1
夏が近づく頃になると、思い出す景色がある。
アスファルトの焼けた匂いやひぐらしの鳴き声とともに、それは突如、僕の中に戻ってくる。
青さが、目の前に迫っていた。
水平線は薄桃色の光に縁どられ、まぶたを閉じかけた空が上層部からゆっくりと群青色に変わっていくのが見えた。やがてその色は地上を覆うように降りてきて、すべてのものを青一色に包み込んだ。
太陽が沈んだあと、たった数分間だけ見られる世界。
隣を歩いていた夏芽が、囁くように言った。「ブルー・アワーの空だね」と。
その声は、過ぎ去っていく時間を惜しむような、少し悲哀に暮れた響きを持って僕の耳に届いた。
「いつも学校帰りに見る空なのに、そんな風に呼び名があると、特別に感じるね」
初めて聞く言葉に、僕がそう返すと、夏芽は感心したように言った。
「確かに‥‥‥。それに、呼び名があると、何だか安心するね」
「安心?‥‥‥どういう意味?」
「輪郭のない曖昧な存在を、確固たるものにするという意味で」
なにそれ、と僕は笑った。けれど、夏芽はまじめくさった顔で付け加えた。夕暮れどきだけじゃなくて、夜明け前にも起こる現象なんだよ、と。
話が途切れ、僕らはしばらく無言で歩いた。風が凪いで、時間の流れまでもが止まっているように感じた。
ふいに夏芽が思い立ったように口を開いた。ねえ、もしもだけど、と。
「今、理人とあたしが船に乗って、旅立つことができたら」
「‥‥‥船?どういうこと」
突拍子もない話に、思わず訊き返してしまった。沖の方に目線を移してみたが、船の灯は見えなかった。見えるのは、東の空に輝いている月だけなのだった。
「もちろん、たとえ話よ。今、船を出せたらいいのに、って」
「こんな時間に?どうして」
僕が訊ねると、夏芽はすぐに鞄の中から一冊の本を取り出し、ページをめくった。
「これ。伝説の船乗りが主人公の小説なんだけど――ここに書いてあるの。ブルー・アワーは水平線と空の境目がくっきりと見えるから、航路を決めるのに絶好の時間だって。航海に必要な天体も見えやすいから、方向も正確に分かるらしくて」
まただ、と思いながら、僕も笑った。しかし、苦笑いではない。むしろ、僕は彼女の話すことを心から楽しんでいた。
彼女はいつも、読んでいる本の内容を僕に話し、共有したがった。自分の頭の中にある景色を僕に見せたい――ただそれだけのために。
僕はそれを彼女の心遣いみたいなものだと思っていて、そんなときは常に、「もっと詳しく話してくれる?」と言葉を返すことになるのだった。
夏芽が教えてくれた、大航海時代を生き延びた伝説の船乗りの話は面白かった。
一匹の犬とともに大西洋を横断した船乗りは、長い航路の中、様々な困難を乗り越えたという。
僕は思った。船乗りはいったい、この青い時間に何を目印にして進んだのだろう。北極星か、シリウスか、はたまた月の位置なのか。彼女の話を聞いただけではよく分からなかった。
けれど、そのとき僕の心に確信として残ったことがあった。それは、僕らにはそれぞれが求める光がある、ということだった。
そして、僕を照らしてくれる光は、僕のすぐそばに存在していて――そして、これが絶対的な幸運なのだということも。
お互いに何も用事が無い日だったので、僕らは少し道草をして帰ることにした。
砂浜に続く階段を降りると、潮の濃い匂いがした。
しばらく歩いていると、砂浜の上に木製の小舟が打ち上げられているのが遠目に見えた。
僕らは駆け寄り、おそるおそるその小舟の中を覗き見た。二人が乗れるほどの小さな座席に、「撮影用」と書かれた札があった。
僕らは顔を見合わせると、声を上げて笑った。
「マジか。タイミング良すぎ」
「ね。こんな話してるときに、舟があるとか」
「これって、あれだよ」
「何?」
「神様の思し召し。いつか航海に出なさい、ってことじゃない?」
僕がそう言うと、夏芽は急に真顔になった。
そして言った。いつか、ほんとに行こうね、と。
僕と夏芽は小舟に乗り込み、隣り合わせに座ると、携帯で写真を撮った。
光が足りなくて、ぼやけてうまく撮れなかったけれど、それはそれでいい写真だった。
青い景色はやがて紺色に変わり、僕らはいつのまにか夕闇の中にいた。月の放つ乳白色の光が、二人を優しく包み込んでいた。
僕らは、舟に乗ってどこに行くかを話し合った。
夏芽は、カプリ島の青の洞窟に、僕はノルウェイのフィヨルドを見に行きたいと言った。
いずれも、この小舟で行くには遠すぎる場所だと分かってはいた。
けれど、僕らはそれでも夢を見た。
夢を見られるほどに、まだ現実をよく分かっていなかった。
2
「で、まだ何にも出来上がっていない、……ですと?」
スミさんの、低めの声が耳元に響く。今日は明らかにイラついているのがわかる。
「あぁーっ。そんなことだろうと、思いましたよ!今、理人先生の作品めちゃくちゃ話題になってて、重版も夢ではなくなってきたのに。次の一手を考えておかないと、せっかく付いたファンが……!」
耳元でまくしたてるスミさんに、「わかってます。でも、僕は学生で‥‥」と言い訳をし始めると、スミさんの声が一瞬冷静になった。少しの間のあと、スミさんは僕に訊ねた。
「理人先生は、来年受験?」
「いえ……、そのまま、付属の大学に編入するつもりでいます」
「だったら言い訳なんかしないで、もっと将来の目標を持って仕事をしてもいいんじゃないですか?これはチャンス。踏ん張り時です」
スミさんの一言に、僕は返す言葉を失った。思考を整理しなくては、と、机に転がっていたメモ用紙の上に、ペンを走らせる。
『将来のビジョン → エセ小説家?』
書いてみたところで、何の意味もないことに愕然とした。小説家?――そんなの無理に決まっている。僕は最初から、何の素質も持っていないではないか。
スミさんに、「これから頑張ります」と何度も伝えて、それでようやく電話は切れた。
「エセって、漢字にすると、似て非なるって書いて、似非。知ってる?」
背後から、夏芽の声がする。
「見てたのか……」
「理人は、あの交換ノートのこと、覚えてる?」
「ん……?うん」
「あのとき、あたし、実は感じてたんだよね。理人にも文才があるんじゃないかって」
「文才?僕に?」
「だって、理人。交換しながら話を書く、ってことは、あたしの作った小説に、加筆することができてた、ってことなんだよ?理人が考えた話は、どれも面白かったよ」
遠い昔のことを思い出す。あの交換ノートを始めたとき、僕らは確か十歳くらいだった。もう七年もの年月が経つ。
夏芽の影響で本をたくさん読むようになってからというもの、確かに僕の国語の成績は徐々に上がっていった。
とりわけ、現代文の読解問題は得意だった。大学付属高校に入れたのも、多少はその恩恵もあるのかもしれない。
しかし、書くこと、といったら話は別だ。夏芽のような能力があるとは、自分ではとても思えない。
「そうなのかな。文才、と言えるものがあるのかというと、はっきりとした自覚はないよ。本が好き、と言えることは出来ても」
「じゃあ、またやってみようよ」
夏芽が、目をキラキラさせて言う。
「あたしが理人の作品の、最初の読者になるから!」
「僕が、書くの……?」
最初は冗談だと思っていたのに、夏芽は本気のようだった。理人なら絶対大丈夫、と夏芽は語気を強めて言った。
「次の作品の雰囲気が変わったとしても、最初の作品は一作しかないから、そんなに大きな変化は感じないと思うんだ」
「でも、何だって夏芽は僕に作品をそんなに書かせたいの」
「……」
「なんで?」
夏芽が答えないので、もう一度訊く。
「そりゃ……、理人と作品を作ったほうが……楽しいからじゃない」
「そっか。‥‥‥まぁ、確かに」
二人のあいだに、落ちる沈黙。僕は内心、ドキドキが止まらない。
――これは何だ? 小説家としてではなく、僕とずっと一緒にいたいとか、そういう意味?
