珠那の呟きに反応するように几帳の陰から黒い靄が一瞬で宙に溢れ出した。
「珠那、下がってください」
鋭利な仁太朗の声と同時に守護官たちが刀を抜く。
それよりも更に素早く仁太朗の一太刀が黒い靄を既に切り裂いていた。
「ひいっ」
青ざめた女官が恐怖に慄いた声を上げた。
仁太朗によって斬られた妖異が眠っている正妃に重なるように纏わりついている。
迂闊に斬り伏せようとすれば、正妃を傷つけかねなかった。
「――随分、狡知な妖異だ」
仁太朗が刀を構えたまま吐き捨てた。
正妃に憑いていれば、守護官が迂闊に自分へ手を出せないと知っているのだろう。
珠那は盆を抱えたまま、目の前の緊迫感に息を呑んだ。
「っ……」
黒い靄のような妖異に憑かれている正妃の表情が苦悶に歪む。
妖異が抜け出たことによって、夢から覚めようとしているのだろう。
(正妃様が再び取り込まれてしまったら……)
「正妃様!!」
先ほどまで震えていただけの女官が正妃が反応を見せたことで駆け寄る。
「離れてろ!!」
正妃についていた守護官が身体ごと走り寄る女官の動きを止める。
仁太朗は妖異が周囲の動きに反応して、僅かに正妃から離れた瞬間を見逃さなかった。
「――俺が斬れないとでも」
にやりと口角を上げた仁太朗は光の速さで刃を振るう。
正妃の身体を避けるように走った刀身は妖異だけを切り裂いた。
鼓膜を突き刺すような悲鳴ともつかない耳障りな音がこだまし、妖異は宙に霧散していく。
珠那は耳を塞ぎたくなったが、両手で盆を持っているため出来なかった。。
間髪入れず、正妃を護衛するように仁太朗が傍につく。
これで妖異は正妃に近づけない。
「さすが仁太朗だ……」
一人の守護官が思わず詠嘆の吐息を漏らす。
けれど、ほんの一筋。
細い黒煙のような霧状の物体が床すれすれを素早く這う。
目指す先は――珠那だった。
「珠那!」
珠那が気づいた時には視界が黒色の靄に覆われていた。
(逃げられない……)
けたたましい音をたてて、盆が地に落下し、香炉が割れて灰が飛び散る。
「――正妃様を頼む」
仁太朗の余裕を失った声が、どこか遠くに聞こえた。
(眠い……)
珠那は抗い難い眠気に襲われ、自然と瞼が重くなり、身体が斜めに傾いていく。
「お嬢様!!」
崩れ落ちる寸前だった珠那の身体は仁太朗に腕を引かれ、抱き留められる。
(どうして、仁がそんなに切実そうな顔を……)
「――目を開けてくれ。お嬢様……」
ひどく焦った仁太朗の声を聞きながら、そこで珠那の意識は途切れた。
***
甘い香りがする。
花の匂いではない。
果実でもない。
(何なのかしら……?)
珠那が香の原料でも記憶していない真新しいのに、どこか懐かしい香り。
『珠那、そろそろ起きなさい。いつまで寝てるの?』
柔らかくて、優しい、聞き覚えのある声。
ゆっくりと瞼を上げると、目に馴染んだ天井が目に入る。
普段、暮らしている女官の部屋のものではない。
『え……?』
珠那が上半身を起こして、辺りを見回すと朝の光が差し込む障子戸が開いていく。
『珠那。起きてたのね』
珠那は入室してきた女性を見て、硬直した。
『……お母様?』
『どうしたのよ。そんなに私の顔をじっくり見て……』
珠那の母親だった。
母は珠那が5歳の時に病で亡くなっている。
その辛さも苦しみもわかるからこそ、両親を亡くした仁太朗のことを放っておけなかったこともあるのだが。
目の前に母がいる。
笑いかけてくれている。
珠那の目許が一気に熱を帯びた。
『お母様!!』
珠那は夜具を飛び出し、母親に抱き着いた。
『あらあら、珠那は15にもなって、甘えんぼうさんね』
現在22を迎えている珠那にとって15という単語が引っかかったが、それよりも母親への恋しさが勝ってどうでもよくなった。
(ずっとお母様に甘えたかった……)
――しっかりしなくては。
――父親に迷惑をかけないようにしなくては。
母が亡くなってから幼かった珠那は無理ばかりしてきた反動なのか、気づけば珠那は母に縋って泣いていた。
『まあ、珠那は怖い夢でも見ていたのね。よしよし……』
たおやかな手で母が珠那の髪を撫でてくれる。
(怖い夢……?)
