は少し顔をそむけた。
そして、努めて明るく、いつもの夏芽らしい声で言った。
「あーあ。若くして死ぬ、ってすっごく損した気分だよねぇ。こんな綺麗な礼拝堂で、ドレス着て挙式できたら、素敵だっただろうなぁ。愛の誓いとか、ブーケトスとか、してみたかったぁ~」 
僕は返事に困り、そっか、と相槌だけ返した。
「‥‥‥なんてね。なんだか辛気臭くしちゃった、ごめん」
今更どうしようもないことだねと、申し訳なさそうに俯いてしまった夏芽に、僕は言った。
「そんなことないよ。女の子は結婚式って憧れるものだよね」
そのことばに返事はなかったが、夏芽がかすかに頷いたのが、僕には分かった。
「あ‥…、そうだ。僕、さっきの結婚式の誓いの話で思い出したんだけどさ」
「……うん?」
「教会での結婚式に、誓いのキスってあるじゃん?何の意味があるんだろうって、僕はずっと思っていて。‥‥‥だけど、最近やっとその意味を知ったんだ。あれって、単にお互いの愛情を示すものではないんだって」
「えっ‥‥‥、そうなの?じゃあ、何のため?」
「永遠の愛の誓いの言葉を、自らの中に封印するためらしい。そうすることで、その言葉は自分の中に残るんだ――、自分との約束として」
その言葉に、夏芽は大きく目を見開いて、僕の瞳をじっと見つめた。近い距離で夏芽と目が合ったので、僕の胸はどきっと鼓動した。その一瞬の後、周囲の蝋燭の炎のゆらめきが大きくなったのが分かった。
異変に気付き、恐る恐る周囲を見回す。通路脇の蝋燭だけでなく、祭壇前にある長い蝋燭までもが、何かに共鳴するようにゆらゆらと大きく炎を震わせている。
――どこからも風は入ってきていないのに…‥‥。どうして‥‥‥?
不思議な現象に心を奪われながら、僕は夏芽の顔をもう一度見た。その大きな瞳は潤んでいて、唇も少し震えているのが分かった。
「‥‥‥夏芽?どうかした?」
「ううん‥‥‥。べっ、別に、何でもない」
「ほんとに?」
 夏芽は静かに頷くと、恥ずかしそうに目を伏せながら言った。
「‥‥‥誓いのキスに、そんな意味があるんだね。理人がそんなこと知ってるの、ちょっと意外だなぁ、って」
夏芽に「そんなこと」と言われ、僕は急に恥ずかしくなった。司祭の先生から教えてもらったことをそのまま話しただけなのに、気障なことを口にしてしまったような気がして、僕はすぐに夏芽の顔から目を逸らした。
夏芽は、それ以上何も言わなかった。
しばらくの沈黙の後、夏芽は目を閉じて胸の前で手を組み合わせたかと思うと、静かに祈り始めた。
不穏なまでにゆらめいていた蝋燭の炎も、いつのまにか静寂を取り戻し、やわらかな光に変わっていた。
祈りを捧げているその姿を横目に、僕は夏芽の願いがどのようなものであるかを想像した。
そして、思った。この世から存在を切り離されたきみに、その祈りは意味のあるものなのか、と。
きみは神のもとに召されたはずだ。—―それなのに、ここで、何のために。
同時に、僕の心にあるひとつの「願い」に気が付くことになった。
――もし今ここで——、夏芽に永遠の愛を約束できたなら‥‥‥。
僕も、胸の前で手を組み合わせ、目を閉じた。
純白のウエディングドレスを着た夏芽の姿が、まぶたに浮かんだ。
真っ赤なヴァージンロードの上をゆっくりと歩いてくる夏芽は、教会の淡い光の中、ひときわ美しく見えた。
その姿は神々しく、僕の妻にするには勿体ないと思うほどだった。夏芽は僕の傍まで来ると、幸せこの上ないと言うような微笑みを浮かべた。牧師をはさんで、ひととおりの誓いの言葉のあと、指輪を交換する。そして最後に、誓いの口づけの時間。