ゴホン、と咳ばらいをして、妄想を払いのける。そんなわけないだろ、と自分に言い聞かせる。
「まぁとにかく、最初の舞台だけ考えてみよう」
僕が言うと、夏芽は首を大きく縦に振って、「じゃぁ下田で」と言った。
「え?地元?」
「うん。理人にとっては、あんまり思い入れのある場所じゃないかもだけど‥‥‥。でも、ほら、故郷を舞台にして書く作家さんって多いじゃない?また一緒に行こうよぉ!ロケハンっていうのかな。そんな感じでさ」
「うーん、気乗りしないなあ。他の場所じゃダメなの?」
「ダメ! あたしは下田の海を、理人と見たいの!」
「海なら、東京からでも見えるし。それに、自宅には絶対に帰りたくないから」
「そうなの?なら、無理に帰らなくてもいいよ。どっか泊まったりしようよ。リゾート気分でさ~」
夏芽は背泳ぎするみたいに宙を泳ぎながら、「海!海!」と、はしゃいでいる。
「……わかったよ。夏芽がそうしたいなら」
ため息交じりにそう言うと、夏芽は黙ってしまった。
そして、僕の周りをくるくる旋回したかと思うと、俯いている僕に顔を近づけた。顔色を窺うように。
「……ねえ、理人。まだお父さんと距離置いてる?」
「あのひとの話は禁止。思い出したくないんだ」
「ごめん。でも……、あたし、理人のお父さんの気持ちわかるよ」
予期せぬ夏芽の言葉に、僕は眉根をひそめて訊いた。
「わかるって、何が……?」
「自分の人生の先が見えてしまったひとの気持ち、っていうのかな」
「人生の……先?」
「うん。理人、前に話してくれたじゃない?お父さんは理人に期待をかけすぎた、って。でも、それって裏を返せば、自分の人生に大きな期待ができないから、子供に期待しちゃったんじゃないかな」
「……」
「悪気があったわけじゃないと思う。習い事だって、理人に色んな可能性があると思って、機会を与えたかったのかもしれない。まあ、親のエゴだと言ってしまえばそれまでだけど。でも、親はやっぱり見たいんだよ。自分の子供が輝いている姿を」
僕は、小学生時代の自分を思い出した。放課後の時間の大半は、父が行くように強要した習い事に潰された。
上手くできないことについて弱音を吐こうものなら、努力不足だと叱責され、そんな人間にろくな未来は待っていない、と脅された。
僕は、この十数年間、ずっと父の顔色を窺うように生きてきたのだ。
「……輝くどころか、この有様だよ。無駄な努力だった」
「そんなことないよ」
「そうかな。......だとしても、やっぱり僕にはあの人は無理なんだ」
僕がそう言いかけたところで、夏芽は僕の口元に人差し指を伸ばした。
「今は、それでいいと思う。そのうち、わかるかもしれないし、わからないかもしれない。だけど、これだけは覚えていて」
「……なに?」
「目に見えるものを、別の角度から見てみて。見えている姿と、その本質は違うかもしれない」
夏芽は、そう言ってふわりと浮き上がると、書棚の前に立った。そして、その中にある本の背表紙をひとつひとつ眺めながら言った。
「あたしの中にだって、いろんなあたしがいるんだよ。理人が思ってる人間じゃないかも」
「そうかな。夏芽は、夏芽だよ」
「ううん。人も、物も、多面的なの。一つの定義でくくれない。例えば、ここにある物語も、どんな経緯で生まれたかわからない。私たちが字面どおりに解釈しているだけ。あっ、それに......」
夏芽は立ち止まり、一冊の本の背表紙を指さした。何かを思い出したような顔をして。背表紙には、『絵画の不思議』と書かれている。
「理人も、絵画を習ってたとき、教えてくれたじゃない?見る角度や背景を変えるだけで、普段見ている景色も違ったものになる、って」
「‥‥‥それは」
言いかけて、僕は口を閉ざした。絵画教室の張りつめた空気と、真っ白なカンバスを思い出したからだった。そしてそのカンバスの「白」が、優柔不断な僕をいつも苦しめたことも。
父親に成果を出すことを求められていたあの頃、僕は寄る辺ない気持ちで絵を描き続けていた。
教室に電灯は灯されておらず、窓から差し込むやわらかな陽の光だけが、テーブルの上にある静物の陰影を生み出していた。
その周りには石膏像やイーゼルなどが乱雑に置かれていて、そこはお世辞にも絵になる部屋とは言えなかった。
「目の前にあるモチーフをどう描くか――それをよく考えて描き始めなさい」
それは、先生がよく言っていた言葉だった。
「たとえば、しゃがんでみて。見える面が変わり、景色は固定された形ではないと気付きやすくなる。また、背景を変えれば、中心にある物のイメージも変わってくる。物は単独で見えているのではなく、周りとの関係で見え方が変わるってことを覚えておいてね」
少し大人になった今なら、その言葉の意味もわかる気がする。しかし、幼かった僕は、目の前に据えられたものをただ上手く描こうとしていただけで、その教えの真髄まで理解できていなかった。父親に褒められることに、気持ちが傾いていたせいもあった。
それに比べ、夏芽は色々なものに目を凝らし、ときにそれに触れるために手を伸ばし、様々な角度から眺めるような子供だった。世間では当たり前とされているようなことも、不思議がり、面白がった。それはきっと、夏芽に残された時間が短かったからなのかもしれない。夏芽は、この世に存在するもの全てを、意味のあるものとして捉えようとしていた。
そのことに気づいたとき、僕は自分自身がひどく子供だった気がした。
頑なだった僕の気持ちが心なしか緩んだとき、夏芽は僕に再び言った。
「とりあえず、お父さんとのことは置いといて、下田に一緒に帰ろう。手始めに、私たちの共同作業のテーマを発見しに!」
夏芽の澄んだ瞳に吸い込まれそうな感覚をおぼえながら、僕は思った。こんなにも僕は何かに目を輝かせたことがあっただろうか。「私たちの共同作業」という、魅力的な言葉――、そして、その先に待つ発見とは……?
まだ、何もわからない。わからないけれど、それは僕にとっても「見てみたいもの」であることに、間違いはなかった。
「わかった。行こう」
気が付くと、僕はその言葉を口にしていた。
「本当に?」と弾んだ声を上げた夏芽の顔が、くしゃくしゃな笑顔に変わる。
「やったぁ! いい作品書けるよ、きっと」
「いや‥‥‥。そんなに、自信ないからさ」
「なんでよ、もっと自信もって。あたしは、自信満々で言うよ。理人の中に才能が見える~!って」
「……言い過ぎ。でも、夏芽がそんなに言うなら、頑張ってみるよ」
「うん。約束ね。絶対行こうね! 伊豆と小説は相性いいんだからね。さあ、そうと決まったら、何か一行書いてみよう!」
「おっし。‥‥‥やるかぁ」
パソコンのキーボードに両手を置き、ふーっと息を吐く。
まずは、手始めにプロットを書き始めた。舞台と、主人公の設定。そして、テーマだ。行き当たりばったりの小説では、途中で破綻してしまう。構成や人間関係をしっかり考えなければ。しかし、正しい小説の書き方を、僕はまだよく分かっていない。
書き始めてしばらくして、隣にいる夏芽に訊いた。
「ねえ、夏芽が小説を書いているときに、気を付けていることってなに?」
「そうだなあ」
夏芽は、話せば色々あるけれど、と前置きして話し始めた。
「あたしがいちばん大切にしていることは『誰にでもわかりやすい文章を書く』ってこと」
「わかりやすい?」
「そう。どんなに設定が凝っていて面白い作品でも、伝わらなければ台無しでしょ?だから、作品を俯瞰で見るようにしているかな」
「なるほどね。僕もそこに気をつけて書くよ」
「あと、オリジナリティも大事。あたしの書いたものに寄せなくていいからね。理人のカラーを出すんだよ!」
「僕のカラー?何だろ‥‥‥」
「さあね。でも、書いているうちに、自然に滲み出てくるはずだよ。がんばれ~」
ふいに、開け放たれた窓から夜風が吹き込んできて、開いていた本がめくれる音がした。
――ああ、多分、あの交換ノートが僕らの創作の始まりだったんだ。
波止場の見える通学路、海風の匂い、夏芽の赤いランドセル、そして、そこから取り出されるツバメノート。
すべてが、昨日のことのように思い出される。夏芽を笑わせるために、夏芽の期待にこたえるために。
そんな思いで、僕は思い浮かんだ言葉をあのノートに綴っていた。
――あのときと、今‥‥‥。この感覚。少しも変わらない。
無性に幸せな気持ちがこみ上げてくるのと同時に、胸の底から湧き上がるエネルギーみたいなものも感じていた。
僕は、何かにとりつかれたように書き始めた。たとえこの作品が、満足いくものにならなかったとしても、僕はこれを書き切りたい。それが、夏芽が求めている未来につながるなら。
眠ってしまった夏芽を背に、僕は朝まで小説を書き続けていた。
3
翌日の昼休み。
僕は、教室の机に突っ伏していた。
愚かだ。いったん何かに夢中になると、僕は物凄い集中力を発揮するのだが、あとさきを考えない傾向がある。
