龍の加護を得た再会~後宮で虐げられていましたが、龍神帝さまに甘やかされています~

「お腹、空いたな。」
ぶちまけられた自分の食事の後片付けをしながら、今日も満足な食事が取れず、翡翠は途方に暮れていた。五歳の時に母を亡くし、後宮に女官見習いとして入って三年。周囲からの嫌がらせは絶えない。母が美人だった為、花街で前帝の目に留まった翡翠は情けで後宮に入る身となった。将来の女官という地位を約束された子供達は、自然と地位が高い家柄の出身者が多い。翡翠のことを気に入らない者がいても文句は言えない。特に帝と血筋が繋がっている紅玉は、周囲の女官見習いから帝の妃候補とも噂され、ことさら翡翠のことが気に入らないようだった。食事をぶちまけられたのは、まだマシだ。母がなけなしのお金をはたいて買ってくれた唯一の萌黄色の衣をびりびりに引き裂かれた時は、怒りを通り越してもはや悲しみしかなかった。翡翠はそもそも後宮に入りたいなどと希望してはいなかった。
(お母さまさえ生きていれば…。)
一度零れ落ちた涙は止まることを知らず、翡翠は嗚咽した。
 そんな時、ふと視線を上げると一人の少年が立っていた。翡翠に向かって、手を差し伸べている。涙を拭い、何か用ですかと聞こうとした時、少年の手の平に一粒の黄金色の飴玉が乗っていることに気づいた。
「私にくれるんですか?」
 少年は無表情のまま、こくりと頷く。
「龍神帝さま、探しましたよ。」
 上級位の女官たちがわらわらと集まって来た。
「勝手に後宮内をうろつかれては困ります。お部屋にお戻りになって下さい。」
 翡翠がきょとんとしていると、少年は翡翠の手の中に無理矢理飴玉を握らせた。そして翡翠を一瞥すると、その場を去って行った。
 なんにせよ翡翠は腹ペコだった。飴玉を口に含むと、
「甘い。」
 という言葉と共に、再び涙が零れ落ちた。

それから十年の月日が流れ、翡翠に転機が訪れた。帝の妃候補に翡翠の名が挙がったのだ。
その知らせが後宮に広まるのは早かった。朝の光が差し込む廊下を歩けば、いつもは翡翠の存在など気にも留めない女官たちが、まるで色めき立ったように振り返る。
「すごいわね、翡翠。」
「まさかあなたが妃候補になるなんて…本当におめでとう。」
声をかけてくる者の表情は、驚きと羨望と、そしてどこか計算めいた期待が入り混じっていた。
ここぞとばかりにおこぼれにあずかろうという心境の者もいるのだろう。
それでも翡翠にとっては、素直に嬉しかった。十年もの間、後宮の片隅で必死に務めを果たしてきた努力が、ようやく報われたような気がしたのだ。
「龍神帝さまの前で恥じないよう、身支度をしっかりとせねばなりませんね。」
上級位の女官がにっこりと微笑む。
その笑みは柔らかいのに、どこか張りついたような緊張があった。
翡翠は思わず、
(…えっ。)
と心の中で声を漏らした。
龍神帝さまという名前は聞いたことがある。
十年ほど前、飴玉をくれた少年だ。
あの時の彼は、無表情で、微笑むことすらせず、口も聞いてはくれなかった。
ただ、翡翠の涙を見て、そっと飴玉を差し出しただけ。
――あれが、龍神帝さま。
薄紅の長衣に手を通しながら、翡翠は胸の奥がざわつくのを感じた。衣の布地は上質で、指先に吸いつくような滑らかさがある。普段の衣とは違う重みが、これから向かう先の重大さを静かに告げていた。
「龍神帝さまって、気難しい方ですか?」
不安げに尋ねると、上級女官は目を丸くし、次の瞬間には頬をふくらませてぷりぷりと怒り出した。
「なんて失礼なことを申すのですか!帝は尊いお方です。気難しいなどと…口にするだけでも畏れ多いのですよ!」
叱られた翡翠は、しまったとばかりに舌をちろりと出した。
けれど、胸のざわつきは消えない。
十年前の少年の無表情が、薄紅の衣の重みと重なって、翡翠の心に静かに影を落としていた。

