仁太朗が珠那の家に引き取られたのは母が亡くなってから、だいぶ後だ。
母の声で”仁太朗”と聞いたのは初めてのことだった。
『仁。子どもに戻ったの?』
『……お嬢様は寝ぼけているのですか?』
『そうなの、仁太朗。今日の珠那はどうしちゃったのかしら』
珠那は涙も拭わず立ち上がって仁太朗の前に立つ。
『お嬢様?』
仁太朗が不思議そうに珠那を見上げる。
(やっぱり目線が私のほうが高い。それに悔しいけど私よりも仁のほうが可愛らしい顔立ちをしている……)
『やっぱり仁が小さい……』
『仕方ないでしょう。僕のほうがお嬢様より2つも年下なんですから』
柔らかそうな白い頬を膨らませて、仁太朗は不満げに言った。
(再会した仁は2つしか違わないと言っていたのに……)
『どうしたんだ? だれも朝餉の席に来ないで。待ちくたびれてしまったぞ』
『お父様……』
『珠那、どうしたんだ? 泣いたのか』
口髭が立派に蓄えられた父が姿を現した。
父が顔面に髭を伸ばし始めたのは母が亡くなってからだ。
皆が珠那の知っている顔のはずなのに、時代が微妙にずれている。
(これは夢……?)
『さあ。珠那、仁太朗、朝餉にしましょう』
『珠那様。お支度なさいましょう』
部屋に女中が入ってきた。
仁太朗が昔、憧れていた若い女中だった。
ちらりと仁太朗を見遣るの、耳が紅く染め上がり、心なしか背筋を伸ばしている。
何とも思っていなかったはずなのに、珠那の胸がずきずき痛んだ。
『珠那、待ってるわね』
『待ってるぞ』
父と母が珠那に笑顔を向けて部屋を出て行く。
それだけで、また珠那は涙がこぼれそうになった。
(これは夢……?)
父や母が珠那の名を呼んでくれる。
笑いかけてくれる。
珠那の従者見習いだった仁太朗もいる。
穏やかで平和な朝。
(夢だって構わないわ……)
珠那の叶わなかった現実が全てここにはあった。
女中が用意してくれた朝餉を囲う。
味噌汁の優しい香りも、茶わんから伝わる温度も、何もかも本物だ。
対面には笑い合う父、母。
隣には黙々と食べる仁太朗。
こんな風に皆で朝餉を囲める日が来るなんて、思ってもみなかった。
『ねえ、お父様。今日はお父様のお仕事を私もお手伝いしたいです』
珠那が父に申し出ると、父と母は顔つきが固まった後、2人とも笑い出した。
『気を遣わなくたっていいんだよ、珠那。この家のことは任せておきなさい』
『そうよ、珠那。あなたは私たちに甘えて守られているだけでいいの』
父と母が温かい笑顔で珠那に語りかける。
(甘えて、守られているだけでいい……?)
珠那がずっと欲しがっていた言葉なのかもしれない。
母を早くに亡くして、しっかりしなくてはいけないと。
父も周囲も認めてくれるよう、必死に挙措を正していた自分。
知能、運動能力、容姿、性格――欠けているところがないよう、完璧だと思われるよう、頼りにしてもらえるよう、いつも背伸びして気の抜けない状態が続いていた。
(もう、私がしっかりしなくたっていいんだ……)
胸を撫で下ろせるはずなのに、珠那には消化のできない何かがが燻っていた。
***
『お嬢様。こちらにいらっしゃったのですか?』
珠那が晴れ渡った庭先で、屈んで花を見ていると仁太朗が近づいてきた。
『うん。この花、とっても良い香りがして』
『少し匂いが強くないですか?』
『そう?』
仁太朗も珠那の隣へとしゃがみ込む。
手入れされた庭木の片隅に珊瑚色の小花が密集している。
どういうわけか香りに惹きつけられて、珠那は長い時間ここで過ごしていた。
珠那は隣で同じようにしゃがんだ仁太朗に視線を移す。
(幼い……)
線が細くて儚い美少年の7年後の姿を知ってしまっているだけに珠那は違いの差に改めて驚きを隠せなかった。
『……仁、やっぱり小さいね』
それは自分と比べてという意味ではなく、7年後の仁太朗と比較しているのだが、仁太朗はわかりやすく、顰めっ面に変化した。
『そればかり言うの、やめてもらえますか?』
『大丈夫よ』
『何がですか?』
『仁は大きくなるもの』
(まるで別人みたいに……)
7年後の守護官となった仁太朗は珠那をからかい、男の色気で翻弄するなんて、この時の仁太朗には想像もつかないのだろう。
『大きくって……。お嬢様は僕を子ども扱いばかりしないでください』
仁太朗は不満げな表情を崩さない。
『仁は今、何をしてたの?』
『剣技の稽古です』
珠那の記憶に浮上する。
仁太朗は珠那の従者見習いを志願してから武芸の稽古へ懸命に励んでいたことを。
しかし、幼い頃に少しかじったことのある程度だった珠那を最後まで上回ることはなかったが。
(この頃の仁の実力を知っているから……)
7年後、仁は守護官となり見事な剣術を披露していた。
どれほど血の滲む厳しい修練を重ねたのか想像もつかない。
『……私、仁に世話を焼きすぎていたのかしら……』
『――今さら気がついたんですか?』
存外に尖った仁太朗の声色が珠那の罪悪感を刺激する。
母の声で”仁太朗”と聞いたのは初めてのことだった。
『仁。子どもに戻ったの?』
『……お嬢様は寝ぼけているのですか?』
『そうなの、仁太朗。今日の珠那はどうしちゃったのかしら』
珠那は涙も拭わず立ち上がって仁太朗の前に立つ。
『お嬢様?』
仁太朗が不思議そうに珠那を見上げる。
(やっぱり目線が私のほうが高い。それに悔しいけど私よりも仁のほうが可愛らしい顔立ちをしている……)
『やっぱり仁が小さい……』
『仕方ないでしょう。僕のほうがお嬢様より2つも年下なんですから』
柔らかそうな白い頬を膨らませて、仁太朗は不満げに言った。
(再会した仁は2つしか違わないと言っていたのに……)
『どうしたんだ? だれも朝餉の席に来ないで。待ちくたびれてしまったぞ』
『お父様……』
『珠那、どうしたんだ? 泣いたのか』
口髭が立派に蓄えられた父が姿を現した。
父が顔面に髭を伸ばし始めたのは母が亡くなってからだ。
皆が珠那の知っている顔のはずなのに、時代が微妙にずれている。
(これは夢……?)
