私の恋人は少食だ。
付き合う前も付き合ってからも、同じ家で暮らすようになってからも、一緒に食事をしたことがほとんどない。私が朝食に目玉焼きとベーコンを乗せたトーストを食べている時、彼女はインスタントのコーヒーを静かに啜っていた。デートでも喫茶店でケーキを頼むのは私だけ、夕食を兼ねて居酒屋に入ればつまみも食べずに酒だけひたすらに飲んでいる。自宅で夕飯を食べるのは私だけ。彼女は「食欲がなくて」と言うか、「外で済ませてきた」と嘘か本当かわからないことを言い自室へ入ってしまう。
とはいえ、彼女が何かを食べるところを全く見たことがない、わけではない。
家で買ってきたケーキを食べていた時、彼女がこちらを見ていたので「食べる?」と半ば冗談で聞いてみると、彼女は「うん」と頷き、口を大きく開けた。思いがけない返事に驚き、しばらく動けないでいたが、食べかけのケーキを一口フォークに乗せ、彼女の口へと運んだ。改めて見る彼女の口内は、やけに赤かった。ねっとりと湿った、柔らかそうな舌の上にフォークを運ぶと、てらてら光るグロスの塗られた唇がぬっと閉じ、フォークの柄を優しく包む。彼女の舌がケーキを掬い取る。私はそれを確認してから、フォークをすっと引き抜いた。もごもごと頬が動く。咀嚼している。彼女はケーキを何度も、ゆっくり咀嚼する。こくん、と本当に音など鳴るわけないのに、喉の動きを見ているとそんなオノマトペが耳に聞こえるような気がした。彼女はとびきりの愛らしい笑みを浮かべて「ありがと」とだけ囁き、私をリビングに残し自室へと消えていった。
ハンバーガーチェーンでも、こんなことがあった。たわいもない話をしながら、私がポテトを食べていて、彼女はジュースだけ飲んでいた。ふと、やけに長いポテトを見つけたので、「見て見て、すっごい長いよ」と彼女に見せると、彼女は「そのポテト、半分ちょうだい」と言ってきたのだ。
「半分?」
「うん。ミノリちゃんが半分食べて。残った半分ちょうだい」
彼女はアーモンド形の瞳を細めて、楽しそうに私を見つめていた。特に断る理由もないので、「いいよ」と言い、ポテトを半分にちぎろうとした。すると彼女は「そうじゃなくて、半分食べて」と強い口調で制止したのだ。
「ミノリちゃんが半分先に食べて」
彼女のまなざしはあまりに真剣で、彼女に従うしか術はなかった。私が半分齧ったポテトを渡すと、彼女は嬉しそうにポテトを咀嚼した。「美味しいね」という彼女の唇は、ポテトの油なんてほとんどついていないはずなのに、やけにしっとり濡れていたのを覚えている。
しかし、そんなことは年に二、三度あるかないかで、彼女が何かを食べるところを見ることはめったにない。しっかり「食事」と言える量を食べているのを見たことは、一度もない。
そんな彼女だが、特に痩せすぎているというわけではない。どちらかと言えば、胸や太腿などにはしっかり肉が付いているタイプだ。健康診断の結果を見せてもらったこともあるが、大きな問題もなかった。
あの食生活で健康に問題がないわけがない。私が見ていないところで、何かしら食事をしているのだろう。たとえば、とてつもない偏食だとか、箸の使い方がびっくりするほど下手だとか、そういった理由で人と食事をすることを避けているだけなのではないか。そんな風に考えていた。
私たちは、同棲しているといっても生活だけを見れば、ほとんどルームシェアのようなものだ。2LDKのマンションの、リビングダイニングを共用スペースとして、2部屋をそれぞれの寝室兼自室にしている。お互いの部屋は不可侵であり、部屋の中で何をしているのか、何があるのか、基本的にはわからない。部屋に入るときに、ちらりと中が見える程度だが、別にわざわざ覗くものでもない。プライバシーを大切にすることは、関係性を長続きさせるのに大事なことだ、と同棲を始めるときに話し合って決めたのだ。
ある朝、突然彼女が一抱えはある透明な箱を持って部屋から出てきた。私は食後にコーヒーでも淹れようとキッチンに立っていたところで、そんな謎の大きな物体を抱えた彼女に、思わずぎょっとした。
「え、あ。おはよう。それ、何?」
「ん、おはよう。ちょっと動物病院に行ってくる」
彼女は抱えていた透明な箱を、私に中身が見えるように少し角度をつける。言われてみれば、その箱はいわゆるハムスターハウスで、中では黄金色の毛並みのハムスターがちまちまと動き回っていた。
「ハムスターなんて飼ってたんだ?」
と驚く私に、彼女はきょとんと「言ってなかったっけ?」と逆に目を丸くしていた。
自室でハムスターを飼っているなんて、聞いたことない。自室で何をしようと、彼女の自由ではあるのだが、ペットを飼っているのならば教えてくれてもいいのではないだろうか。彼女が忙しいときの世話なんかも手伝えるし……。なにをどう言えばいいのか、頭の中でまとまらないうちに「じゃあ、タクシー呼んでるから、行ってくるね」と玄関から出て行ってしまった。
閉じられた玄関の扉をしばらく見つめ、それから彼女の自室の扉へと視線を移動させた。鍵もかかっていない、シンプルで清潔な薄い色の木目の引戸。今まで気にならなかったその向こうが、やけに気になってしまった。