夏芽が、ゆっくりと僕のほうに体を向ける。夏芽のヴェールに手をかける僕――そして、彼女の唇に顔を近づけようとした、その瞬間――。僕は、この光景を今すぐ現実のものにしたいという強い思いに駆られた。
僕はすぐさま目を開いて、隣にいる夏芽を呼んだ。
「夏芽」
その呼びかけに、夏芽も目を開いて、不思議そうに僕を見つめ返した。
「夏芽が出来なかった……その‥‥‥」
 緊張のあまり、言い淀む。
――結婚式の相手が、僕ではダメだろうか。
その言葉を夏芽にかけようと、口を開いたその時だった。祭壇の奥にある扉が大きく開いて、外から差し込む光が礼拝堂内を満たした。黒い人影が見えると同時に、男性の大きな声が響き渡り、僕らは現実に引き戻された。
「‥‥‥誰かいるんですか⁉」
僕は、座っていた長椅子の下に、急いで身を隠した。礼拝堂を管理している司祭の先生が、戻って来たのだ。
長椅子の影に身を隠しながら移動する。ここからでは、祭壇の反対側の扉から脱出を試みるほかない。僕は、小声で夏芽に言った。
「‥‥‥やばい。逃げるぞ」
 先生がこちらを見ていないことを確認すると、僕は身を低くしたまま扉の下まで来た。
そして、音を立てないように扉をそっと開くと、這った状態のまま表に出た。
頭上からぎらぎらと夏の日差しが差し込んできて、その眩しさに思わず目を細めた。
「こらっ、待ちなさい!」
背後から、先生の大きな声がする。しかし、ここで捕まるわけにはいかない。
僕は、礼拝堂を出て一目散に校門まで駆け抜けると、近くの公園の茂みの中に逃げ込んだ。
「‥‥はぁ、はぁ‥‥。さすがにここまでは来ないだろ……」
夏芽が辺りを見回し、僕に言った。
「うん。もう追いかけて来てないみたい」
「はーっ、焦ったぁ~!」
「スリリングだったねぇ!理人、捕まらなくてよかった」
「ほんとだよ。ズル休みバレるとこだった‥‥ははは」
緊張が一気にゆるんだせいか、頬が緩んで、笑いがこみあげてくる。
こんなこと、夏芽がいなければ起こりっこない。そう考えるだけで、すでに特別な夏休みを過ごしているかのように思えた。
「ところで、さっき何か言いかけてたけど‥‥‥、何だったの?」
夏芽が、不思議そうに僕の顔を覗き込んでくる。
「え」
流石にあれは衝動的な思いつきだったと反省しながらも、このタイミングでその妄想について説明するわけにもいかず、僕は慌てて話題を変えた。
「……あ、ああ。うーん、何だったかな。‥‥‥そうだ。夏芽、どこか遊びに行こうよ、って言おうとしてたんだ。せっかく抜け出したんだし」
 夏芽はその言葉に最初はぽかん、としていたが、「どこかって、どこ?」と、嬉しそうに目をキラキラさせた。
僕は、そうだなぁ、と考えをめぐらせたあと、ふと公園の掲示板のポスターに目をやった。上野公園の不忍池の畔で夏祭りがあると、そこには書いてあった。
「夏祭りとか」
「え……?行きたい!いつ?」
「お祭り、明日の夕方からみたいだ」
「そっかぁ」
「明日、行ってみる?」
「行く行く!やったぁ」
「よーし、じゃぁ、決まりだ」
「夏祭りって、大好き!気分上がるよね~?浴衣着ちゃおうかな?」
「いいじゃん、どんなの着たい?」
「うーん。最近って、どんな浴衣が流行ってるのかなぁ?」
「そこまでは‥‥‥わかんないな。じゃあ、今から可愛い浴衣を探しに行く?」
 僕の言葉に、夏芽は飛び上がって喜んでいる。我ながら、いいアイデアだ、と僕は思った。浴衣姿の夏芽を、僕も見てみたい。
