1
夏芽という女の子を形容するのに、簡潔で適切なことばが見当たらないのは、僕の語彙力が足りないからではない。
おそらくそれは、彼女は普通の女の子とは違いすぎているから。しっくりとくる言葉が存在しないのだ。
夏芽は、小さな頃から想像にふけってばかりの子供だった。本が好きで、彼女の話すことの大半は、物語の登場人物に関わることだった。
愛嬌があり可愛らしかったので、男子からよく告白されていたようだ。しかし、夏芽の小難しい話についていけなくて、最終的に彼らはみな夏芽から離れて行った。これは僕にとってみれば、最大の幸運だった。僕は他人のペースに合わせるのが得意だったし、読書も好きだったので、夏芽の話し相手になることが出来た。
夏芽とは八歳のときからの付き合いだ。夏芽は横浜で生まれ、しばらく横浜市内に住んでいたのだが、都会の環境が体によくないというので、下田に移り住んで来た。
「白川夏芽です。よろしくお願いします」
転校初日、夏芽は緊張した面持ちでお辞儀をすると、僕の隣の席に座った。ツインテールの髪型と白いブラウスがよく似合っていた。
その日の放課後、僕は担任の先生に職員室に呼ばれた。
「白川さんは心臓に持病があって……、環境のよい場所がいいと言われて、ここに引っ越してきたんだ。慣れるまで、しばらく一緒に通ってあげてくれるかな」
先生に言われ、僕はすぐに「はい!」と威勢のいい返事をした。重要なミッションを与えられた戦士のような、勇ましい気分だった。
その日から、夏芽と僕は登下校をともにするようになった。夏芽は気さくで話しやすく、すぐに打ち解けられた。
一年が経ち、クラスが変わっても、僕らは一緒に帰るのを止めなかった。下校のチャイムが鳴ると、いつも夏芽のほうから「帰ろう」と声をかけてきてくれた。
しかし、そんなある日のこと―――。同じクラスの男子たちが、僕を迎えに来た夏芽をからかい始めた。
「理人く~ん、お・ま・た・せ♪」
「いつもラブラブだね、ヒューヒュー」
彼らのヤジに、夏芽は面倒くさそうに首をすくめると、すぐに言い返した。
「うるさいな!私が病弱だから、理人は仕方なく送ってくれてるだけ」
男子たちは、夏芽の言葉に一瞬神妙な顔をしていたが、反論されたことが面白くなかったのだろう。
その男子のグループでいちばん体の大きい山木くんが、「うそだろ。お前みたいな心臓に毛が生えたみたいなやつ」と夏芽に言い放った。夏芽の心臓に疾患があることを知っていたのは僕だけだったのだろうか。いや、そんなはずはない。夏芽はよく保健室に通っていたし、その場にいた生徒は皆知っていたはずだ。その発言に、僕は無性に腹が立って、彼らに向かって言った。
「やめろ。いくらなんでも言い過ぎだ!」
僕が山木くんに歯向かったので、教室の空気は、しん、と凍りついた。瞬時に、山木くんの鋭い視線が僕をとらえた。
「何だ、お前。やるのかぁ?」
山木くんが僕に顔を近づけてそう聞いたので、周囲にいた男子たちも、荒々しく声を上げ、僕の胸ぐらをつかんだ。
僕は、教室の壁を背に、数名に押し付けられる形になった。
勝ち目がないことは、すぐにわかった。しかし、夏芽のことを悪く言うやつらを、僕は許せなかった。
「殴りたければ、やればいい。でも、夏芽に謝れ!」
「うるせぇ、正義の味方ごっこか。お前、いい子ぶってて、前から気に入らねえんだよ」
山木くんの太い腕が、僕の首元に押し当てられた。しばらくの間、気道がふさがれて、僕の顔は次第に青ざめていった。息ができない――そう思った次の瞬間、声の出ない僕の代わりに、夏芽が叫んだ。
「やめて!理人を傷つけたら、あたしが許さないんだから!」
クラスにいた女子たちも、夏芽に加勢するように大きな声を上げた。その騒ぎ声を聞きつけたのか、教室のドアが開いて、担任の先生が入って来た。先生は、押さえつけられている僕に気が付くと、顔色を変え、山木くんたちにつかつかと歩み寄った。
「やめろ!そこ、何やってる!」
山木くんたちは、先生の一喝に硬直したかと思うと、蜘蛛の子を散らすように教室の外に逃げだした。
「こらっ、待たんか!」
先生は、鬼の形相で彼らを追いかけ、廊下に出て行った。僕は咳き込みながら、へなへなと床に座り込んだ。
「理人‥‥‥、怖かったね。‥‥‥大丈夫?」
目線を上げると、夏芽が目を潤ませているのに気が付いた。僕は、何もしてやれなかったことへの申し訳なさから、「嫌な思いさせてごめん。帰ろう」と言って立ち上がった。夏芽は、うん、とうなずいたあと、僕のシャツの裾をそっとつかんだ。
その帰り道、夏芽は途中で具合が悪くなった。通学路脇の木陰に腰を下ろしたので、僕は自分のランドセルをその場に置いて、すぐに夏芽を背負って走った。
夏芽の家に行ったのは、そのときが初めてだった。
大きな屋敷のまわりには、レンガ造りの外壁があり、屋敷を取り囲むようにそびえたっていた。
正面には、蔦の模様のアーチ型の扉があり、白川、という表札がかかっていた。そのときまだ背の低かった僕の目には、それが別世界につづく扉のように思えた。
それがかの有名な文豪・白川聖詩氏の屋敷だと後から両親に聞かされたとき、僕は驚いた―—というよりはむしろ、「なるほど」と合点がいった。夏芽が他の子供たちと違う理由が、ようやく分かった気がした。
「おやおや、ありがとうね。きみが理人くん?」
玄関口からひょっこり顔を出した、白髪のお爺さん――白川聖詩氏が、僕に声をかけた。
「は、はい」
「毎日ありがとうね。夏芽は発作が出そうかな。どれどれ」
彼は夏芽を庭のベンチに座らせると、脈をとり、水を飲ませて介抱した。
「少し安静にして薬を飲めば落ち着くだろう。なぁに、大丈夫。こう見えて、私は若いころ、看護師をやっていたことがあってね」
「そうなんですか」
「ところで‥‥‥、理人くんは、本は好き?」
「はい。夏芽さんから借りて、よく読んでいます」
「そうなんだね。うちの娯楽は本くらいしかないけど…、名作はたくさんあるから、よかったら、またいらっしゃい。夏芽には友達がいないと思っていたけど、きみみたいな強い子が一緒にいてくれたら心強いだろうな」
「そんな。僕は強くなんかないです」
「そうか?女の子一人背負って走れるんだ。大したもんだよ」
彼はそう言って笑うと、ありがとう、と再び言った。
僕は深くお辞儀をすると、夏芽の家を後にした。
初めて、男として、誇らしいことをした気がした。心臓が、どきどきした。
守ってやらなければならない、と思えた相手は初めてだったし、夏芽の家族公認の初めての友達になれたことが何より嬉しかった。
その日を境に、僕は夏芽の家に時々遊びに行かせてもらうようになった。
夏芽は、おじいちゃん子だった。いつも祖父の書斎で遊び、祖父の書斎にある本を山ほど読んだ。
言葉遊びが好きで、祖父から投げかけられる言葉を咀嚼し、反芻し、やがてそれらを自分のものにした。
ときには、その言葉をお題にして、物語を生み出したりもした。そんな彼女に、作家としての才能が開花しない訳がなかった。
「おじいちゃんの小説、全部読んだの?」
ある日、僕はそんなことを夏芽に訊いた。
読んでいた本から目線を上げて、夏芽は笑った。
「まさかぁ。沢山あるし、難しいからね」
「そうなんだ」
「だけど‥‥‥いつか、おじいちゃんみたいな作家になれたらいいなぁって思ってるんだ」
夏芽はそう言って、リビングのキャビネットの上にある沢山のトロフィーを見上げた。
「なれるよ!だって、こんなにたくさんの本を読んでるんだし」
「読むのと書くのでは、少し違うから」
「そうなの?」
「うん……、やっぱり文才ってものが必要なんだと思う」
「ブンサイ?」
「そうよ、それが今のわたしが一番欲しいもの」
しかし、僕は、夏芽が才能に溢れていることを知っていた。そのとき、夏芽と交換ノートをしていたけれど、夏芽の奇想天外な発想力には、いつも舌を巻いた。
そのノートは、一方が書き出したものに続けて、それに続くあらすじを次の人が考える、といったようなもので、いわゆる普通の交換日記とは違った。その交換ノートは、どういう経緯で始まったか忘れてしまったが、僕たちが小学校を卒業するまで続いた。
夏芽はその才能を、僕以外の人間にひけらかしたりすることはなかったが、中二の初夏に開催された学園祭で、彼女のクラスは舞台劇を披露することになった。そして、その脚本は、夏芽が書いたというので話題になった。
観客たちはみな、その劇の世界観に一瞬のうちに引き込まれた。台詞、ストーリー展開、演出、すべて見事だった。
その劇は、人の姿をした知の女神が天からやってきて、戦争をする二国の君主を言論で争わせ、武力を使わずに平和を取り戻させる、といった内容だった。
劇は大盛況に終わり、主役の女神役の女の子が、最後に夏芽を舞台の真ん中に立たせて言った。
「この物語の作者の、白川夏芽さんです!」
夏芽は「照れ臭いからいいよ」、と言っていたが、拍手が起こったので、マイクを手に取った。
そして、「楽しんでいただけて、嬉しいです」と一言だけ言って、舞台挨拶を終えた。
クラスのみんなに囲まれて、すごく、幸せそうだった。
夏芽は、その二か月後に死んだ。八月の終わりの夕刻だった。
学園祭での舞台挨拶が「最後の花道」になるなんて、クラスの誰一人想像もしていなかった。
2
新人賞の受賞作品を書いたのが、僕ではなく、夏芽だったということを周囲の人々が知ったら、どうなるだろう。
種明かしするかのように、「僕は書いていない」と公言しても、現実にはそんなに面白いニュースにはならないだろう。ゴーストライターの夏芽が、本物の幽霊(ゴースト)であることがばれれば話は別だが。
しかし、「十七歳が新人賞受賞」というのは、まあまあ話題性のあるニュースだったので、マスコミからは思ったよりも大きく取り上げられた。このことに関しては「事実」なので、本当にすごいと思う。
母親からも、学校からも、うるさいくらい連絡がきた。
母親にいたっては、親戚中に連絡をするほど大喜びだったらしい。大人の承認欲求は満たされたから、これでよし、となるだろうか。これ以上あまり事が大きくなると、嫌な予感しかしない。
この新人賞の本当の作者である彼女は、そのことを鼻にかけることもなく、「たまたまじゃない?」と笑っている。
今日は出版社から送られてきた献本の表紙が送られてきたので、そのイラストを食い入るように見入っている。
「この表紙最高じゃない?」
人気イラストレーターが描いたその表紙には、赤い着物を着た美月が、神社の狛犬と背中あわせに座っている。
闇の中に咲く白い夕顔が蔓を伸ばし、その先には金銀をちりばめたような源氏物語の絵巻の世界が広がっている。
「プロの絵師さんって凄い。あたしの頭の中覗いたのかな、っていうくらい、イメージどおりの絵だよ。ほんと驚いた」
「うん。この表紙は完璧。‥‥‥だけどさぁ、本当にいいの?タイトル変わっちゃって」
「いいよ。だって、編集さんがそのほうが売れるって見込んで考えてくれたんでしょ?」
「そんな、あっさりしたものなのか……」
「うん。いいの、いいの。それよりも、ねえ!出版のお祝いも兼ねて、本屋さんに一緒に行こうよ。この本が実際に並んでるところ、見たいなぁ」
「ええっ!この部屋以外の場所に、一緒に行くの?」
「えーっ、まさか、幽霊は夜にしか出ないって、思ってないよね?あたし昼間でもいろんな場所に行けるし、何ならいろんな服装に変身できるし!」
そう言って、夏芽はいろんな服装に変身してみせた。警察官、ナース、チャイナ服。
「すごい。思った姿になれるの?」
「うん。ビックリだよね。霊体って、心で念じた姿になれるの。からだの大きさを変えられるだけじゃないんだよ」
「成長もできるの?」
「それはできない。成長した自分には、どう念じてもなれなかった。心に描ける自分はずっと十四歳の自分だけ」
「へえ~、そうなんだ‥‥‥」
そう言ったあと、はっと我に返った。感心している場合ではない。
「でも、ほんとに大丈夫?誰にも見られたりしない?」
「うん、理人にしか見えないはず。一度だけ実験してみたんだ。街の中で叫んだり踊ったり、‥‥‥あと、スクール水着姿で歩いても、誰も気づかなかったから、たぶん大丈夫」
「スクール水着⁉……そんな姿で歩いたの⁉」
ショックのあまり、思わず復唱してしまった。夏芽は、しまった、という顔をしたあと、頬を赤らめて、ニヒヒと笑った。
「実験が過ぎるだろ!」と叫びたくなる気持ちを抑え込んで、咳払いをする。変な想像をすると、こっちまで顔が赤くなりそうだ。動揺を隠しきれず、くるりと背中を向けて、僕は夏芽に言った。
「じ……、じゃあ、いいよ。一緒に外出しよう」
「やったぁ!どこの本屋さんにする?」
「じゃぁここで」
僕はスマホで検索をかけると、その本屋のウェブサイトを夏芽に見せた。行きつけの静かな本屋で、神保町にある。最上階にはカフェもあるので、夏芽とゆっくり寛ぐこともできる。
「わぉ、素敵、素敵。じゃぁ、決まりね!」
夏芽は飛び跳ねながら、嬉しそうに目を細めた。
3
@yuzki_ky 十七歳の作家爆誕ねぇ、それどこの小説?