お昼前に彼女は帰ってきた。
「おかえり。ハムスター大丈夫だった?」
玄関でハウスを床に置き、靴を脱ぐ彼女に声をかける。ハウスの中のハムスターは、特にぐったりしている様子もなくちまちまと動き回っている。
「うーん、まあ、この子もいい年だしね。いったんは大丈夫」
そう返す彼女は飄々としていて、大したことはなかったんだろうと勝手に納得した。
「疲れたでしょ、コーヒーか紅茶飲む?」
「うん、じゃあコーヒー」
彼女は透明な箱を抱え、自分の部屋に戻ろうとした。
「せっかくだから、私にもハムスターゆっくり見せてよ」
「え? あー、うん。いいけど」
少し困惑しながらも、彼女はダイニングテーブルにハムスターハウスを置いた。普段と違う環境も気にならない性格なのか、ハムスターはハウスの壁に頬をぺったりとつけて眠そうにしている。
二人分のコーヒーを淹れテーブルにつくと、彼女は何も言わずに飲み始める。ハムスターも疲れたのか、眠りだしてしまった。
「……この子、名前なんていうの?」
「え? うーん。恥ずかしいから、内緒」
そう答える彼女の瞳は、恥ずかしがっているというよりも、拒絶の色を浮かべていた。
「なんで内緒なのさ」
「なんででも」
「教えてよ」
「やーだ」
その時、どうしてこんなことを聞こうと思ったのか自分でもわからないのだけれど、口から勝手に言葉が出ていた。
「もしかして、他にもペット飼ってたりする?」
私の問いに、彼女はすぐには返事をしなかった。飲んでいるコーヒーを喉も鳴らさず静かに嚥下すると、カタリと小さな音を立ててカップをテーブルに置いた。
「どうして、そう思うの?」
彼女の声は優しくて、甘くて、それなのに私は、責められているように感じた。
「……なんとなく、だよ」
じっと私を見つめる彼女の瞳。
彼女は、食事もしないが、性的なこともしない。最初に付き合う時からその話はしていたし、私も納得している。付き合ってからも、一緒に暮らし始めてからも、彼女とそうした行為をしたことはない。それなのに、その時の彼女の瞳は、まるで行為中のように潤んでいたように思う。
そんな目で見つめられて、私は魔法にでもかかったかのように、動けなくなってしまった。
「実はそうなの。色々いるんだ。そのうち見せてあげるね。今は部屋散らかってるからさ」
彼女の声で魔法は溶けた。ハムスターも目が覚めたのか、チップの中からのそりと起き出し、ハウスの中をちまちまと歩き出した。
「……うん、そのうちね」
それから一週間経っても、彼女が自室の中を見せてくれることはなかった。催促するほどのことでもないと思い、私は何も言わずにいた。
そのまま忘れてしまえればよかった。
ある晩のこと、変な時間に寝てしまったせいか夜中にふと目が覚めてしまった。手元の時計を確認してみると、時間は三時。もう一度寝ようにもなんだか目が冴えてしまって、何をするでもなくスマホを弄っていた。
その時、扉の向こうーーリビングのほうから物音がした。
カチャカチャという、なにか硬いものがぶつかっているような、小さな音。例えば、食器とか。
もしかして、彼女が食事をしているのだろうか。
そう思うと、妙にそわそわした。
やはり私の見ていないところできちんと食事をしていたんだという安堵と、彼女が食事をするところを見てみたいという欲求が同時に沸き上がった。わざわざこんな時間に食事をしているのだ、私に見られたくないのだろう。でも、どうしても、彼女の秘密が知りたかった。
私は物音を立てないようにこっそりとベッドから起き上がり、自室の扉をほんの少しだけ、開けた。
リビングは暗かった。電気はついておらず、カーテンも閉まったまま。彼女はどこだろう。細い扉の隙間から見える範囲に人影はなかった。
キッチンにいるのだろうか。扉をもう少し開けても、角度の問題でキッチンの方は見えない。
このまま、何もなかったことにして寝てしまうか。それとも……。
私は、静かに扉を開けて自室を出た。
暗闇に目が慣れたのか、電気をつけていないのに室内の様子がやけにくっきりとわかった。彼女は、キッチンのIHコンロの前に立っていた。フライパンで、何か料理をしているようだ。
「ミノリちゃん、どうしたの?」
彼女は私に気づくが、フライパンを持つ手を止めないままだ。菜箸でときどき中身を搔きまわしている。
「目が覚めちゃって、のどが渇いたから水でも飲もうかなって。ユカリちゃんこそ、こんな時間に何してるの?」
私は、あくまでもさりげなく、キッチンの方に近づいていく。のどが渇いているのは本当だ。食器棚からグラスを取り出し、シンクへ向かう。ちらりと、コンロのほうを見る。目が慣れてきたとはいえ、暗いなかではフライパンの中身はよくわからなかった。ただ、ごま油か何かで炒め物をしている香ばしい匂いがほのかに漂ってくる。
「いい匂い。なに作ってるの?」
グラスに水を注ぎながら問いかけるも、彼女は返事をしない。ただ、拒絶している感じでもない。――試されている、そんな気がした。
私は彼女の後ろに立ち、フライパンの中を覗き込んだ。
小さな黒い塊が、いくつも炒められていた。なんだろう。黒い、親指くらいのサイズの――……虫?