「お初にお目にかかります。翡翠と申します。」
静寂が降りた。
庭園の水面が風に揺れる音だけが、二人の間を満たしている。
(やはり寡黙な方なのだろうか。十年前と同じ…。)
翡翠がそっと視線を伏せたその瞬間、
「薄紅色の衣は、そなたには似合わないね。」
柔らかく、しかし芯のある声が落ちてきた。
翡翠は驚いて顔を上げる。
龍神帝は、まっすぐに翡翠を見つめていた。
その瞳は、黒曜石のように深く、どこか懐かしさを宿している。
「顔を上げて。私は席を外すから、萌黄色の衣に着替えるといい。そなたは私の妃なのだから、髪飾りも龍の紋様のものを付けるべきだ。龍の加護があるように。」
涼やかに告げるその声音は、十年前の無表情な少年のものとはまるで違う。
青年となった龍神帝は、凛とした気品をまとい、長い黒髪は光を受けてさらりと揺れた。背は高く、立っているだけで周囲の空気が澄むような存在感がある。
側に控えていた女官たちは、龍神帝の言葉を聞くや否や、慌ただしく動き出した。
萌黄色の衣は若葉のように柔らかい色合いで、翡翠の肌を明るく見せる。龍の紋様があしらわれた髪飾りは、金糸で繊細に形作られ、まるで本物の龍が息づいているかのようだった。
「翡翠さま、こちらへ。」
女官たちに手を取られ、翡翠は着替えのため奥の部屋へと案内される。
薄紅の衣を脱ぐと、胸の奥が少しだけ軽くなった。
萌黄色の衣を身にまとった瞬間、まるで自分が別人になったような、不思議な感覚が広がる。
(…龍神帝さまは、どうしてこんなにも優しいのだろう。十年前、飴玉をくれたあの時から、ずっと…。)
髪飾りをつけられ、鏡に映った自分を見た翡翠は、思わず息を呑んだ。
そこにいたのは、後宮で虐げられてきた女官ではなく――龍神帝の妃として迎えられる女性だった。

着替えを終え、部屋を出ると、廊下の先に龍神帝が立っていた。
翡翠を見ると、彼はふっと目元を和らげる。
「…やはり、そなたには萌黄色がよく似合う。」
その一言だけで、翡翠の胸は熱くなる。
十年前、飴玉を差し出してくれた少年の優しさが、確かに今も息づいている――
そう思えた。

「今日は空が綺麗だ。見てごらん、雲が綿菓子のように美味しそうだよ。」
龍神帝は、翡翠の手をそっと取る。
 指を絡める仕草は自然で、まるで十年の空白などなかったかのようだった。
 庭園の白砂が陽光を反射し、二人の影が寄り添うように伸びている。
翡翠は、繋がれた手を見つめながら、胸の奥がざわつくのを感じていた。
 嬉しさと戸惑いが入り混じり、言葉にしなければ胸が張り裂けそうだった。
「…何故、私なのですか。」
「え?」
龍神帝は本当に驚いたように目を瞬かせる。
 その反応があまりにも純粋で、翡翠は逆に胸が締め付けられた。
「私は花街の出身で、家柄もよくありません。確かに母は容姿端麗でしたが、私はそうでもありません。」
「謙遜してるの?」
龍神帝が軽く笑うと、翡翠の頬が一気に熱くなる。
 その笑みは、十年前の無表情な少年からは想像もできないほど柔らかかった。
「そうではなくて…。」
 翡翠は言葉を探しながら続ける。
「私より龍神帝さまに相応しい女官は大勢いると思って。」
龍神帝は歩みを止め、翡翠の手を握り直した。
 指先に力がこもる。
 その温もりが、翡翠の不安を少しずつ溶かしていく。
しばし考えたのち、龍神帝は静かに口を開いた。
「理由の一つとして、そなたの境遇が、私によく似ているからかな。」
「私の生い立ちを御存知なのですか?」
翡翠の声は震えていた。
 龍神帝はその震えを受け止めるように、穏やかに微笑む。
「私はね、幼い頃は龍と会話ができるようにと、人と口を聞くのを禁じられていたんだ。」
翡翠は息を呑む。
 龍神帝は空を見上げる。
 綿菓子のような雲が、ゆっくりと流れていく。
「人と話すことを許されなかった。笑うことも、泣くことも、誰かに甘えることも…全部禁じられていた。」
その言葉は淡々としているのに、どこか痛みが滲んでいた。
「そして龍と会話ができるようになって、多くのことを知った。そなたのことも。」
翡翠は胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。
 自分の孤独や悲しみを、誰かが知っていた。
 それも、十年前に飴玉を差し出してくれたあの少年が――。
「…龍神帝さまは、私のことを…。」
「十年前からずっと、そなたのことを知っていたよ。」
龍神帝は翡翠の手を包み込むように握り、優しく言った。
「私が守りたいという想いを抱いた少女だ。」
翡翠の視界が滲む。
 十年前のあの日、飴玉の甘さに泣いた自分。
 その涙も、彼は覚えていたのだろうか。
龍神帝の声は、風よりも優しく、翡翠の心に染み渡った。

