北の御殿内の間を回り、同じ大きさの練香を同じ条件になるように温めながら、香りの立ち方を確かめていく。
時間と根気が要される作業だったが、仁太朗は自分の視界から珠那を外さなかった。
どこに行くにも先に周囲を確認し、警戒を解くことは一度もない。
「間違いないわね。御殿の奥に行くほど、後に残る冷ややかな青臭さが濃くなっていくわ」
「俺には全く香りの違いがわかりませんが」
「だてに調香女官を名乗っていないの」
仁太朗と珠那は揃って渡殿の先を見据えた。
「この先には何があるのでしょうか?」
仁太朗が案内役の女官に尋ねる。
「御殿の裏手になります。今はほとんど使われていない小部屋が幾つかございます」
「ほとんど使われていないということは人の出入りは」
「ほぼ無いかと思います」
不安げに女官の瞳と声が揺れる。
(人の出入りが少ない場所ってことは妖異が隠れ家にするにはちょうどいいってことね)
仁太朗も珠那と同じように考えていたらしい。
「案内はここまでで結構です。あなたは戻って、他の者たちにこの先へ近づかないようお伝えください」
仁太朗が女官へ微笑みかけると、女官は仁太朗へ酔い痴れるように頬を染めて、うっとりと見惚れていた。
穏やかな声音だったものの、従わざるを得ない強さを感じられた。
(私に対する態度と違いすぎる気がする……)
女官が立ち去ると、仁太朗は珠那に向き直った。
「珠那」
「わかってる。この先は危険だって。仁に従うわ」
「思いのほか素直ですね」
「状況を見極めて最善を選択しているだけよ。さっきから私を聞き分けのない子ども扱いしてない?」
「――まさか」
仁太朗は喉の奥で笑う。
「俺より2歳も年上のお美しい女性に、そんな失礼なこといたしません」
「さっきは2つしか違わないって仁が言っていた気がするわ」
「そうでしたっけ」
わざとらしく笑みを零してから、仁太朗は渡殿の奥へと視線を鋭く馳せる。
仁太朗の剣呑な眼差しに珠那の緊張感も一段階上がった。
珠那は盆の上の香炉で練香を焚く。
この香の香りの変質を追うつもりだった。
両手は完全に塞がった状態であり、嗅覚へ神経を集中させるゆえ、珠那は身の安全の全てを仁太朗に委ねなければならない。
渡殿を抜けた御殿の奥は耳に痛いほど静かだった。
建物配置からしても、光が余り取り入れられないのか薄暗い。
幾つかの戸が並んでいた。
「強くなってる……」
珠那は香りの揺らぎを確かめながら一歩一歩進む。
一つ目の戸、二つ目の戸を通り過ぎ、三つ目の古びた戸の前まで来たところで、珠那の眉が歪む。
青臭い匂いが膨らんだように思えた。
もちろん珠那の傍を警戒しながら進む仁太朗には香の変化はわからなかったが。
「ここ……」
珠那が仁太朗に視線を投げると、頷いて返され一歩、戸に近づいた。
「俺が開けますので、少し離れていてもらえませんか」
仁太朗は戸に手をかけ、ゆっくりと引いていく。
珠那も緊張で盆を両手で抱えながらも身構えた。
中は暗い。
古い几帳が無造作に積まれていた。
「仁……」
「――ええ」
珠那と同じことを察しているようで仁太朗が腰の刀の柄に手をかける。
(確実にいる……)
余りにも香が語りかけてくる。
「珠那、もう少し下がってください」
珠那が後ずさった瞬間だった。
部屋の奥で黒い影が揺れた。
あっという間に靄のような形が膨らみ、光のような速さで仁太朗に飛びかかってくる。
珠那が息を呑んだ次の瞬間には、仁太朗が刀を抜き、黒い影は二つに裂けていた。
余りにも速くて、珠那の理解が追いつかない。
仁太朗に斬られた影は床へと落ちて、暗闇へと溶けていく。
「……逃げたの?」
「逃げたというより、あれは実体ではありません。本体から切り離された一部です」
「そう……」
仁太朗は冷静に刀を収める。
珠那は緊張に呼応するように速まった心音がなかなか元に戻らなかった。
「妖異を見たのは初めてだわ」
「怖かったですか?」
「……少しは」
「強がらなくていいですよ」
「強がりじゃなくて、仁がいたから」
仁太朗と珠那の視線が交差する。
「妖異が出たとしても、仁が斬ってくれると思ってたの」
「ずいぶん俺を信用してくれているんですね」
「だって、実際にそうなったじゃない」
「ま、それはそうですけど」
妖異が出ても顔色ひとつ変えず、冷静に対処していた。
刀の振るい方も手練れているのが素人の珠那でも理解できる。
「今の仁、とってもかっこよかったわ」
珠那が思ったことをそのまま口にする。
(また何か、からかってきそう)
そう思ったのに仁太朗は珠那から顔を逸らしてしまった。
「そういうこと、さらっと言ってくるのやめてもらえますか?」
「もしかして照れてるの?」
「照れてはいませんけど」
「さっき私は素直じゃないって仁に言われたもの」
「珠那は根に持つ性格ですか?」
「仁のほうがそうでしょう。昔、私が菓子を多くとっていったこととか」
「余りにも日常的だったもので」