@richak1816 新人賞のやつ読んだ。歴史もの普段は読まないけど意外とおもろい。まぁ若い割にはって印象だけど。
@1999ktaka 表紙がかわいくてジャケ買い!エモすぎて読んだあと五体投地した‥‥‥。
「いつの間にか、公式アカウントにこんなにコメントがぁ~‼理人先生も見てみて」
興奮気味にスマホの画面を見つめながら、スミさんは歓喜の声を上げた。編集部特有の、生暖かくこもった空気にはまだ慣れない。
「すみません。僕、そういうの、ちょっと‥‥‥」
そこまで言いかけて、ああ、いつもの癖が出てしまった、と僕は自分が嫌になる。自分がどう思われているかを想像するのが、昔から苦痛で仕方がない。褒められても、けなされても、どのみち自分を肯定できなくて憂鬱な気分になるのだ。
今日は、サイン本を書くために呼ばれている。沢山の書店に、プロモーションとして置いてもらうらしい。
山積みにされた本に、黙々とサインを入れていく。
隣にいるスミさんは、新刊の表紙を嬉しそうに見つめている。
「やっぱ、このタイトルにしてよかったね。言わずもがな!ってキャッチつけやすいし」
「……はい」
本当は、少し嫌だった。夏芽が最初につけた『夕顔は朝に死ぬ』のほうが、作品の雰囲気に合っていて良かったのに。これではラブストーリー好きの読者にしか手に取ってもらえない可能性もあるではないか。
たしかに、この作品は時代を超えた二人の男女の恋愛物語だ。しかし、恋愛もの、とひとくくりにしてほしくない気持ちが、僕の心の中にあった。
なぜなら、リアルな死生観というものがこの作品にはあって――、たとえば、人は死んで異世界に転生なんかしやしないし、人間にはれっきとした「魂」があるということを教えてくれる。
肉体が滅んでもその魂は残り、すぐには消えない。その死者を知るものたちが存在する限り、それは彼らの心に宿り、生き続ける。
夏芽はそのことを地の文で説明せず、別の形で表現した。
登場人物たちの眼差しや、言葉、心の揺らぎの中にそっと浮かび上がるように。思いやりと愛情深い言葉で、物語を紡いだのだ。
ふいに、夏芽のお葬式の日の記憶が呼び覚まされる。
蝋燭の光に照らされた夏芽の白い肌。そのときにはもう血が通っていないことを分かってはいたけれど、長いまつ毛、薄紅色の頬、胸の前で組まれた手の、綺麗に整えられた爪――、それらのすべてが完璧に美しく、まだ生きているように思えた。
棺の中で、ただ眠っているようにしか見えない夏芽に、僕は小さな声で、「夏芽」と呼びかけた。
もちろん、返答はなかったけれど、棺のそばの蝋燭の火が一瞬小刻みに揺れたので、そのときようやく僕は、ああ、そうか、と理解した。夏芽はもう今までみたいに返事はできないのだ、と。そのことを悟った瞬間、涙が止まらなくなった。
大好きだったよ、と心の中で思い切り叫んでも、もう夏芽には届かない。
早すぎる死に、身も心も引き裂かれそうになりながら、僕は夏芽に別れを告げた。触れた指先は、硬く冷たかった。
お葬式の最後に、夏芽のお父さんからの挨拶があり、夏芽が亡くなった経緯について説明があった。
夏芽の病は、先天的な疾患で、まだ治療法が確立されていない重度の心臓病だったそうだ。
不整脈がたまに起こっていたことや、通院のため時々欠席していたことは、僕だけでなく他の生徒たちも知っていた。しかし、夏芽が不治の病と闘っていることを知っていた人は、一人もいなかった。
「空気のよいこの場所で、他の子供たちと変わらない生活をさせたかった。病気について皆さんに詳しく説明をしていなかったのは、申し訳なかった」と、夏芽のお父さんは言った。
余命が長くないことを知っていたのは、夏芽自身と、家族と、学校の先生達だけだっただけらしい。
思えば、夏芽は強がりな子だった。自分がそんな状態であることを知っていて、周りに何も言わないなんて。
せめて僕だけにでも、本当のことを教えてくれたら良かったのに――。そんな思いに沈んだまま、僕は夏芽の家を後にした。
その後、どうやって家に帰ったのか、どんな風に毎日を過ごしたのか、辛すぎてあまり覚えていない。
「先生……、理人先生?」
「……あ、はいっ」
「どうかした?」
「いえ……。すみません」
少し考えごとをしていただけです、と頭を下げて、僕はスミさんのスマホを指さして言った。
「それ、どうせ、新人をこき下ろすための書き込みでしょう」
僕が言うと、スミさんは「そうでもないよ」とスマホの画面を見せた。
「ここには、愛のあるコメントが多いから。参考になることもたまには書いてあるから、もしよかったら」
手渡されたスマホを拒絶することができず、仕方なくそれを受け取り、コメント欄に目を通した。
しばらく読み続けていると、あるメッセージが目に留まった。
@clearsky2006 感じる違和感。どうやって書いたのかな。 他人事みたいに感じる。
不可解な言葉だった。僕はそこでスクロールを止めた。
違和感、他人事……、何のことを指しているのだろう。作者が男性だから、違和感があると言っているのか?それとも……。まさかとは思うが、僕の背後にいる彼女を知っている?
私生活を垣間見られているようで、胸がざわざわとした。
「スミさん。サイン終わったんで、そろそろ失礼します」
「えっ、ちょっと待って!二作目の打ち合わせは?」
「ごめんなさい。学校から呼び出されていたの、忘れてて。また、あとで連絡します」
僕は適当な嘘をついて一礼すると、慌てて編集部を後にした。エレベーターを降りるあいだにも、何か不穏なものが背後から迫り来るような気がした。駆け足で、バス停に向かった。早く夏芽のいる自分の部屋に帰りたかった。
寮に戻ると、バタバタと階段を駆け上がった。ドアを開け、「夏芽、いるか?」と小声で呼ぶと、ぬぅ、と夏芽が天井から顔を出した。宙づりになった状態の夏芽の頭しか見えなかったので、思わず「うわ」と声が出た。
「ど~したの、そんなに急いで!」
「そこにいたのか……あぁ、良かった」
夏芽は、不思議そうに僕のところに近づいてくると、「そんなに慌てて帰ってこなくても、名前を呼べば、どこにでも現れるよ?」と言って、首を傾げた。
「えっ!マジか」
「呼ばれると分かるよ。それが遠く離れていても」
「そ、そうか……、はは……」
まったく訳のわからない話だ。そう思ったとたんに、思わず気の抜けた笑い声が漏れた。自分はまだ、この世界の人間なのだ。夏芽の世界がどのように回っているのか、知る由もないではないか。
この世に戻って来た夏芽に聞きたいことは沢山あった。なぜここにいる?何のために、そして、いつまで――?
しかし、それを明白にすることを、もうひとりの僕が拒んだ。
幽霊の夏芽がずっとここにいてくれることを、僕はいつしか願うようになっていた。
これは彼女が生きていた頃と同じで、ただ友達として傍にいてくれるだけでいいと思っていた。(そんな状態だから、ずっと告白できないままなのだが)。
彼女に余計な質問をしてこの日常が壊れてしまったら、僕はきっと立ち直れない。
そんなことを考えているうちに、夏芽について不思議に思っていた様々なことが、胸の中に溢れてきた。
中でも、一番気になっていたのは、彼女が今置かれている状況についてだ。
夏芽は、天国(存在するかは分からないが)に行けなかったのだろうか。あるいは、自分の意思でここに戻って来たのか?