『さあ。珠那、仁太朗、朝餉にしましょう』
『珠那様。お支度なさいましょう』
部屋に女中が入ってきた。
仁太朗が昔、憧れていた若い女中だった。
ちらりと仁太朗を見遣るの、耳が紅く染め上がり、心なしか背筋を伸ばしている。
何とも思っていなかったはずなのに、珠那の胸がずきずき痛んだ。
『珠那、待ってるわね』
『待ってるぞ』
父と母が珠那に笑顔を向けて部屋を出て行く。
それだけで、また珠那は涙がこぼれそうになった。
(これは夢……?)
父や母が珠那の名を呼んでくれる。
笑いかけてくれる。
珠那の従者見習いだった仁太朗もいる。
穏やかで平和な朝。
(夢だって構わないわ……)
珠那の叶わなかった現実が全てここにはあった。
女中が用意してくれた朝餉を囲う。
味噌汁の優しい香りも、茶わんから伝わる温度も、何もかも本物だ。
対面には笑い合う父、母。
隣には黙々と食べる仁太朗。
こんな風に皆で朝餉を囲める日が来るなんて、思ってもみなかった。
『ねえ、お父様。今日はお父様のお仕事を私もお手伝いしたいです』
珠那が父に申し出ると、父と母は顔つきが固まった後、2人とも笑い出した。
『気を遣わなくたっていいんだよ、珠那。この家のことは任せておきなさい』
『そうよ、珠那。あなたは私たちに甘えて守られているだけでいいの』
父と母が温かい笑顔で珠那に語りかける。
(甘えて、守られているだけでいい……?)
珠那がずっと欲しがっていた言葉なのかもしれない。
母を早くに亡くして、しっかりしなくてはいけないと。
父も周囲も認めてくれるよう、必死に挙措を正していた自分。
知能、運動能力、容姿、性格――欠けているところがないよう、完璧だと思われるよう、頼りにしてもらえるよう、いつも背伸びして気の抜けない状態が続いていた。
(もう、私がしっかりしなくたっていいんだ……)
胸を撫で下ろせるはずなのに、珠那には消化のできない何かがが燻っていた。
***
『お嬢様。こちらにいらっしゃったのですか?』
珠那が晴れ渡った庭先で、屈んで花を見ていると仁太朗が近づいてきた。
『うん。この花、とっても良い香りがして』
『少し匂いが強くないですか?』
『そう?』
仁太朗も珠那の隣へとしゃがみ込む。
手入れされた庭木の片隅に珊瑚色の小花が密集している。
どういうわけか香りに惹きつけられて、珠那は長い時間ここで過ごしていた。
珠那は隣で同じようにしゃがんだ仁太朗に視線を移す。
(幼い……)
線が細くて儚い美少年の7年後の姿を知ってしまっているだけに珠那は違いの差に改めて驚きを隠せなかった。
『……仁、やっぱり小さいね』
それは自分と比べてという意味ではなく、7年後の仁太朗と比較しているのだが、仁太朗はわかりやすく、顰めっ面に変化した。
『そればかり言うの、やめてもらえますか?』
『大丈夫よ』
『何がですか?』
『仁は大きくなるもの』
(まるで別人みたいに……)
7年後の守護官となった仁太朗は珠那をからかい、男の色気で翻弄するなんて、この時の仁太朗には想像もつかないのだろう。
『大きくって……。お嬢様は僕を子ども扱いばかりしないでください』
仁太朗は不満げな表情を崩さない。
『仁は今、何をしてたの?』
『剣技の稽古です』
珠那の記憶に浮上する。
仁太朗は珠那の従者見習いを志願してから武芸の稽古へ懸命に励んでいたことを。
しかし、幼い頃に少しかじったことのある程度だった珠那を最後まで上回ることはなかったが。
(この頃の仁の実力を知っているから……)
7年後、仁は守護官となり見事な剣術を披露していた。
どれほど血の滲む厳しい修練を重ねたのか想像もつかない。
『……私、仁に世話を焼きすぎていたのかしら……』
『――今さら気がついたんですか?』
存外に尖った仁太朗の声色が珠那の罪悪感を刺激する。