仁太朗と珠那は言葉で応酬しながらも、日が沈み始めたこともあり、その日の調査はここまでとなった。
時間と根気が要される作業だったが、仁太朗は自分の視界から珠那を外さなかった。
どこに行くにも先に周囲を確認し、警戒を解くことは一度もない。
「間違いないわね。御殿の奥に行くほど、後に残る冷ややかな青臭さが濃くなっていくわ」
「俺には全く香りの違いがわかりませんが」
「だてに調香女官を名乗っていないの」
仁太朗と珠那は揃って渡殿の先を見据えた。
「この先には何があるのでしょうか?」
仁太朗が案内役の女官に尋ねる。
「御殿の裏手になります。今はほとんど使われていない小部屋が幾つかございます」
「ほとんど使われていないということは人の出入りは」
「ほぼ無いかと思います」
不安げに女官の瞳と声が揺れる。
(人の出入りが少ない場所ってことは妖異が隠れ家にするにはちょうどいいってことね)
仁太朗も珠那と同じように考えていたらしい。
「案内はここまでで結構です。あなたは戻って、他の者たちにこの先へ近づかないようお伝えください」
仁太朗が女官へ微笑みかけると、女官は仁太朗へ酔い痴れるように頬を染めて、うっとりと見惚れていた。
穏やかな声音だったものの、従わざるを得ない強さを感じられた。
(私に対する態度と違いすぎる気がする……)
女官が立ち去ると、仁太朗は珠那に向き直った。
「珠那」
「わかってる。この先は危険だって。仁に従うわ」
「思いのほか素直ですね」
「状況を見極めて最善を選択しているだけよ。さっきから私を聞き分けのない子ども扱いしてない?」
「――まさか」
仁太朗は喉の奥で笑う。
「俺より2歳も年上のお美しい女性に、そんな失礼なこといたしません」
「さっきは2つしか違わないって仁が言っていた気がするわ」
「そうでしたっけ」
わざとらしく笑みを零してから、仁太朗は渡殿の奥へと視線を鋭く馳せる。
仁太朗の剣呑な眼差しに珠那の緊張感も一段階上がった。
珠那は盆の上の香炉で練香を焚く。
この香の香りの変質を追うつもりだった。
両手は完全に塞がった状態であり、嗅覚へ神経を集中させるゆえ、珠那は身の安全の全てを仁太朗に委ねなければならない。
渡殿を抜けた御殿の奥は耳に痛いほど静かだった。
建物配置からしても、光が余り取り入れられないのか薄暗い。
幾つかの戸が並んでいた。
「強くなってる……」
珠那は香りの揺らぎを確かめながら一歩一歩進む。
一つ目の戸、二つ目の戸を通り過ぎ、三つ目の古びた戸の前まで来たところで、珠那の眉が歪む。
青臭い匂いが膨らんだように思えた。
もちろん珠那の傍を警戒しながら進む仁太朗には香の変化はわからなかったが。
「ここ……」
珠那が仁太朗に視線を投げると、頷いて返され一歩、戸に近づいた。
「俺が開けますので、少し離れていてもらえませんか」
仁太朗は戸に手をかけ、ゆっくりと引いていく。
珠那も緊張で盆を両手で抱えながらも身構えた。
中は暗い。
古い几帳が無造作に積まれていた。
「仁……」
「――ええ」
珠那と同じことを察しているようで仁太朗が腰の刀の柄に手をかける。
(確実にいる……)
余りにも香が語りかけてくる。
「珠那、もう少し下がってください」
珠那が後ずさった瞬間だった。
部屋の奥で黒い影が揺れた。
あっという間に靄のような形が膨らみ、光のような速さで仁太朗に飛びかかってくる。
珠那が息を呑んだ次の瞬間には、仁太朗が刀を抜き、黒い影は二つに裂けていた。
余りにも速くて、珠那の理解が追いつかない。
仁太朗に斬られた影は床へと落ちて、暗闇へと溶けていく。
「……逃げたの?」
「逃げたというより、あれは実体ではありません。本体から切り離された一部です」
「そう……」
仁太朗は冷静に刀を収める。
珠那は緊張に呼応するように速まった心音がなかなか元に戻らなかった。
「妖異を見たのは初めてだわ」
「怖かったですか?」
「……少しは」
「強がらなくていいですよ」
「強がりじゃなくて、仁がいたから」
仁太朗と珠那の視線が交差する。
「妖異が出たとしても、仁が斬ってくれると思ってたの」
「ずいぶん俺を信用してくれているんですね」
「だって、実際にそうなったじゃない」
「ま、それはそうですけど」
妖異が出ても顔色ひとつ変えず、冷静に対処していた。
刀の振るい方も手練れているのが素人の珠那でも理解できる。
「今の仁、とってもかっこよかったわ」
珠那が思ったことをそのまま口にする。
(また何か、からかってきそう)
そう思ったのに仁太朗は珠那から顔を逸らしてしまった。
「そういうこと、さらっと言ってくるのやめてもらえますか?」
「もしかして照れてるの?」
「照れてはいませんけど」
「さっき私は素直じゃないって仁に言われたもの」
「珠那は根に持つ性格ですか?」
「仁のほうがそうでしょう。昔、私が菓子を多くとっていったこととか」
「余りにも日常的だったもので」
仁太朗と珠那は言葉で応酬しながらも、日が沈み始めたこともあり、その日の調査はここまでとなった。