 母は元々、季節の変わり目ごとに体調を崩すほど病弱な人だった。高熱で床に伏すことも珍しくなく、夜になると細い肩を震わせながら咳をこぼす。
それでも私の前ではいつも穏やかに微笑み、弱さを見せまいとしていた。
私はそんな母が大好きで、母のそばにいるだけで世界が柔らかくなる気がした。
ある日、御殿の廊下を歩いていると、女官たちのひそひそ声が耳に届いた。彼女たちは私に気づかず、心配そうに顔を寄せ合っていた。
「皇后さまが体調を崩されるようになったのは、龍神帝さまを御産みになってからよね。」
「ええ…あのご出産は、命を削るほどのものだったと聞きました。」
その言葉は、刃のように胸へ突き刺さった。私は思わず立ち止まり、息を呑んだ。母の病は、生まれた私のせいなのだろうか。
その考えが頭を離れず、気づけば涙が頬を伝っていた。
その日の夕刻、私は母の寝所へ向かった。薄い布団に身を横たえた母は、弱々しい呼吸を繰り返しながらも、私を見るといつものように優しく微笑んだ。
「お母さまの体調が優れないのは…私のせいですか。」
震える声で問うと、母はそっと手を伸ばし、私の頬に触れた。その指は驚くほど冷たかった。
「いいえ、龍神帝。あなたのせいではありませんよ。」
母は静かに目を閉じ、少し息を整えてから続けた。
「私の命は、もう長くありません。けれど、それはあなたが生まれたからではなく、私自身の運命です。もしあなたが責任を感じるのなら――その気持ちを、未来へ向けて使いなさい。」
母の声は弱いのに、不思議と揺らぎがなかった。まるで、すでに自分の死を受け入れ、その先の世界まで見通しているようだった。
「皇族の印が龍なのを知っていますね。龍の言葉は必ず正しく、あなたを帝の座へと導いてくれます。大きな加護を得られるでしょう。」
母は私の手を握り、最後の教えを授けるように言った。
「大人になるまで、人と口を聞いてはなりませんよ。龍の声だけを聞きなさい。あなたの歩む道は、龍とともにあるのです。分かりましたね。」
その言葉は、母の遺言のように胸へ刻まれた。
私は涙をこらえながら、静かにうなずいた。
母の手は、もうほとんど力が入っていなかった。

十年という月日の中で、成長したのは翡翠だけではなかった。紅玉もまた、後宮という閉ざされた世界の中で、別の形に成長していた。紅玉は名家の娘として生まれ、幼い頃から「選ばれた者」として育てられてきた。衣食住は常に上質、学びは最高の師から、そして周囲は彼女を“将来の妃候補”として扱った。その期待は、紅玉自身の誇りとなり、同時に呪いにもなった。
だからこそ、翡翠が妃候補に抜擢されたという知らせは、紅玉の胸を深く抉った。
翡翠は貧しい家の出で、後宮に入ってからも虐げられ、紅玉自身も何度も見下してきた存在だ。
そんな翡翠が、帝と親しげに手を取り合い、庭園で微笑み合っている――
その光景は、紅玉の十年分の自尊心を粉々に砕いた。
(…こんなの絶対に許さない。許されるわけないわ。)
胸の奥で煮えたぎる嫉妬は、もはや抑えられなかった。
「お父さま!どうして私は妃候補に選ばれなかったの!?あんな下卑た女が帝と一緒にいるなんて反吐が出るわ。」
後宮に顔を出した父に詰め寄ると、父は眉をひそめた。
「そんな汚い言葉を使うんじゃない、紅玉。お前は名家の娘だ。品位を忘れるな。」
叱責の言葉ではあったが、声には甘さが滲んでいた。
父は紅玉を溺愛していた。
そして何より、娘が妃となれば、自身の家門もさらに栄える――その野心を隠しもしなかった。
だからこそ、父は懐から小さな小瓶を取り出し、そっと紅玉の手に握らせた。
「薬だよ。」
その言葉だけで十分だった。紅玉は一瞬で理解した。
父の目は、娘の望みを叶えるためなら手段を選ばない者の目だった。
紅玉は小瓶を見つめ、ゆっくりと口角を上げた。
「流石、お父さま。用意周到ですわね。」
その笑みは、十年前の幼い紅玉が浮かべていた無邪気な笑みではなかった。
後宮という閉ざされた世界で育った、嫉妬と欲望を知る女官の笑みだった。
小瓶の中で、淡い色の液体がゆらりと揺れた。
それは、紅玉の未来を変えるための“鍵”だった。
 