「その前に、僕は一回部屋に着替えに戻るよ。このままだと目立つし。寮母さんには、病院に行ってくるとか言って、どうにかするから。ここで待ってて」

部屋に戻ると、僕はすぐにシャツを脱ぎ捨てて、タオルで上半身の汗を拭いた。
ベッドに置いておいたスマホが数回振動したので、着信をチェックする。
『久しぶり~!明後日から夏休みだね!ドラマのロケから帰って来たよ!』
メッセージは、叶葉からだった。ドラマのロケ地で撮ったドレス姿の写真が添えられている。
僕は上半身裸のまま、周囲を思わず見回し、誰もいないことを確認すると返事を返した。
『素敵な写真ありがと。お疲れ様でした』
簡単に返事を打つ。あまり長いこと、夏芽を待たせるわけにはいかない。
すると、間髪入れずに返信がかえってきた。
『急なんだけどさぁ。明日の夜、会えるかな?』
『このあいだのお詫びに、お土産買ってきたんだぁ♪』
『もしよかったら、手渡しできるといいんだけど』
――お詫び、って、僕に疑いをかけたことへのお詫びだろうか。そんなの、全然気にしていないのに。
『ごめん。明日は、友達と遊びに行く約束をしてるんだ』
夏芽の顔を思い出しながら、僕はそう返した。
『えっ、そうなんだぁ~。その約束って、何時まで?』
『明日は仕事終わるのが夜九時過ぎくらいなんだけど。その時間でも難しい?お土産渡すだけだから、そんなに時間はとらないよ』
――九時過ぎか。
夕方から夏祭りに出かけたとしても、その頃には帰る時間になるだろう。
あまり夏芽に隠し事をするのも悪いので、いっそ叶葉のことを話してしまおうか、と僕は考え始めていた。
そもそも、叶葉は夏芽の親友だったのだから、隠さなくても大丈夫ではないか。
僕が気にかけていることといえば、クロードたちのように、夏芽にあらぬ誤解を招いてしまうことだった。
『わかった。じゃあ、明日の夜にどこかで待ち合わせしよう。仕事場はどこ?』
『上野公園のあたり』
え、と反射的に声が出た。急いで、文字を打ち返す。
『僕も明日、上野公園に行くんだ。お祭りがあるから』
『ええ~、そうなの?偶然だね。あたしね、そこで雑誌の撮影があるんだ。終了時刻は多少前後するかもしれないけど、そのときはまた連絡するね』
僕は、『了解』、とだけ返事を打つと、Tシャツを手に取って、袖を通した。
「‥‥‥いけない。待たせちゃったな」
僕は脱いだ服をバスケットに放り込むと、夏芽の元に急いだ。


2
次の日の夕暮れ時。僕は、夏芽と上野公園にいた。
夏芽が身に着けている浴衣は、華やかな向日葵の柄で、帯は水色。「明るい夏芽のイメージにぴったりあっている」と、昨日僕が選んだデザインのものだ。夏芽もそれを一目見て気に入り、今日着て来てくれたのだった。
不忍池にかかる橋まで来たときに、夏芽が「空」、と言ったので、僕は彼女につられて目線を上げた。
沈みかけの太陽。それが最後のちからを振り絞るようにして輝きを放ったあと、世界は深く澄んだ青に染まる。
「ブルー・アワーの空だね。この色の空、久しぶりに見たな」
嬉しいとも寂しいともつかないような表情を浮かべて、夏芽が言う。
「綺麗だね。よく、学校帰りに見た空だ」
僕は、夢の続きを見ているような気持になって、足を止めた。そして、夏芽とこの空をまた一緒に見られたことを幸運に思った。
夏芽があの浜辺での出来事を思い出してくれたらいいなと思ったけれど、言わなかった。
夏芽は、「そうだね」と言って微笑んだだけだった。もしかすると、もう忘れてしまったのかもしれない。