「なにこれ……っ!」
フライパンの中では、大量の虫が炒められていた。
彼女はケロッとした顔で、「コオロギだよ」と微笑んだ。
言われてみれば、暗くて分かりづらいがフライパンの中で炒められている虫は確かにコオロギに見えた。コオロギと言えば、一時期昆虫食の代名詞として世間的に話題にもなっていた。一瞬ぎょっとしてしまったが、冷静になれば昆虫食の界隈ではポピュラーな食材なのかもしれない。
「もしかして……ユカリちゃんって、いつもその、昆虫とか食べてるの?」
ちょうどその時、彼女はIHコンロの加熱を停止した。IHコンロの無機質な「加熱を停止しました」という声がリビングに空々しく響く。
「いつもってわけじゃないけど……」
用意されていた箸を手に取り、彼女はフライパンの中からじかにコオロギを一匹掴むと、口に放り込む。カリ、という小気味のいい音が響く。
「手軽だからね」
コオロギを咀嚼する彼女は、なんだかとても綺麗に見えた。
その日から、時おり彼女が何かを食べている姿を見かけるようになった。
コオロギだけでなく、ミニトマトや野菜を食べているところも見かけた。そう言えば、昨日は唐揚げのようなものを食べていた。どういう気持ちの変化なのかわからないし、相変わらず食べる量も少ないし、かなりの偏食だが、私は少し安心していた。別に彼女がどんな食生活をしていても、彼女を好きな気持ちに変化はない。
ただ、どうしても、彼女が何かを食べている姿を見ると、どうしようもなく欲情してしまうようになってしまった。これは、私の問題だ。
「そう言えば、あのハムスターはどう? ちゃんと元気にしてる?」
ふと思い出し、リビングでくつろいでいる彼女に問いかけた。
「ああ。あの子ね、死んじゃったの」
彼女は何でもないことのように、テレビから顔をそらさずにそう言った。
「え……」
あの時は元気そうに見えたが、ハムスターはそもそも寿命も短い。病院に連れて行くほど調子が良くなかったのだし、それも仕方ないのだろう。
「そっか、残念だったね」
「大丈夫。そういうものだから」
彼女はこちらを向き、にっこり微笑んだ。どうして、ペットの死の話題で、こんなに優しい笑顔を浮かべられるのだろう。
「いつ亡くなったの? お葬式みたいなの、ペットでもあるよね。そういうのするなら、私も出たいな」
彼女は家にいるときも、綺麗に化粧をしていることが多い。外に出るときしかメイクをしない私とは対照的だ。今日も、やけにリップが赤くて、たっぷりグロスが濡れた唇が、ゆっくり動く。
「――昨日」
「そっか。ショックだよね。お葬式とか……」
「もうしたから、大丈夫」
私の言葉を遮るように、彼女ははっきりとそう言った。いつの間にお葬式なんかしていたんだろう。昨日も今日も、彼女にそんな変わった様子があっただろうか。唐突に、彼女のことが恐ろしくなった。どう言葉を続ければいいのかわからず、彼女を見つめてじっとしていた。
彼女は微笑んだまま、ゆっくり立ち上がる。「そういえば、ミノリちゃん、私の部屋見たいって言ってたよね。片付けも終わったし、見てみる?」
彼女の部屋には、いくつもの透明なプラスチックケースが並んでいた。ハムスターハウスがいくつも並んでおり、その中には一匹から数匹のハムスターが飼われていた。
「可愛いでしょ。本当は爬虫類とかも飼いたいんだけど、一部屋だと温度管理が出来ないから。電気代もかかっちゃうし」
無音の部屋の中で、小さな生き物たちが動くささやかな生活音が響く。
「……こんなにたくさん飼ってたんだね」
「今はちょっと減っちゃってるところ。また増やしたいなって思ってるんだけどね」
ハムスターたちの様子を見る彼女は楽しそうだ。ハムスターばかりに目が行ってしまったが、彼女の部屋には他にもいろいろなものがあった。窓際には雑貨屋で売られているような野菜の栽培キットが並んでいる。壁際には大きな棚もあり、ハムスターたちの餌や小物が並べられている。一番下の段には、プラスチックケースもいくつか置かれている。そのケースの中にも、なにかがいる。じっと目を凝らす……コオロギだ。
これは……どういうことだろう。
あの時、たまたまキッチンで見かけた彼女の姿を思い出す。もしかして、食べるためのコオロギを飼育しているのだろうか。
「どうしたの、ミノリちゃん」
私が動けずにいると、彼女が優しく声をかけてきた。コオロギのことを聞くべきなのか分からず、私は誤魔化すように目についた棚の中に置かれた小さな箱のようなものを指さした。
「あ、あのさ。その箱って何?」
その箱は、白い清潔そうな布で綺麗に包まれた、手のひらサイズの小さなものだった。視線より少し上の位置に、似たような箱がいくつも詰め込まれていた。
「これ?」
彼女は手を伸ばし、その中から一つの箱を取り出す。そして、愛おしそうに箱を撫でる。
「これはね、昨日死んじゃったハムスターだよ」
「え……」
骨壺、のようなものだろうか。亡くなってしまった子も、こうして大切にしているのか。しかし、それにしては箱の数が多すぎないだろうか。いつの間にか彼女はこの部屋で、こんなに多くの生き物を飼い、亡くしているのか。
困惑している私に、彼女は白い箱をそっと渡してきた。私にも、あのハムスターの死を悼んでほしいのだろう。私はそう思い箱を受け取り、そっとその蓋を撫でた。――その時、箱の隅に小さく文字が描かれていることに気付いた。