今までのことは全て夢だったのかもしれない。
父が亡くなったことも。
家が途絶えたことも。
一人で香を学び、後宮へと上がったことも。
――7年ぶりに仁太朗と再会したことも。
『お嬢様は泣いていらっしゃるのですか?』
廊下から聞こえた声に珠那の拍動が跳ね上がる。
母親の胸から離れて振り向けば、仁太朗が立っていた。
後宮で再会した守護官となり大人の男に成長していた仁太朗とはまるで違う。
細身で珠那よりも身長が低い可愛らしい女の子のような仁太朗だった。
(13歳の頃の……)
『仁……?』
『そうなのよ。仁太朗。珠那は悪夢を見ていたみたいなのよ』
『そうなんですか』
母が仁太朗に声をかける。
(お母様は仁と面識がなかったはずなのに……)
「珠那、下がってください」
鋭利な仁太朗の声と同時に守護官たちが刀を抜く。
それよりも更に素早く仁太朗の一太刀が黒い靄を既に切り裂いていた。
「ひいっ」
青ざめた女官が恐怖に慄いた声を上げた。
仁太朗によって斬られた妖異が眠っている正妃に重なるように纏わりついている。
迂闊に斬り伏せようとすれば、正妃を傷つけかねなかった。
「――随分、狡知な妖異だ」
仁太朗が刀を構えたまま吐き捨てた。
正妃に憑いていれば、守護官が迂闊に自分へ手を出せないと知っているのだろう。
珠那は盆を抱えたまま、目の前の緊迫感に息を呑んだ。
「っ……」
黒い靄のような妖異に憑かれている正妃の表情が苦悶に歪む。
妖異が抜け出たことによって、夢から覚めようとしているのだろう。
(正妃様が再び取り込まれてしまったら……)
「正妃様!!」
先ほどまで震えていただけの女官が正妃が反応を見せたことで駆け寄る。
「離れてろ!!」
正妃についていた守護官が身体ごと走り寄る女官の動きを止める。
仁太朗は妖異が周囲の動きに反応して、僅かに正妃から離れた瞬間を見逃さなかった。
「――俺が斬れないとでも」
にやりと口角を上げた仁太朗は光の速さで刃を振るう。
正妃の身体を避けるように走った刀身は妖異だけを切り裂いた。
鼓膜を突き刺すような悲鳴ともつかない耳障りな音がこだまし、妖異は宙に霧散していく。
珠那は耳を塞ぎたくなったが、両手で盆を持っているため出来なかった。。
間髪入れず、正妃を護衛するように仁太朗が傍につく。
これで妖異は正妃に近づけない。
「さすが仁太朗だ……」
一人の守護官が思わず詠嘆の吐息を漏らす。
けれど、ほんの一筋。
細い黒煙のような霧状の物体が床すれすれを素早く這う。
目指す先は――珠那だった。
「珠那!」
珠那が気づいた時には視界が黒色の靄に覆われていた。
(逃げられない……)
けたたましい音をたてて、盆が地に落下し、香炉が割れて灰が飛び散る。
「――正妃様を頼む」
仁太朗の余裕を失った声が、どこか遠くに聞こえた。
(眠い……)
珠那は抗い難い眠気に襲われ、自然と瞼が重くなり、身体が斜めに傾いていく。
「お嬢様!!」
崩れ落ちる寸前だった珠那の身体は仁太朗に腕を引かれ、抱き留められる。
(どうして、仁がそんなに切実そうな顔を……)
「――目を開けてくれ。お嬢様……」
ひどく焦った仁太朗の声を聞きながら、そこで珠那の意識は途切れた。
***
甘い香りがする。
花の匂いではない。
果実でもない。
(何なのかしら……?)
珠那が香の原料でも記憶していない真新しいのに、どこか懐かしい香り。
『珠那、そろそろ起きなさい。いつまで寝てるの?』
柔らかくて、優しい、聞き覚えのある声。
ゆっくりと瞼を上げると、目に馴染んだ天井が目に入る。
普段、暮らしている女官の部屋のものではない。
『え……?』
珠那が上半身を起こして、辺りを見回すと朝の光が差し込む障子戸が開いていく。
『珠那。起きてたのね』
珠那は入室してきた女性を見て、硬直した。
『……お母様?』
『どうしたのよ。そんなに私の顔をじっくり見て……』
珠那の母親だった。
母は珠那が5歳の時に病で亡くなっている。
その辛さも苦しみもわかるからこそ、両親を亡くした仁太朗のことを放っておけなかったこともあるのだが。
目の前に母がいる。
笑いかけてくれている。
珠那の目許が一気に熱を帯びた。
『お母様!!』
珠那は夜具を飛び出し、母親に抱き着いた。
『あらあら、珠那は15にもなって、甘えんぼうさんね』
現在22を迎えている珠那にとって15という単語が引っかかったが、それよりも母親への恋しさが勝ってどうでもよくなった。
(ずっとお母様に甘えたかった……)
――しっかりしなくては。
――父親に迷惑をかけないようにしなくては。
母が亡くなってから幼かった珠那は無理ばかりしてきた反動なのか、気づけば珠那は母に縋って泣いていた。
『まあ、珠那は怖い夢でも見ていたのね。よしよし……』
たおやかな手で母が珠那の髪を撫でてくれる。
(怖い夢……?)
今までのことは全て夢だったのかもしれない。
父が亡くなったことも。
家が途絶えたことも。
一人で香を学び、後宮へと上がったことも。
――7年ぶりに仁太朗と再会したことも。
『お嬢様は泣いていらっしゃるのですか?』
廊下から聞こえた声に珠那の拍動が跳ね上がる。
母親の胸から離れて振り向けば、仁太朗が立っていた。
後宮で再会した守護官となり大人の男に成長していた仁太朗とはまるで違う。
細身で珠那よりも身長が低い可愛らしい女の子のような仁太朗だった。
(13歳の頃の……)
『仁……?』
『そうなのよ。仁太朗。珠那は悪夢を見ていたみたいなのよ』
『そうなんですか』
母が仁太朗に声をかける。
(お母様は仁と面識がなかったはずなのに……)