僕らは太陽が落ちていくのを、言葉もなく見送った。
光の反射によって空の青は一秒ごとに変化していく。
時間の経過が絶望的に速い気がした。このブルー・アワーの光のように、時間は僕らを置き去りにしてゆく。
心に秘めた想いや覚悟に気づきながらも、そ知らぬ顔をして追い抜いていく。
手を繋げたらいいのに、と思って、僕は勇気を出して、夏芽の右手のそばまで自分の左手を近づけてみた。
その手は透明で、僕にはもう、決して触れられはしないのだけれど――だけど、もし誰かが僕に魔法をかけてくれるとしたなら、僕は切に願うだろう。どうか、彼女の肌にもう一度触れさせてください、と。
そのとき、頬を撫でていた風が一瞬止まった。緑のにおいが、急に濃さを増した気がした。
薄桃色の残光は最後の輝きを放ち、周囲にそびえる背の高い建物や、木々の輪郭を空のカンバスにくっきりと浮き上がらせた。
そして、その直後、空一面に広がる群青は、僕たちの視界にあるものすべてを覆いつくしていった。ゆっくりと、浸食するかのように。
日頃感じているごく当たり前のことが、物凄い密度で目の前に迫り来るような気がした。この世を去る間際には、世界はこういう風に動いて見えるのだろうかと、そんなことを想像させる瞬間だった。
僕は、隣にいる夏芽をもう一度見た。夏芽のからだの輪郭が、ほのかに光っているのが分かった。
この世には、説明できないことがごまんとあるのかもしれない。
それはまるで、夏の夜に飛び交う蛍の光のようで、今にも空に消えてしまいそうだった。
この世とあの世の境目に身を置いているようで、僕は次第に心もとない気持ちになった。現実感が希薄で、頭もぼうっとしていた。少し怖くなって、橋の下に目をやると、不忍池の水面に群生する蓮の花が見えた。
それはすでに硬く蕾を閉じていたが、濃い緑のにおいはそこから来ていることがわかった。そして、その花の蕾は、空と地がしっかりと繋がっていることを気づかせてくれる、唯一のものなのだった。
ブルー・アワーが終わりを告げると、池の水面は闇に包まれ、やがて何も見えなくなった。
気が付くと、夏芽と僕の姿も夜に飲まれていた。
お囃子と太鼓の音が遠くから聞こえてくる。神輿でも通るのだろうか。夏芽は「お祭りが始まったね」と言って微笑むと、少し足早に先を進んだ。上げた髪の、うなじに垂れた少しばかりの後れ毛が色っぽかった。
「ねえ、あそこに綺麗なお堂が見えるよ」
歩いていると、煌々と輝くお堂が見えてきた。池の上に浮かんで見えるそれは、辨天堂。弁天様を祀っているお寺として有名だ。
「お参りしていこう」
 辨天堂の横には、お堂の歴史などについて書かれている看板が立てられていた。
夏芽は小さいころから寺社巡りが好きだったので、きっと楽しんでいるはずだ。
「弁天様は、金運だけでなく、音楽や芸能の神様でもあるんだって。知ってた?」
 夏芽が感心しながら、看板の説明書きを読んでいる。
「へえ~、そうなんだ。芸能、って、文芸も含むかな?」
「含むんじゃない?あたし、理人の執筆がうまくいきますように、ってお祈りしちゃった」
「そんな神頼みでどうにかなるものなの?」
「急にいいアイデアが降りてきたりするかもだよ。芸能の神様が助けてくれるといいね」
芸能。その言葉で、ふと叶葉のことが思い起こされた。
お祭りの終わる頃に、彼女との今までのやりとりを夏芽に話すつもりだ。
時間差は生じてしまったものの、夏芽に正直であることが大切だと思った。
そのことも含めて、僕は夏芽にきちんと説明をしなければならない。