――Minori
「ミノリちゃん」
ゆっくりと、棚に詰め込まれている白い箱に視線を向ける。よく見れば、その箱のすべてに小さく「Minori」と書かれていた。
「ミノリちゃんたちのこと、愛しているのよ」
ハムスターハウスにも、窓際のミニトマトの鉢にも――コオロギの入ったケースにも、「Minori」と、名前が書かれていた。
***
「彼女は、自分が愛しているものを食べることでしか、食欲を満たすことが出来ないのでした。だから、自分が愛するために手ずから野菜を育て、虫を飼い、ハムスターのような小動物を育てていたのです。心からの愛情を込めて。私と付き合ってからは、きっと私のことを愛してくれていたのでしょう。愛すべき小さな者たちに私の名前を付け、私のように愛情を込めて育て、それらを食べることで食欲を満たしていたのでしょう。だから彼女が何かを食べていた時に、あんなに綺麗な表情をしていたのだと思います。ときどき私の食べかけの物を食べていたのも、きっと私の唾液だとか、私の一部を一緒に食べることで多少なりとも気持ちを満たしていたのでしょう。でも、こんな誤魔化しがいつまで続けられるでしょう。いつかきっと、偽物の代替品では満足できなくなる日が来ます。その時、彼女は本当に食べたいもので、心の底から満腹になるまで、私のことを――」
「もういい、わかった、止めて止めて!」
友人が手紙に書かれた文章を読み上げていくのをユカリは手を振って止めた。止められた友人はソファに座り、飲みかけのウーロン茶に口を付けた。
「……亡くなった人を悪く言いたくはないけどさ、なかなかすごいね」
「そうだね」
ユカリと交際していたミノリが亡くなって、三ヶ月になる。大きな喧嘩もせず一緒に暮らし、それぞれの生活を尊重しながらも順調に交際していたと思っていた。そんな中、唐突にミノリは自殺してしまった。ただの自殺ではない。どういうわけか体の一部――いくつかの指と、太腿の肉―—が切り取られ、今も見つからずにいるのだ。
自殺ではなく、殺人事件なのではないかと疑われもしたが、警察の調査の結果自殺なのは間違いない、と結論付けられていた。その根拠として、遺書の存在も大きかった。遺書の中で、「体の肉を切り取ったのは私です。切り取った部分は自分で処分したので、事件ではありません」と書かれていた。今のところの警察の結論として、遺書の内容にある程度の信ぴょう性があるらしい。
遺書の中には自死を選んだ理由として、将来への不安だとか、仕事の苦痛だとか、それらしいことが並べられていた。しかし、ユカリには信じられなかった。ミノリに死の兆候など、何も感じられなかった。楽しそうに一緒に暮らしていた、そうとしか見えなかった。
ミノリの死から立ち直れないままだったが、友人数人から「ミノリから変な手紙が届いた」と連絡が来たのだ。
「これ、本当にミノリが書いたのかな」
友人から手紙を受け取る。A4のコピー用紙にみっしりと文字が埋められている。原本ではなく、手書きしたものをコピーしたものが送られているらしい。他の友人にも同じものが送られているようだ。
「たぶん。ミノリちゃんの文字だし」
書かれているものは、小説――なのだろうか。それとも手記なのだろうか。ユカリがペットとして飼っているコオロギやハムスターを食べ、そうした行為がエスカレーションした結果、ミノリ本人のことも食べてしまったと書かれている。
「念のため聞くけどさ。これ、フィクションだよね?」
「当たり前じゃない。見てよ、このハニートースト」
誰にも聞かれずゆっくり話せる場所として、ユカリたちはカラオケを選択していた。ユカリの目の前にある名物のハニートーストは、半分ほどがユカリによって食べられている。
「だよね。最初読んだときちょっとゾッとしちゃった」
「それは仕方ないよ。でも、ミノリちゃんはなんでこんなものを書いて、みんなに送ったのかな……」
ユカリは蜂蜜が染み込んだ食パンを口に運びながら、小さくため息をつく。ミノリとは二人で食事もしていたし、いたって普通に生活をしていた。たしかに、寝室は別だったし、性的な行為はなかった。
「もしかしてだけどさ、これってミノリの願望なんじゃないかな」
「どういう意味?」
友人はユカリの方を向き直り、真剣な面持ちで話し出した。
「ふざけてるわけじゃないから、怒らないで聞いてね。ミノリってさ、性欲ないタイプだったじゃん?」
「そうだね」
「だからといって、すべての欲がなかったわけじゃないんじゃないかな」
「……?」
友人はフォークを手に取り、ハニートーストの食パンを切り、欠片に突き立てる。たっぷりソースを絡めて、ユカリの目の前に差し出す。
「被食願望、っていうのかな。ミノリはユカリに食べられたかったんじゃないかな。叶えられるわけない願望だから、ああいう文章を書いて自分を慰めていた」
「……」
目の前に差し出された甘ったるそうな欠片が、なんだか急に気持ち悪いものに見えてきた。
「もしそうだとして、なんで自殺して、そんな手紙をみんなに送ったっていうの……」
友人はソースが零れ落ちる寸前、ハニートーストを自分の口に運ぶ。大きく切りすぎたようで、しばらく返事もできずにもごもご口を動かしている。ようやく飲み込むと、ウーロン茶を一口。