 翌月に開かれた園遊会。翡翠を隣の席に据え、髪をなでながら微笑む龍神帝を見た女官たちは口々に囁き合った。
「あのお二人は、本当に仲睦まじいわね。」
「翡翠さまは、もう寵愛を受けたんじゃないかって噂よ。」
「本当!?」
「そんな訳ないでしょ。」
するどい紅玉の言葉で遮られ、その激しい剣幕に女官たちは息を呑んだ。紅玉の目は、翡翠と龍神帝の手元を射抜くように見つめている。嫉妬と焦燥が入り混じったその瞳は、翡翠の小さな幸せさえ許せないと語っていた。
庭園には春の名残を含んだ風が吹き、色とりどりの花々が揺れている。龍神帝はその景色よりも、隣に座る翡翠の表情ばかりを気にしていた。翡翠が少しでも不安げに眉を寄せれば、そっと肩に触れ、安心させるように微笑む。
「翡翠、緊張しているのかい?」
「い、いえ…ただ、皆さまの視線が気になりまして…。」
龍神帝はくすりと笑い、翡翠の髪を指先で整えた。その仕草は、まるで幼い頃に飴玉を差し出したあの日の続きのようで、翡翠の胸に温かいものが広がる。
ずらりと並べられた食事を前に、翡翠はおずおずと言う。
「龍神帝さま、あの…はしたないのは承知の上ですが、料理に手をつけても宜しいでしょうか。」
「勿論だよ。そなたが食べたいと思ったものを、好きなだけ食べるといい。」
翡翠はそっと箸を伸ばし、鶏肉と夏野菜の炒め物を口に運んだ。香ばしい香りが鼻をくすぐり、柔らかな鶏肉が舌の上でほどける。
「美味し…。」
その瞬間、翡翠の指先から力が抜けた。箸がかすかな音を立てて膝の上に落ちる。
「翡翠?」
龍神帝が呼びかける声が遠くなる。視界がゆらぎ、色彩が薄れていく。翡翠は自分の身体が椅子から滑り落ちる感覚だけをかろうじて捉えた。
女官たちの悲鳴が上がる。
「翡翠さま!?」
「まさか、また…毒?」
龍神帝は翡翠の身体を抱きとめ、震える声で名を呼んだ。
「翡翠、しっかり…!」
しかし翡翠の瞳は閉じられ、呼吸は浅く、意識は闇へと沈んでいく。
その場にいた誰もが、紅玉の顔色が一瞬だけ青ざめたことに気づいた。
 龍神帝の瞳には、怒りと恐怖が同時に宿っていた。

翡翠が倒れたことで、周囲の者たちは一斉に悲鳴を上げた。皿が床に落ちて割れる音さえ、遠くに霞むほどの混乱だった。
しかし、その中心でただ一人、龍神帝だけが揺るがなかった。
ぐったりとした翡翠を抱きかかえ、彼は静かに膝をつく。長い指先を翡翠の口元へ添え、ためらいなくその指を口内へ差し入れると、翡翠の喉が震え、毒を吐き出すように嘔吐した。
「翡翠さま!」
駆け寄ってきた上級位の女官たちが悲鳴混じりに叫ぶ。龍神帝は彼女らを流し目で一瞥した。その瞳は、怒りでも焦りでもなく、ただ事実を見極めようとする冷たい光を宿していた。
「誰かが毒を盛ったのだろう。そなたたちの中に犯人がいる。」
その言葉が落ちた瞬間、空気が変わった。庭園の上空に暗雲が渦を巻き、稲光が走る。雷鳴と共に、巨大な龍が雲間から姿を現したその場にいた者たちは皆、膝を折り、震えながら頭を垂れる。
「龍よ、翡翠の食事に毒を盛ったのは誰だ。」
龍の瞳がゆっくりと女官たちを見渡し、低く響く声が空気を震わせた。
『女官の紅玉です。』
その名が告げられた瞬間、視線が一斉に紅玉へ突き刺さる。
「紅玉は昔から翡翠さまを虐げてたものね。」
「ええ。先程だって、すごく怖い顔をしていたわ。」
女官たちは口々に囁き合い、紅玉の肩は小刻みに震えた。
しかし、彼女は必死に強がり、声を張り上げる。
「何を根拠に! 毒見もしたのに、有り得ないわ!」
顔は真っ青で、唇は震えている。それでも否定しようとする姿は、もはや哀れにも映った。
龍神帝はそんな紅玉を冷ややかに見つめた。その視線は、真実を見抜いた者だけが持つ静かな断罪だった。
「ただちに捉えろ。」
その一言で、場の空気は完全に決壊した。女官たちが紅玉に向かって動き出し、紅玉は後ずさりながら叫ぶ。
「待って! 私は――」
だが、龍神帝の命令は絶対だった。
紅玉の声は誰にも届かず、彼女は腕を掴まれ、引き立てられていく。
翡翠の頬に触れた龍神帝の指先は、わずかに震えていた。
冷静に見えて、その内側では翡翠を失う恐怖が渦巻いている――そのことを知る者は、まだ誰もいなかった。