参拝を済ませた僕たちは、屋台の通りで時間を過ごした。
僕は幸せだった。屋台で美味しいものを食べたり、打ち上げ花火を見たり――。夏芽とそんな楽しいひと時を過ごせるなんて、夢にも思っていなかったから。
屋台の明かりに照らされた僕と夏芽の瞳に、水に浮かぶ色とりどりの水風船が映った。鮮やかな赤色のリンゴ飴や、美しい金魚の群れも。今日一緒に見た空の色も含めて、彼女の記憶にあざやかに残るといいと思った。それは、僕の記憶の中にもずっと残るものになると思うから。
楽しい時間は夢のように過ぎ、公園の通りは、次第に人で埋め尽くされるほどの混雑となった。腕時計を見ると、八時を回っている。僕は、人ごみをかきわけながら前に進んだ。夏芽は、僕に歩調を合わせて、ゆっくり歩いてくれている。
「すごい混雑だね。外国人もいっぱいだし。週末の東京、恐るべしだ」
夏芽が、あらためて感心したように言う。
――ほんと、この人ごみさえ無ければ、最高なんだけどなぁ
声には出さないが、まさに「すし詰め状態」で、僕は少し泣きそうな気分になる。
そんな僕とは対照的に、夏芽は混雑すら楽しんでいる、とでもいうような顔つきで、隣を歩いている。
しばらく進んだところで、道路の右手に大きな神社の鳥居が見えてきた。
参拝客も少ない時間帯なのか、その神社の中は、この通りに比べると人けがないように見えた。
僕は夏芽にあの神社に入ろう、と声をかけた。鳥居の近くまで来たところで、僕はほっとした気持ちになった。
神社の中は薄暗いが、混雑がおさまるまでここでしばらく待つことができそうだ。
しかし、鳥居の正面まで来ると、人が少ない理由がはっきりとした。『夕方五時以降は立ち入りできません』と記された立て札があり、鳥居の前にある門も閉まっていた。
数名、鳥居の前で立っている人たちもいるが、きっとこの人たちも、思惑が外れたにちがいない。
「あらら」
夏芽が、その文字を見て、残念そうな声を上げる。
「東京の神社って、夜に開門していないところも多いからなぁ」
 そうつぶやくと、ふいに、背後から声がした。
「理人くん・・・・・?」
 名前を呼ばれて振り返ると、紫紺の蝶の模様の浴衣を着た女性がこちらを見ている。暗がりで見えづらかったが、その声から、すぐに彼女だと分かった。僕は、驚いて目を見開いた。
「やっぱり、理人くんだ!」
叶葉が、満面の笑顔で近づいてくる。夏芽も驚きを隠せない表情で、僕と叶葉のほうを見つめている。
「ぐ、偶然だ‥‥‥ね」
 突然のことで、うまく声が出ない。
「今まで、ここで撮影させてもらってたの。社務所の協力があってね」
「そうだったんだ‥‥‥」
「ちょうど仕事が終わって、連絡しようと思ってたんだ。約束の時間よりだいぶ早かったんだけど、この混雑でしょ?どこで待ち合わせるか、考えてたところだったんだよね」
 一瞬、そばにいた夏芽のからだが小さくなったのが、僕にはわかった。
おそらく、僕に気をつかって、体の大きさを変化させたのだ。ふわりと体を浮かせると、夏芽は僕の肩に飛び乗って聞いた。
「どういうこと‥‥‥?」
 耳元で、夏芽の拗ねたような声が聞こえる。
「ごめん、あとで伝えようと思ってたんだ‥‥…」 
そう言いかけて、僕はうっかり口を滑らせたことに気づいた。これは夏芽への謝罪の言葉であって、叶葉への返事ではない。
しかし、叶葉はそのことを知るはずもなく、「大丈夫だよ」と僕の言葉に答えて笑った。
「あたしから連絡するって言ったんだから、理人くんが気にしなくていいよ」