「自分が死んだ意味を、書き換えたかったんだと思うな。私の死は、自殺ではなく、ユカリに食べられたんだって。これは全部私の妄想だけどさ」
「……」
ユカリが返答できずにいると、友人は残ったハニートーストを食べ始めた。
ハニートーストを食べる友人は、何だかとても綺麗に見えた。
付き合う前も付き合ってからも、同じ家で暮らすようになってからも、一緒に食事をしたことがほとんどない。私が朝食に目玉焼きとベーコンを乗せたトーストを食べている時、彼女はインスタントのコーヒーを静かに啜っていた。デートでも喫茶店でケーキを頼むのは私だけ、夕食を兼ねて居酒屋に入ればつまみも食べずに酒だけひたすらに飲んでいる。自宅で夕飯を食べるのは私だけ。彼女は「食欲がなくて」と言うか、「外で済ませてきた」と嘘か本当かわからないことを言い自室へ入ってしまう。
とはいえ、彼女が何かを食べるところを全く見たことがない、わけではない。
家で買ってきたケーキを食べていた時、彼女がこちらを見ていたので「食べる?」と半ば冗談で聞いてみると、彼女は「うん」と頷き、口を大きく開けた。思いがけない返事に驚き、しばらく動けないでいたが、食べかけのケーキを一口フォークに乗せ、彼女の口へと運んだ。改めて見る彼女の口内は、やけに赤かった。ねっとりと湿った、柔らかそうな舌の上にフォークを運ぶと、てらてら光るグロスの塗られた唇がぬっと閉じ、フォークの柄を優しく包む。彼女の舌がケーキを掬い取る。私はそれを確認してから、フォークをすっと引き抜いた。もごもごと頬が動く。咀嚼している。彼女はケーキを何度も、ゆっくり咀嚼する。こくん、と本当に音など鳴るわけないのに、喉の動きを見ているとそんなオノマトペが耳に聞こえるような気がした。彼女はとびきりの愛らしい笑みを浮かべて「ありがと」とだけ囁き、私をリビングに残し自室へと消えていった。
ハンバーガーチェーンでも、こんなことがあった。たわいもない話をしながら、私がポテトを食べていて、彼女はジュースだけ飲んでいた。ふと、やけに長いポテトを見つけたので、「見て見て、すっごい長いよ」と彼女に見せると、彼女は「そのポテト、半分ちょうだい」と言ってきたのだ。
「半分?」
「うん。ミノリちゃんが半分食べて。残った半分ちょうだい」
彼女はアーモンド形の瞳を細めて、楽しそうに私を見つめていた。特に断る理由もないので、「いいよ」と言い、ポテトを半分にちぎろうとした。すると彼女は「そうじゃなくて、半分食べて」と強い口調で制止したのだ。
「ミノリちゃんが半分先に食べて」
彼女のまなざしはあまりに真剣で、彼女に従うしか術はなかった。私が半分齧ったポテトを渡すと、彼女は嬉しそうにポテトを咀嚼した。「美味しいね」という彼女の唇は、ポテトの油なんてほとんどついていないはずなのに、やけにしっとり濡れていたのを覚えている。
しかし、そんなことは年に二、三度あるかないかで、彼女が何かを食べるところを見ることはめったにない。しっかり「食事」と言える量を食べているのを見たことは、一度もない。
そんな彼女だが、特に痩せすぎているというわけではない。どちらかと言えば、胸や太腿などにはしっかり肉が付いているタイプだ。健康診断の結果を見せてもらったこともあるが、大きな問題もなかった。
あの食生活で健康に問題がないわけがない。私が見ていないところで、何かしら食事をしているのだろう。たとえば、とてつもない偏食だとか、箸の使い方がびっくりするほど下手だとか、そういった理由で人と食事をすることを避けているだけなのではないか。そんな風に考えていた。
私たちは、同棲しているといっても生活だけを見れば、ほとんどルームシェアのようなものだ。2LDKのマンションの、リビングダイニングを共用スペースとして、2部屋をそれぞれの寝室兼自室にしている。お互いの部屋は不可侵であり、部屋の中で何をしているのか、何があるのか、基本的にはわからない。部屋に入るときに、ちらりと中が見える程度だが、別にわざわざ覗くものでもない。プライバシーを大切にすることは、関係性を長続きさせるのに大事なことだ、と同棲を始めるときに話し合って決めたのだ。
ある朝、突然彼女が一抱えはある透明な箱を持って部屋から出てきた。私は食後にコーヒーでも淹れようとキッチンに立っていたところで、そんな謎の大きな物体を抱えた彼女に、思わずぎょっとした。
「え、あ。おはよう。それ、何?」
「ん、おはよう。ちょっと動物病院に行ってくる」
彼女は抱えていた透明な箱を、私に中身が見えるように少し角度をつける。言われてみれば、その箱はいわゆるハムスターハウスで、中では黄金色の毛並みのハムスターがちまちまと動き回っていた。
「ハムスターなんて飼ってたんだ?」
と驚く私に、彼女はきょとんと「言ってなかったっけ?」と逆に目を丸くしていた。
自室でハムスターを飼っているなんて、聞いたことない。自室で何をしようと、彼女の自由ではあるのだが、ペットを飼っているのならば教えてくれてもいいのではないだろうか。彼女が忙しいときの世話なんかも手伝えるし……。なにをどう言えばいいのか、頭の中でまとまらないうちに「じゃあ、タクシー呼んでるから、行ってくるね」と玄関から出て行ってしまった。