夏芽のからだ――いや、霊魂と言ったほうがいい――は、今いったいどういう状態なのだろう、と。
「ねえ‥‥‥。夏芽は、どうやって僕だけに姿を見せたり、声を聞かせたりしてるの?」
恐る恐る、夏芽の顔色を窺いながら、尋ねてみる。
すると、夏芽はあっけらかんとした顔で言った。
「猫の声とおんなじ仕組みだよ」
「え?」
「猫が人間とは違う周波数で泣くことができるって知ってる?」
夏芽が急に猫の話をし始めるので、思考回路がおいつかない。
「あ‥‥‥、ああ。なんか聞いたことあるな」
「いわゆる、サイレント・ニャーってやつね」
「あ、わかる。口だけニャー、って言ってて、声出てないときある。あれのこと?」
「うん。そう、それに近いよ。二人にしか使えない周波数があって、それで会話してる感じなんだと思うよ」
夏芽は満面の笑顔でそう言うと、猫のポーズでおどけてみせた。
「——うーん……。納得いくような、いかないような‥‥‥」
「だよね。あたしも実際には、どうなってるのか分かってないんだ」
「何だよ‥‥‥適当な返事だったの?」
「ニャハハ」
「ところで、猫の話で思い出したけど。メグは元気なの?」
メグとは、夏芽のペットの名前だ。彼女の家には、かわいい三毛猫がいた。
メグというその名の猫は、僕たちが小学生のとき下校している途中で出会った。木に登って降りられなくなっているところを、僕が救助して、そのまま夏芽の家に連れて帰ることになったのだった。
「うん、おじいちゃんちにいる。いつも元気に飛び跳ねてるよ」
「そうなの。おじいちゃんは、元気?」
「うん、腰がたまに痛いのを除けばね。まだ執筆してるよ」
「すごいな。おじいちゃんとは僕みたいに話したりするの?」
「話さないよ~。幽霊出た!ってびっくりして、腰抜かしたら大変じゃない!」
夏芽はケラケラと笑って、何度も宙返りした。
「……でも、たまにメグとは遊ぶよ」
「そうなの?」
「メグは、あたしのこと誰にも話さないからね。そういう意味では、安心な存在」
パラパラと、にわか雨が降りだしたのが分かった。そのうちに、雨脚は強くなり、本降りの雨に変わった。
部屋の窓ガラスに打ち付ける大粒の雨が、ゆらゆらと揺れながら流れ落ちていく。僕が窓辺に立つと、夏芽もすぐ横に来た。
「はあ‥‥‥雨、嫌んなるな。梅雨なんてなければいいのに。早く夏来ないかな」
独り言のようにそう言うと、夏芽は窓ガラスを滑り落ちる水滴を指で追いかけながら言った。
「そう? あたし、この世に要らないものなんてないと思うんだ」
「……え?」
「あたし、雨は嫌いじゃないよ」
視線の端で、夏芽が無邪気に微笑んだのが分かった。
窓ガラスに映るのは僕だけで、夏芽の姿は見えない。けれど、僕の隣に確実に存在している彼女は、声を弾ませて言った。僕よりも生き生きとした表情をして。
「雨上がりのあとは、景色が綺麗に見えるじゃない?」
そう言って、夏芽は僕を見上げた。彼女の茶色がかった瞳に、僕が映っている。このまま夏芽の顔を直視すると、顔が爆発的に紅潮してしまう――、そんな予感から、すぐに視線をそらして話題を変える。
「あ、そうだ。スミさんに二作目のこと提案されてるんだった。これから先、どうすする? 何か書きたい話はほかにあるの?」
「知らなぁーい」
夏芽は、そっぽを向いて、他人事みたいな口ぶりで言った。
「これから大変になるわねぇ、理人先生にたくさん仕事が舞い込んで」
「おいおい……、夏芽に付き合わされた結果、こうなってるんだからな?わかってる?」
「何言ってるの、理人先生。自分がそのオファーを引き受けたんでしょ。それなら、ここからは一人で書いてみなよ」
「えっ!夏芽の夢じゃなかったの?ノーベル文学賞とか、なんとか」
「あぁ、あれね……。うん、夢だよ。でも、理人も少しは書いてみようよ」
「僕が?」
「いつも代打選手じゃつまんないよ。次のストーリーの土台は、理人が考えてみない?」
「う、うん……。そりゃ、いいけど。でも、夏芽にもアイデアはあるんだろ?」
夏芽は、どうかな~、とつぶやいて、体を小さく縮めた。
「うーん、もうなんか眠い……。その話は、また今度本屋に行ったときにでも。じゃあ、おやすみ~」
「今度っていつ?早くしないと……」
「じゃあ、明日の放課後に」
そう言って、すうっと消えてしまった。
「マジかよ~。スミさんになんて返事すれば~!」
僕は、ポケットからスマホを取り出すと、スミさんに取り急ぎメールを返した。
『今日は大変失礼しました。今いろいろと立て込んでいて、すみません。あらすじは練っていますので、大筋が完成したらお知らせします』
4
七月七日、午後三時半。湿度80%といったところだろうか。
外は蒸し風呂のように暑く、空には灰色の雲が立ち込めている。
七夕の日は、晴れている日が少ないように感じるのは僕だけだろうか。天気予報も、今日は夕方から空模様が変わりやすいとのことだったので、傘を手に出かけた。
寮を出て地下鉄にのり、神保町改札を出たところで、僕は腕時計を見た。約束通り、今日は夏芽を本屋に連れて行くことになっている。しかし、待ち合わせの約束の時間から、十分以上経っても夏芽は来ない。同じ部屋にいるのだから、一緒に出ればよいのではないか、と思ったのだが、夏芽が一度待ち合わせというものをしてみたい、というので、付き合わされる羽目になったのだった。
当然のことながら、夏芽は連絡ツールを持っていないので、気長に待つしかない。
時間をつぶすために、スマホを取り出す。すると、すぐに正面から声がした。
「待った?」
夏芽が髪をふんわりとカールしてきたので、僕は一瞬彼女が誰だかわからずに、ただ茫然と見つめていた。驚くばかりで、言葉にならなかった。ノースリーブの空色のワンピースから伸びた腕には銀色のブレスレットが光っている。ハイヒールを履いているせいか、いつもより目線が合う位置が高い。マスカラをしたまつ毛が妙に大人っぽくて、一四才の夏芽が、急に大人になった気がした。口紅を載せた唇が動いて、僕にしか聞こえない声で言う。
「似合う……かな?」
夏芽はちょっと照れ笑いしてそう言うと、上目遣いに僕の方を見た。
周囲に怪しまれないように頷くと、僕は恥ずかしくなって思わずうつむいた。
「あんまり話すと目立つから、ついてきて」
冷静を装いそう伝えると、夏芽は無言で僕の隣を歩き始めた。
しばらくすると、本屋がたくさん並ぶ通りが見えてきた。
飲食店も周囲にたくさんあり、スパイスの香りがどこからともなく漂ってくる。
「ここが世界一の本の街かぁ~!一度来てみたかったの。ありがと、理人」
「僕のお気に入りの本屋は、あそこ」
指さした看板には「l’heure bleu」と記されている。何回か訪れてはいるが、読み方はわからないままだ。
「すごーい。かわいい~! パリの街角にある本屋さんみたい」
古びた西洋風の建物を改装したその店を、夏芽は気に入ったようで、駆け足で近づいていった。入り口の背の高い木製のドアには、ちいさな青色の陶板がはめ込まれていて、手書きの文字が記されているのが見えた。
『C’est la vie(セラヴィ) ——いいことも悪いことも含めて、それが人生。
そんなことを、本は教えてくれます。どうぞ、素晴らしい本との出会いを。』
僕はそのプレートを一瞥したのち、夏芽に「入ろうか」と声をかけた。しかし、夏芽は返事もせず、しばらくのあいだその文字を見つめていた。夏芽の目は、ある種の興奮でキラキラとしていて、半開きになった口元からは、感嘆にも近い吐息がこぼれていた。
夏芽の囁くような声が、僕の耳にかすかに聞こえた。
「セラヴィ」
ただ読み上げただけで、深い意味はなかったのかもしれない。しかし、僕にはこう聞こえた。ああ、私はまだ書きたい、と。
おそらく今この瞬間、彼女は「作家としての人生」に思いを馳せたのだ。
そう感じ取った瞬間、僕は耐え難い感傷に貫かれることになった。それが「人生を謳歌できる者に向けられた言葉」だったことに気付いたからだった。皮肉にも、彼女の人生はすでに幕を閉じているというのに――、彼女は熱を帯びた声でこう言ったのだった。
「素敵なことば。人生の酸いも甘いも、受け入れなさいってことだよね。今日は『いいこと』で、理人と一緒にここに来れてよかったなぁ!」
「そうだね……。夏芽の夢が叶って、本当に良かった。小さい頃からの、夢だったもんね」
僕は、夏芽に微笑んでそう言った。けれど、うまく笑えた気がしなくて、ドアノブに掛けた手も少し震えた。自己嫌悪に襲われたからだった。
授賞式の日から、周囲からの注目を浴びることが増えて、自分のことばかりに意識が向いてしまっていた。
――僕が思い悩んでいる場合じゃなかった。彼女の「大作家になる夢」は……?いったい、これからどうしてあげれば……?
しかし、扉を開けて店内に足を踏み入れたときに、その不安は魔法のように消えた。
あたたかな照明の下、「言わずもがな いと恋し」の美しい表紙が、新刊コーナーに目立つように置かれていた。
大きめのポップで、「書店員イチオシ」、という文字も見える。ほかのどの書籍よりも存在感があって、僕は思わず息をのんだ。
彼女の生み出したものが、こんな風に世界から祝福されていて良かった、と僕は思った。
ほんのひとときでもいい。彼女の書いた本がこの世に存在するだけで――、それだけのために生きていける、とも。
僕は、隣にいる夏芽の顔をちらと見た。彼女の顔は、この上ない喜びに満ちていた。その表情を見たとき、僕の胸にあたたかな熱がこみ上げてきた。
そして、神様までもがこの一瞬を待ち望んでいたように、二人はこの場所にいるような気がするのだった。
「表紙の色が綺麗だし、文字のフォントも目立つから、見つけやすいね」
夏芽が嬉しそうに本に顔を近づける。
「凄いな。こんな目立つ場所に……」
本に触れることのできない夏芽のために、一冊手に取って、ページを開いてみせた。
紫式部の作品にちなんで、表紙の裏側は藤の花のような紫色。そして、内側には和紙の内表紙が入っていて、そこから微かに香を焚きしめた匂いがする。
何の印刷もないページだったが、そこは夏芽がこだわった部分だった。
登場人物たちの存在が感じられる本を、と、夏芽が出したアイデアだった。
夏芽がこの作品の本当の作者であることは、当然分かってはいた。しかし、僕はその「存在」という言葉に、思い切り頭を殴られたような気持ちになった。――そうだ、これは確かに彼女が書いたものだ、と。
ここには、白川夏芽が創り上げた世界があり、小説の細部――たとえば、登場人物の心の機微といい、情景描写といい、あらゆるところに彼女の「気配」がある。
平安時代の世界を現実味のあるものとして感じさせたいというよりは、「白川夏芽がここにいる」という証みたいなものを、僕は刻印してあげたいと思った。
スミさんにそのアイデアを持ちかけたところ、コストがかかるから、と最初は難色を示していた。
しかし、「女性受けしそうだし、話題になるかも」と会議に持ち込むと、すんなり編集部からゴーサインが出た。
「紙のにおいが好きで、本という媒体を好む人が多いのだから、嗅覚に訴える本というのは、案外受けるのかもしれない」と、編集長の後押しがあったという話だった。製本の工程の関係で、出版までに少し時間がかかったが、ようやく形になったのだった。
「存在が感じられる本になってるでしょ?」
夏芽が自信たっぷりな顔で訊くので、僕は何度も頷いて、ページをめくった。
「本は動きのある媒体ではないでしょ。だから、ページをめくる一瞬の時間って大切だと思うの」
ページをめくるたびに、ほんのりとした香りが広がる。そのことは、平安の世の女性たちの着物から、何か所作をするたびによい香りが匂い立つことを思い起こさせる。
「夏芽は、この香り、いいと思う?」
夏芽に訊くと、夏芽は紙に顔を近づけて、くんくんと香りを嗅いだ。そして、「何の花かな……凄くいい香りだね」と言って、口角を上げたので、僕は「そうだね」と微笑んで本を閉じた。編集部が選んだのは、白檀がベースの、ウッディな香りだった。
夏芽は、昔から嘘をつくのが下手だ。表情も硬くなるし、いつもお喋りのくせに、言葉少なめになる。
香りをわかったふりをしたのは、自分がリクエストをした手前、感想を言わなければならないと思ったからなのかもしれない。
