【短編】宮廷最強の守護官は、調香宮女にだけ惑わされる~七年ぶりに再会したお嬢様と年下従者の恋模様~


 ”香(こう)”は、奥深きものである。
 目標とする香りに到達させるためには集中力も記憶力も必要とされる。
 香料の原産地、保管期間、保存方法、周囲の温度、焚き方……いずれも繊細かつ密接に関わってくる。
 そして、調えたら、それで終わりではない。
 後宮の調香女官である珠那(しゅな)は調合のために用意された一室で自らの五感に神経を研ぎ澄ませていた。
 珠那は小さな香合の蓋を開け、しばらく寝かせて香りをなじませた練香を一粒、摘み上げる。
 最初に目で、ひび割れ、湿り気、色むら、丸めた形を保っていることを確認した。
 次に鼻先を、そっと近づける。
 沈香の落ち着いた苦みを土台に、白檀の柔らかな甘さが重なっていた。
 控えめな薬草の清涼感も、仕込んだときの狙いどおり。
 香料同士が寝かせたことで馴染み、ひとつの穏やかな調香を奏でている。

「……これなら大丈夫」

 残りの練香を小さな香合に収めた。
 傍らに控えていた女官へ先に用意しておいた香合を渡す。

「こちらは東の御殿へお願いします。昼餉の後に使うそうですので、香りが立ちすぎないよう炭を少なめにするよう伝えてくださいますか?」
「はい。かしこまりました」

 女官は香合を盆へ載せて、珠那に一礼する。
 もう一つの香合は珠那自身が届けることになっていた。
 今日届けるのは、帝の正妃からの依頼。
 季節の変わり目で朝晩の冷え込みによるためか、身体の疲れがとりきれず安眠できる香りがほしいという。

「行ってまいります」

 珠那は調合部屋を出て渡殿を進み、正妃が住まう北の御殿へと向かった。
 珠那が後宮の調香女官として働き始めて、もう4年の歳月が流れている。
 初めの頃は各御殿から注文を受けるだけでも身構えていた。
 香料の名と香りを覚え、配合を試し、香の立ち方と消えた後の残り方を記録する。
 幾度となく失敗したが、その度に練香を研究し、理由を突き止めた。
 今では季節や用途を聞けば、自然とどの香を出せばよいか自然と思い浮かぶ。
 相手の好みだけでなく、部屋の広さや風の通り、利用する時間帯、季節まで考えて配合を選ぶことも出来るようになっていた。
 特に正妃から珠那の調香は気にいられ、正妃からの依頼には珠那が任命されることが多い。
 もちろん珠那が直接、正妃にお目にかかることなどなかったが。
 珠那は北の御殿へと足を踏み入れて、すぐに違和感に気がつく。

(何かが違う……?)

 香を焚いているはずなのに、空気に香りの層が全く感じられない。
 普段なら立ち入った時点で炭の熱に温められた北の御殿特有の香りが漂ってきているはずだった。
 
「珠那さん」

 控えの間へと入ると、顔なじみである正妃付きの女官が出迎えてくれた。
 珠那は女官の顔を一目見るなり、異変に気づく。

「顔色がお悪いようですね」
「やはり、そう見えますか?」
「はい、少し。どうされましたか?」
「ここのところ倦怠感が続きまして。昨夜も早く休ませていただいたのですが」
「眠れなかったのですか?」

 珠那の問いに女官は首を横に振った。

「いえ。よく眠ったはずなのです」
「少し、触れても?」
「はい」

 珠那は盆を傍らの台座へと置き、もう片手で女官の首に触れる。

「熱はないようですね」
「はい。ただ、どうにも怠くて。お医者様にも診ていただいたのですが、特に異常はないと」
「さようですか」
「私だけではなく、同じことを訴えている女官が他にも何人かいらっしゃいます」

 眠っているはずなのに、眠気が取れず、倦怠感に悩まされている女官が複数人とは偶然なのだろうか。
 確かに目の前の女官も立ち姿に覇気がなく、いつもより声も舌ったらずに聞こえる。

(季節性のもの?)

 珠那はもう一度、御殿の匂いを吸い込んだ。
 改めて確かめると、香りがないわけではなく、何かが香りの奥行きを塞いでいる。
 ただ断言はできない。

「正妃様に休息に最適な香を持ってきたの。よろしければ、一つ、こちらで焚いてみましょう」
「まあ。ありがとうございます。正妃様も珠那さんの調える香をお気に召しているから」

 女官は香炉を持ってくる。
 珠那は届ける分とは別に入れておいた練香の一粒を取り出す。
 御殿で実際に焚いたときの香りを確かめるためのもの。
 火をつけてもらった炭が強すぎないことを確認してから香炉内の灰へ置き、温めた後に練香を置く。
 空薫(そらだき)という方法だ。
 白檀の柔らかな甘さが鼻腔を擽り、やがて沈香のおしとやかな苦味が混ざり合って。

「……え?」
 
 思わず珠那は怪訝を声に出していた。

「珠那さん、どうされました?」

 女官に尋ねられても、珠那はすぐに答えられなかった。

(調えた時と香り方が違う)

 珠那はあえて香炉から少し距離を取った。
 香の余韻に何かが纏わりついている。
 
(青臭いような……)

 誰も気にしないほど微かに。
 しかし、珠那は、この香を自分で調え、実際に使って何度も確かめている。

「……おかしいわ」

 珠那は香合に残っている練香を一粒取り出し、指先で割った。
 中央まで均一に練られ、異物が混じった様子も湿気を含んだ様子もない。
 そっと匂いも確認する。

(香に異常はない……) 

 珠那は周囲をそっと見回した。