意識を取り戻した時、翡翠は龍神帝の腕の中にいた。
「ここは…。」
「私の部屋だ。そなたに毒を盛った女官がいてね。紅玉と言ったかな。極刑に処することにしたから安心して。」
にっこりと微笑む龍神帝の顔が、翡翠にはまるで別人のように見えた。
 その笑みは優しさではなく、どこか張りついた仮面のようで――胸の奥がざわりと震えた。
「…っ。」
 翡翠は怖くなり、反射的に龍神帝の腕から身をひるがえした。
 床に足をついた瞬間、膝が震えたが、それでも距離を取ろうと後ずさる。
「どうしたんだい。」
 龍神帝は驚きを隠せない様子で、翡翠の名を呼ぼうとして、言葉を飲み込んだ。
 その瞳には困惑と、理解できないという焦りが滲んでいた。
「…あなたではありません。」
 翡翠の声は震えていたが、確かな拒絶があった。
「え。」
 龍神帝は一歩近づこうとしたが、翡翠が小さく首を振ると、その足が止まった。
「私が好きだった龍神帝さまは、慈悲深く、優しい方でした。」
 翡翠は胸元をぎゅっと握りしめる。
 十年前、飴玉を差し出してくれた少年の面影が、胸の奥で淡く揺れた。
「でも…私の存在が龍神帝さまを変えてしまったのだとしたら…。」
 翡翠の頬に一粒の涙が伝い、顎の先で光った。
 その涙は、恐れでも悲しみでもなく――自分が愛した人を壊してしまったかもしれないという、深い罪悪感だった。
「もう私は、あなたと一緒にはいられません。」
龍神帝は息を呑んだ。
 その表情は、雷に打たれたように固まり、翡翠の言葉を理解しようと必死に目を瞬かせていた。
 彼の指先がわずかに震え、伸ばしかけた手は空中で止まる。
「翡翠…私は…。」
 言葉が続かない。
 龍神帝は初めて、自分の選んだ“正しさ”が、翡翠を傷つけていたことに気づいたのかもしれない。翡翠は静かに頭を下げた。
 その姿は、まるで別れを告げる花のように儚く、しかし揺るぎない決意を宿していた。

 その日の夜の天候は悪かった。どす黒い雲が夜空を覆い、稲光は絶えなかった。永巷へ続くぬかるんだ道は、雨に打たれて泥が深くえぐれ、足を踏み出すたびに重く沈む。翡翠は裾を濡らし、泥だらけになりながらも歩みを止めなかった。
胸の奥で、龍神帝の言葉が何度も反芻される。
――紅玉と言ったかな。極刑に処することにしたから安心して。
その声は優しかった。けれど、翡翠の心には別の痛みがあった。
紅玉には昔からひどい仕打ちを受けてきた。でも、このまま紅玉が罪人として永巷に閉じ込められれば、彼女の人生はそこで終わってしまう。翡翠はそれをどうしても受け入れられなかった。
永巷の門が見えた頃、雷鳴が空を裂いた。翡翠は肩を震わせながら、門番に事情を告げ、薄暗い牢の奥へと進んでいく。湿った土の匂いと、冷たい石壁の気配が肌にまとわりつく。
紅玉は、ぼろ布のような衣をまとい、壁にもたれかかっていた。翡翠の姿を認めると、渋い顔をして立ち上がる。
「御妃さまが何の用。情けなら無用よ。」
その声は、かつて後宮で見せていた傲慢さとは違い、どこか擦り切れていた。翡翠は息を整え、泥に汚れた手をぎゅっと握りしめる。
「ここから出て、逃げるのよ。」
紅玉は目を見開き、乾いた笑いを漏らした。
「何を言ってるの!? 私はあなたを殺そうとしたのよ。あなたに同情されるくらいなら死んだ方がマシだわ。」
翡翠は首を横に振る。
その瞳は、雨に濡れた夜の闇よりも深く、揺るぎなかった。
「生きてさえいれば、きっと良いことがあるわ。あなたがどれほど苦しかったか、私は知らない。でも…あなたの人生が、この牢で終わるなんて、そんなの耐えられない。」
紅玉は唇を噛み、視線を逸らした。その肩がわずかに震えているのを、翡翠は見逃さなかった。
「とにかく、ここを出て。今なら見張りも少ないわ。生き延びるのよ。」
紅玉はしばらく黙っていた。雷が再び空を裂き、牢の中に一瞬だけ白い光が差し込む。
その光の中で、紅玉の瞳が揺れた。
「…どうして、そこまで…。」
翡翠はそっと紅玉の手を取った。泥で汚れた自分の手と、冷え切った紅玉の手が触れ合う。
「あなたが私を憎んでもいい。でも、私はあなたを見捨てない。」
紅玉は息を呑み、震える声で言った。
「…馬鹿ね、翡翠。ほんとに…馬鹿みたいに優しい…。」
翡翠は微笑んだ。その微笑みは、嵐の夜の中で灯る小さな光のようだった。
「行きましょう。夜明けまで、まだ時間はあるわ。」