閉じられた玄関の扉をしばらく見つめ、それから彼女の自室の扉へと視線を移動させた。鍵もかかっていない、シンプルで清潔な薄い色の木目の引戸。今まで気にならなかったその向こうが、やけに気になってしまった。
お昼前に彼女は帰ってきた。
「おかえり。ハムスター大丈夫だった?」
玄関でハウスを床に置き、靴を脱ぐ彼女に声をかける。ハウスの中のハムスターは、特にぐったりしている様子もなくちまちまと動き回っている。
「うーん、まあ、この子もいい年だしね。いったんは大丈夫」
そう返す彼女は飄々としていて、大したことはなかったんだろうと勝手に納得した。
「疲れたでしょ、コーヒーか紅茶飲む?」
「うん、じゃあコーヒー」
彼女は透明な箱を抱え、自分の部屋に戻ろうとした。
「せっかくだから、私にもハムスターゆっくり見せてよ」
「え? あー、うん。いいけど」
少し困惑しながらも、彼女はダイニングテーブルにハムスターハウスを置いた。普段と違う環境も気にならない性格なのか、ハムスターはハウスの壁に頬をぺったりとつけて眠そうにしている。
二人分のコーヒーを淹れテーブルにつくと、彼女は何も言わずに飲み始める。ハムスターも疲れたのか、眠りだしてしまった。
「……この子、名前なんていうの?」
「え? うーん。恥ずかしいから、内緒」
そう答える彼女の瞳は、恥ずかしがっているというよりも、拒絶の色を浮かべていた。
「なんで内緒なのさ」
「なんででも」
「教えてよ」
「やーだ」
その時、どうしてこんなことを聞こうと思ったのか自分でもわからないのだけれど、口から勝手に言葉が出ていた。
「もしかして、他にもペット飼ってたりする?」
私の問いに、彼女はすぐには返事をしなかった。飲んでいるコーヒーを喉も鳴らさず静かに嚥下すると、カタリと小さな音を立ててカップをテーブルに置いた。
「どうして、そう思うの?」
彼女の声は優しくて、甘くて、それなのに私は、責められているように感じた。
「……なんとなく、だよ」
じっと私を見つめる彼女の瞳。
彼女は、食事もしないが、性的なこともしない。最初に付き合う時からその話はしていたし、私も納得している。付き合ってからも、一緒に暮らし始めてからも、彼女とそうした行為をしたことはない。それなのに、その時の彼女の瞳は、まるで行為中のように潤んでいたように思う。
そんな目で見つめられて、私は魔法にでもかかったかのように、動けなくなってしまった。
「実はそうなの。色々いるんだ。そのうち見せてあげるね。今は部屋散らかってるからさ」
彼女の声で魔法は溶けた。ハムスターも目が覚めたのか、チップの中からのそりと起き出し、ハウスの中をちまちまと歩き出した。
「……うん、そのうちね」
それから一週間経っても、彼女が自室の中を見せてくれることはなかった。催促するほどのことでもないと思い、私は何も言わずにいた。
そのまま忘れてしまえればよかった。
ある晩のこと、変な時間に寝てしまったせいか夜中にふと目が覚めてしまった。手元の時計を確認してみると、時間は三時。もう一度寝ようにもなんだか目が冴えてしまって、何をするでもなくスマホを弄っていた。
その時、扉の向こうーーリビングのほうから物音がした。
カチャカチャという、なにか硬いものがぶつかっているような、小さな音。例えば、食器とか。
もしかして、彼女が食事をしているのだろうか。
そう思うと、妙にそわそわした。
やはり私の見ていないところできちんと食事をしていたんだという安堵と、彼女が食事をするところを見てみたいという欲求が同時に沸き上がった。わざわざこんな時間に食事をしているのだ、私に見られたくないのだろう。でも、どうしても、彼女の秘密が知りたかった。
私は物音を立てないようにこっそりとベッドから起き上がり、自室の扉をほんの少しだけ、開けた。
リビングは暗かった。電気はついておらず、カーテンも閉まったまま。彼女はどこだろう。細い扉の隙間から見える範囲に人影はなかった。
キッチンにいるのだろうか。扉をもう少し開けても、角度の問題でキッチンの方は見えない。
このまま、何もなかったことにして寝てしまうか。それとも……。
私は、静かに扉を開けて自室を出た。
暗闇に目が慣れたのか、電気をつけていないのに室内の様子がやけにくっきりとわかった。彼女は、キッチンのIHコンロの前に立っていた。フライパンで、何か料理をしているようだ。
「ミノリちゃん、どうしたの?」
彼女は私に気づくが、フライパンを持つ手を止めないままだ。菜箸でときどき中身を搔きまわしている。
「目が覚めちゃって、のどが渇いたから水でも飲もうかなって。ユカリちゃんこそ、こんな時間に何してるの?」
私は、あくまでもさりげなく、キッチンの方に近づいていく。のどが渇いているのは本当だ。食器棚からグラスを取り出し、シンクへ向かう。ちらりと、コンロのほうを見る。目が慣れてきたとはいえ、暗いなかではフライパンの中身はよくわからなかった。ただ、ごま油か何かで炒め物をしている香ばしい匂いがほのかに漂ってくる。
「いい匂い。なに作ってるの?」
グラスに水を注ぎながら問いかけるも、彼女は返事をしない。ただ、拒絶している感じでもない。――試されている、そんな気がした。
私は彼女の後ろに立ち、フライパンの中を覗き込んだ。
小さな黒い塊が、いくつも炒められていた。なんだろう。黒い、親指くらいのサイズの――……虫?
