ブルー・アワーに舟を放つ

1
嘘をつかずに、人は生きることができるのだろうか。
オブラートに包むことなく思いのたけをぶちまけて、「じぶん」を生きることが。
おそらく、現実にはそれは不可能だ。
嘘は人間にとって身を守る鎧みたいなもので、守るものが大きければ大きいほどその鎧は重く、簡単に脱ぐことはできない。
自分や他人を守るための嘘。そういった類の嘘は、誰もが口にしたことがあるだろう。
「お腹が痛いので、お休みします」「その日は既に予定が入っています」「この花瓶は、僕が割りました」
誰かを傷つけたりしなければ、こういった嘘は正当化されるのだろうか。そんなこと、ひとくくりにして言えるだろうか。誰が審判を下すというのだ。
仮に誰かが許してくれたとしても、僕がついた嘘は、ひっそりと暗い場所に保管され、永遠に消えることはないだろう。
これは、僕のついたひとつの嘘が、真実にたどり着くまでの物語だ。
                          
2
「祝・間宮書房新人賞受賞 清郷 理人先生」
紅白の幕とともに貼り出されたその筆名を背に、僕は金色のトロフィーを手にしていた。
フラッシュライトは幾度となく目の前で閃き、カメラのシャッター音も相まって、自分のからだがシュレッダーにかけられているような感覚に陥った。
落ち着け――自分にそう言い聞かせて、僕はカメラに向かって笑顔を作ってみせた。笑顔は人を無敵にすると、何かの本に書いてあったのを思い出したからだった。
しかし、この場では逆効果だったと、その直後に気が付くことになった。僕が笑顔を作ったことで、その裁断音はますます激しくなり、心は怖気づくばかりだった。
バクバクと鼓動する心臓音と、止まらない手汗が気持ち悪い。早くこの壇上から降りたい――、その一心で、用意していたスピーチの言葉を口にした。
「今まで書いたこともないジャ、ジャンルの……作品でしたが……、し、審査員の先生方に読んでいただき、また、大賞に選んでいただいてっ‥‥‥。身に余る、光栄‥‥‥です」
あまりのたどたどしさに、会場がしんとする。口が乾きすぎて、うまく発音できない。まだ高校生だし、拙い言葉でも許してもらえるだろうか、と最初は考えていた。しかし、それは賢明ではない。何せ、名だたる文学賞の大賞をもらった人間なのだ。絶対に、言葉での失敗は許されない――そんなことを頭の中で考えながら、今の思いや抱負を説明し、スピーチを切り上げた。
そして、最後にもう一度頭を下げた瞬間、大きな拍手喝采が会場内に溢れた。無事終わった、と心の中で安堵した。どうにか乗り切った――つもりだった。
「小説家の記念すべき第一日目は、表彰式!言葉を換えれば、誕生祭ですよぉ?今日は主役なんだから、もっと自信たっぷりな感じで話したらよかったのに」
表彰式の後、担当編集者のスミさんこと菫川さんがやって来て、ダメ出しするかのようにそう言った。
スミさんはぱっと見二十代後半くらいに見えるが、年齢は不詳だ。大手出版社から転職してきたばかりらしく、話題作を生み出すルーキー、と社員の間で噂されているのを小耳に挟んだ。この若さで、大物の小説家も担当しているらしい。
きっと、僕がまだ学生だからなのだろう。彼女は遠慮ない言葉と態度で距離を詰めてくる。
「理人先生の作品、最終選考で満場一致だったの。もっと自信持ってね!審査員の先生たちも、次の作品も期待してる、って言われてましたから」
 まだ先のことは、と言いかけて、僕は口をつぐんだ。先のことを全く考えてないわけじゃない。ただ「この頭から、いい発想は湧いてこない」なんて、編集者に言っていい冗談じゃない。
それに、この賞は世間が注目しすぎている。天下の間宮書房の新人賞からは、多くの有名作家が輩出されている。
どう返事をするのが正解か考えてみたものの、答えにはたどり着けず、ただ苦笑いを浮かべるほかなかった。
そもそも、「主役」という立ち位置は、僕には似つかわしくない。
これまでずっと、周囲の平穏だけを祈って生きてきたのだ。出来るだけ、目立たぬように――。