 雨脚はさらに強くなり、龍神帝の肩を濡らしながら流れ落ちていった。帝はただ静かに立ち尽くし、胸の奥で渦巻く痛みに耐えていた。
「翡翠を守りたかっただけなのに…。」
その呟きは雨に溶け、誰にも届かないほど弱々しかった。
龍は濡れた石畳の上に影を落としながら、ゆっくりと首を垂れた。
『その問には答えられません。』
その声音は、どこか哀しみを含んでいた。龍神帝の心を理解しながらも、答えを与えることはできないという葛藤が滲んでいた。
その時だった。
後宮の回廊の向こうから、足音が水を跳ねさせながら近づいてくる。一人の女官が息を切らし、濡れた衣を抱えながら走り寄ってきた。
「龍神帝さま…! 大変です!」
声は震え、雨の冷たさよりも深い恐怖が滲んでいた。
龍神帝はゆっくりと顔を上げる。
「何があった。」
女官は唇を噛みしめ、言葉を絞り出した。
「翡翠さまが…拘束されました。永巷内の罪人を逃がそうとした為です。」
雷鳴が空を裂いた。
龍神帝の瞳が大きく揺れ、雨粒よりも鋭い光が宿る。
「翡翠が…罪人を?」
その声は低く、信じられないというより、理解が追いつかない苦悩に満ちていた。女官は震える肩を押さえながら続けた。
「紅玉を…助けようとしたようでございます。永巷の門番が翡翠さまを取り押さえ、今は拘束されております。」
龍神帝の胸に、冷たい痛みが突き刺さった。
翡翠が紅玉を助けようとした理由――それは、帝が下した極刑の命が、翡翠の心を深く傷つけたからだと、理解してしまったから。
雨は容赦なく降り続ける。龍神帝は拳を握りしめ、爪が掌に食い込むほど強く力を込めた。
「…翡翠。」
その名を呼ぶ声は、雨よりも切なく、震えていた。
龍は静かに帝を見つめる。
『帝よ。心が乱れております。』
「乱れるに決まっているだろう…!」
龍神帝は初めて声を荒げた。
「私は翡翠を守りたいだけだった。なのに――どうして、どうしてこんなことに…。」
雨の中、龍神帝の肩がわずかに震えた。その姿は、誰よりも強く、誰よりも孤独な龍神帝の、初めて見せる弱さだった。