「なにこれ……っ!」
フライパンの中では、大量の虫が炒められていた。
彼女はケロッとした顔で、「コオロギだよ」と微笑んだ。
言われてみれば、暗くて分かりづらいがフライパンの中で炒められている虫は確かにコオロギに見えた。コオロギと言えば、一時期昆虫食の代名詞として世間的に話題にもなっていた。一瞬ぎょっとしてしまったが、冷静になれば昆虫食の界隈ではポピュラーな食材なのかもしれない。
「もしかして……ユカリちゃんって、いつもその、昆虫とか食べてるの?」
ちょうどその時、彼女はIHコンロの加熱を停止した。IHコンロの無機質な「加熱を停止しました」という声がリビングに空々しく響く。
「いつもってわけじゃないけど……」
用意されていた箸を手に取り、彼女はフライパンの中からじかにコオロギを一匹掴むと、口に放り込む。カリ、という小気味のいい音が響く。
「手軽だからね」
コオロギを咀嚼する彼女は、なんだかとても綺麗に見えた。
その日から、時おり彼女が何かを食べている姿を見かけるようになった。
コオロギだけでなく、ミニトマトや野菜を食べているところも見かけた。そう言えば、昨日は唐揚げのようなものを食べていた。どういう気持ちの変化なのかわからないし、相変わらず食べる量も少ないし、かなりの偏食だが、私は少し安心していた。別に彼女がどんな食生活をしていても、彼女を好きな気持ちに変化はない。
ただ、どうしても、彼女が何かを食べている姿を見ると、どうしようもなく欲情してしまうようになってしまった。これは、私の問題だ。
「そう言えば、あのハムスターはどう? ちゃんと元気にしてる?」
ふと思い出し、リビングでくつろいでいる彼女に問いかけた。
「ああ。あの子ね、死んじゃったの」
彼女は何でもないことのように、テレビから顔をそらさずにそう言った。
「え……」
あの時は元気そうに見えたが、ハムスターはそもそも寿命も短い。病院に連れて行くほど調子が良くなかったのだし、それも仕方ないのだろう。
「そっか、残念だったね」
「大丈夫。そういうものだから」
彼女はこちらを向き、にっこり微笑んだ。どうして、ペットの死の話題で、こんなに優しい笑顔を浮かべられるのだろう。
「いつ亡くなったの? お葬式みたいなの、ペットでもあるよね。そういうのするなら、私も出たいな」
彼女は家にいるときも、綺麗に化粧をしていることが多い。外に出るときしかメイクをしない私とは対照的だ。今日も、やけにリップが赤くて、たっぷりグロスが濡れた唇が、ゆっくり動く。
「――昨日」
「そっか。ショックだよね。お葬式とか……」
「もうしたから、大丈夫」
私の言葉を遮るように、彼女ははっきりとそう言った。いつの間にお葬式なんかしていたんだろう。昨日も今日も、彼女にそんな変わった様子があっただろうか。唐突に、彼女のことが恐ろしくなった。どう言葉を続ければいいのかわからず、彼女を見つめてじっとしていた。
彼女は微笑んだまま、ゆっくり立ち上がる。「そういえば、ミノリちゃん、私の部屋見たいって言ってたよね。片付けも終わったし、見てみる?」
彼女の部屋には、いくつもの透明なプラスチックケースが並んでいた。ハムスターハウスがいくつも並んでおり、その中には一匹から数匹のハムスターが飼われていた。
「可愛いでしょ。本当は爬虫類とかも飼いたいんだけど、一部屋だと温度管理が出来ないから。電気代もかかっちゃうし」
無音の部屋の中で、小さな生き物たちが動くささやかな生活音が響く。
「……こんなにたくさん飼ってたんだね」
「今はちょっと減っちゃってるところ。また増やしたいなって思ってるんだけどね」
ハムスターたちの様子を見る彼女は楽しそうだ。ハムスターばかりに目が行ってしまったが、彼女の部屋には他にもいろいろなものがあった。窓際には雑貨屋で売られているような野菜の栽培キットが並んでいる。壁際には大きな棚もあり、ハムスターたちの餌や小物が並べられている。一番下の段には、プラスチックケースもいくつか置かれている。そのケースの中にも、なにかがいる。じっと目を凝らす……コオロギだ。
これは……どういうことだろう。
あの時、たまたまキッチンで見かけた彼女の姿を思い出す。もしかして、食べるためのコオロギを飼育しているのだろうか。
「どうしたの、ミノリちゃん」
私が動けずにいると、彼女が優しく声をかけてきた。コオロギのことを聞くべきなのか分からず、私は誤魔化すように目についた棚の中に置かれた小さな箱のようなものを指さした。
「あ、あのさ。その箱って何?」
その箱は、白い清潔そうな布で綺麗に包まれた、手のひらサイズの小さなものだった。視線より少し上の位置に、似たような箱がいくつも詰め込まれていた。
「これ?」
彼女は手を伸ばし、その中から一つの箱を取り出す。そして、愛おしそうに箱を撫でる。
「これはね、昨日死んじゃったハムスターだよ」
「え……」
骨壺、のようなものだろうか。亡くなってしまった子も、こうして大切にしているのか。しかし、それにしては箱の数が多すぎないだろうか。いつの間にか彼女はこの部屋で、こんなに多くの生き物を飼い、亡くしているのか。
困惑している私に、彼女は白い箱をそっと渡してきた。私にも、あのハムスターの死を悼んでほしいのだろう。私はそう思い箱を受け取り、そっとその蓋を撫でた。――その時、箱の隅に小さく文字が描かれていることに気付いた。
――Minori
「ミノリちゃん」