僕の勘だが、おそらく夏芽は、物に触れられないのと同時に、匂いも味もわからない。出来ることといえば、見たり聞いたり、僕と話をすることくらいなのだと思う。
夏芽が実体のない霊であることは分かっていたものの、僕はショックを受けた。このことは、夏芽が一番、知りたかったはずだ。
しかし、僕は夏芽の気持ちを察して、すぐに話題を変えた。
「この紹介のPOP もいい感じだね。夏芽の想いをよく汲んでくれている」
「これ、ここの店員さんが書いたの?」
「きっとそうだね。みんな、色々考えてくれてるんだよ」
「こんな沢山の本があるのに、埋もれないように売り出してくれて、ありがたや‥‥‥」
ふと横を見ると、夏芽は近くで作業をしている書店員さんの方を向いて手を合わせている。
「はは‥‥‥夏芽の力がちゃんと認められたってことじゃない」
「そうだったとしても。ありがたや~」
僕はくすくすと笑いながら小説を棚に戻すと、夏芽にならって書店員に一礼した。書店員さんは不思議そうにこちらを見つめていたが、会釈をすると元の持ち場に戻って行った。
そうしているうちに、二人の男女が階段から降りて来た。和やかに談笑している彼らの背後に、「Café」と書かれたボードが見える。
「‥‥‥そうだ。これだけで帰るのも何だし、上のカフェにでも行ってみる?」
「うん。行ってみたい!」
夏芽は嬉しそうに声をあげると、僕のあとを跳ねるようについてきた。思えば、こんな風に外でお茶をすることさえ、夏芽が生きていた頃には出来なかったことだ。
階段を上がっていくと、青く塗られた壁と天井が見えてきた。水色から群青へと、青は静かに階をのぼるように深まっていく。
「なんだか、絵画の中の世界みたい」
壁を見上げながら、隣にいる夏芽が言う。
「‥‥‥本当だ」
その独特な色彩の壁面は、幼少期に父が教えてくれたシャガールの青い絵を思い起こさせた。
青い空が、地上にいる人々や動物、花など、あらゆるものをその光のフィルムでくるみ、ひとつずつ静かに空に浮かび上がらせていくような――、そんな絵のことを。
そして同時に、絵画を習っていたときに使っていた、油絵の具と絵筆のことも思い出した。
いちばん暗い色を先に乗せ、そのあとに、薄く透明な色や白い絵の具を重ねながら絵筆を走らせる。そうすると、深みのある透明感が生まれてくる。まるで、闇の中から光が生まれる瞬間を目にしているようで、驚くべき体験だった。
この壁は、きっと空をイメージしたものだ。おそらく、夜が次第に明けていくときの。空を通して見た時間のうつろいを意図的に描こうとしているような、そんなタッチのように思えた。
カフェの入り口に入ると、背の高いウェイターが出迎えてくれた。
「いらっしゃいませ、おひとり様でしょうか?」
「えっと‥‥‥、二名です」
ウェイターは最初、僕の言葉に戸惑った様子だった。
しかし、後からもう一人来ると解釈してくれたのか、すぐに窓際の席に案内をしてくれた。
雨予報のせいか、幸い、カフェにいる人は少なかった。奥のほうの席に案内され、安心する。ここなら、夏芽と小声で会話をしても大丈夫そうだ。
「何にする」
メニューを見せると、夏芽は顔を輝かせた。
「この、コーヒーゼリーが敷き詰められたチョコパフェ。美味しそう!ねぇ、理人も一緒に食べよ」
「いいよ。そうしよう」
ウェイターに注文を伝えると、僕は「水も、二つください」と頼んだ。
「すごいね~、こんな素敵なカフェがあるなんて。通いたくなる本屋さんだね」
夏芽が、店内のインテリアを見回しながら、嬉しそうに言う。
「ここに来てよかったでしょ」
「うん!大人な空間って感じで、すごくいい。‥‥‥・あっ、見て。こんなところに七夕の飾り付けが」
夏芽が頭上を指さしたので、僕もつられて目をやった。
天井に近い位置の窓枠に笹の枝が括り付けられていて、カラフルな短冊とともに、てるてる坊主が糸で吊るされていた。
「かわいいてるてる坊主。でも、今日雨予報だって」
僕が言うと、「えー!そうなの?」と夏芽が残念そうな声を上げた。
「七夕のお話って、何か理不尽だよな。なんで1年に1回?って、思うよ」
「そうだよね。元々彦星と織姫は夫婦だったのに。織姫の父親、意地悪すぎない?」
そんなことを話しているうちに、パフェとコーヒーが運ばれてきた。
僕は、夏芽の席のほうに、そっとパフェのグラスを置いた。
今日、僕はこれだけはしようと心に決めてきた。
カフェに入ったり、買い物をしたり、なにかデートじみたことをしたとしても、夏芽のことを「この世に生きている一人の女性」として接しよう、と。
「じゃあ、いただきます」
ミルクを入れて、コーヒーを口に含むと、深みのある香りが鼻孔に広がった。
うまいなあ、と僕がうなっていると、夏芽はしばらくのあいだ、不服そうに僕の顔をじっと見つめていた。首を、斜めに傾げて。
どうしたのだろう、と不思議に思って見つめ返すと、夏芽は急に思い出したように大きな声を上げた。
「ねぇねぇ、理人!七夕っていえば、あれだよね」
夏芽が、いつものように椅子からふわりと浮き上がったので、思わずコーヒーを吹き出しそうになって咳き込んだ。
心の中で言う。落ち着け、夏芽は、誰にも見えてないし、声も聞こえてない。
「‥‥‥おいおい、気になるから外で飛び回るのはやめてくれよ」
小声でそう言っても、夏芽は声量を落とすことはしない。
「わかってるって! 七夕ってあれだよね~。短冊に五七五で書くやつ」
「それは……俳句!」
「あ、そか。間違えた」
「何だ何だ?急に‥‥‥」
「じゃ、今から願い事書くね」
夏芽の手元に実際に短冊などないのだが、夏芽は左手に短冊を持ち、反対の手で筆を執ると、すらすらと文字を書く真似をした。
「それ、なんて書いたの」
「理人がここにあるパフェを食べさせてくれますように♡」
「え⁉ どういうこと?」
「わかんないかなぁ、理人くんは」
夏芽は、パフェのグラスにささっているパフェスプーンを指さして言った。
「これっ」
ぽかんとしている僕を見て、夏芽は眉根を寄せると、あーんと口をあける真似をする。僕も、思わずつられて、口をあんぐり開けてしまった。
「えっ、えっ……。もしかして、僕が食べさせるの?」
「そうよ。あたしが物に触れられないの知ってて、聞いてる?」
夏芽が、必死にスプーンに触れようとするも、指は物体をすり抜けるばかりなのは、もちろんわかっている。
わかっているけど、だけど……。
「店の人がチラチラ見てるだろ。無理だってば!」
「だいじょうぶってば!」
僕は、カウンター横でこちらを気にしているウェイターをもう一度見た。まずいことになった、と僕は唾を飲み込んだ。
ウェイターは僕のことを頭のおかしな奴だと思っているに違いない。そう思った次の瞬間、ウェイターが別の客に呼ばれて、レジのほうに向かって行くのが見えた。やるなら今しかない。
「い、いいか?一回だけだからな。あ、あ~ん」
パフェスプーンに、上層部にトッピングされたチョコクリームを載せて、夏芽の口に運んでやる。
すると、夏芽はぷいと横を向いてしまった。
「ん~!違う!」
「違う、って、何が?」
「コーヒーゼリーとチョコクリームのとろけるハーモニーを楽しみたいのっ!理人が、両方いっぺんにスプーンに載せてくれますように~」
「はぃ???」
夏芽は、僕をいじめるのを心から楽しんでいるみたいに微笑んでいる。
「グラスの一番下に沈んでるゼリーを、上のもの食べずに掬うのがどれだけ難しいか、知ってて言ってる?」
「じゃあ、上のほう食べていいよ。ただし、かさ増しのコーンフレークのとこだけだよ!」
「口、ぱっさぱさになるだろ!」
「いいから、早く!」
僕は持っていたスプーンで、半ばやけ食いの形相でコーンフレークを食べた。できるだけクリームを挟まないように食べたので、バリバリと咀嚼音が耳の中に響く。
ウェイターがこちらを見ていないことを祈った。これでは、ますます怪しい人物に見られてしまう。
「ほら、これでいい?あーん」
僕は、夏芽のお望みの品をスプーンに載せると、彼女の口元まで運んだ。
「わーい、いっただっきまーす」
夏芽はスプーンまで顔を近づけ、大きな口を開けたかと思うと、もぐもぐと口を動かした。もちろん、スプーンの上のものは、無くなったりはしない。しかし、夏芽は極上のものを味わうような、うっとりした表情を浮かべながら、首を縦に揺らした。
「で、感想は……?」
僕が訊くと、夏芽は満足だ、と言わんばかりに目を細め、「これ、やってみたかったんだよね」と言って僕のほうを見た。
「な、何だよ、それ……」
夏芽は、可笑しそうに笑い転げたあと、「あ~、美味しかった」と言って宙を仰いだ。
そして、てるてる坊主を見つめながら言った。もう二人は大丈夫だね、と。
「二人って?」
「もう、短冊にお願い事二つもしちゃったからさ。でも、あたしが願わなくても、あの子がいいお天気にしてくれるよね。彦星と織姫、会えるといいなぁ」
「それ、天の川の二人の話?」
「うん、そう」
夏芽は、たまにこんな風に、色んな話題にすり替えて、僕を混乱させる。これは、小学生のときから変わらない悪い癖だ。
「三途の川を渡ってくる強者がいるくらいなんだから、多少晴れてなくても大丈夫でしょ」
「えーっ、何それ、ひどーい。全然ロマンチックじゃなーい」
夏芽はちょっとむくれて、唇をとがらせている。
「あっ、僕も短冊書かなきゃ。では、僕からも、短冊に一言‥‥‥」
「なになに」
「白川夏芽さんのタコみたいな口が直りますように」
「失礼ね!夏芽ちゃんは、いつもご機嫌よろしくてよ!」
拗ねて膨らんだ夏芽の両頬を、二本の指でつまむようにして僕は言った。
「そうか~?」
いうまでもなく、そこには他の人から見れば何もなくて、空気をつかんでいるようにしか見えないのだろうけれど――だけど、僕はその瞬間思った。夏芽が生きていて、その頬に触れられさえすれば、と。
「な、何よ?」
僕の悪ふざけに戸惑っている夏芽に、僕は笑顔で答えた。
「これ、やってみたかったんだ」
夏芽の顔が、みるみるうちに赤くなっていく。意外な反応に驚いていると、夏芽は体を小さく縮めて、ふっと真上に飛び上がった。
「・・・・‥えっ、えっ? 夏芽?何処に行った?」
「おしえな~い!」
声のする方を見ると、夏芽の長い髪の毛が、窓辺のカーテンの影に見えた。僕はくすっと笑って夏芽に言った。
「ごめん。調子に乗りすぎちゃったかな。パフェ食べないの?残り食べちゃうよ」
「‥‥‥えっ、ダメ! ずるーい!」
その言葉に、夏芽はもとの大きさに戻ると、ふたたび椅子に腰かけた。
それからずいぶん長い間、僕らはカフェで語らっていた。店を出るころにはすっかり陽は暮れていて、天気予報は外れたのか、薄い雲の隙間から輝く星が点々と見えた。
「やっぱり。あの子のおかげ。降らなかったでしょ?」
空を見上げながら、得意そうに夏芽が言う。
「天気予報が当たらないなんてこと、あるんだな。あ~、傘持ってこなきゃ良かった」
そう言って店のドアを閉めると、ふわりとやわらかな夜風が吹いて、緑の濃い匂いがたちこめた。
夏のはじまりを感じさせるような、そんな風だった。
セラヴィ。
気が付くと、僕らは同時にその言葉を口にしていた。
僕たちは顔を見合わせ、可笑しくなってアハハ、と笑った。
帰り道、夏芽は夜空を見上げながら、鼻歌まじりにスキップをした。
ハイヒールを履いた彼女の脚は、軽やかに弾みながら、次第に夜空に浮いていく。
それはさながら、シャガールの描いた世界のようで、僕も彼女と手をつないで夜空に飛んでいければ、と思った。
彦星と織姫は、そんな僕らを見下ろして笑っているだろうか。
そう思うと、天の川はそんなに遠くない場所のような気がしていた。
夏芽という女の子を形容するのに、簡潔で適切なことばが見当たらないのは、僕の語彙力が足りないからではない。
おそらくそれは、彼女は普通の女の子とは違いすぎているから。しっくりとくる言葉が存在しないのだ。
夏芽は、小さな頃から想像にふけってばかりの子供だった。本が好きで、彼女の話すことの大半は、物語の登場人物に関わることだった。
愛嬌があり可愛らしかったので、男子からよく告白されていたようだ。しかし、夏芽の小難しい話についていけなくて、最終的に彼らはみな夏芽から離れて行った。これは僕にとってみれば、最大の幸運だった。僕は他人のペースに合わせるのが得意だったし、読書も好きだったので、夏芽の話し相手になることが出来た。