ふいに、中学時代にサッカー部で一緒だった連中に、コンビニで偶然出会ったときの記憶が呼び覚まされる。
中学を卒業したばかりの、春休みだった。
彼らは僕の顔を見るなり、「おっ、部長じゃねぇか」と声を上げ、ニヤニヤしながら近づいてきた。
「もう部長じゃないし」
「いやいや」とみんな口を揃えて言った。
「理人は今でも、俺たちにとっては部長だよ」
「そそ、今更だけど、サンキューな。理人、結構いい仕事してくれてたし」
僕は「どこが」と言いかけたが、いたたまれなくなって軽く会釈をし、その場をすぐに立ち去った。シャットアウトするのが賢明だと思ったのだ。
中学二年生の秋、僕はサッカー部の部長に選ばれた。補欠だったにも関わらず。
しかし、それは「そうなるように仕向けられた」のに近かった。
部長の仕事は、部長会議に出席したり、先生から雑務を頼まれたりと、面倒な仕事が多いということで敬遠されていた。
「部長は誰がやっても変わらないから、多数決で決めよう」
役決めのミーティングの日に誰かが言ったその言葉が、今も記憶の棘として僕の中に残っている。
その言葉は「引き受けてくれそうな人間に役をあてがおう」という意味に皆の中で変換され、僕に票が集まった。
それは多分、僕が自我が弱く、都合のいい人だと思われていたからだろう。
周囲の人間は、「こういう仕事は、理人が一番適任だよ」とニコニコ笑っていたが、その言葉や笑顔の裏には、こちらの抵抗を先回りして封じるような、そんな悪意が潜んでいるような気がした。
僕の気持ちに誰も焦点を当てることなく、「それでは決定ということで」と、顧問の先生が黒板に「新部長 清郷」と名前を書いた。その瞬間、誰かが「いよっ、清郷部長!」と叫んで、笑いがどっと起こった。
そして、パラパラと、まばらな調子の拍手が教室内に響いた。それは、今日壇上で受けた温かく盛大な拍手とは、まるで違っていた。
あの時のは、いわゆる体育会系のノリと、冷やかしの笑いが混じった喧噪のようなもの—―。

そんなことを急に思い出した自分が、少し嫌になった。昔と今の状況を比較して、どうなるわけでもないだろう。
しかし、今の自分に「主役」はやはり無理がある気がして、早くこの会場から立ち去りたいと思った。
本質的な部分で、僕という人間は補欠だったころと何も変わっていないのかもしれない。
「誰かの代わり」――それが、僕という人間をあらわすのに最適な名詞であるということは、僕自身がいちばんよく分かっていた。      
  