 龍神帝の言葉が空気を震わせた瞬間、翡翠はさらに深く俯いた。肩がわずかに震えている。彼女の沈黙は拒絶ではなく、痛みそのものだった。龍神帝はその震えを見て、胸の奥がきゅっと締めつけられるような感覚に襲われた。問いかけたはずなのに、答えを聞く勇気が自分にはなかった。龍の「その問には答えられない」という言葉が、まるで呪いのように脳裏で反響する。
「顔を上げて。」
声は優しくあろうとしていたが、どこか不器用で、翡翠の心には届かなかった。
「龍神帝さまに会わせる顔は、もうありません。」
翡翠の声はかすれていた。泣いているわけではない。泣くことすら許されない場所に、彼女は自分を追い込んでいた。
「…私の何がそんなに気に入らないんだい?」
龍神帝は自嘲するように笑った。気に入らないはずがない。翡翠が自分を嫌っているなど、到底信じられなかった。だが、彼女の言葉は確かにそう告げている。
沈黙が落ちる。
龍神帝はその沈黙に耐えられなかった。翡翠が何も言わないことが、何よりも辛かった。
席を立ち、龍神帝は背を向けた。その背中は、帝としての威厳を保とうとしていたが、翡翠にはその肩がわずかに落ちて見えた。
「…三刻後、妃を幽閉しろ。」
その言葉は、冷徹な命令として後宮に響き渡った。だが翡翠には、龍神帝が自分自身を罰しているように聞こえた。
龍神帝は歩き出す。
翡翠はその背中を見送ることもできず、ただ静かに目を閉じた。
――どうしてこんなことになってしまったのだろう。
翡翠の胸に広がるのは、怒りでも憎しみでもなく、ただ深い悲しみだった。龍神帝の心が自分のために歪んでしまったのだとしたら。自分が彼を変えてしまったのだとしたら。
幽閉という言葉が、翡翠の心に重く沈んでいく。それは罰ではなく、龍神帝の「距離」だった。彼は翡翠を閉じ込めることでしか、自分の感情を守れなかったのだ。
翡翠はそっと胸に手を当てた。龍神帝の優しさも、愚かさも、痛みも、すべて知っている。だからこそ、彼を傷つけたくなかった。
しかし、もう後戻りはできない。
三刻後、翡翠は幽閉の間へと連れて行かれるだろう。
龍神帝の心が揺れ動くその瞬間まで、翡翠はただ静かに座り続けた。
――あの飴玉をくれた少年は、どこへ行ってしまったのだろう。
翡翠の胸に、十年前の甘い記憶がふわりと浮かんだ。
それは、今の彼とはあまりにも遠い場所にある思い出だった。

翡翠はしばらく立ち尽くした。覚悟していた“幽閉”という言葉の冷たさと、目の前に広がる光景の豪奢さが、どうしても結びつかなかったからだ。黄金の調度品は、朝の光を受けて柔らかく輝き、まるで翡翠自身を歓迎するかのように温かな色を放っている。天蓋の刺繍は、近づいてよく見れば龍や花々が細い糸で丁寧に縫い込まれており、職人がどれほどの時間を費やしたのか想像もつかないほど精緻だった。部屋の隅に置かれた陶器は、ただの飾りではなく、触れればひんやりとした重みがあり、確かに本物の唐物だと分かる。西国から輸入された鏡は、翡翠が幼い頃に物語で読んだ“異国の宝”そのもので、鏡面は曇りひとつなく、覗き込めば自分の表情が驚くほど鮮明に映った。
「…これが、幽閉された者の部屋なのですか…?」
思わず漏れた声は震えていた。豪華すぎる。優しすぎる。まるで“閉じ込めるため”ではなく、“守るため”に用意された部屋のようだった。
さらに、日に三度運ばれてくる食事は、翡翠の想像をはるかに超えていた。蒸した鶏肉に香草を添えた料理、季節の果物をふんだんに使った甘味、滋養のある薬膳粥。どれも皇族の宴で出されるような品ばかりで、一人で食べきれる量ではない。
食事を運んでくる女官たちは、翡翠が口をつけるかどうかを心配そうに見守り、少しでも食べれば安堵したように微笑んだ。
その表情は、翡翠が後宮で虐げられていた頃には決して向けられなかったものだ。
「どうして…こんなにも…。」
胸の奥がじんわりと熱くなる。龍神帝が翡翠を閉じ込めた理由は、罰ではなく保護なのではないか――そんな考えが、ふと翡翠の心をよぎった。
しかし同時に、翡翠は自分が“罪人を逃がそうとした者”として扱われている現実も忘れてはいなかった。豪華な部屋も、贅沢な食事も、龍神帝の想いが込められているのだと分かるほど、胸が締め付けられる。
「…龍神帝さま…。」
翡翠は天蓋の下に腰を下ろし、そっと膝を抱えた。豪奢な部屋の静けさが、かえって孤独を際立たせる。けれど、その孤独の中に、確かに“誰かの優しさ”が息づいていた。その優しさが、翡翠の心を揺らし続けていた。