徹夜したにも関わらず、原稿が2枚しか書けていないのも、ショックが大きい理由だ。
しばらくの間うなだれていると、そよ風のように優しい声が僕の耳を撫でた。
「どうしたのさ、リヒト。大丈夫?」
まどろみの中、重たいまぶたを持ち上げると、クロードの顔がぼんやりと見えた。右頬に、ひんやりとした感触が走る。
「ほれ、コーヒー牛乳。リヒト好きだろ?」
昼休みの時間を仮眠に費やしている僕に、購買で菓子パンとコーヒー牛乳を買ってきてくれたようだ。
「あ、ありがと……」
僕は顔にくっつけられた牛乳瓶を手に取ると、一気に飲み干して、ふぅ~、と息を吐いた。水分が足りていなかったのがわかる。
「生き返る~」
「そんなに目の下真っ黒にして‥‥‥、何? 今、締め切りに追われてるわけ?」
「まあ……そんな感じ」
「じゃ、リヒトが立派な作家になるまで、俺がノートを取っておいてやるよ」
クロードが、自信満々な様子で言う。さすが、学年成績トップの男は器が違う。
「マジ?クロード、ほんと神なんだけど!」
「リヒトが追ってる夢を、応援したいだけさ」
「夢……?」
果たして、これは夢と呼んでいいものなのだろうか。クロードが何気なく放ったその一単語が、急に重みをもって鼓膜に響いた。
最初は、夏芽の夢だから力を貸したのだ。夏芽の夢が叶えば、それでよかった。
しかし、夏芽に勧められて自ら執筆をしてみて、思い知ることになった——本当の障害は、才能の有無なんかじゃなく、自分の心の弱さにあったことに。
僕が、父親から「見込みがない」と切り捨てられたことによる心の傷は、思ったよりも深かったようだった。
自分の力でどうにか達成した、と胸を張って言えることが、僕の経験として少なすぎたから。
誰かの役に立てる力がほしいと、いつも思っていた。けれど厳密にいえば、僕のこの気持ちは、自分の虚無感を満足させるためだけのものであって、他人から見るとおそらく偽善だろう。実際には、相手の願いを汲み取って行動しても、それが相手の思うまま利用される形になった。誰も本当の意味で僕の力を必要としているわけではないことに気が付くと、ひどく落胆したものだった。
しかし、今回は違う。夏芽に利用されている、なんて思ったことは一度もない。
「夢って呼べるものかはわからないけど」
「うん?」
「大切な人のために、書いているんだ」
クロードが、驚いた、という顔で僕をまじまじと見つめる。つい本音がこぼれてしまって、僕は顔を伏せた。しまった、と思った。
「あ…はは。笑うよね……。キャラでもないこと言ったな」
慌てて、クロードからもらったパンを口のなかに押し込む。パンに挟まれた苺ジャムが、やけに甘ったるい。
「‥‥‥かっこいいよ!正直、驚いた」
「そ、そうか……?」
「誰かのためにその熱量で打ち込めるなんて、凄いよ。応援してる」
「あ、ありがと……」
「なるほど、それでかぁ」
クロードが、ニヤニヤしながら言う。
「え?それでって、何が?」
「いや……。ここ最近、リヒト、ずっと誰かと電話で話してただろ?だから、やっぱカノジョが出来たんだなぁ、って、今やっと分かったっていうか」
「え……ちがう!」
「薄い壁一枚隔てた部屋に住んでるんだ。隠さなくってもわかるよ」
「いや、マジで違うから……あ、あれは……」
否定すればするほど、舌はもつれ、言いたいことがうまく言えなくなった。正直すぎるなぁ、リヒトは、と言わんばかりに、クロードの目は笑っている。
しかし、大切な人が誰かということについては、深く追究してこなかったので、僕はもう何も言わなかった。これ以上取り乱すと、余計なことまで話してしまいそうだから。
僕はもらったパンを食べきってしまうと、「トイレ」と言って席を立った。
廊下に出ると、談笑をしている生徒たちで騒がしかった。学校の休憩時間というものは、頭を休めるべきなのに、どうして皆、こんなにハイテンションでいられるのだろう。
「あ、作家先生だ」
「本、買ったよ。なんかお前の本、大人の香りするよなぁ」
すれ違うクラスメイトたちが、気軽に話しかけてくる。僕は、こういうとき、面倒を避けるために、ただ会釈だけして通り過ぎることにしている。
トイレの個室に逃げ込むと、思わずため息が出た。他人の目がないところが、こんなに落ち着くということは、どうやら思ったよりもストレスが溜まっているらしい。
――しばらくここで時間を潰すか……。
ポケットからスマホを出すと、SNSから二件メッセージが来ていることに気が付いた。
一件は、公式アカウントから。二件目は、見知らぬアカウント主からのメッセージだった。
「誰だ……?」
『@kanoha21m 理人くん、刊行おめでとう。素晴らしい作品でした。今度ゆっくりお話したいです。よかったら連絡ください』
スマホ画面のIDをタップして、すぐにアカウント主のページに飛ぶ。すると、そこには見覚えのある女の子の写真があった。
『叶葉(かのは)/ムーンリバープロダクション所属の十七歳。駆け出しの女優』
「これ‥‥‥、同じ中学の……」
彼女の顔と、中二の学園祭での記憶が、瞬時に結び付いた。
そうだ。彼女は、学園祭で女神役を演じた女の子だ。演劇部に所属していて、確か名前は、瑞野、――瑞野叶葉。
ショートボブで、凛としていて、どちらかというとクールな印象の女の子だった。
しかし、彼女が演じるときは、何かが憑依したように情熱的になった。女神役のために用意されたロングヘアのウィッグをつけ、化粧をし、ドレスを纏ったとたん、彼女はあっという間にちがうものに「化けた」。表現力がずば抜けていて、その演技は圧巻だった。
彼女は夏芽の創り上げた女神を完璧に演じ切ると、舞台袖にいた夏芽と抱き合って劇の成功を喜んでいた。
その年の年末、ドラマのオーディションに合格して正式にデビューが決まり、上京したと噂に聞いていた。
でも、そんな彼女が、なぜ僕なんかに――。彼女とは大した接点はなかったはずなのに。
腑に落ちないものの、僕は取り急ぎメッセージを返した。
『読んでくれて、どうもありがとう。瑞野さんも、女優業頑張ってください。』
定型文みたいなメールで味気ないが、面識のない相手に馴れ馴れしいのも考えものだ。
そう思いながら、さっさと送信を押す。すると、返事はすぐにかえってきた。
『理人くんは、黎明大付属高校なんでしょ?こないだ理人くんの特集、テレビで見たよ』
『実はあたし、黎明高校の近くの聖マリアンヌ女学院に通ってるんだ。偶然だね!』
『お互いお仕事しながら高校生してるし、近いものを感じるなぁって思ったから、それでつい、連絡しちゃった』
着信のバイブ音が、何回も手のひらの中で振動する。
『色々お話できたらと思ってるの。良かったらお茶でもしない?』
僕は、その「女の子全開」のメッセージに若干のけぞりながらも、周りに誰もいないか、つい確認してしまった。
何を心配している、ここはトイレの個室だ。しかし、僕は反射的にスマホの画面表示をオフにした。
同時に、思考もオフになり、体もフリーズする。
「おいおい……!」
心が冷静を取り戻したとたん、うなり声に近い声がこぼれた。
いくら元同級生とはいえ、こんな有名人から連絡が来るなんて、今までの僕だったら、絶対にありえないことだった。
深呼吸をしてスマホをふたたびオンにすると、僕はメッセージを返した。お茶でも、なんて、きっと社交辞令だ。
受け流すように、返信する。
『光栄です。また機会があれば!』
すると、彼女からすぐに返信が来た。
『やったぁ!お話してみたかったの!いきなりだけど、今日の放課後ってどうかな?』
『え!それはさすがに急すぎない?』
『明日からロケに行くから、しばらく都内にいないのよ』
急展開にたじろぎながらも、機会があれば、なんて返事を出してしまった手前、引くに引けなくなった。
「どうしよう……」
そうこうしているうちに、授業が始まるチャイムが鳴り響いた。断るための言い訳も見当たらず、僕は急いで返信を打った。
『了解です。じゃあ、今日の放課後で。今から授業なので、終わったら連絡します』
送信ボタンを押すと、僕はすぐにトイレの個室を飛び出して、洗面所で手と顔を洗った。
鏡に映った自分を見ると、疲れ切った顔の自分がいた。目の下のクマがひどい。
適当な返事をしなければよかった、と悔やみながら、教室まで急いだ。
僕の足音だけが、誰もいなくなった廊下にコツコツと響いていた。
4
六限の授業が終わり、クラスメイトたちが席を立ち始めたころに、僕は目を覚ました。
どうやら、授業の途中で眠ってしまったらしい。スマホを見ると、メッセージが来ていた。
『もう学校出たよ。校門で待ってるね』
了解、と返事をして、僕は教室を出た。たしか、瑞野さんの学校までは、ここから歩いて十分くらいのはずだ。
セーラー服の制服が可愛くて、校内では、みんな「ごきげんよう」と挨拶をするので有名だ。