                       
3                                
「小説家デビューして、自分を180度変えてみない?」
授賞式から一か月が経ち、気が付けば湿度の高い季節になっていた。傘についた雨の滴を落としながら、出版社の入り口に立ったとき、新人賞の広告ポスターが目に飛び込んできた。
僕は、気圧されたみたいに、おそるおそるそのポスターに顔を近づけた。人気小説のキャラクターたちが微笑んでいる。そして、そのイラストの横に、デビューして人生を変えた作家たちの名前が連なっている。
――ここにいつか、僕の名は載るのか?
自分の人生について考えたとき、すぐにあの日のことが脳裏に浮かんだ。あの子が初めて僕の部屋に来た夜。
その日はちらちらと雪が降っていて、かけていたFMからは、美しいピアノ曲が流れていた。
窓の外に視線をやると雪が降っていて、その結晶はピアノの旋律に合わせるように次々と舞い落ちた。
彼女は雪に似ている。僕の人生に気が付かないうちに入り込んできた。人生は思いもよらないタイミングで、簡単に転調するものだ。
「理人先生?」
背後からスミさんの声がしたので、僕は振り返り背筋を伸ばした。
オーバーサイズのロンTにジーンズ、黒縁のメガネ。長い髪はゆるく束ねられていて、腕には数冊の本を抱えている。授賞式で会ったときのフォーマル・スミさんと違って、今日はなんだか気の抜けた感じだ。
「あ‥‥‥、すいません。気づかなくて。原稿書き直したので、見てもらおうと思って‥‥‥」
スミさんは「オッケー」と軽い返事をして、僕を応接室に通してくれた。スミさんが原稿を読んでいる間、僕はカバンから『源氏物語』の現代語版を取り出して、付箋が貼ってあるページに目を通した。
源氏物語「夕顔」の章は、この小説のモチーフになっている部分だ。書いたことについて質問されたときのために、参考資料として持ってきたのだった。
訂正箇所すべてを読み終えたスミさんは、原稿からゆっくり顔を上げると、口を開いた。
「やっぱり、この主人公の美月ちゃん」
「‥‥‥は、はい」
「良きだわ~!陰キャだけど度が過ぎず、疎外感を享受してる。それに‥‥‥」
眼鏡の奥に見える彼女の目が鋭く光った気がして、僕の体は硬直する。何か難しい質問でもされたらどうしよう、と思わず身構える。
「展開も良かった!学校生活に嫌気がさして、別の時代に行きたいと神社で願った美月が、平安時代にタイムリープする。そして、憧れの紫式部に才能を見込まれて、一緒に『源氏物語』を作るとか、光源氏のモデルになった美少年、源光と恋に落ちるとか。最後も、切なくてぐっと来たし」
「‥‥‥ありがとうございます」
 スミさんは、原稿の修正部分を読みながら、うんうん、と頷いている。
「源氏物語のあらすじの説明が入って良くなったね。夕顔という市井の女性が、夕顔の花を扇に載せて、光源氏に和歌を送った場面。分かる人には分かるんだけど、知らない人のほうが多いと思うから、ここは絶対説明があったほうがいい。源氏物語ファンの美月は、紫式部の前でその場面を再現してみせ、それがきっかけで美月が夕顔のモデルとなり、二人の交流が始まる。――卵が先か、鶏が先か、みたいになってるところも面白い」
どうやら、書きなおした部分はスミさんに気に入ってもらえたようだ。彼女は機嫌がよくなると、饒舌になるから分かりやすい。
「あ、私これから朝霧まどか先生のところに行かなきゃ。次の文芸誌にこの作品の講評を書いてくださるから、もし会う機会があれば、お礼言ってね」
「は、はい」
――朝霧まどか。もう二十年近くベストセラーを出し続けている恋愛小説の名手。その朝霧先生に、講評がもらえると聞いたら、「彼女」はどんな顔をするだろう。
「じゃあ、これで完成ですか?」
うんうん、と頷いているスミさんはご満悦だ。ようやく終わった、と胸をなでおろす。
「でもさ。このタイトル陰鬱じゃない?『夕顔は朝に死ぬ』って」
「そうですか」
「それより、『言わずもがな、いと恋し』ってどう?」
「え」
「主人公の台詞からもらっただけだけど、どうかな?」
「そうですね……そう……」
相談してみます、と言いかけて、僕は言葉を飲み込んだ。まだイエスともノーとも言えない自分が情けないが、この作品には僕よりも思い入れが強いひとがいる。
「そう?」
「い、いや、いいと思います。いいと思うんですけど、もうちょっと考えてみたくて」
スミさんは眉を持ち上げて、怪訝そうに「ほう」と言った。
「まあ、デビュー作だしね。まだ時間あるし、じっくり練りましょ」
僕は深々とお辞儀をして、編集部を後にした。この小説は、男が書いたにしては、乙女すぎるのではないかと心配になりながら。
女の子の気持ちなんて、さっぱりわからない。だけど、これだけは、はっきりしている。
僕は、この小説を一行たりとも書いていない。
                        
           
4
「隣の芝生は誰が見ても青いのかを検証!」

唐突に流れてくるテロップと同時に、新進気鋭のYoutuberの声が響く。
ああ、検証しなくともそれは実際に青いのだ。人間はないものねだりをする生き物だから—―心の中でそう呟いて、僕はスマホの画面をオフにした。
すると、今度はうるさいほどの静寂が襲ってきた。思い出したくもない遠い過去の記憶が、脳内でリフレインする。