叶葉は、後方にいた男性たちに話しかけた。
「じゃあ、マネージャー。あたしは友達と合流できたので、ここで失礼します」
 周囲にいた数名の人間が、夏芽の仕事の関係者であったことに気が付くと、僕はあわててお辞儀をした。
そして、彼女とその場を彼女と立ち去ることになった。
このままでは夏芽に誤解を与えてしまう。どうすれば――そう考えても、叶葉と約束してしまった手前、逃げるわけにもいかない。
「この道からはちょっと大変ね。もう少し行くと分かれ道があるから、そこまで離れ離れにならないように気をつけて歩こう」
 浴衣で先を進む叶葉は、慣れない下駄を履いているせいか、少し歩きにくそうだ。
僕は彼女の真横まで進むと、彼女とはぐれないように横に並んだ。
「やばいね‥‥‥。この混雑」
 僕がそう言った、次の瞬間だった。
周囲の人に押されてよろめきそうになり、彼女の浴衣に描かれた蝶が、危うげにひらひらと飛んでいきそうに見えた。
そのとき、彼女は僕を見上げて言った。
「ごめん。腕、貸してね」
叶葉の両手が、僕の右腕にからまった。同時に、彼女の身体が密着してきた。腕に、彼女の体温が直に感じられる。
「‥‥‥えっ、あ、うん」
「転びそうで怖い。早く前に進まないかなぁ」
 普段とちがって、頼りない叶葉の声。髪の毛からは、淡い石鹸の香りがする。そして、腕に密着する彼女のからだは、思った以上に柔らかい。それらのすべてが、肌の感覚器官を通じて、体内をざわざわとさせるのがわかった。
「うん、ほ‥‥‥んと、やばいね‥‥‥」
「何がヤバイのよっ?」
また、耳元で夏芽の声がする。完全に怒っているのがわかる。
僕は、夏芽に本当に申し訳ない気持ちになって、夏芽にわかるように、唇だけ動かした。「ご、め、ん」と。

しばらく歩いたところで、僕と叶葉は、人通りの少ない道に出ることが出来た。
ここからは、駅までの直線コースから外れる。歩く距離は長くなるが、混雑に悩まされることはないだろう。
「はあ~、大変だったね」
 安心しきったような声を上げると、叶葉は僕の腕からようやく手を離した。
「最初は人が少なくなる時間まで待っていようかな、って思ってたんだけど。まさかあんなところで理人くんに会えるなんて。なんか運命的だね!」
「そ、そうだね‥‥‥」
「運命的」なんて言葉、あまりに不用心すぎる。夏芽が聞いていたら、絶対誤解してしまう。
しかし、周囲を見回しても夏芽の姿は見えなかった。
「ごめんね。もっと落ち着いた場所で会えたらよかったんだけど。また明日から海外に行くことになってるんだ」
「そうなんだ、お仕事、忙しいんだね」
「うふふ。まだ駆け出しだから、これからよ」
叶葉はそう言って、小さな紙袋を僕に差し出した。
「これ、お土産」
紙袋には、見慣れない文字がプリントされている。
「フィンランドに行ってきたの。そこで、木製の素敵な万年筆を見つけたから」
「え……、どうもありがとう‥‥‥でも、いいの?そんな高級そうなもの」
「いいの。あたし、作家の理人くんを応援したいんだよね。もちろん、プライベートでもよろしく、ってことで」
「こちらこそ」
「じゃ、あたしはここからタクシ―拾える場所まで歩くよ。今日はありがと!」
「僕のほうこそ。本当にありがとう」
 叶葉はにっこりと笑うと、手を振って言った。
「また連絡するね、理人先生」
 僕も、「うん、また」と返事をして、彼女の背中を見送った。
叶葉はもう一度振り返って、大きく手を振った。
彼女の身に着けた黄色のちょうちょ結びの帯が、闇の中に溶け込んで、やがて見えなくなった。