急いで玄関まで降り、靴を履いていると、数名の生徒たちが駆けていくのが見えた。
校門の辺りが、いやにざわざわしているのが遠目にもわかった。
「なんだ……?」
目を凝らしながら近づいてみると、校門のところで、瑞野さんが僕を待っているのが見えた。
「ちょ‥‥‥、校門ってうちの⁉」
聖マリアンヌの制服姿、っていうだけで目立つのに、彼女はドラマやCM出演も果たしている、まあまあ名の知れた女優だ。
すでに、ほかの生徒たちに握手を求められたり、写真を撮られたりしている。
「これはまずい……」
僕はすぐにスマホを取り出して、瑞野さんにメッセージを送信した。
『うちの学校に来たら目立つでしょ』
しかし、彼女から応答がない。校門に視線を移すと、生徒たちが、瑞野さんを取り囲み始めていた。
このままでは、騒ぎが大きくなってしまう。
僕は靴を履くと、大急ぎで校門に向かった。
そして、生徒たちの間をぬって瑞野さんの目の前まで来ると、瑞野さんの腕を掴んだ。
「瑞野さん、こっちに」
久々の再会にしては少し乱暴だったかもしれない。
しかし、騒ぎが大きくなる前に、ここを脱出しなければと必死の思いだった。
瑞野さんは少し驚いていたが、助かった、というような顔をして笑った。そして、僕と一緒にその場を立ち去った。
「マジ‥‥‥?あれって‥‥‥うちの作家先生?」
「え。うそー!叶葉ちゃんの待ち合わせの相手って、清郷くん?」
あちこちで、ざわめきが起こっている。
「ごめんね~。まさか、みんなあたしに気づくと思わなくって」
僕の横で、瑞野さんが申し訳なさそうな声を上げる。
「芸能人なんだから気を付けないと」
「うん……、制服だと逆に目立っちゃったね」
セーラー服の紺色のリボンに指をくぐらせながら、彼女は笑った。
そして、タクシーを捕まえると、僕に一緒に乗るように言った。
「えっ、どこ行くの」
「表参道。学校の近くじゃないほうがいいでしょ」
瑞野さんに押し込まれるように乗車すると、タクシーは滑るように走り始めた。
瑞野さんのおすすめだというお洒落なカフェに入ると、僕らは向かい合わせに座った。
「ここのアフタヌーンティーセット、すごく美味しいの」
そう言いながらメニューを見ている瑞野さんは、夏芽に負けないくらいマイペースだと思った。
夏芽と違うのは、落ち着きがあり、仕草が大人っぽいところ。
同い年のはずなのに、瑞野さんはとうに二十歳を越えた大人の女性に見えた。
注文した飲み物が席に運ばれてくると、瑞野さんは「さてと」と言って頬杖をついた。
「三年ぶりの再会、お祝いしましょう」
彼女のマスカラの載ったまつ毛が、ゆっくりと上下する。僕は芸能人の持つ輝くオーラに圧倒されたまま、こくりと頷いた。
「それで……。あの。話とは」
「やだぁ、理人くん。そんなに緊張しないでよ」
「でも……、こんなお店、普段来ないし。瑞野さんとこうやって話するのも、初めてだし」
「瑞野さん、だなんて‥‥‥。叶葉でいいよ。同級生じゃない」
「はあ‥‥‥」
「まあ、確かに、そんなに接点はなかったよね。でも、あたしは夏芽と仲良しだったから、理人くんのことは彼女から色々聞かされてたのよ」
「そうなんだ」
「夏芽が亡くなって、もう3年か‥‥‥。夏芽はあたしにとって、何でも話せる唯一の友達だったの。思い出すたびに寂しい。あんなに若くして旅立ってしまうなんて」
僕は夏芽のことを思い浮かべながら、そうだね、と頷いた。まさか、うちで元気にしてます、なんて言えるわけがない。
気持ちを落ち着かせるために、注文したレモンティーを一口飲んだ。
レモンの清涼感が口の中に広がって、少し肩のちからが抜けた気がした。
「で、瑞野さ‥…。えっと……、か……、叶葉は」
「うん」
「どうして僕なんかと話がしたいの」
彼女は僕をまっすぐ見据えると、しばらくのあいだ目線を逸らさなかった。
僕は硬直したまま、その大きな瞳を見つめ返した。
「確かめに来たの」
「なにを……?」
「あの小説さ……」
「うん?」
彼女の眼光が鋭く光ったような気がして、僕はすこし怖気づく。
しばらくの沈黙のあと、彼女はしっかりとした口調で訊いた。一ミリの躊躇いもなく。
「パクったでしょ」
「……え?」
衝撃で身動きの取れない僕に、詰め寄るように彼女は訊いた。「ねえ、違う?」と。
――彼女は、僕があの作品を書いていないと気が付いたのか?でも、一体どうして?
「は……はは、何を言い出すかと思った。あれは、僕が書いたものだよ」
人間は、逃げ切りたいと願うときに笑ってしまう生き物なのだろうか。必要以上に力が入ってしまい、終いには声が裏返った。
「……理人くん、嘘つくの下手ね。あたし、知ってるんだから」
叶葉はスマホを取り出すと、僕に写真画像を見せた。それは、中学の教室。そして、そこに大きく写っているのは、黒板の落書きのようなものだった。
文字は小さくてよく見えなかったが、小説の最初によくある、人物相関図のようだった。
「これ。夏芽が書いたの。『言わずもがな、いと恋し』とは違うタイトルだったかな。あなたの書いた作品の、ストーリー展開図」
「……!」
「あれは、学園祭で演じる劇の内容を決めていたときだったわ」
叶葉の声が、少し低くなった。テーブルに置かれた小さなキャンドルの光が、過ぎ去っていく時間をなぞるように揺らめいていた。
「夏芽が劇の脚本について、二つの案があると話してくれたの。ひとつは、あの女神の物語。もうひとつは、この平安時代へのタイムリープの話。この写真は、夏芽が書いた、メモ書きのようなものよ」
画像の黒板を拡大して見ると、確かに夏芽の字で、「美月」「源光」という、小説に出てきた二人の登場人物の名がある。
「劇の実行委員はあたしたち二人だった。夏芽がこの日、プロットを黒板に書きながら説明してくれたの‥‥‥それはもう、素敵なお話だったから、今でもよく覚えてる」
叶葉は、憤っているようだった。目が潤んでいることから、それが分かった。
「だから聞きたいの。どうやって?……どうやったら、こんなものが書けるわけ?これは、あなたの作った作品なんかじゃない……!」
「いや‥‥‥あの」
口ごもりながら、目を伏せた。そのとき、僕の脳内では「正当な理由」を言わなくては、という思考が働いていた。
夏芽が幽霊になって帰ってきた、なんて、絶対に信じてもらえない。――彼女を落ち着かせられて、なおかつ、納得のいく答えは……。
しばらくの沈黙の後、僕は目線を上げて口を開いた。
「実は‥‥‥夏芽の遺言だったんだ……。生前、これと似たようなメモを預かっていて。原稿はそのときはまだ全ては出来上がっていなかったけれど」
「え……?」
「もし自分が死んでも、この作品だけは、世に出してほしい。『わたしが生きた証だから』、って言われて、それで……、僕が代わりに書いた」
「……!」
「最初は迷ったんだ。こんな手助けが、果たして彼女のためになるのか、って。こういう新人賞は、生きている人間しか応募する資格がないじゃない‥‥‥?」
そう言い終わったときに、僕は心の中の自分に言った。この部分だけは、真実だ、と。
これは、僕が夏芽のためにやらなければいけない事だった。そう自分に言い聞かせることで、彼女についた嘘の罪も、少しは軽くなる気がした。
「そうだったの‥‥‥、ごめんなさい。あたし……、勝手に思い込んで」
申し訳なさそうにうつむいてしまった彼女に、僕は言った。僕こそごめん、と。何に対する謝罪なのかまでは、彼女にはわからないだろうけど。
「そうだ……、理人くん。もうひとつ、謝らなきゃいけないことがあって」
叶葉が、弱々しい声で言う。
「公式アカウントのほうに、変なコメントしたの‥‥‥。あれ、あたしなんだ。他人事みたい、だなんて……。ひどい言葉だよね。本当にごめんなさい」
僕は、公式アカウントで見つけた、怪しいメッセージを思い出した。
「ああ、あれ……叶葉だったんだ。気にしないで。僕のほうこそ、ひどい奴なんだ」
「え……?」
「自分の作品とは呼べないくせに、受賞して、作家デビューまでして……。世間が大きく騒げば騒ぐほど、みんなを騙しているみたいで、罪悪感でいっぱいだった」
彼女は、僕の言葉を聞きながら、そんなことない、と首を何度も振った。
「立派だよ。理人くんは、夏芽の願いを最高の形で叶えたんだから」
「‥‥‥ありがと。そう言ってもらえて、嬉しいよ」
「夏芽も、きっと喜んでる」
「そうだといいな。でも、これからは自分一人で作品を書くことになるんだ。だから、ちょっと不安で‥‥‥」
「そっか、予期せぬ出来事だったのね」
「最初は、作家デビューするって思ってなかったんだ」
叶葉は、僕の悩みを親身になって聞いてくれた。
作家業の産みの苦しみについて理解をしてくれる相手が、一人増えた。そのことが嬉しくなった僕は、今執筆している作品についても、彼女にすべて話した。
彼女は役者でありながら、かつて演劇部で脚本を書いていた経験もあり、物語への審美眼も兼ね備えていた。