夏芽とは八歳のときからの付き合いだ。夏芽は横浜で生まれ、しばらく横浜市内に住んでいたのだが、都会の環境が体によくないというので、下田に移り住んで来た。
「白川夏芽です。よろしくお願いします」
転校初日、夏芽は緊張した面持ちでお辞儀をすると、僕の隣の席に座った。ツインテールの髪型と白いブラウスがよく似合っていた。
その日の放課後、僕は担任の先生に職員室に呼ばれた。
「白川さんは心臓に持病があって……、環境のよい場所がいいと言われて、ここに引っ越してきたんだ。慣れるまで、しばらく一緒に通ってあげてくれるかな」
先生に言われ、僕はすぐに「はい!」と威勢のいい返事をした。重要なミッションを与えられた戦士のような、勇ましい気分だった。
その日から、夏芽と僕は登下校をともにするようになった。夏芽は気さくで話しやすく、すぐに打ち解けられた。
一年が経ち、クラスが変わっても、僕らは一緒に帰るのを止めなかった。下校のチャイムが鳴ると、いつも夏芽のほうから「帰ろう」と声をかけてきてくれた。
しかし、そんなある日のこと―――。同じクラスの男子たちが、僕を迎えに来た夏芽をからかい始めた。
「理人く~ん、お・ま・た・せ♪」
「いつもラブラブだね、ヒューヒュー」
彼らのヤジに、夏芽は面倒くさそうに首をすくめると、すぐに言い返した。
「うるさいな!私が病弱だから、理人は仕方なく送ってくれてるだけ」
男子たちは、夏芽の言葉に一瞬神妙な顔をしていたが、反論されたことが面白くなかったのだろう。
その男子のグループでいちばん体の大きい山木くんが、「うそだろ。お前みたいな心臓に毛が生えたみたいなやつ」と夏芽に言い放った。夏芽の心臓に疾患があることを知っていたのは僕だけだったのだろうか。いや、そんなはずはない。夏芽はよく保健室に通っていたし、その場にいた生徒は皆知っていたはずだ。その発言に、僕は無性に腹が立って、彼らに向かって言った。
「やめろ。いくらなんでも言い過ぎだ!」
僕が山木くんに歯向かったので、教室の空気は、しん、と凍りついた。瞬時に、山木くんの鋭い視線が僕をとらえた。
「何だ、お前。やるのかぁ?」
山木くんが僕に顔を近づけてそう聞いたので、周囲にいた男子たちも、荒々しく声を上げ、僕の胸ぐらをつかんだ。
僕は、教室の壁を背に、数名に押し付けられる形になった。
勝ち目がないことは、すぐにわかった。しかし、夏芽のことを悪く言うやつらを、僕は許せなかった。
「殴りたければ、やればいい。でも、夏芽に謝れ!」
「うるせぇ、正義の味方ごっこか。お前、いい子ぶってて、前から気に入らねえんだよ」
山木くんの太い腕が、僕の首元に押し当てられた。しばらくの間、気道がふさがれて、僕の顔は次第に青ざめていった。息ができない――そう思った次の瞬間、声の出ない僕の代わりに、夏芽が叫んだ。
「やめて!理人を傷つけたら、あたしが許さないんだから!」
クラスにいた女子たちも、夏芽に加勢するように大きな声を上げた。その騒ぎ声を聞きつけたのか、教室のドアが開いて、担任の先生が入って来た。先生は、押さえつけられている僕に気が付くと、顔色を変え、山木くんたちにつかつかと歩み寄った。
「やめろ!そこ、何やってる!」
山木くんたちは、先生の一喝に硬直したかと思うと、蜘蛛の子を散らすように教室の外に逃げだした。
「こらっ、待たんか!」
先生は、鬼の形相で彼らを追いかけ、廊下に出て行った。僕は咳き込みながら、へなへなと床に座り込んだ。
「理人‥‥‥、怖かったね。‥‥‥大丈夫?」
目線を上げると、夏芽が目を潤ませているのに気が付いた。僕は、何もしてやれなかったことへの申し訳なさから、「嫌な思いさせてごめん。帰ろう」と言って立ち上がった。夏芽は、うん、とうなずいたあと、僕のシャツの裾をそっとつかんだ。
その帰り道、夏芽は途中で具合が悪くなった。通学路脇の木陰に腰を下ろしたので、僕は自分のランドセルをその場に置いて、すぐに夏芽を背負って走った。
夏芽の家に行ったのは、そのときが初めてだった。
大きな屋敷のまわりには、レンガ造りの外壁があり、屋敷を取り囲むようにそびえたっていた。
正面には、蔦の模様のアーチ型の扉があり、白川、という表札がかかっていた。そのときまだ背の低かった僕の目には、それが別世界につづく扉のように思えた。
それがかの有名な文豪・白川聖詩氏の屋敷だと後から両親に聞かされたとき、僕は驚いた―—というよりはむしろ、「なるほど」と合点がいった。夏芽が他の子供たちと違う理由が、ようやく分かった気がした。
「おやおや、ありがとうね。きみが理人くん?」
玄関口からひょっこり顔を出した、白髪のお爺さん――白川聖詩氏が、僕に声をかけた。
「は、はい」
「毎日ありがとうね。夏芽は発作が出そうかな。どれどれ」
彼は夏芽を庭のベンチに座らせると、脈をとり、水を飲ませて介抱した。
「少し安静にして薬を飲めば落ち着くだろう。なぁに、大丈夫。こう見えて、私は若いころ、看護師をやっていたことがあってね」
「そうなんですか」
「ところで‥‥‥、理人くんは、本は好き?」
「はい。夏芽さんから借りて、よく読んでいます」
「そうなんだね。うちの娯楽は本くらいしかないけど…、名作はたくさんあるから、よかったら、またいらっしゃい。夏芽には友達がいないと思っていたけど、きみみたいな強い子が一緒にいてくれたら心強いだろうな」
「そんな。僕は強くなんかないです」
「そうか?女の子一人背負って走れるんだ。大したもんだよ」
彼はそう言って笑うと、ありがとう、と再び言った。
僕は深くお辞儀をすると、夏芽の家を後にした。
初めて、男として、誇らしいことをした気がした。心臓が、どきどきした。
守ってやらなければならない、と思えた相手は初めてだったし、夏芽の家族公認の初めての友達になれたことが何より嬉しかった。
その日を境に、僕は夏芽の家に時々遊びに行かせてもらうようになった。
夏芽は、おじいちゃん子だった。いつも祖父の書斎で遊び、祖父の書斎にある本を山ほど読んだ。
言葉遊びが好きで、祖父から投げかけられる言葉を咀嚼し、反芻し、やがてそれらを自分のものにした。
ときには、その言葉をお題にして、物語を生み出したりもした。そんな彼女に、作家としての才能が開花しない訳がなかった。
「おじいちゃんの小説、全部読んだの?」
ある日、僕はそんなことを夏芽に訊いた。
読んでいた本から目線を上げて、夏芽は笑った。
「まさかぁ。沢山あるし、難しいからね」
「そうなんだ」
「だけど‥‥‥いつか、おじいちゃんみたいな作家になれたらいいなぁって思ってるんだ」
夏芽はそう言って、リビングのキャビネットの上にある沢山のトロフィーを見上げた。
「なれるよ!だって、こんなにたくさんの本を読んでるんだし」
「読むのと書くのでは、少し違うから」
「そうなの?」
「うん……、やっぱり文才ってものが必要なんだと思う」
「ブンサイ?」
「そうよ、それが今のわたしが一番欲しいもの」
しかし、僕は、夏芽が才能に溢れていることを知っていた。そのとき、夏芽と交換ノートをしていたけれど、夏芽の奇想天外な発想力には、いつも舌を巻いた。
そのノートは、一方が書き出したものに続けて、それに続くあらすじを次の人が考える、といったようなもので、いわゆる普通の交換日記とは違った。その交換ノートは、どういう経緯で始まったか忘れてしまったが、僕たちが小学校を卒業するまで続いた。
夏芽はその才能を、僕以外の人間にひけらかしたりすることはなかったが、中二の初夏に開催された学園祭で、彼女のクラスは舞台劇を披露することになった。そして、その脚本は、夏芽が書いたというので話題になった。
観客たちはみな、その劇の世界観に一瞬のうちに引き込まれた。台詞、ストーリー展開、演出、すべて見事だった。
その劇は、人の姿をした知の女神が天からやってきて、戦争をする二国の君主を言論で争わせ、武力を使わずに平和を取り戻させる、といった内容だった。
劇は大盛況に終わり、主役の女神役の女の子が、最後に夏芽を舞台の真ん中に立たせて言った。
「この物語の作者の、白川夏芽さんです!」
夏芽は「照れ臭いからいいよ」、と言っていたが、拍手が起こったので、マイクを手に取った。
そして、「楽しんでいただけて、嬉しいです」と一言だけ言って、舞台挨拶を終えた。
クラスのみんなに囲まれて、すごく、幸せそうだった。
夏芽は、その二か月後に死んだ。八月の終わりの夕刻だった。
学園祭での舞台挨拶が「最後の花道」になるなんて、クラスの誰一人想像もしていなかった。
2
新人賞の受賞作品を書いたのが、僕ではなく、夏芽だったということを周囲の人々が知ったら、どうなるだろう。
種明かしするかのように、「僕は書いていない」と公言しても、現実にはそんなに面白いニュースにはならないだろう。ゴーストライターの夏芽が、本物の幽霊(ゴースト)であることがばれれば話は別だが。
しかし、「十七歳が新人賞受賞」というのは、まあまあ話題性のあるニュースだったので、マスコミからは思ったよりも大きく取り上げられた。このことに関しては「事実」なので、本当にすごいと思う。
母親からも、学校からも、うるさいくらい連絡がきた。
母親にいたっては、親戚中に連絡をするほど大喜びだったらしい。大人の承認欲求は満たされたから、これでよし、となるだろうか。これ以上あまり事が大きくなると、嫌な予感しかしない。
この新人賞の本当の作者である彼女は、そのことを鼻にかけることもなく、「たまたまじゃない?」と笑っている。
今日は出版社から送られてきた献本の表紙が送られてきたので、そのイラストを食い入るように見入っている。
「この表紙最高じゃない?」
人気イラストレーターが描いたその表紙には、赤い着物を着た美月が、神社の狛犬と背中あわせに座っている。
闇の中に咲く白い夕顔が蔓を伸ばし、その先には金銀をちりばめたような源氏物語の絵巻の世界が広がっている。
「プロの絵師さんって凄い。あたしの頭の中覗いたのかな、っていうくらい、イメージどおりの絵だよ。ほんと驚いた」
「うん。この表紙は完璧。‥‥‥だけどさぁ、本当にいいの?タイトル変わっちゃって」
「いいよ。だって、編集さんがそのほうが売れるって見込んで考えてくれたんでしょ?」
「そんな、あっさりしたものなのか……」
「うん。いいの、いいの。それよりも、ねえ!出版のお祝いも兼ねて、本屋さんに一緒に行こうよ。この本が実際に並んでるところ、見たいなぁ」
「ええっ!この部屋以外の場所に、一緒に行くの?」
「えーっ、まさか、幽霊は夜にしか出ないって、思ってないよね?あたし昼間でもいろんな場所に行けるし、何ならいろんな服装に変身できるし!」
そう言って、夏芽はいろんな服装に変身してみせた。警察官、ナース、チャイナ服。
「すごい。思った姿になれるの?」
「うん。ビックリだよね。霊体って、心で念じた姿になれるの。からだの大きさを変えられるだけじゃないんだよ」
「成長もできるの?」
「それはできない。成長した自分には、どう念じてもなれなかった。心に描ける自分はずっと十四歳の自分だけ」
「へえ~、そうなんだ‥‥‥」
そう言ったあと、はっと我に返った。感心している場合ではない。
「でも、ほんとに大丈夫?誰にも見られたりしない?」
「うん、理人にしか見えないはず。一度だけ実験してみたんだ。街の中で叫んだり踊ったり、‥‥‥あと、スクール水着姿で歩いても、誰も気づかなかったから、たぶん大丈夫」
「スクール水着⁉……そんな姿で歩いたの⁉」
ショックのあまり、思わず復唱してしまった。夏芽は、しまった、という顔をしたあと、頬を赤らめて、ニヒヒと笑った。
「実験が過ぎるだろ!」と叫びたくなる気持ちを抑え込んで、咳払いをする。変な想像をすると、こっちまで顔が赤くなりそうだ。動揺を隠しきれず、くるりと背中を向けて、僕は夏芽に言った。
「じ……、じゃあ、いいよ。一緒に外出しよう」
「やったぁ!どこの本屋さんにする?」
「じゃぁここで」
僕はスマホで検索をかけると、その本屋のウェブサイトを夏芽に見せた。行きつけの静かな本屋で、神保町にある。最上階にはカフェもあるので、夏芽とゆっくり寛ぐこともできる。
「わぉ、素敵、素敵。じゃぁ、決まりね!」
夏芽は飛び跳ねながら、嬉しそうに目を細めた。
3
@yuzki_ky 十七歳の作家爆誕ねぇ、それどこの小説?