叶葉が完全に立ち去ったのを確認すると、僕はすぐに夏芽を探した。
来た道を引き戻すも、夏芽の姿はどこにも見えない。
「夏芽」
 小声で呼んでみたが、返事はない。
「話があるんだ、出てきてくれないか」
 公園じゅう、探し回った。歩いて、歩いて——、二時間くらい経っただろうか。 
夏祭りでにぎわっていた公園も、やがて静けさを取り戻し始めていた。
夏芽が戻って来るかどうか確信が持てないまま、それでも僕は園内を歩き続けた。
時間だけが過ぎ、湿った夜の空気に焦燥感が混じり始めたころ、頭上からカラスの鳴き声が聞こえてきた。
出口の見えない森の中に迷い込んでしまったかのような、心細さに襲われる。同時に、罪悪感も胸の内側からこみ上げてくる。
——僕が馬鹿だった。やっぱり、叶葉と約束なんてしなければよかった。ああ、そうか‥‥、文字通り、今の状態はこう呼ぶのか‥‥‥。
「…‥‥あとの祭り」
 吐き出すように言った。
すると、少しばかりの間をおいて、それに答えるように背後から声がした。
「ほんとにそう。祭りのあとに大騒ぎしても、何の意味もないもんね。後悔先に立たず。覆水盆に返らず」
奇妙なほどによどみなく、その声の主は僕のことばを機械的に変換した。わざわざ、そのことばの由来と類義語まで付け加えて。
振り返ると、公園の木々のあいだにあるベンチに、彼女がぽつんと座っているのが見えた。
「夏芽、あの‥‥‥どうして」
その言葉に、夏芽はため息をつきながら答えた。
「理人って、人の気持ち、何にも分かってないね。説明されなきゃ、分からない?」
その言葉に、おっしゃる通りです、という反省の意味をこめて、僕はうなだれた。そして、スマートに事を運べない自分のふがいなさを、心の中で責めた。
「ごめん‥‥‥。言い訳がましいけど、聞いてくれる?ほんとは、後で叶葉との約束のことを伝える予定だったんだ」
頭を垂れたまま、僕は言った。
「そうなの?ふーん」
 冷たいトーン。明らかに、怒っているのがわかる。
「叶葉と再会したのは‥‥‥」
「知ってる」
その言葉に、僕は一瞬身動きがとれなくなった。おそるおそる顔を上げながら、僕は彼女に訊いた。
「そうなの‥‥‥?どうして」
夏芽は言った。
「言ったでしょ。名前を呼ばれればすぐに分かるし、どこにいても現れるよ、って」
「え‥‥‥っ」
あの日のことを、僕はすぐに思い出した。表参道のカフェで、僕と叶葉は夏芽の話をしていた。
夏芽の名は、夏芽を呼びよせようと思って発したわけではなかった。
けれど、夏芽は自分の名が呼ばれたことでカフェに瞬間移動し、僕たちの話の一部始終を聞いていたと言うのだ。
もちろん、僕たちの前には姿を見せないようにして。
「なんで、黙ってたの」
「お邪魔になっちゃいけないから。それに、帰って来てから全部話してくれるかと思ったし」
「邪魔だなんて‥‥‥それに、小説について叶葉に詮索されたこと、心配かけたくなくて黙っていただけなんだ。どうして夏芽がそんなに遠慮する必要があるのさ」
「‥‥…」
「それに、数時間も姿をくらまして。心配するじゃん」
 夏芽は何も言わなかった。二人のあいだに、しん、と静寂が下りた。夏の虫の声がやけに大きく耳の奥に振動するような気がした。
「今日は、叶葉が誘ってきたんだ。帰りに、お土産を受け取るだけの約束だった。最初は断りたかったけど、お土産渡すだけから、そんなに時間かからないって言われて‥‥‥」
話の途中で夏芽が急に僕から目を逸らしたので、僕は不安になって言葉を止めた。