僕のこれからの作品についても興味を示してくれて、時おりアドバイスもしてくれた。
さすが、夏芽の片腕となって劇を成功させた人だと、感服した。きっと夏芽も、彼女との時間が楽しかったことだろう。
店を出るころには空は暗くなっていて、家路につく人々で混雑していた。
僕は、お礼を言って手を振った。叶葉も「ありがとう、会えてよかった」と手を振り返した。
後姿を見送っていると、叶葉は足を止めてゆっくりと振り向いた。
「ねえ!」
「‥‥‥ん?」
「また、会ってお話とかできるかな。あたし、上京してから仕事ばっかりで‥‥。友達って呼べる友達がいないんだ」
叶葉は、はにかんだ笑顔でそう訊いた。
「‥‥‥うん、もちろん」
僕がそう答えると、彼女の笑顔が明るくはじけた。一瞬のうちに、ゆっくり流れていくフィルムのワンシーンの中に迷い込んだような気持ちになった。
「じゃあ、またメールするね!」
僕は頷いて、ふたたび手を振った。叶葉は微笑むと、足早に雑踏の中に消えていった。
夏が近づく頃になると、思い出す景色がある。
アスファルトの焼けた匂いやひぐらしの鳴き声とともに、それは突如、僕の中に戻ってくる。
青さが、目の前に迫っていた。
水平線は薄桃色の光に縁どられ、まぶたを閉じかけた空が上層部からゆっくりと群青色に変わっていくのが見えた。やがてその色は地上を覆うように降りてきて、すべてのものを青一色に包み込んだ。
太陽が沈んだあと、たった数分間だけ見られる世界。
隣を歩いていた夏芽が、囁くように言った。「ブルー・アワーの空だね」と。
その声は、過ぎ去っていく時間を惜しむような、少し悲哀に暮れた響きを持って僕の耳に届いた。
「いつも学校帰りに見る空なのに、そんな風に呼び名があると、特別に感じるね」
初めて聞く言葉に、僕がそう返すと、夏芽は感心したように言った。
「確かに‥‥‥。それに、呼び名があると、何だか安心するね」
「安心?‥‥‥どういう意味?」
「輪郭のない曖昧な存在を、確固たるものにするという意味で」
なにそれ、と僕は笑った。けれど、夏芽はまじめくさった顔で付け加えた。夕暮れどきだけじゃなくて、夜明け前にも起こる現象なんだよ、と。
話が途切れ、僕らはしばらく無言で歩いた。風が凪いで、時間の流れまでもが止まっているように感じた。
ふいに夏芽が思い立ったように口を開いた。ねえ、もしもだけど、と。
「今、理人とあたしが船に乗って、旅立つことができたら」
「‥‥‥船?どういうこと」
突拍子もない話に、思わず訊き返してしまった。沖の方に目線を移してみたが、船の灯は見えなかった。見えるのは、東の空に輝いている月だけなのだった。
「もちろん、たとえ話よ。今、船を出せたらいいのに、って」
「こんな時間に?どうして」
僕が訊ねると、夏芽はすぐに鞄の中から一冊の本を取り出し、ページをめくった。
「これ。伝説の船乗りが主人公の小説なんだけど――ここに書いてあるの。ブルー・アワーは水平線と空の境目がくっきりと見えるから、航路を決めるのに絶好の時間だって。航海に必要な天体も見えやすいから、方向も正確に分かるらしくて」
まただ、と思いながら、僕も笑った。しかし、苦笑いではない。むしろ、僕は彼女の話すことを心から楽しんでいた。
彼女はいつも、読んでいる本の内容を僕に話し、共有したがった。自分の頭の中にある景色を僕に見せたい――ただそれだけのために。
僕はそれを彼女の心遣いみたいなものだと思っていて、そんなときは常に、「もっと詳しく話してくれる?」と言葉を返すことになるのだった。
夏芽が教えてくれた、大航海時代を生き延びた伝説の船乗りの話は面白かった。
一匹の犬とともに大西洋を横断した船乗りは、長い航路の中、様々な困難を乗り越えたという。
僕は思った。船乗りはいったい、この青い時間に何を目印にして進んだのだろう。北極星か、シリウスか、はたまた月の位置なのか。彼女の話を聞いただけではよく分からなかった。
けれど、そのとき僕の心に確信として残ったことがあった。それは、僕らにはそれぞれが求める光がある、ということだった。
そして、僕を照らしてくれる光は、僕のすぐそばに存在していて――そして、これが絶対的な幸運なのだということも。
お互いに何も用事が無い日だったので、僕らは少し道草をして帰ることにした。
砂浜に続く階段を降りると、潮の濃い匂いがした。
しばらく歩いていると、砂浜の上に木製の小舟が打ち上げられているのが遠目に見えた。
僕らは駆け寄り、おそるおそるその小舟の中を覗き見た。二人が乗れるほどの小さな座席に、「撮影用」と書かれた札があった。
僕らは顔を見合わせると、声を上げて笑った。
「マジか。タイミング良すぎ」
「ね。こんな話してるときに、舟があるとか」
「これって、あれだよ」
「何?」
「神様の思し召し。いつか航海に出なさい、ってことじゃない?」
僕がそう言うと、夏芽は急に真顔になった。
そして言った。いつか、ほんとに行こうね、と。
僕と夏芽は小舟に乗り込み、隣り合わせに座ると、携帯で写真を撮った。
光が足りなくて、ぼやけてうまく撮れなかったけれど、それはそれでいい写真だった。
青い景色はやがて紺色に変わり、僕らはいつのまにか夕闇の中にいた。月の放つ乳白色の光が、二人を優しく包み込んでいた。
僕らは、舟に乗ってどこに行くかを話し合った。
夏芽は、カプリ島の青の洞窟に、僕はノルウェイのフィヨルドを見に行きたいと言った。
いずれも、この小舟で行くには遠すぎる場所だと分かってはいた。
けれど、僕らはそれでも夢を見た。
夢を見られるほどに、まだ現実をよく分かっていなかった。
2
「で、まだ何にも出来上がっていない、……ですと?」
スミさんの、低めの声が耳元に響く。今日は明らかにイラついているのがわかる。
「あぁーっ。そんなことだろうと、思いましたよ!今、理人先生の作品めちゃくちゃ話題になってて、重版も夢ではなくなってきたのに。次の一手を考えておかないと、せっかく付いたファンが……!」
耳元でまくしたてるスミさんに、「わかってます。でも、僕は学生で‥‥」と言い訳をし始めると、スミさんの声が一瞬冷静になった。少しの間のあと、スミさんは僕に訊ねた。
「理人先生は、来年受験?」
「いえ……、そのまま、付属の大学に編入するつもりでいます」
「だったら言い訳なんかしないで、もっと将来の目標を持って仕事をしてもいいんじゃないですか?これはチャンス。踏ん張り時です」
スミさんの一言に、僕は返す言葉を失った。思考を整理しなくては、と、机に転がっていたメモ用紙の上に、ペンを走らせる。
『将来のビジョン → エセ小説家?』
書いてみたところで、何の意味もないことに愕然とした。小説家?――そんなの無理に決まっている。僕は最初から、何の素質も持っていないではないか。
スミさんに、「これから頑張ります」と何度も伝えて、それでようやく電話は切れた。
「エセって、漢字にすると、似て非なるって書いて、似非。知ってる?」
背後から、夏芽の声がする。
「見てたのか……」
「理人は、あの交換ノートのこと、覚えてる?」
「ん……?うん」
「あのとき、あたし、実は感じてたんだよね。理人にも文才があるんじゃないかって」
「文才?僕に?」
「だって、理人。交換しながら話を書く、ってことは、あたしの作った小説に、加筆することができてた、ってことなんだよ?理人が考えた話は、どれも面白かったよ」
遠い昔のことを思い出す。あの交換ノートを始めたとき、僕らは確か十歳くらいだった。もう七年もの年月が経つ。
夏芽の影響で本をたくさん読むようになってからというもの、確かに僕の国語の成績は徐々に上がっていった。
とりわけ、現代文の読解問題は得意だった。大学付属高校に入れたのも、多少はその恩恵もあるのかもしれない。
しかし、書くこと、といったら話は別だ。夏芽のような能力があるとは、自分ではとても思えない。
「そうなのかな。文才、と言えるものがあるのかというと、はっきりとした自覚はないよ。本が好き、と言えることは出来ても」
「じゃあ、またやってみようよ」
夏芽が、目をキラキラさせて言う。
「あたしが理人の作品の、最初の読者になるから!」
「僕が、書くの……?」
最初は冗談だと思っていたのに、夏芽は本気のようだった。理人なら絶対大丈夫、と夏芽は語気を強めて言った。
「次の作品の雰囲気が変わったとしても、最初の作品は一作しかないから、そんなに大きな変化は感じないと思うんだ」
「でも、何だって夏芽は僕に作品をそんなに書かせたいの」
「……」
「なんで?」
夏芽が答えないので、もう一度訊く。
「そりゃ……、理人と作品を作ったほうが……楽しいからじゃない」
「そっか。‥‥‥まぁ、確かに」
二人のあいだに、落ちる沈黙。僕は内心、ドキドキが止まらない。
――これは何だ? 小説家としてではなく、僕とずっと一緒にいたいとか、そういう意味?