@richak1816 新人賞のやつ読んだ。歴史もの普段は読まないけど意外とおもろい。まぁ若い割にはって印象だけど。
@1999ktaka 表紙がかわいくてジャケ買い!エモすぎて読んだあと五体投地した‥‥‥。
「いつの間にか、公式アカウントにこんなにコメントがぁ~‼理人先生も見てみて」
興奮気味にスマホの画面を見つめながら、スミさんは歓喜の声を上げた。編集部特有の、生暖かくこもった空気にはまだ慣れない。
「すみません。僕、そういうの、ちょっと‥‥‥」
そこまで言いかけて、ああ、いつもの癖が出てしまった、と僕は自分が嫌になる。自分がどう思われているかを想像するのが、昔から苦痛で仕方がない。褒められても、けなされても、どのみち自分を肯定できなくて憂鬱な気分になるのだ。
今日は、サイン本を書くために呼ばれている。沢山の書店に、プロモーションとして置いてもらうらしい。
山積みにされた本に、黙々とサインを入れていく。
隣にいるスミさんは、新刊の表紙を嬉しそうに見つめている。
「やっぱ、このタイトルにしてよかったね。言わずもがな!ってキャッチつけやすいし」
「……はい」
本当は、少し嫌だった。夏芽が最初につけた『夕顔は朝に死ぬ』のほうが、作品の雰囲気に合っていて良かったのに。これではラブストーリー好きの読者にしか手に取ってもらえない可能性もあるではないか。
たしかに、この作品は時代を超えた二人の男女の恋愛物語だ。しかし、恋愛もの、とひとくくりにしてほしくない気持ちが、僕の心の中にあった。
なぜなら、リアルな死生観というものがこの作品にはあって――、たとえば、人は死んで異世界に転生なんかしやしないし、人間にはれっきとした「魂」があるということを教えてくれる。
肉体が滅んでもその魂は残り、すぐには消えない。その死者を知るものたちが存在する限り、それは彼らの心に宿り、生き続ける。
夏芽はそのことを地の文で説明せず、別の形で表現した。
登場人物たちの眼差しや、言葉、心の揺らぎの中にそっと浮かび上がるように。思いやりと愛情深い言葉で、物語を紡いだのだ。
ふいに、夏芽のお葬式の日の記憶が呼び覚まされる。
蝋燭の光に照らされた夏芽の白い肌。そのときにはもう血が通っていないことを分かってはいたけれど、長いまつ毛、薄紅色の頬、胸の前で組まれた手の、綺麗に整えられた爪――、それらのすべてが完璧に美しく、まだ生きているように思えた。
棺の中で、ただ眠っているようにしか見えない夏芽に、僕は小さな声で、「夏芽」と呼びかけた。
もちろん、返答はなかったけれど、棺のそばの蝋燭の火が一瞬小刻みに揺れたので、そのときようやく僕は、ああ、そうか、と理解した。夏芽はもう今までみたいに返事はできないのだ、と。そのことを悟った瞬間、涙が止まらなくなった。
大好きだったよ、と心の中で思い切り叫んでも、もう夏芽には届かない。
早すぎる死に、身も心も引き裂かれそうになりながら、僕は夏芽に別れを告げた。触れた指先は、硬く冷たかった。
お葬式の最後に、夏芽のお父さんからの挨拶があり、夏芽が亡くなった経緯について説明があった。
夏芽の病は、先天的な疾患で、まだ治療法が確立されていない重度の心臓病だったそうだ。
不整脈がたまに起こっていたことや、通院のため時々欠席していたことは、僕だけでなく他の生徒たちも知っていた。しかし、夏芽が不治の病と闘っていることを知っていた人は、一人もいなかった。
「空気のよいこの場所で、他の子供たちと変わらない生活をさせたかった。病気について皆さんに詳しく説明をしていなかったのは、申し訳なかった」と、夏芽のお父さんは言った。
余命が長くないことを知っていたのは、夏芽自身と、家族と、学校の先生達だけだっただけらしい。
思えば、夏芽は強がりな子だった。自分がそんな状態であることを知っていて、周りに何も言わないなんて。
せめて僕だけにでも、本当のことを教えてくれたら良かったのに――。そんな思いに沈んだまま、僕は夏芽の家を後にした。
その後、どうやって家に帰ったのか、どんな風に毎日を過ごしたのか、辛すぎてあまり覚えていない。
「先生……、理人先生?」
「……あ、はいっ」
「どうかした?」
「いえ……。すみません」
少し考えごとをしていただけです、と頭を下げて、僕はスミさんのスマホを指さして言った。
「それ、どうせ、新人をこき下ろすための書き込みでしょう」
僕が言うと、スミさんは「そうでもないよ」とスマホの画面を見せた。
「ここには、愛のあるコメントが多いから。参考になることもたまには書いてあるから、もしよかったら」
手渡されたスマホを拒絶することができず、仕方なくそれを受け取り、コメント欄に目を通した。
しばらく読み続けていると、あるメッセージが目に留まった。
@clearsky2006 感じる違和感。どうやって書いたのかな。 他人事みたいに感じる。
不可解な言葉だった。僕はそこでスクロールを止めた。
違和感、他人事……、何のことを指しているのだろう。作者が男性だから、違和感があると言っているのか?それとも……。まさかとは思うが、僕の背後にいる彼女を知っている?
私生活を垣間見られているようで、胸がざわざわとした。
「スミさん。サイン終わったんで、そろそろ失礼します」
「えっ、ちょっと待って!二作目の打ち合わせは?」
「ごめんなさい。学校から呼び出されていたの、忘れてて。また、あとで連絡します」
僕は適当な嘘をついて一礼すると、慌てて編集部を後にした。エレベーターを降りるあいだにも、何か不穏なものが背後から迫り来るような気がした。駆け足で、バス停に向かった。早く夏芽のいる自分の部屋に帰りたかった。
寮に戻ると、バタバタと階段を駆け上がった。ドアを開け、「夏芽、いるか?」と小声で呼ぶと、ぬぅ、と夏芽が天井から顔を出した。宙づりになった状態の夏芽の頭しか見えなかったので、思わず「うわ」と声が出た。
「ど~したの、そんなに急いで!」
「そこにいたのか……あぁ、良かった」
夏芽は、不思議そうに僕のところに近づいてくると、「そんなに慌てて帰ってこなくても、名前を呼べば、どこにでも現れるよ?」と言って、首を傾げた。
「えっ!マジか」
「呼ばれると分かるよ。それが遠く離れていても」
「そ、そうか……、はは……」
まったく訳のわからない話だ。そう思ったとたんに、思わず気の抜けた笑い声が漏れた。自分はまだ、この世界の人間なのだ。夏芽の世界がどのように回っているのか、知る由もないではないか。
この世に戻って来た夏芽に聞きたいことは沢山あった。なぜここにいる?何のために、そして、いつまで――?
しかし、それを明白にすることを、もうひとりの僕が拒んだ。
幽霊の夏芽がずっとここにいてくれることを、僕はいつしか願うようになっていた。
これは彼女が生きていた頃と同じで、ただ友達として傍にいてくれるだけでいいと思っていた。(そんな状態だから、ずっと告白できないままなのだが)。
彼女に余計な質問をしてこの日常が壊れてしまったら、僕はきっと立ち直れない。
そんなことを考えているうちに、夏芽について不思議に思っていた様々なことが、胸の中に溢れてきた。
中でも、一番気になっていたのは、彼女が今置かれている状況についてだ。
夏芽は、天国(存在するかは分からないが)に行けなかったのだろうか。あるいは、自分の意思でここに戻って来たのか?
