【短編】宮廷最強の守護官は、調香宮女にだけ惑わされる~七年ぶりに再会したお嬢様と年下従者の恋模様~

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 朝餉の刻をとうにすぎた頃、珠那はいつも通り調合部屋で、調香女官たちと各御殿からの注文に合わせて香を調えていた。
 
「――珠那、来てください」

 突如として遠慮なしに室内へと入ってきた仁太朗に腕を掴まれる。

「え……?」

 調香女官たちも唖然としている中、仁太朗は返事を待たずに珠那を連れ出す。
 いつもは珠那の元へと前触れなしに訪れても、珠那の都合や意向は聞いていた。
 仁太朗の性急な様子に良からぬ事態があったんだと珠那は慌てずに悟り、口を噤む。

(北の御殿で何かあったんだわ)

 珠那はいろいろと質問したい気持ちを堪え、仁太朗に腕を引かれるまま歩みを進める。
 やがて北の御殿の渡殿まで到達し、ようやく足を止めて仁太朗は振り返った。

「――正妃様が目覚めない」
「何ですって」

 近くに人はいなかったが周囲の目を憚るように珠那の耳元で仁太朗は低く囁く。
 不自然に高鳴った心音を気にしている場合ではなく、珠那の顔色が変わる。
 仁太朗も普段の軽い態度が嘘のように真剣な顔つきをしていた。

「今朝から一度も――なの?」
「ああ。女官の話だと医師にも診せたが、どうしてもお目覚めにならないと」
「そんな……」
 
 仁太朗の眼光は鋭いままだったものの、顔立ちの造形美に翳りが刺したように見えて、珠那の胸をきつく締め付けてきた。
 守護官として任に当たっているだけに、忸怩たる思いが去来しているのだろう。

(ほんの少しだけ、昔の仁太朗と面差しが重なった……)

「正妃様の居室に立ち入る許可は珠那も得ています。一緒に来てもらえますか?」
「ええ。もちろんよ」

 仁太朗の背中へ素直に珠那も続く。
 いつもと口調が違うのも、いつもより冷静さが少し欠けているのも、察知できてしまうのは、昔の仁太朗を知っているからだろうか。
 再会してから共に調査にあたり仁太朗と共有した時間が多くなってきたからだろうか。

(その、どちらもだわ……)

 珠那は歩の速度を速め、仁太朗の背中にそっと片手を触れて布を掴む。
 仁太朗は目線だけで珠那を振り返りはしたが、何も言及はしなかった。
 正妃の部屋前には守護官2人と1人の珠那と顔なじみの正妃付きの女官が待っていた。
 仁太朗の姿を認めると、守護官2人は揃って礼をする。
 正妃が眠りから覚めないというのは機密事項なのだろう。
 ここに来るまで北の御殿は普段と変わった様子はなかった。

「珠那さん……」

 女官の顔色は優れなかった。
 それは本人の体調不良ではなく、目覚めぬ正妃を憂慮してのものだとわかる。

「――開けてもらえますか?」

 仁太朗が声をかけると、女官は頷き戸を開いた。
 先に仁太朗が部屋へと入っていく。
 守護官2人に挟まれる形で珠那も初めて正妃の居室へと足を踏み入れる。
 正妃らしい広く、落ち着いた上質な空間だった。
 几帳の向こうに、横たわる人影が見える。
 
(あちらが正妃様……)

 眠っていても気品溢れる麗しい女性だった。
 しかし生気を感じない。
 精巧に造られた美しい人形のようだった。

「――珠那」
「ええ」

 珠那は正妃へと届けていた香合を女官に持ってきてもらった。
 正妃の居室に置いてあった香炉を借り練香を焚いた。
 沈黙が支配する室内に、ゆっくりと香りが広がっていく。
 珠那は香りの変化に集中するため、視界を閉ざした。
 立ち始めの香りは、いつもと変わらない。

「!?」

 珠那は思わず目を剥いた。
 
「――珠那」

 仁太朗が周囲を警戒しながら、珠那へと視線を送ってきた。
 これまでと比較にならないほど、はっきりと感じる。
 冷たく青臭い――香とは異なる異臭が立ち上ったのを。

「この場所に妖異がいるわ」

 珠那は断言する。
 守護官たちの警戒が数段階引き上がった。
 仁太朗も鋭い眼光を周囲に走らせている。

「妖異の姿は見えませんが……」
「警戒を怠るな。一人は正妃様の傍へつけ」
「はっ」

 仁太朗は陣頭をとりながら、神経を張り詰めている。
 女官は部屋の隅でぶるぶると身を震わせていた。
 珠那は香炉を盆に乗せ、全ての神経を集中させて香の揺らぎを拾う。
 正妃が几帳越しに眠る傍へと慎重に足を進めていく。

「――珠那」
「もう少しだけ」

 香の香りと極度の緊張感が正妃の部屋に充満していく。
 珠那は昨日、仁太朗と話した仮説を思い起こす。
 北の御殿で一つだけ調べきれなかった場所――正妃の間。
 中でも最も可能性を外したかった正妃本人の何かを媒介して干渉していたとしたら。
 珠那は胸騒ぎを覚える。
 香に今までにないほど冷たく青臭い香りが混ざっていく。
 几帳越しに正妃の表情を窺う。

「……正妃様……」

 返事はなかった。
 けれど、正妃の寝顔は笑っていた。
 穏やかで、幸せそうな笑み。

(間違いない……)

 妖異の姿が見えないのは当たり前だった。
 
「もしかして……妖異は正妃様の夢の中に……?」