ゆっくりと、棚に詰め込まれている白い箱に視線を向ける。よく見れば、その箱のすべてに小さく「Minori」と書かれていた。
「ミノリちゃんたちのこと、愛しているのよ」
ハムスターハウスにも、窓際のミニトマトの鉢にも――コオロギの入ったケースにも、「Minori」と、名前が書かれていた。
***
「彼女は、自分が愛しているものを食べることでしか、食欲を満たすことが出来ないのでした。だから、自分が愛するために手ずから野菜を育て、虫を飼い、ハムスターのような小動物を育てていたのです。心からの愛情を込めて。私と付き合ってからは、きっと私のことを愛してくれていたのでしょう。愛すべき小さな者たちに私の名前を付け、私のように愛情を込めて育て、それらを食べることで食欲を満たしていたのでしょう。だから彼女が何かを食べていた時に、あんなに綺麗な表情をしていたのだと思います。ときどき私の食べかけの物を食べていたのも、きっと私の唾液だとか、私の一部を一緒に食べることで多少なりとも気持ちを満たしていたのでしょう。でも、こんな誤魔化しがいつまで続けられるでしょう。いつかきっと、偽物の代替品では満足できなくなる日が来ます。その時、彼女は本当に食べたいもので、心の底から満腹になるまで、私のことを――」
「もういい、わかった、止めて止めて!」
友人が手紙に書かれた文章を読み上げていくのをユカリは手を振って止めた。止められた友人はソファに座り、飲みかけのウーロン茶に口を付けた。
「……亡くなった人を悪く言いたくはないけどさ、なかなかすごいね」
「そうだね」
ユカリと交際していたミノリが亡くなって、三ヶ月になる。大きな喧嘩もせず一緒に暮らし、それぞれの生活を尊重しながらも順調に交際していたと思っていた。そんな中、唐突にミノリは自殺してしまった。ただの自殺ではない。どういうわけか体の一部――いくつかの指と、太腿の肉―—が切り取られ、今も見つからずにいるのだ。
自殺ではなく、殺人事件なのではないかと疑われもしたが、警察の調査の結果自殺なのは間違いない、と結論付けられていた。その根拠として、遺書の存在も大きかった。遺書の中で、「体の肉を切り取ったのは私です。切り取った部分は自分で処分したので、事件ではありません」と書かれていた。今のところの警察の結論として、遺書の内容にある程度の信ぴょう性があるらしい。
遺書の中には自死を選んだ理由として、将来への不安だとか、仕事の苦痛だとか、それらしいことが並べられていた。しかし、ユカリには信じられなかった。ミノリに死の兆候など、何も感じられなかった。楽しそうに一緒に暮らしていた、そうとしか見えなかった。
ミノリの死から立ち直れないままだったが、友人数人から「ミノリから変な手紙が届いた」と連絡が来たのだ。
「これ、本当にミノリが書いたのかな」
友人から手紙を受け取る。A4のコピー用紙にみっしりと文字が埋められている。原本ではなく、手書きしたものをコピーしたものが送られているらしい。他の友人にも同じものが送られているようだ。
「たぶん。ミノリちゃんの文字だし」
書かれているものは、小説――なのだろうか。それとも手記なのだろうか。ユカリがペットとして飼っているコオロギやハムスターを食べ、そうした行為がエスカレーションした結果、ミノリ本人のことも食べてしまったと書かれている。
「念のため聞くけどさ。これ、フィクションだよね?」
「当たり前じゃない。見てよ、このハニートースト」
誰にも聞かれずゆっくり話せる場所として、ユカリたちはカラオケを選択していた。ユカリの目の前にある名物のハニートーストは、半分ほどがユカリによって食べられている。
「だよね。最初読んだときちょっとゾッとしちゃった」
「それは仕方ないよ。でも、ミノリちゃんはなんでこんなものを書いて、みんなに送ったのかな……」
ユカリは蜂蜜が染み込んだ食パンを口に運びながら、小さくため息をつく。ミノリとは二人で食事もしていたし、いたって普通に生活をしていた。たしかに、寝室は別だったし、性的な行為はなかった。
「もしかしてだけどさ、これってミノリの願望なんじゃないかな」
「どういう意味?」
友人はユカリの方を向き直り、真剣な面持ちで話し出した。
「ふざけてるわけじゃないから、怒らないで聞いてね。ミノリってさ、性欲ないタイプだったじゃん?」
「そうだね」
「だからといって、すべての欲がなかったわけじゃないんじゃないかな」
「……?」
友人はフォークを手に取り、ハニートーストの食パンを切り、欠片に突き立てる。たっぷりソースを絡めて、ユカリの目の前に差し出す。
「被食願望、っていうのかな。ミノリはユカリに食べられたかったんじゃないかな。叶えられるわけない願望だから、ああいう文章を書いて自分を慰めていた」
「……」
目の前に差し出された甘ったるそうな欠片が、なんだか急に気持ち悪いものに見えてきた。
「もしそうだとして、なんで自殺して、そんな手紙をみんなに送ったっていうの……」
友人はソースが零れ落ちる寸前、ハニートーストを自分の口に運ぶ。大きく切りすぎたようで、しばらく返事もできずにもごもご口を動かしている。ようやく飲み込むと、ウーロン茶を一口。
「自分が死んだ意味を、書き換えたかったんだと思うな。私の死は、自殺ではなく、ユカリに食べられたんだって。これは全部私の妄想だけどさ」
「……」
ユカリが返答できずにいると、友人は残ったハニートーストを食べ始めた。
ハニートーストを食べる友人は、何だかとても綺麗に見えた。