夏芽のからだ――いや、霊魂と言ったほうがいい――は、今いったいどういう状態なのだろう、と。
「ねえ‥‥‥。夏芽は、どうやって僕だけに姿を見せたり、声を聞かせたりしてるの?」
恐る恐る、夏芽の顔色を窺いながら、尋ねてみる。
すると、夏芽はあっけらかんとした顔で言った。
「猫の声とおんなじ仕組みだよ」
「え?」
「猫が人間とは違う周波数で泣くことができるって知ってる?」
夏芽が急に猫の話をし始めるので、思考回路がおいつかない。
「あ‥‥‥、ああ。なんか聞いたことあるな」
「いわゆる、サイレント・ニャーってやつね」
「あ、わかる。口だけニャー、って言ってて、声出てないときある。あれのこと?」
「うん。そう、それに近いよ。二人にしか使えない周波数があって、それで会話してる感じなんだと思うよ」
夏芽は満面の笑顔でそう言うと、猫のポーズでおどけてみせた。
「——うーん……。納得いくような、いかないような‥‥‥」
「だよね。あたしも実際には、どうなってるのか分かってないんだ」
「何だよ‥‥‥適当な返事だったの?」
「ニャハハ」
「ところで、猫の話で思い出したけど。メグは元気なの?」
メグとは、夏芽のペットの名前だ。彼女の家には、かわいい三毛猫がいた。
メグというその名の猫は、僕たちが小学生のとき下校している途中で出会った。木に登って降りられなくなっているところを、僕が救助して、そのまま夏芽の家に連れて帰ることになったのだった。
「うん、おじいちゃんちにいる。いつも元気に飛び跳ねてるよ」
「そうなの。おじいちゃんは、元気?」
「うん、腰がたまに痛いのを除けばね。まだ執筆してるよ」
「すごいな。おじいちゃんとは僕みたいに話したりするの?」
「話さないよ~。幽霊出た!ってびっくりして、腰抜かしたら大変じゃない!」
夏芽はケラケラと笑って、何度も宙返りした。
「……でも、たまにメグとは遊ぶよ」
「そうなの?」
「メグは、あたしのこと誰にも話さないからね。そういう意味では、安心な存在」
パラパラと、にわか雨が降りだしたのが分かった。そのうちに、雨脚は強くなり、本降りの雨に変わった。
部屋の窓ガラスに打ち付ける大粒の雨が、ゆらゆらと揺れながら流れ落ちていく。僕が窓辺に立つと、夏芽もすぐ横に来た。
「はあ‥‥‥雨、嫌んなるな。梅雨なんてなければいいのに。早く夏来ないかな」
独り言のようにそう言うと、夏芽は窓ガラスを滑り落ちる水滴を指で追いかけながら言った。
「そう? あたし、この世に要らないものなんてないと思うんだ」
「……え?」
「あたし、雨は嫌いじゃないよ」
視線の端で、夏芽が無邪気に微笑んだのが分かった。
窓ガラスに映るのは僕だけで、夏芽の姿は見えない。けれど、僕の隣に確実に存在している彼女は、声を弾ませて言った。僕よりも生き生きとした表情をして。
「雨上がりのあとは、景色が綺麗に見えるじゃない?」
そう言って、夏芽は僕を見上げた。彼女の茶色がかった瞳に、僕が映っている。このまま夏芽の顔を直視すると、顔が爆発的に紅潮してしまう――、そんな予感から、すぐに視線をそらして話題を変える。
「あ、そうだ。スミさんに二作目のこと提案されてるんだった。これから先、どうすする? 何か書きたい話はほかにあるの?」
「知らなぁーい」
夏芽は、そっぽを向いて、他人事みたいな口ぶりで言った。
「これから大変になるわねぇ、理人先生にたくさん仕事が舞い込んで」
「おいおい……、夏芽に付き合わされた結果、こうなってるんだからな?わかってる?」
「何言ってるの、理人先生。自分がそのオファーを引き受けたんでしょ。それなら、ここからは一人で書いてみなよ」
「えっ!夏芽の夢じゃなかったの?ノーベル文学賞とか、なんとか」
「あぁ、あれね……。うん、夢だよ。でも、理人も少しは書いてみようよ」
「僕が?」
「いつも代打選手じゃつまんないよ。次のストーリーの土台は、理人が考えてみない?」
「う、うん……。そりゃ、いいけど。でも、夏芽にもアイデアはあるんだろ?」
夏芽は、どうかな~、とつぶやいて、体を小さく縮めた。
「うーん、もうなんか眠い……。その話は、また今度本屋に行ったときにでも。じゃあ、おやすみ~」
「今度っていつ?早くしないと……」
「じゃあ、明日の放課後に」
そう言って、すうっと消えてしまった。
「マジかよ~。スミさんになんて返事すれば~!」
僕は、ポケットからスマホを取り出すと、スミさんに取り急ぎメールを返した。
『今日は大変失礼しました。今いろいろと立て込んでいて、すみません。あらすじは練っていますので、大筋が完成したらお知らせします』
4
七月七日、午後三時半。湿度80%といったところだろうか。
外は蒸し風呂のように暑く、空には灰色の雲が立ち込めている。
七夕の日は、晴れている日が少ないように感じるのは僕だけだろうか。天気予報も、今日は夕方から空模様が変わりやすいとのことだったので、傘を手に出かけた。
寮を出て地下鉄にのり、神保町改札を出たところで、僕は腕時計を見た。約束通り、今日は夏芽を本屋に連れて行くことになっている。しかし、待ち合わせの約束の時間から、十分以上経っても夏芽は来ない。同じ部屋にいるのだから、一緒に出ればよいのではないか、と思ったのだが、夏芽が一度待ち合わせというものをしてみたい、というので、付き合わされる羽目になったのだった。
当然のことながら、夏芽は連絡ツールを持っていないので、気長に待つしかない。
時間をつぶすために、スマホを取り出す。すると、すぐに正面から声がした。
「待った?」
夏芽が髪をふんわりとカールしてきたので、僕は一瞬彼女が誰だかわからずに、ただ茫然と見つめていた。驚くばかりで、言葉にならなかった。ノースリーブの空色のワンピースから伸びた腕には銀色のブレスレットが光っている。ハイヒールを履いているせいか、いつもより目線が合う位置が高い。マスカラをしたまつ毛が妙に大人っぽくて、一四才の夏芽が、急に大人になった気がした。口紅を載せた唇が動いて、僕にしか聞こえない声で言う。
「似合う……かな?」
夏芽はちょっと照れ笑いしてそう言うと、上目遣いに僕の方を見た。
周囲に怪しまれないように頷くと、僕は恥ずかしくなって思わずうつむいた。
「あんまり話すと目立つから、ついてきて」
冷静を装いそう伝えると、夏芽は無言で僕の隣を歩き始めた。
しばらくすると、本屋がたくさん並ぶ通りが見えてきた。
飲食店も周囲にたくさんあり、スパイスの香りがどこからともなく漂ってくる。
「ここが世界一の本の街かぁ~!一度来てみたかったの。ありがと、理人」
「僕のお気に入りの本屋は、あそこ」
指さした看板には「l’heure bleu」と記されている。何回か訪れてはいるが、読み方はわからないままだ。
「すごーい。かわいい~! パリの街角にある本屋さんみたい」
古びた西洋風の建物を改装したその店を、夏芽は気に入ったようで、駆け足で近づいていった。入り口の背の高い木製のドアには、ちいさな青色の陶板がはめ込まれていて、手書きの文字が記されているのが見えた。
『C’est la vie(セラヴィ) ——いいことも悪いことも含めて、それが人生。
そんなことを、本は教えてくれます。どうぞ、素晴らしい本との出会いを。』
僕はそのプレートを一瞥したのち、夏芽に「入ろうか」と声をかけた。しかし、夏芽は返事もせず、しばらくのあいだその文字を見つめていた。夏芽の目は、ある種の興奮でキラキラとしていて、半開きになった口元からは、感嘆にも近い吐息がこぼれていた。
夏芽の囁くような声が、僕の耳にかすかに聞こえた。
「セラヴィ」
ただ読み上げただけで、深い意味はなかったのかもしれない。しかし、僕にはこう聞こえた。ああ、私はまだ書きたい、と。
おそらく今この瞬間、彼女は「作家としての人生」に思いを馳せたのだ。
そう感じ取った瞬間、僕は耐え難い感傷に貫かれることになった。それが「人生を謳歌できる者に向けられた言葉」だったことに気付いたからだった。皮肉にも、彼女の人生はすでに幕を閉じているというのに――、彼女は熱を帯びた声でこう言ったのだった。
「素敵なことば。人生の酸いも甘いも、受け入れなさいってことだよね。今日は『いいこと』で、理人と一緒にここに来れてよかったなぁ!」
「そうだね……。夏芽の夢が叶って、本当に良かった。小さい頃からの、夢だったもんね」
僕は、夏芽に微笑んでそう言った。けれど、うまく笑えた気がしなくて、ドアノブに掛けた手も少し震えた。自己嫌悪に襲われたからだった。
授賞式の日から、周囲からの注目を浴びることが増えて、自分のことばかりに意識が向いてしまっていた。
――僕が思い悩んでいる場合じゃなかった。彼女の「大作家になる夢」は……?いったい、これからどうしてあげれば……?
しかし、扉を開けて店内に足を踏み入れたときに、その不安は魔法のように消えた。
あたたかな照明の下、「言わずもがな いと恋し」の美しい表紙が、新刊コーナーに目立つように置かれていた。
大きめのポップで、「書店員イチオシ」、という文字も見える。ほかのどの書籍よりも存在感があって、僕は思わず息をのんだ。
彼女の生み出したものが、こんな風に世界から祝福されていて良かった、と僕は思った。
ほんのひとときでもいい。彼女の書いた本がこの世に存在するだけで――、それだけのために生きていける、とも。
僕は、隣にいる夏芽の顔をちらと見た。彼女の顔は、この上ない喜びに満ちていた。その表情を見たとき、僕の胸にあたたかな熱がこみ上げてきた。
そして、神様までもがこの一瞬を待ち望んでいたように、二人はこの場所にいるような気がするのだった。
「表紙の色が綺麗だし、文字のフォントも目立つから、見つけやすいね」
夏芽が嬉しそうに本に顔を近づける。
「凄いな。こんな目立つ場所に……」
本に触れることのできない夏芽のために、一冊手に取って、ページを開いてみせた。
紫式部の作品にちなんで、表紙の裏側は藤の花のような紫色。そして、内側には和紙の内表紙が入っていて、そこから微かに香を焚きしめた匂いがする。
何の印刷もないページだったが、そこは夏芽がこだわった部分だった。
登場人物たちの存在が感じられる本を、と、夏芽が出したアイデアだった。
夏芽がこの作品の本当の作者であることは、当然分かってはいた。しかし、僕はその「存在」という言葉に、思い切り頭を殴られたような気持ちになった。――そうだ、これは確かに彼女が書いたものだ、と。
ここには、白川夏芽が創り上げた世界があり、小説の細部――たとえば、登場人物の心の機微といい、情景描写といい、あらゆるところに彼女の「気配」がある。
平安時代の世界を現実味のあるものとして感じさせたいというよりは、「白川夏芽がここにいる」という証みたいなものを、僕は刻印してあげたいと思った。
スミさんにそのアイデアを持ちかけたところ、コストがかかるから、と最初は難色を示していた。
しかし、「女性受けしそうだし、話題になるかも」と会議に持ち込むと、すんなり編集部からゴーサインが出た。
「紙のにおいが好きで、本という媒体を好む人が多いのだから、嗅覚に訴える本というのは、案外受けるのかもしれない」と、編集長の後押しがあったという話だった。製本の工程の関係で、出版までに少し時間がかかったが、ようやく形になったのだった。
「存在が感じられる本になってるでしょ?」
夏芽が自信たっぷりな顔で訊くので、僕は何度も頷いて、ページをめくった。
「本は動きのある媒体ではないでしょ。だから、ページをめくる一瞬の時間って大切だと思うの」
ページをめくるたびに、ほんのりとした香りが広がる。そのことは、平安の世の女性たちの着物から、何か所作をするたびによい香りが匂い立つことを思い起こさせる。
「夏芽は、この香り、いいと思う?」
夏芽に訊くと、夏芽は紙に顔を近づけて、くんくんと香りを嗅いだ。そして、「何の花かな……凄くいい香りだね」と言って、口角を上げたので、僕は「そうだね」と微笑んで本を閉じた。編集部が選んだのは、白檀がベースの、ウッディな香りだった。