ゴホン、と咳ばらいをして、妄想を払いのける。そんなわけないだろ、と自分に言い聞かせる。
「まぁとにかく、最初の舞台だけ考えてみよう」
僕が言うと、夏芽は首を大きく縦に振って、「じゃぁ下田で」と言った。
「え?地元?」
「うん。理人にとっては、あんまり思い入れのある場所じゃないかもだけど‥‥‥。でも、ほら、故郷を舞台にして書く作家さんって多いじゃない?また一緒に行こうよぉ!ロケハンっていうのかな。そんな感じでさ」
「うーん、気乗りしないなあ。他の場所じゃダメなの?」
「ダメ! あたしは下田の海を、理人と見たいの!」
「海なら、東京からでも見えるし。それに、自宅には絶対に帰りたくないから」
「そうなの?なら、無理に帰らなくてもいいよ。どっか泊まったりしようよ。リゾート気分でさ~」
夏芽は背泳ぎするみたいに宙を泳ぎながら、「海!海!」と、はしゃいでいる。
「……わかったよ。夏芽がそうしたいなら」
ため息交じりにそう言うと、夏芽は黙ってしまった。
そして、僕の周りをくるくる旋回したかと思うと、俯いている僕に顔を近づけた。顔色を窺うように。
「……ねえ、理人。まだお父さんと距離置いてる?」
「あのひとの話は禁止。思い出したくないんだ」
「ごめん。でも……、あたし、理人のお父さんの気持ちわかるよ」
予期せぬ夏芽の言葉に、僕は眉根をひそめて訊いた。
「わかるって、何が……?」
「自分の人生の先が見えてしまったひとの気持ち、っていうのかな」
「人生の……先?」
「うん。理人、前に話してくれたじゃない?お父さんは理人に期待をかけすぎた、って。でも、それって裏を返せば、自分の人生に大きな期待ができないから、子供に期待しちゃったんじゃないかな」
「……」
「悪気があったわけじゃないと思う。習い事だって、理人に色んな可能性があると思って、機会を与えたかったのかもしれない。まあ、親のエゴだと言ってしまえばそれまでだけど。でも、親はやっぱり見たいんだよ。自分の子供が輝いている姿を」
僕は、小学生時代の自分を思い出した。放課後の時間の大半は、父が行くように強要した習い事に潰された。
上手くできないことについて弱音を吐こうものなら、努力不足だと叱責され、そんな人間にろくな未来は待っていない、と脅された。
僕は、この十数年間、ずっと父の顔色を窺うように生きてきたのだ。
「……輝くどころか、この有様だよ。無駄な努力だった」
「そんなことないよ」
「そうかな。......だとしても、やっぱり僕にはあの人は無理なんだ」
僕がそう言いかけたところで、夏芽は僕の口元に人差し指を伸ばした。
「今は、それでいいと思う。そのうち、わかるかもしれないし、わからないかもしれない。だけど、これだけは覚えていて」
「……なに?」
「目に見えるものを、別の角度から見てみて。見えている姿と、その本質は違うかもしれない」
夏芽は、そう言ってふわりと浮き上がると、書棚の前に立った。そして、その中にある本の背表紙をひとつひとつ眺めながら言った。
「あたしの中にだって、いろんなあたしがいるんだよ。理人が思ってる人間じゃないかも」
「そうかな。夏芽は、夏芽だよ」
「ううん。人も、物も、多面的なの。一つの定義でくくれない。例えば、ここにある物語も、どんな経緯で生まれたかわからない。私たちが字面どおりに解釈しているだけ。あっ、それに......」
夏芽は立ち止まり、一冊の本の背表紙を指さした。何かを思い出したような顔をして。背表紙には、『絵画の不思議』と書かれている。
「理人も、絵画を習ってたとき、教えてくれたじゃない?見る角度や背景を変えるだけで、普段見ている景色も違ったものになる、って」
「‥‥‥それは」
言いかけて、僕は口を閉ざした。絵画教室の張りつめた空気と、真っ白なカンバスを思い出したからだった。そしてそのカンバスの「白」が、優柔不断な僕をいつも苦しめたことも。
父親に成果を出すことを求められていたあの頃、僕は寄る辺ない気持ちで絵を描き続けていた。
教室に電灯は灯されておらず、窓から差し込むやわらかな陽の光だけが、テーブルの上にある静物の陰影を生み出していた。
その周りには石膏像やイーゼルなどが乱雑に置かれていて、そこはお世辞にも絵になる部屋とは言えなかった。
「目の前にあるモチーフをどう描くか――それをよく考えて描き始めなさい」
それは、先生がよく言っていた言葉だった。
「たとえば、しゃがんでみて。見える面が変わり、景色は固定された形ではないと気付きやすくなる。また、背景を変えれば、中心にある物のイメージも変わってくる。物は単独で見えているのではなく、周りとの関係で見え方が変わるってことを覚えておいてね」
少し大人になった今なら、その言葉の意味もわかる気がする。しかし、幼かった僕は、目の前に据えられたものをただ上手く描こうとしていただけで、その教えの真髄まで理解できていなかった。父親に褒められることに、気持ちが傾いていたせいもあった。
それに比べ、夏芽は色々なものに目を凝らし、ときにそれに触れるために手を伸ばし、様々な角度から眺めるような子供だった。世間では当たり前とされているようなことも、不思議がり、面白がった。それはきっと、夏芽に残された時間が短かったからなのかもしれない。夏芽は、この世に存在するもの全てを、意味のあるものとして捉えようとしていた。
そのことに気づいたとき、僕は自分自身がひどく子供だった気がした。
頑なだった僕の気持ちが心なしか緩んだとき、夏芽は僕に再び言った。
「とりあえず、お父さんとのことは置いといて、下田に一緒に帰ろう。手始めに、私たちの共同作業のテーマを発見しに!」
夏芽の澄んだ瞳に吸い込まれそうな感覚をおぼえながら、僕は思った。こんなにも僕は何かに目を輝かせたことがあっただろうか。「私たちの共同作業」という、魅力的な言葉――、そして、その先に待つ発見とは……?
まだ、何もわからない。わからないけれど、それは僕にとっても「見てみたいもの」であることに、間違いはなかった。
「わかった。行こう」
気が付くと、僕はその言葉を口にしていた。
「本当に?」と弾んだ声を上げた夏芽の顔が、くしゃくしゃな笑顔に変わる。
「やったぁ! いい作品書けるよ、きっと」
「いや‥‥‥。そんなに、自信ないからさ」
「なんでよ、もっと自信もって。あたしは、自信満々で言うよ。理人の中に才能が見える~!って」
「……言い過ぎ。でも、夏芽がそんなに言うなら、頑張ってみるよ」
「うん。約束ね。絶対行こうね! 伊豆と小説は相性いいんだからね。さあ、そうと決まったら、何か一行書いてみよう!」
「おっし。‥‥‥やるかぁ」
パソコンのキーボードに両手を置き、ふーっと息を吐く。
まずは、手始めにプロットを書き始めた。舞台と、主人公の設定。そして、テーマだ。行き当たりばったりの小説では、途中で破綻してしまう。構成や人間関係をしっかり考えなければ。しかし、正しい小説の書き方を、僕はまだよく分かっていない。
書き始めてしばらくして、隣にいる夏芽に訊いた。
「ねえ、夏芽が小説を書いているときに、気を付けていることってなに?」
「そうだなあ」
夏芽は、話せば色々あるけれど、と前置きして話し始めた。
「あたしがいちばん大切にしていることは『誰にでもわかりやすい文章を書く』ってこと」
「わかりやすい?」
「そう。どんなに設定が凝っていて面白い作品でも、伝わらなければ台無しでしょ?だから、作品を俯瞰で見るようにしているかな」
「なるほどね。僕もそこに気をつけて書くよ」
「あと、オリジナリティも大事。あたしの書いたものに寄せなくていいからね。理人のカラーを出すんだよ!」
「僕のカラー?何だろ‥‥‥」
「さあね。でも、書いているうちに、自然に滲み出てくるはずだよ。がんばれ~」
ふいに、開け放たれた窓から夜風が吹き込んできて、開いていた本がめくれる音がした。
――ああ、多分、あの交換ノートが僕らの創作の始まりだったんだ。
波止場の見える通学路、海風の匂い、夏芽の赤いランドセル、そして、そこから取り出されるツバメノート。
すべてが、昨日のことのように思い出される。夏芽を笑わせるために、夏芽の期待にこたえるために。
そんな思いで、僕は思い浮かんだ言葉をあのノートに綴っていた。
――あのときと、今‥‥‥。この感覚。少しも変わらない。
無性に幸せな気持ちがこみ上げてくるのと同時に、胸の底から湧き上がるエネルギーみたいなものも感じていた。
僕は、何かにとりつかれたように書き始めた。たとえこの作品が、満足いくものにならなかったとしても、僕はこれを書き切りたい。それが、夏芽が求めている未来につながるなら。
眠ってしまった夏芽を背に、僕は朝まで小説を書き続けていた。
3
翌日の昼休み。
僕は、教室の机に突っ伏していた。
愚かだ。いったん何かに夢中になると、僕は物凄い集中力を発揮するのだが、あとさきを考えない傾向がある。
徹夜したにも関わらず、原稿が2枚しか書けていないのも、ショックが大きい理由だ。
しばらくの間うなだれていると、そよ風のように優しい声が僕の耳を撫でた。
「どうしたのさ、リヒト。大丈夫?」
まどろみの中、重たいまぶたを持ち上げると、クロードの顔がぼんやりと見えた。右頬に、ひんやりとした感触が走る。