そして思った。ここまで彼女を怒らせてしまったこととは、いったい何だろう、と。
答えの出ない自問自答を心のなかで繰り返しているうちに、夏芽がようやく口を開いた。
「‥‥‥理人って昔からそうだよね」
「‥‥‥え?」
「叶葉が、叶葉が、って‥‥‥、いつもそうやって、誰かの言いなりみたいになって。人の顔色ばかり見て、自分のことなのに一人で何も決められない」
 予想外の言葉と、強い語気だった。その声は、悲しみにも、怒りにも似た響きを帯びていた。
心臓にナイフの先端を突きつけられたみたいに、僕はその場を動けなくなった。
「小説だってそう。最初は自分で書くって言ってたのに、全然進んでないじゃない」
夏芽は、迷いなくはっきりとそう言った。
その言葉は、ささやかながら僕に宿るプライドを傷つけるのには十分すぎるものだった。
「な‥‥‥、夏芽だって、幽霊で、この世界じゃ一人で何もできないだろ?だから、こうやって夏芽のために頑張ってるのに、なんでそんな風に‥‥‥」
「また同じじゃん。夏芽が、って」
「そんなこと‥‥‥」
「なによ、その通りじゃない。自分の人生を生きようともしていないくせに」
「だけど‥‥」
「だけど、何?」
「‥‥‥夏芽が、小説を出したいって頼んで来たんじゃないか‥‥‥」
 夏芽の視線が、僕をとらえた。その眼は鋭く、僕の心の深いころにある弱さまで見透かされている気がした。
小さな頃から、僕は自分の内側からの声をずっと無視し続けてきた。いつも自分の感情は後回しで、誰かの望む人間になろうとした。そうすることでしか、自分の価値を確かめられない、と思っていた。
他人から何かを求められても、波風を立てず、嵐が過ぎ去るのを待った。そのほうが、自分から声を上げて傷つくよりも、ずっと楽だったから。
夏芽は僕の返事にため息を漏らしたかと思うと、ゆっくりと首を横に振った。呆れてものも言えない、とでも言いたげな表情だった。
「別に、嫌だったなら、最初から断ればよかったじゃん!二作目だって、安易に引き受けなければいいだけ。‥‥‥理人が今大変なのは、全てあたしのせい。あたしに関わらなければ、そうならずに済んだのに」
「違う‥‥‥夏芽のせいじゃ‥‥‥」
「もういい。そもそも‥‥‥何であたしのお願いなんて聞いたのよ!」
唇をゆがめ、今にも泣きそうな顔で、夏芽は声を上げた。

「――そんなの、決まってるじゃないか。夏芽のことが、一番大事だからだよ!」

静寂の中に、僕の声が響いた。自分でも驚くほど、大きな声だった。堰を切ったように、抑え込んでいた感情が押し寄せてくる。
途端に、夏芽の顔が硬直したような気がした。僕の言動を責めるような、そんな表情だった。
その表情に、少し嫌な予感がしたものの、溢れ出す気持ちは止められなかった。
感情にまかせて、僕はそのまま続けた。
「誰よりも、大切なんだ。僕は、きみのことが‥‥‥」
そのときだった。
夏芽は、僕の前からふたたび姿を消した。その言葉が彼女の耳に届くか、届かないかくらいの、一瞬のあいだの出来事だった。
暗がりの中、僕は懸命に目を凝らし、何度も彼女の名前を呼んだ。
しかし、響き渡るのは僕の声ばかりで、夏芽からの返事が返ってくることはなかった。
やがて空は厚い雲に覆われ、遠くから雷鳴が聞こえてきた。
生ぬるい風が木々のあいだを吹き抜け、頭上の木の葉が、ざわざわと不穏な音を立てた。
僕は失意に暮れたまま、地面に膝をついた。
力をこめた僕の手に、叶葉からもらった紙袋が、くしゃりと乾いた音を立てた。