伊豆の下田という港町で生まれ、平凡なサラリーマン家庭で育った僕は、一人っ子だったゆえに過剰な期待をもって育てられた。
「この子には素晴らしい才能があるはず」、と、父親は僕を幼少のころから様々な習い事に行かせた。
絵画、ピアノに、バイオリン――とりわけ、父が力を入れたのは、絵画だった。
父は絵画への造詣が深く、よく美術館に連れて行ってくれたし、美術館で買い集めた図録なども見せてくれた。
しかし、どの習い事の先生からも素質を見出してもらうことはなく、僕はあっという間に小学校の高学年になった。
息子に才能がないと見限った父親は、僕を勉学の方向に路線変更させるために進学塾に入れた。
息子が立派な大学を出て、大企業の社員とか、公務員にでもなれれば、と思ったのだろう。
父に「習い事は辞めていい」と言われた日は、ひどく傷ついた。「どうして」と聞き返したが、父は何も答えてくれなかった。
父の顔に滲んだ失望の色は濃かったが、それ以上にその沈黙が僕には堪えた。
「もうお前には期待しない」とはっきり理由を言われたほうがましだと思った。
僕は、うなだれたまま自室に戻った。父に認めてもらえなかった――その事が僕の自尊心をズタズタにした。
やがて中学生になると、受験や進学先についてうるさく言われるようになった。
そのうちに、僕はこう思うようになった。親を黙らせるには、親の望む結果を出すしかない、と。
それは実際、諦めであり思考放棄でもあったが、僕は逃げ道を求めて勉強に明け暮れるようになった。
そして季節は移ろい、待ち望んだ春が来た。ある程度世間に名の知れた大学の付属高校に合格し、東京で寮生活をすることが決まった。父も喜んでくれた。その顔に、満足そうな笑みが浮かんでいるのを初めて見た気がした。――吐き気がした。
僕の立場から言わせてもらうと、父の期待に応えたつもりはなく、何かを達成して嬉しいという感情もなかった。
勉学に明け暮れたのは、親元から一日も早く離れたいという気持ちが強かったからだ。
僕は、あの頃絶望の淵にいた。例えるなら、叫んでも助けの来ない荒野の真ん中で少しずつ干からびていく状態。
それに比べ、周りの同級生たちは、何かに没頭し、充実した毎日を過ごしているように見えた。趣味に、部活に、——それから、恋に。控えめに言っても、楽しそうな彼らを見るのは地獄だった。
枕から顔をあげ、声を絞り出すようにして言った。
「隣の芝生は、青かった・・・・・」
自分自身に嫌気がさしながらも、「地球は青かった」の調子で口ずさむ。
そのとき、ベッド脇に灯していたランプの光が、ゆらりと揺れた気がした。
眩暈のような感覚を覚えながら目線を天井に移すと、僕の頭上を浮遊している少女と目が合った。
「ガガ様の名ゼリフかっ!」
「うぉっ⁉」
耳をつんざくようなツッコミに驚き、僕は思わずベッドから転がり落ちた。
「うぉっ⁉、て何よ。そろそろ慣れてよね~!」
「何だよ‥‥‥。驚かすなよ。いるなら、いるって言えよな」
それに、と僕は続けた。
「ガガーリンをガガ様って呼ぶの、夏芽だけじゃね?」
「いいでしょ別に。ほら、夏芽ちゃんも、絶賛月面飛行中!」
夏芽は宇宙を漂う飛行士のように、体をねじって一回転してみせた。
「おいおい……、その体勢だとスカートの中見えちゃうぞ」
「ふふん! 下半身だけ、消せるもんね」
夏芽はそう言うと、首から上だけの姿になって、体を縮めた。『不思議の国のアリス』に出てくるチェシャ猫みたいだ。(実際に、夏芽は猫みたいだと僕は思う。体の大きさも自由に変えられて、どちらかというと狭い空間を好む。)
ちなみに夏芽は、半年前から僕の部屋に住み着いている幽霊だ。中学二年まで学生生活を共にした、もと幼なじみ。
夏芽がなぜこの世に戻って来たのか――その理由は、彼女の口からまだ語られていない。
しかし、僕は他人が聞かれて困る質問はしない主義なので、彼女が自分から話してくれるまで待つことにした。
(これは僕の勘だが、彼女は僕に色々頼みたいことがあるのだと思う。彼女は、昔から僕を頼りにし過ぎるところがあった。)
「そういえば、理人、今日編集さんに会いに行ったんでしょ?どうだった?」
「ああ、原稿のオッケー出たよ。もう手直しするところないって」
「おー。じゃあ、あとは本になるのを待つばかりだね!どんな表紙かなぁ。どんなレビューがもらえるかなぁ。色々楽しみじゃない?ねえ、いつ発売?」
僕の苦労など知らずに、夏芽はいつもマイペースで、その自由奔放さに少し呆れてしまう。
しかし、僕はそんな夏芽がずっと好きだった。彼女が僕の都合を気にしたことは一度だってなかった。人の顔色を気にせず、自分がやりたいことをただひたすらにやるその姿は、図々しさを通り越して、清々しくもあった。
夏芽がこの部屋に初めて現れたときも、そうだった。僕の置かれている状況などお構いなしに、彼女はふらりとやって来た。何の前触れもなく。
僕は、ベッド脇に置いた卓上カレンダーに目をやった。気が付けば六月。一年の半分近くを夏芽と過ごしたことになる。
「発売は一か月くらい先じゃないかなぁ。でも、こんなことが起こるなんて、ホントに凄いと思うよ。僕の人生じゃ考えられない」
それは何気なく発した言葉で、悪意はなかったつもりだった。けれど、夏芽の表情が少し曇った気がして、僕はすぐに目を逸らした。言ったあとに、少し後悔した。――「僕の人生」なんて、今までよく考えたこともなかったくせに、と。