「ほれ、コーヒー牛乳。リヒト好きだろ?」
昼休みの時間を仮眠に費やしている僕に、購買で菓子パンとコーヒー牛乳を買ってきてくれたようだ。
「あ、ありがと……」
僕は顔にくっつけられた牛乳瓶を手に取ると、一気に飲み干して、ふぅ~、と息を吐いた。水分が足りていなかったのがわかる。
「生き返る~」
「そんなに目の下真っ黒にして‥‥‥、何? 今、締め切りに追われてるわけ?」
「まあ……そんな感じ」
「じゃ、リヒトが立派な作家になるまで、俺がノートを取っておいてやるよ」
クロードが、自信満々な様子で言う。さすが、学年成績トップの男は器が違う。
「マジ?クロード、ほんと神なんだけど!」
「リヒトが追ってる夢を、応援したいだけさ」
「夢……?」
果たして、これは夢と呼んでいいものなのだろうか。クロードが何気なく放ったその一単語が、急に重みをもって鼓膜に響いた。
最初は、夏芽の夢だから力を貸したのだ。夏芽の夢が叶えば、それでよかった。
しかし、夏芽に勧められて自ら執筆をしてみて、思い知ることになった——本当の障害は、才能の有無なんかじゃなく、自分の心の弱さにあったことに。
僕が、父親から「見込みがない」と切り捨てられたことによる心の傷は、思ったよりも深かったようだった。
自分の力でどうにか達成した、と胸を張って言えることが、僕の経験として少なすぎたから。
誰かの役に立てる力がほしいと、いつも思っていた。けれど厳密にいえば、僕のこの気持ちは、自分の虚無感を満足させるためだけのものであって、他人から見るとおそらく偽善だろう。実際には、相手の願いを汲み取って行動しても、それが相手の思うまま利用される形になった。誰も本当の意味で僕の力を必要としているわけではないことに気が付くと、ひどく落胆したものだった。
しかし、今回は違う。夏芽に利用されている、なんて思ったことは一度もない。
「夢って呼べるものかはわからないけど」
「うん?」
「大切な人のために、書いているんだ」
クロードが、驚いた、という顔で僕をまじまじと見つめる。つい本音がこぼれてしまって、僕は顔を伏せた。しまった、と思った。
「あ…はは。笑うよね……。キャラでもないこと言ったな」
慌てて、クロードからもらったパンを口のなかに押し込む。パンに挟まれた苺ジャムが、やけに甘ったるい。
「‥‥‥かっこいいよ!正直、驚いた」
「そ、そうか……?」
「誰かのためにその熱量で打ち込めるなんて、凄いよ。応援してる」
「あ、ありがと……」
「なるほど、それでかぁ」
クロードが、ニヤニヤしながら言う。
「え?それでって、何が?」
「いや……。ここ最近、リヒト、ずっと誰かと電話で話してただろ?だから、やっぱカノジョが出来たんだなぁ、って、今やっと分かったっていうか」
「え……ちがう!」
「薄い壁一枚隔てた部屋に住んでるんだ。隠さなくってもわかるよ」
「いや、マジで違うから……あ、あれは……」
否定すればするほど、舌はもつれ、言いたいことがうまく言えなくなった。正直すぎるなぁ、リヒトは、と言わんばかりに、クロードの目は笑っている。
しかし、大切な人が誰かということについては、深く追究してこなかったので、僕はもう何も言わなかった。これ以上取り乱すと、余計なことまで話してしまいそうだから。
僕はもらったパンを食べきってしまうと、「トイレ」と言って席を立った。
廊下に出ると、談笑をしている生徒たちで騒がしかった。学校の休憩時間というものは、頭を休めるべきなのに、どうして皆、こんなにハイテンションでいられるのだろう。
「あ、作家先生だ」
「本、買ったよ。なんかお前の本、大人の香りするよなぁ」
すれ違うクラスメイトたちが、気軽に話しかけてくる。僕は、こういうとき、面倒を避けるために、ただ会釈だけして通り過ぎることにしている。
トイレの個室に逃げ込むと、思わずため息が出た。他人の目がないところが、こんなに落ち着くということは、どうやら思ったよりもストレスが溜まっているらしい。
――しばらくここで時間を潰すか……。
ポケットからスマホを出すと、SNSから二件メッセージが来ていることに気が付いた。
一件は、公式アカウントから。二件目は、見知らぬアカウント主からのメッセージだった。
「誰だ……?」
『@kanoha21m 理人くん、刊行おめでとう。素晴らしい作品でした。今度ゆっくりお話したいです。よかったら連絡ください』
スマホ画面のIDをタップして、すぐにアカウント主のページに飛ぶ。すると、そこには見覚えのある女の子の写真があった。
『叶葉(かのは)/ムーンリバープロダクション所属の十七歳。駆け出しの女優』
「これ‥‥‥、同じ中学の……」
彼女の顔と、中二の学園祭での記憶が、瞬時に結び付いた。
そうだ。彼女は、学園祭で女神役を演じた女の子だ。演劇部に所属していて、確か名前は、瑞野、――瑞野叶葉。
ショートボブで、凛としていて、どちらかというとクールな印象の女の子だった。
しかし、彼女が演じるときは、何かが憑依したように情熱的になった。女神役のために用意されたロングヘアのウィッグをつけ、化粧をし、ドレスを纏ったとたん、彼女はあっという間にちがうものに「化けた」。表現力がずば抜けていて、その演技は圧巻だった。
彼女は夏芽の創り上げた女神を完璧に演じ切ると、舞台袖にいた夏芽と抱き合って劇の成功を喜んでいた。
その年の年末、ドラマのオーディションに合格して正式にデビューが決まり、上京したと噂に聞いていた。
でも、そんな彼女が、なぜ僕なんかに――。彼女とは大した接点はなかったはずなのに。
腑に落ちないものの、僕は取り急ぎメッセージを返した。
『読んでくれて、どうもありがとう。瑞野さんも、女優業頑張ってください。』
定型文みたいなメールで味気ないが、面識のない相手に馴れ馴れしいのも考えものだ。
そう思いながら、さっさと送信を押す。すると、返事はすぐにかえってきた。
『理人くんは、黎明大付属高校なんでしょ?こないだ理人くんの特集、テレビで見たよ』
『実はあたし、黎明高校の近くの聖マリアンヌ女学院に通ってるんだ。偶然だね!』
『お互いお仕事しながら高校生してるし、近いものを感じるなぁって思ったから、それでつい、連絡しちゃった』
着信のバイブ音が、何回も手のひらの中で振動する。
『色々お話できたらと思ってるの。良かったらお茶でもしない?』
僕は、その「女の子全開」のメッセージに若干のけぞりながらも、周りに誰もいないか、つい確認してしまった。
何を心配している、ここはトイレの個室だ。しかし、僕は反射的にスマホの画面表示をオフにした。
同時に、思考もオフになり、体もフリーズする。
「おいおい……!」
心が冷静を取り戻したとたん、うなり声に近い声がこぼれた。
いくら元同級生とはいえ、こんな有名人から連絡が来るなんて、今までの僕だったら、絶対にありえないことだった。
深呼吸をしてスマホをふたたびオンにすると、僕はメッセージを返した。お茶でも、なんて、きっと社交辞令だ。
受け流すように、返信する。
『光栄です。また機会があれば!』
すると、彼女からすぐに返信が来た。
『やったぁ!お話してみたかったの!いきなりだけど、今日の放課後ってどうかな?』
『え!それはさすがに急すぎない?』
『明日からロケに行くから、しばらく都内にいないのよ』
急展開にたじろぎながらも、機会があれば、なんて返事を出してしまった手前、引くに引けなくなった。
「どうしよう……」
そうこうしているうちに、授業が始まるチャイムが鳴り響いた。断るための言い訳も見当たらず、僕は急いで返信を打った。
『了解です。じゃあ、今日の放課後で。今から授業なので、終わったら連絡します』
送信ボタンを押すと、僕はすぐにトイレの個室を飛び出して、洗面所で手と顔を洗った。
鏡に映った自分を見ると、疲れ切った顔の自分がいた。目の下のクマがひどい。
適当な返事をしなければよかった、と悔やみながら、教室まで急いだ。
僕の足音だけが、誰もいなくなった廊下にコツコツと響いていた。
4
六限の授業が終わり、クラスメイトたちが席を立ち始めたころに、僕は目を覚ました。
どうやら、授業の途中で眠ってしまったらしい。スマホを見ると、メッセージが来ていた。
『もう学校出たよ。校門で待ってるね』
了解、と返事をして、僕は教室を出た。たしか、瑞野さんの学校までは、ここから歩いて十分くらいのはずだ。
セーラー服の制服が可愛くて、校内では、みんな「ごきげんよう」と挨拶をするので有名だ。
急いで玄関まで降り、靴を履いていると、数名の生徒たちが駆けていくのが見えた。
校門の辺りが、いやにざわざわしているのが遠目にもわかった。
「なんだ……?」
目を凝らしながら近づいてみると、校門のところで、瑞野さんが僕を待っているのが見えた。
「ちょ‥‥‥、校門ってうちの⁉」
聖マリアンヌの制服姿、っていうだけで目立つのに、彼女はドラマやCM出演も果たしている、まあまあ名の知れた女優だ。
すでに、ほかの生徒たちに握手を求められたり、写真を撮られたりしている。
「これはまずい……」
僕はすぐにスマホを取り出して、瑞野さんにメッセージを送信した。
『うちの学校に来たら目立つでしょ』