夏芽は、昔から嘘をつくのが下手だ。表情も硬くなるし、いつもお喋りのくせに、言葉少なめになる。
香りをわかったふりをしたのは、自分がリクエストをした手前、感想を言わなければならないと思ったからなのかもしれない。
僕の勘だが、おそらく夏芽は、物に触れられないのと同時に、匂いも味もわからない。出来ることといえば、見たり聞いたり、僕と話をすることくらいなのだと思う。
夏芽が実体のない霊であることは分かっていたものの、僕はショックを受けた。このことは、夏芽が一番、知りたかったはずだ。
しかし、僕は夏芽の気持ちを察して、すぐに話題を変えた。
「この紹介のPOP もいい感じだね。夏芽の想いをよく汲んでくれている」
「これ、ここの店員さんが書いたの?」
「きっとそうだね。みんな、色々考えてくれてるんだよ」
「こんな沢山の本があるのに、埋もれないように売り出してくれて、ありがたや‥‥‥」
ふと横を見ると、夏芽は近くで作業をしている書店員さんの方を向いて手を合わせている。
「はは‥‥‥夏芽の力がちゃんと認められたってことじゃない」
「そうだったとしても。ありがたや~」
僕はくすくすと笑いながら小説を棚に戻すと、夏芽にならって書店員に一礼した。書店員さんは不思議そうにこちらを見つめていたが、会釈をすると元の持ち場に戻って行った。
そうしているうちに、二人の男女が階段から降りて来た。和やかに談笑している彼らの背後に、「Café」と書かれたボードが見える。
「‥‥‥そうだ。これだけで帰るのも何だし、上のカフェにでも行ってみる?」
「うん。行ってみたい!」
夏芽は嬉しそうに声をあげると、僕のあとを跳ねるようについてきた。思えば、こんな風に外でお茶をすることさえ、夏芽が生きていた頃には出来なかったことだ。
階段を上がっていくと、青く塗られた壁と天井が見えてきた。水色から群青へと、青は静かに階をのぼるように深まっていく。
「なんだか、絵画の中の世界みたい」
壁を見上げながら、隣にいる夏芽が言う。
「‥‥‥本当だ」
その独特な色彩の壁面は、幼少期に父が教えてくれたシャガールの青い絵を思い起こさせた。
青い空が、地上にいる人々や動物、花など、あらゆるものをその光のフィルムでくるみ、ひとつずつ静かに空に浮かび上がらせていくような――、そんな絵のことを。
そして同時に、絵画を習っていたときに使っていた、油絵の具と絵筆のことも思い出した。
いちばん暗い色を先に乗せ、そのあとに、薄く透明な色や白い絵の具を重ねながら絵筆を走らせる。そうすると、深みのある透明感が生まれてくる。まるで、闇の中から光が生まれる瞬間を目にしているようで、驚くべき体験だった。
この壁は、きっと空をイメージしたものだ。おそらく、夜が次第に明けていくときの。空を通して見た時間のうつろいを意図的に描こうとしているような、そんなタッチのように思えた。
カフェの入り口に入ると、背の高いウェイターが出迎えてくれた。
「いらっしゃいませ、おひとり様でしょうか?」
「えっと‥‥‥、二名です」
ウェイターは最初、僕の言葉に戸惑った様子だった。
しかし、後からもう一人来ると解釈してくれたのか、すぐに窓際の席に案内をしてくれた。
雨予報のせいか、幸い、カフェにいる人は少なかった。奥のほうの席に案内され、安心する。ここなら、夏芽と小声で会話をしても大丈夫そうだ。
「何にする」
メニューを見せると、夏芽は顔を輝かせた。
「この、コーヒーゼリーが敷き詰められたチョコパフェ。美味しそう!ねぇ、理人も一緒に食べよ」
「いいよ。そうしよう」
ウェイターに注文を伝えると、僕は「水も、二つください」と頼んだ。
「すごいね~、こんな素敵なカフェがあるなんて。通いたくなる本屋さんだね」
夏芽が、店内のインテリアを見回しながら、嬉しそうに言う。
「ここに来てよかったでしょ」
「うん!大人な空間って感じで、すごくいい。‥‥‥・あっ、見て。こんなところに七夕の飾り付けが」
夏芽が頭上を指さしたので、僕もつられて目をやった。
天井に近い位置の窓枠に笹の枝が括り付けられていて、カラフルな短冊とともに、てるてる坊主が糸で吊るされていた。
「かわいいてるてる坊主。でも、今日雨予報だって」
僕が言うと、「えー!そうなの?」と夏芽が残念そうな声を上げた。
「七夕のお話って、何か理不尽だよな。なんで1年に1回?って、思うよ」
「そうだよね。元々彦星と織姫は夫婦だったのに。織姫の父親、意地悪すぎない?」
そんなことを話しているうちに、パフェとコーヒーが運ばれてきた。
僕は、夏芽の席のほうに、そっとパフェのグラスを置いた。
今日、僕はこれだけはしようと心に決めてきた。
カフェに入ったり、買い物をしたり、なにかデートじみたことをしたとしても、夏芽のことを「この世に生きている一人の女性」として接しよう、と。
「じゃあ、いただきます」
ミルクを入れて、コーヒーを口に含むと、深みのある香りが鼻孔に広がった。
うまいなあ、と僕がうなっていると、夏芽はしばらくのあいだ、不服そうに僕の顔をじっと見つめていた。首を、斜めに傾げて。
どうしたのだろう、と不思議に思って見つめ返すと、夏芽は急に思い出したように大きな声を上げた。
「ねぇねぇ、理人!七夕っていえば、あれだよね」
夏芽が、いつものように椅子からふわりと浮き上がったので、思わずコーヒーを吹き出しそうになって咳き込んだ。
心の中で言う。落ち着け、夏芽は、誰にも見えてないし、声も聞こえてない。
「‥‥‥おいおい、気になるから外で飛び回るのはやめてくれよ」
小声でそう言っても、夏芽は声量を落とすことはしない。
「わかってるって! 七夕ってあれだよね~。短冊に五七五で書くやつ」
「それは……俳句!」
「あ、そか。間違えた」
「何だ何だ?急に‥‥‥」
「じゃ、今から願い事書くね」
夏芽の手元に実際に短冊などないのだが、夏芽は左手に短冊を持ち、反対の手で筆を執ると、すらすらと文字を書く真似をした。
「それ、なんて書いたの」
「理人がここにあるパフェを食べさせてくれますように♡」
「え⁉ どういうこと?」
「わかんないかなぁ、理人くんは」
夏芽は、パフェのグラスにささっているパフェスプーンを指さして言った。
「これっ」
ぽかんとしている僕を見て、夏芽は眉根を寄せると、あーんと口をあける真似をする。僕も、思わずつられて、口をあんぐり開けてしまった。
「えっ、えっ……。もしかして、僕が食べさせるの?」
「そうよ。あたしが物に触れられないの知ってて、聞いてる?」
夏芽が、必死にスプーンに触れようとするも、指は物体をすり抜けるばかりなのは、もちろんわかっている。
わかっているけど、だけど……。
「店の人がチラチラ見てるだろ。無理だってば!」
「だいじょうぶってば!」
僕は、カウンター横でこちらを気にしているウェイターをもう一度見た。まずいことになった、と僕は唾を飲み込んだ。
ウェイターは僕のことを頭のおかしな奴だと思っているに違いない。そう思った次の瞬間、ウェイターが別の客に呼ばれて、レジのほうに向かって行くのが見えた。やるなら今しかない。
「い、いいか?一回だけだからな。あ、あ~ん」
パフェスプーンに、上層部にトッピングされたチョコクリームを載せて、夏芽の口に運んでやる。
すると、夏芽はぷいと横を向いてしまった。
「ん~!違う!」
「違う、って、何が?」
「コーヒーゼリーとチョコクリームのとろけるハーモニーを楽しみたいのっ!理人が、両方いっぺんにスプーンに載せてくれますように~」
「はぃ???」
夏芽は、僕をいじめるのを心から楽しんでいるみたいに微笑んでいる。
「グラスの一番下に沈んでるゼリーを、上のもの食べずに掬うのがどれだけ難しいか、知ってて言ってる?」
「じゃあ、上のほう食べていいよ。ただし、かさ増しのコーンフレークのとこだけだよ!」
「口、ぱっさぱさになるだろ!」
「いいから、早く!」
僕は持っていたスプーンで、半ばやけ食いの形相でコーンフレークを食べた。できるだけクリームを挟まないように食べたので、バリバリと咀嚼音が耳の中に響く。
ウェイターがこちらを見ていないことを祈った。これでは、ますます怪しい人物に見られてしまう。
「ほら、これでいい?あーん」
僕は、夏芽のお望みの品をスプーンに載せると、彼女の口元まで運んだ。
「わーい、いっただっきまーす」
夏芽はスプーンまで顔を近づけ、大きな口を開けたかと思うと、もぐもぐと口を動かした。もちろん、スプーンの上のものは、無くなったりはしない。しかし、夏芽は極上のものを味わうような、うっとりした表情を浮かべながら、首を縦に揺らした。
「で、感想は……?」
僕が訊くと、夏芽は満足だ、と言わんばかりに目を細め、「これ、やってみたかったんだよね」と言って僕のほうを見た。
「な、何だよ、それ……」
夏芽は、可笑しそうに笑い転げたあと、「あ~、美味しかった」と言って宙を仰いだ。
そして、てるてる坊主を見つめながら言った。もう二人は大丈夫だね、と。
「二人って?」
「もう、短冊にお願い事二つもしちゃったからさ。でも、あたしが願わなくても、あの子がいいお天気にしてくれるよね。彦星と織姫、会えるといいなぁ」
「それ、天の川の二人の話?」
「うん、そう」
夏芽は、たまにこんな風に、色んな話題にすり替えて、僕を混乱させる。これは、小学生のときから変わらない悪い癖だ。
「三途の川を渡ってくる強者がいるくらいなんだから、多少晴れてなくても大丈夫でしょ」
「えーっ、何それ、ひどーい。全然ロマンチックじゃなーい」
夏芽はちょっとむくれて、唇をとがらせている。
「あっ、僕も短冊書かなきゃ。では、僕からも、短冊に一言‥‥‥」
「なになに」
「白川夏芽さんのタコみたいな口が直りますように」
「失礼ね!夏芽ちゃんは、いつもご機嫌よろしくてよ!」
拗ねて膨らんだ夏芽の両頬を、二本の指でつまむようにして僕は言った。
「そうか~?」
いうまでもなく、そこには他の人から見れば何もなくて、空気をつかんでいるようにしか見えないのだろうけれど――だけど、僕はその瞬間思った。夏芽が生きていて、その頬に触れられさえすれば、と。
「な、何よ?」
僕の悪ふざけに戸惑っている夏芽に、僕は笑顔で答えた。
「これ、やってみたかったんだ」
夏芽の顔が、みるみるうちに赤くなっていく。意外な反応に驚いていると、夏芽は体を小さく縮めて、ふっと真上に飛び上がった。
「・・・・‥えっ、えっ? 夏芽?何処に行った?」
「おしえな~い!」
声のする方を見ると、夏芽の長い髪の毛が、窓辺のカーテンの影に見えた。僕はくすっと笑って夏芽に言った。
「ごめん。調子に乗りすぎちゃったかな。パフェ食べないの?残り食べちゃうよ」
「‥‥‥えっ、ダメ! ずるーい!」
その言葉に、夏芽はもとの大きさに戻ると、ふたたび椅子に腰かけた。
それからずいぶん長い間、僕らはカフェで語らっていた。店を出るころにはすっかり陽は暮れていて、天気予報は外れたのか、薄い雲の隙間から輝く星が点々と見えた。
「やっぱり。あの子のおかげ。降らなかったでしょ?」
空を見上げながら、得意そうに夏芽が言う。
「天気予報が当たらないなんてこと、あるんだな。あ~、傘持ってこなきゃ良かった」
そう言って店のドアを閉めると、ふわりとやわらかな夜風が吹いて、緑の濃い匂いがたちこめた。
夏のはじまりを感じさせるような、そんな風だった。
セラヴィ。
気が付くと、僕らは同時にその言葉を口にしていた。
僕たちは顔を見合わせ、可笑しくなってアハハ、と笑った。
帰り道、夏芽は夜空を見上げながら、鼻歌まじりにスキップをした。
ハイヒールを履いた彼女の脚は、軽やかに弾みながら、次第に夜空に浮いていく。
それはさながら、シャガールの描いた世界のようで、僕も彼女と手をつないで夜空に飛んでいければ、と思った。
彦星と織姫は、そんな僕らを見下ろして笑っているだろうか。
そう思うと、天の川はそんなに遠くない場所のような気がしていた。