思えば、あの日からだ。去年のクリスマスの夜のこと。
冬休みに突入して、学生寮に住むほかのメンバーは、全員地元に帰省してしまっていた。僕は下田の自宅に戻る気になれず、ひとりぼっちの冬休みを過ごしていた。
夜が更け、日付が変わる頃には、冷え込みもずいぶんと激しくなった。窓の外に目をやると、雪がちらつき始めていた。
ラジオをつけると、ピアノ曲が流れてきた。DJが、ドビュッシーの名曲『雪は踊っている』と紹介した。
十六分音符の細かい音型は、ちらちらと舞い落ちていく雪の音を見事に再現しているように思えた。そのうちに、軽やかだったメロディは、次第に重厚感のある演奏に変わっていった。抗えない何かと戦っている、そんな苦悩を感じさせるような旋律だった。
僕は、寒気で曇り始めた窓の表面に顔を近づけてみた。窓ガラスの向こう側で踊る白い雪ひらが、別世界のもののように感じられた。まるでスノードームをひっくり返したときのような、球体の中の世界。何か作りもののような歪みが、その中にあった。
そんなことを思っていた、次の瞬間――。降り続いていた雪が、急に勢いを増した。……かと思うと、一瞬、窓一面が真っ白になった。凄まじい白銀の世界に目を細める――、すると、僕の背後から、聞き慣れた声がした。
「あの夏ぶりだね、理人くん」
「……⁉」
振り返ったとき、ピアノの音がぴたりと止んだ。驚きのあまり、僕は腰を抜かしそうになった。
生きているのかと思った。そのくらい、彼女の姿の輪郭ははっきりしていた。
「な、な……夏芽⁉ どうして……?」
僕が後ずさりすると、彼女は人差し指を口元にあて、落ち着いて、と小声で言った。
そして、はにかんだ笑みを浮かべたかと思うと、僕の質問にようやく答えた。
「戻ってきちゃった」

その日から、夏芽はたびたび僕の部屋に現れるようになった。
夏芽の姿を見たり、声を聴いたりできるのはどうやら僕だけらしい――、そのことに気が付いたのは、年が明けて隣の部屋に住む同級生が寮に戻ってきた日のことだった。
隣の部屋に住むクロードは、フランス人と日本人のハーフだ。クロードは、パイの載った皿を片手に僕の部屋に入ってくるなり、「独りぼっちのリヒトのために、ママンがガレット・デロワ持たせてくれたよ!」と、明るい調子で言った。
それは、フランス人が年始に食べる伝統的なパイのことで、紙で作られた王冠が載せられているものだった。
「王様のケーキ」という意味らしい。そのパイにはフェーヴという小さな陶器の人形がひとつ入っていて、友人や家族と切り分けて食べる。そして、その人形の入ったパイを取った人には、その一年のうちに幸運が訪れるという言い伝えがある。
「俺とリヒトで、どっちが先にフェーヴ入りをとるか、勝負だ」
クロードはそう言ってパイを適当に切り分けると、先に選んでいいよ、と順番を譲ってくれた。
僕はどれにしようか悩んでいたが、夏芽がパイの影から顔を出して「これにしなよ」と指さしたので、思わず声を上げてしまった。
一瞬、クロードに夏芽の存在を気づかれてしまったのではないかと、僕は焦った。
しかし、クロードは不思議そうに僕の方を見ているだけだった。僕にしか夏芽の姿は見えないのだと、そのとき初めて気づいた。
僕は、平静を装って、夏芽の指さした一切れを自分の皿に取り分けた。食べてみると、本当にフェーヴは入っていた。
「中にもぐって、確認したんだからね!」
夏芽は得意そうに言うと、ふわりと浮遊し、僕の肩にちょこんと座った。
「おいしい?」
夏芽が耳元で聞くので、僕はクロードに気が付かれないように、何回か頷いた。
「よかったね、理人。今年はハッピーな一年になりそうだね!」