 龍神帝の声は、翡翠の胸の奥にそっと触れるように柔らかかった。
三日ぶりに見るその姿は、帝としての威厳を纏いながらも、どこか翡翠だけに向けられた特別な温度を宿していた。
翡翠は震える指先をぎゅっと握りしめ、伏せたままの視線を動かせずにいた。
豪奢な幽閉の部屋で過ごした三日間――その静けさの中で、龍神帝の言葉や行動を何度も思い返し、胸が締め付けられるような思いを抱えていたからだ。
「紅玉は故郷へ還したよ。」
龍神帝はそっと翡翠の肩に触れ、逃げるように身を縮めた翡翠を優しく抱き寄せた。
「私の妃に毒を盛ったということは、皇族への反逆だ。後宮内に留めておくことはできなかった。お願いだから、顔を上げて。翡翠。」
その声音は、あの日――飴玉を差し出してくれた少年の声と同じだった。
翡翠は胸が熱くなり、ゆっくりと顔を上げる。
龍神帝は懐から黄金色の飴玉を取り出し、掌の上でそっと転がして見せた。
「そなたも還ってきてはくれないか?私の元へ。」
翡翠の視界が滲む。
変わらない。
十年前、泣きじゃくる自分に飴玉を差し出してくれた、あの優しい少年のままだ。
帝という立場を背負いながらも、翡翠の前ではただ一人の青年として、迷いも弱さも隠さずに向き合ってくれる。
「泣き虫だな。」
龍神帝は微笑みながら、翡翠の頬に触れた。指先が涙を拭うたび、翡翠の心の壁が少しずつ溶けていく。
「そなたは変わらず泣き虫だ。だからこそ、守りたくなる。」
その言葉は、翡翠の胸の奥に静かに落ちていった。
守りたい――その一言に、どれほどの想いが込められているのだろう。
翡翠は堪えきれず、龍神帝の胸に顔を埋めた。
龍神帝は驚いたように一瞬だけ息を呑んだが、すぐに翡翠の背を包み込むように抱きしめた。
その腕は温かく、翡翠がずっと求めていた「居場所」そのものだった。
「…還りたいです。」
翡翠はかすれた声で呟いた。
「龍神帝さまの元へ…還りたい。」
龍神帝の腕に力がこもる。翡翠を失いかけた恐怖と、再び抱きしめられた安堵が混ざったような、深い息を吐いた。
「翡翠。そなたがそう言ってくれるなら、私はもう何も望まない。」
黄金色の飴玉が、二人の間でそっと光を放っていた。

後宮内の庭園を散策した。いつかと同じように二人手を繋いで。翡翠の指先は、龍神帝の掌に触れるたび、幼い頃に飴玉を差し出してくれたあの温もりを思い出していた。
ある時は、翡翠が刺繍の腕前を龍神帝に披露した。
白絹の上に、素早く鳥と花の紋様を描き出す翡翠の技に、龍神帝は惚れ惚れとしていた。
「翡翠、そなたの指はまるで春風だ。触れたものすべてを柔らかくする。」
褒められた翡翠は頬を染め、針を持つ手がわずかに震えた。
またある時は、龍神帝が弓術の腕前を翡翠に披露した。的を正確に射抜く、武人にも負けぬ技に、翡翠は驚いた。
「龍神帝さまは、弓までお得意なのですね…。」
「そなたに見せるために、少し練習したんだ。」
そう言って微笑む龍神帝の横顔は、帝というより一人の青年のようで、翡翠の胸は静かに熱を帯びた。
二人で囲碁の対局に臨むこともあった。どちらも引けを取らない力量で、盤上の白黒は美しい模様を描き、勝敗よりも「共に過ごす時間」が何よりの宝となっていた。
龍神帝は時折、翡翠の顔を覗き込み、考え込む表情を楽しそうに眺めた。
「翡翠は、石を置く時の癖があるね。」
「えっ、ありますか…?」
「あるよ。可愛い癖だ。」
翡翠は恥ずかしさのあまり、次の一手を置くのに時間がかかった。

「お似合いのお二人。」
と女官たちの間では専らの噂になった。庭園の木陰から二人を見守る女官たちは、ひそひそと声を潜めながらも、頬を緩めずにはいられなかった。
「龍神帝さまは翡翠さまの前だと本当に柔らかい表情をされるのね。」
「本当に。あんなに楽しそうに笑う方だったかしら…。」
「まるで、春の陽だまりみたい。」
そんな囁きが、後宮のあちこちで花のように咲いていた。
そして時々、龍神帝は懐から黄金色の飴玉を取り出して、翡翠に差し出す。
その飴玉は、幼い日の記憶を閉じ込めた宝石のように輝いていた。
「甘い。」
と翡翠は微笑むのだった。
龍神帝はその言葉を聞くたび、まるで自分が救われたかのように目を細めた。
「そなたがそう言ってくれるだけで、私は十分だ。」
庭園を渡る風は、二人の袖をそっと揺らし、まるで龍の祝福が、いつまでも二人を包んでいるかのようだった。