しかし、彼女から応答がない。校門に視線を移すと、生徒たちが、瑞野さんを取り囲み始めていた。
このままでは、騒ぎが大きくなってしまう。
僕は靴を履くと、大急ぎで校門に向かった。
そして、生徒たちの間をぬって瑞野さんの目の前まで来ると、瑞野さんの腕を掴んだ。
「瑞野さん、こっちに」
久々の再会にしては少し乱暴だったかもしれない。
しかし、騒ぎが大きくなる前に、ここを脱出しなければと必死の思いだった。
瑞野さんは少し驚いていたが、助かった、というような顔をして笑った。そして、僕と一緒にその場を立ち去った。
「マジ‥‥‥?あれって‥‥‥うちの作家先生?」
「え。うそー!叶葉ちゃんの待ち合わせの相手って、清郷くん?」
あちこちで、ざわめきが起こっている。
「ごめんね~。まさか、みんなあたしに気づくと思わなくって」
僕の横で、瑞野さんが申し訳なさそうな声を上げる。
「芸能人なんだから気を付けないと」
「うん……、制服だと逆に目立っちゃったね」
セーラー服の紺色のリボンに指をくぐらせながら、彼女は笑った。
そして、タクシーを捕まえると、僕に一緒に乗るように言った。
「えっ、どこ行くの」
「表参道。学校の近くじゃないほうがいいでしょ」
瑞野さんに押し込まれるように乗車すると、タクシーは滑るように走り始めた。
瑞野さんのおすすめだというお洒落なカフェに入ると、僕らは向かい合わせに座った。
「ここのアフタヌーンティーセット、すごく美味しいの」
そう言いながらメニューを見ている瑞野さんは、夏芽に負けないくらいマイペースだと思った。
夏芽と違うのは、落ち着きがあり、仕草が大人っぽいところ。
同い年のはずなのに、瑞野さんはとうに二十歳を越えた大人の女性に見えた。
注文した飲み物が席に運ばれてくると、瑞野さんは「さてと」と言って頬杖をついた。
「三年ぶりの再会、お祝いしましょう」
彼女のマスカラの載ったまつ毛が、ゆっくりと上下する。僕は芸能人の持つ輝くオーラに圧倒されたまま、こくりと頷いた。
「それで……。あの。話とは」
「やだぁ、理人くん。そんなに緊張しないでよ」
「でも……、こんなお店、普段来ないし。瑞野さんとこうやって話するのも、初めてだし」
「瑞野さん、だなんて‥‥‥。叶葉でいいよ。同級生じゃない」
「はあ‥‥‥」
「まあ、確かに、そんなに接点はなかったよね。でも、あたしは夏芽と仲良しだったから、理人くんのことは彼女から色々聞かされてたのよ」
「そうなんだ」
「夏芽が亡くなって、もう3年か‥‥‥。夏芽はあたしにとって、何でも話せる唯一の友達だったの。思い出すたびに寂しい。あんなに若くして旅立ってしまうなんて」
僕は夏芽のことを思い浮かべながら、そうだね、と頷いた。まさか、うちで元気にしてます、なんて言えるわけがない。
気持ちを落ち着かせるために、注文したレモンティーを一口飲んだ。
レモンの清涼感が口の中に広がって、少し肩のちからが抜けた気がした。
「で、瑞野さ‥…。えっと……、か……、叶葉は」
「うん」
「どうして僕なんかと話がしたいの」
彼女は僕をまっすぐ見据えると、しばらくのあいだ目線を逸らさなかった。
僕は硬直したまま、その大きな瞳を見つめ返した。
「確かめに来たの」
「なにを……?」
「あの小説さ……」
「うん?」
彼女の眼光が鋭く光ったような気がして、僕はすこし怖気づく。
しばらくの沈黙のあと、彼女はしっかりとした口調で訊いた。一ミリの躊躇いもなく。
「パクったでしょ」
「……え?」
衝撃で身動きの取れない僕に、詰め寄るように彼女は訊いた。「ねえ、違う?」と。
――彼女は、僕があの作品を書いていないと気が付いたのか?でも、一体どうして?
「は……はは、何を言い出すかと思った。あれは、僕が書いたものだよ」
人間は、逃げ切りたいと願うときに笑ってしまう生き物なのだろうか。必要以上に力が入ってしまい、終いには声が裏返った。
「……理人くん、嘘つくの下手ね。あたし、知ってるんだから」
叶葉はスマホを取り出すと、僕に写真画像を見せた。それは、中学の教室。そして、そこに大きく写っているのは、黒板の落書きのようなものだった。
文字は小さくてよく見えなかったが、小説の最初によくある、人物相関図のようだった。
「これ。夏芽が書いたの。『言わずもがな、いと恋し』とは違うタイトルだったかな。あなたの書いた作品の、ストーリー展開図」
「……!」
「あれは、学園祭で演じる劇の内容を決めていたときだったわ」
叶葉の声が、少し低くなった。テーブルに置かれた小さなキャンドルの光が、過ぎ去っていく時間をなぞるように揺らめいていた。
「夏芽が劇の脚本について、二つの案があると話してくれたの。ひとつは、あの女神の物語。もうひとつは、この平安時代へのタイムリープの話。この写真は、夏芽が書いた、メモ書きのようなものよ」
画像の黒板を拡大して見ると、確かに夏芽の字で、「美月」「源光」という、小説に出てきた二人の登場人物の名がある。
「劇の実行委員はあたしたち二人だった。夏芽がこの日、プロットを黒板に書きながら説明してくれたの‥‥‥それはもう、素敵なお話だったから、今でもよく覚えてる」
叶葉は、憤っているようだった。目が潤んでいることから、それが分かった。
「だから聞きたいの。どうやって?……どうやったら、こんなものが書けるわけ?これは、あなたの作った作品なんかじゃない……!」
「いや‥‥‥あの」
口ごもりながら、目を伏せた。そのとき、僕の脳内では「正当な理由」を言わなくては、という思考が働いていた。
夏芽が幽霊になって帰ってきた、なんて、絶対に信じてもらえない。――彼女を落ち着かせられて、なおかつ、納得のいく答えは……。
しばらくの沈黙の後、僕は目線を上げて口を開いた。
「実は‥‥‥夏芽の遺言だったんだ……。生前、これと似たようなメモを預かっていて。原稿はそのときはまだ全ては出来上がっていなかったけれど」
「え……?」
「もし自分が死んでも、この作品だけは、世に出してほしい。『わたしが生きた証だから』、って言われて、それで……、僕が代わりに書いた」
「……!」
「最初は迷ったんだ。こんな手助けが、果たして彼女のためになるのか、って。こういう新人賞は、生きている人間しか応募する資格がないじゃない‥‥‥?」
そう言い終わったときに、僕は心の中の自分に言った。この部分だけは、真実だ、と。
これは、僕が夏芽のためにやらなければいけない事だった。そう自分に言い聞かせることで、彼女についた嘘の罪も、少しは軽くなる気がした。
「そうだったの‥‥‥、ごめんなさい。あたし……、勝手に思い込んで」
申し訳なさそうにうつむいてしまった彼女に、僕は言った。僕こそごめん、と。何に対する謝罪なのかまでは、彼女にはわからないだろうけど。
「そうだ……、理人くん。もうひとつ、謝らなきゃいけないことがあって」
叶葉が、弱々しい声で言う。
「公式アカウントのほうに、変なコメントしたの‥‥‥。あれ、あたしなんだ。他人事みたい、だなんて……。ひどい言葉だよね。本当にごめんなさい」
僕は、公式アカウントで見つけた、怪しいメッセージを思い出した。
「ああ、あれ……叶葉だったんだ。気にしないで。僕のほうこそ、ひどい奴なんだ」
「え……?」
「自分の作品とは呼べないくせに、受賞して、作家デビューまでして……。世間が大きく騒げば騒ぐほど、みんなを騙しているみたいで、罪悪感でいっぱいだった」
彼女は、僕の言葉を聞きながら、そんなことない、と首を何度も振った。
「立派だよ。理人くんは、夏芽の願いを最高の形で叶えたんだから」
「‥‥‥ありがと。そう言ってもらえて、嬉しいよ」
「夏芽も、きっと喜んでる」
「そうだといいな。でも、これからは自分一人で作品を書くことになるんだ。だから、ちょっと不安で‥‥‥」
「そっか、予期せぬ出来事だったのね」
「最初は、作家デビューするって思ってなかったんだ」
叶葉は、僕の悩みを親身になって聞いてくれた。
作家業の産みの苦しみについて理解をしてくれる相手が、一人増えた。そのことが嬉しくなった僕は、今執筆している作品についても、彼女にすべて話した。
彼女は役者でありながら、かつて演劇部で脚本を書いていた経験もあり、物語への審美眼も兼ね備えていた。
僕のこれからの作品についても興味を示してくれて、時おりアドバイスもしてくれた。
さすが、夏芽の片腕となって劇を成功させた人だと、感服した。きっと夏芽も、彼女との時間が楽しかったことだろう。
店を出るころには空は暗くなっていて、家路につく人々で混雑していた。
僕は、お礼を言って手を振った。叶葉も「ありがとう、会えてよかった」と手を振り返した。
後姿を見送っていると、叶葉は足を止めてゆっくりと振り向いた。
「ねえ!」
「‥‥‥ん?」
「また、会ってお話とかできるかな。あたし、上京してから仕事ばっかりで‥‥。友達って呼べる友達がいないんだ」
叶葉は、はにかんだ笑顔でそう訊いた。
「‥‥‥うん、もちろん」
僕がそう答えると、彼女の笑顔が明るくはじけた。一瞬のうちに、ゆっくり流れていくフィルムのワンシーンの中に迷い込んだような気持ちになった。
「じゃあ、またメールするね!」
僕は頷いて、ふたたび手を振った。叶葉は微笑むと、足早に雑踏の中に消えていった。