それから数日たった頃、僕は夏芽の頼みを聞いて、小説を書き始めることになった――正確には、夏芽のつくるストーリーを、夏芽に言われるがままタイピングして、文字に起こしていく作業だけれど。(夏芽は幽体なので、現実世界の物に触れることができない)
「これは、わたしのこの世でやるべきことのひとつなの」
ある日、夏芽はそんなことを言った。それがどういう意味なのか、そのときの僕はよくわかってはいなかったし、受賞した今も、これで良かったのかはわからない。
けれど、新人賞は新人を発掘するための公募で、「未来ある人」しか応募できないことは理解できた。
だから、僕は彼女に自分の名前とパソコン、タイピングに費やす時間を貸すことにした。いや、貸すというよりは「捧げる」だ。僕は彼女に見返りなんて求めていない。
「これで大賞とって小説家デビューできたら、次は芥川賞。その後は、目指せ、ノーベル文学賞!」
最終選考に残ったという知らせが来た夜、冗談まじりにそう言った夏芽だったが、僕の耳にはその言葉が、ほぼ確信的なものとして響いた。そのくらい素晴らしい作品だと思えたし、夏芽の声も自信に満ちていた。
「うわ、マジ。でも、そうなったら夏芽の下僕じゃん!」
「えー、何で?嫌?私と一緒にいるの、楽しくない?」
そう言って、お願いだから、と手を合わせると、そのまま宙返りして僕の目を覗き込んだ。
「いや……それは勿論、たの……しいよ」
思わず、情けない声が出た。
すると、夏芽は体を小さく縮め、蜜蜂のように空中を旋回し始めた。
「理人が楽しいって思ってくれてよかったぁ~!」
「ああ、もう~。ぶんぶんうるさい!寝るよっ!」
僕は夏芽を追い払うように電気を消すと、ベッドの上に横になった。
――それにしても、こんなにまだドキドキするか‥‥‥?
心の中で呟くも、もう一人の僕の声がした。当然じゃないか、彼女はきみの初恋の相手なんだから、と。
顔が緩んでいるのを気づかれないように、僕は布団の中にもぐりこんだ。
静寂の中、夏芽の囁くような声が聞こえた。おやすみ、また明日ね、と。

その夜、不思議な夢を見た。
僕と夏芽は、青い海の見える浜辺にいた。夏芽は、空をじっと見つめていた。
声をかけてみたが、夏芽はこちらを向いてくれなかった。僕は少し不安になって、彼女に近づいてその手を取った。
すると、夏芽は一瞬のうちに消えてしまった。幻だったのだろうか、と目をこする。
すると、背後から「理人」と声がした。
振り向くと、砂の中から白い手が伸びていた。僕を呼ぶ夏芽の声は、徐々に弱くなる。
僕は、必死に砂をかき分けて彼女を助けようとしたが、間に合わなかった。
蟻地獄に吸い込まれるように、彼女はあっという間に消えてしまった。

しばらくして、「理人」と耳元で声がし、僕は目を覚ました。気が付くと、からだじゅうから汗が噴き出していた。
「悪い夢でも見たの?深呼吸して。ふーって、吐いて」
夏芽に言われるがまま、深く息を吐く。しばらくすると、自然と汗は引いていった。
「ほらね。だいじょうぶってば」
小さなころから、いつもそうだった。この言葉を口にするたび、彼女は声を立てて笑った。
その笑い声は、僕をいつも安心な気持ちにさせた。笑ってさえいればどんな困難も乗り越えられる気がした。
だいじょうぶってば――少しおかしなその言葉は、夏芽の小さい頃からの口癖なのだった。