ありがとうの形

 大好きになってしまった。一番好きになってはいけない相手を、僕は。
 心地よい風の吹く秋の放課後。ガシャン、という音が耳を木霊した。耳元で笛を吹かれたかのような衝撃だった。


 音の方へ目を向けると、さらに僕は驚いてしまう。


 目の前でおどおどしていたのが、小学六年生の時、僕がはねてしまった男性の娘さんだったから。


 そう、僕は人を殺している。


 水城さんを傷つけている。


 だから、高校入学当初から彼女のことは気にかけていた。
 償いのために、傷つけた分だけ、彼女を助けようと。
 そして訪れたチャンスが、バケツでの惨事を解決することだった。
 なのに彼女はお礼をしたいとか言い出して。


 お礼される資格なんてないのに。


 彼女からのありがとうを一番聞いちゃいけない相手は僕なのに。


 それで飲み物を買ってきている隙に逃げてしまったのだ。そして今後はもっとこっそり償っていかなくては、と気持ちを改めた。
 それでも彼女は、飲み物を僕に渡してきた。受け取らないと逆に酷いことをしているようで、結局は受け取ってしまった。
 さらに紅葉を見に行きたいとまで。
 紅葉なんて、もう何年も見ていなかった。それこそ、あの事故以来。いや、事件以来。
 見ても無駄だったから。僕の世界からは既に色が抜け落ちてしまっていたから。
 でも不思議と彼女と見た紅葉にはちゃんと色があった。赤や黄色、橙色僕の頭じゃ分からない名前の色で染められていて。
 最初は分からなかった。でも、彼女が笑ってその色がもっと鮮やかになったから、分かってしまった。
 それから、時間を彼女のために使うようになっていった。その時間が少しでも永く続いてほしい、と叫びたいくらい願うようになって。
 でもそのたび、このままじゃいけないってもう一人の自分が忠告してくる息苦しさもあった。怖いくらい眉間に皺を寄せて。
 お前は水城さんの隣にいていい人間じゃないって。
 好きが溢れてくるほど彼女と一緒にいたい僕と、そうするべきじゃないと怒る僕が毎日対立していた。
 分かっている。彼女のためを思うなら、後者であるべきだってことは。


 だから告白した。


 『僕は人を殺したことがある』


 その時の彼女の表情を忘れられない。そもそも表情とは呼べないほど、ただ鼻や口がある顔だった。


 もう好きになってはくれない。


 モヤモヤとしながらも、納得はしていた。
 心にとどまるこの不快感はいずれ時間とともに消えてゆく。そう信じてこれから生きて行こうと思ってた。なのに。
 あの告白から一夜明けて、普段通り学校へと登校していた。多分、普段通りに。見上げれば、怪しげな雲からは雪が降りそうだと容易に想像できた。
 学校に着き、憂鬱な気持ちで下駄箱を開け、薄汚れた上履きを取り出した時だった。


 ひらっと、何かが舞う。


 白く、素早い何かが。


 不規則な動きをするから苦戦したけど、何とか落ちる寸前で掴めた。
 長方形の紙で、よく見るとそれは手紙で。何だろう、とはてなを頭に詰めながら封を開くと。


 『放課後、バケツをひっくり返したところで待っててください。生徒が誰もいなくなってから、伝えたいことがあります』


 水城よりまで読み終えて、心臓が形を変えるために大きく動いた気がした。


 どうして? 


 自分の父親を殺した相手と話したいなんて、普通は思わないはずなのに。


 もしかして恨みをぶつける? それとも……。


 その続きを少し考えて、でも首を勢いよく横に振った。ありえない。


 それでも、一緒にいてほしい、とか。


 そしてまた首を横に振る。
 それから長いようで短いような一日を過ごした。
 一緒に帰ろう、という友人の誘いを断り、やがて誰もいない静かな放課後がやって来る。
 廊下に出ると、既に彼女は立っていた。視線はもうこっちへ注がれている。逃れられない。
 近づくと、昨日と打って変わって表情がきちんと作られていた。しかも想像だにしなかった表情。


 笑っていた。


 口の両端が緩く上がっている。とても恨んでいるようには見えない。
 だったら……まさか本当に僕が冗談で考えていた意味の告白なの?


 「どうしたの?」


 その答えを早く知りたくて催促する。すると三日月型の唇が小さく、でもそこから発せられた声はよく耳に届いた。


 「バケツ、ひっくり返したの」


 「え?」


 よく聞こえたけど、よく通じなかった。それを前提としてすぐに彼女は口を開く。


 「あの日も私、バケツひっくり返したの。そのせいでアスファルトが水浸しになって。氷上さんと出会えたあの時の廊下みたいに」


 すぅ、と息を吸ってから、それを吐くペースで水城さんは。


 「ちょうどこの時期だったよね、あの事故が起きた時。寒くてさ、その冷たさでアスファルトに溢れた水が凍っちゃったんだ」


 顔が青くなってきているって自分でも分かる。閉めるのを忘れたのか、微妙に開いた窓の隙間から拭く風のせいだって思いたかった。決して五年前のことを思い出してるわけじゃないって。


 「そこに自転車に乗った男の子がやって来た。背丈が同じくらいだったから、年齢もそれくらい。その子は見事にそのアスファルトの上を通ってそれから」


 「それ以上話すな」


 自分でも驚くほどに低い声が出た。でも今はそんなことどうだっていい。
 正気じゃなくなって、何も考えられなくなる。次から次へと封じ込めていた辛い過去が解き放たれていき、やがて……。


 「水城さんのせいだ」


 目の前の彼女の目が一瞬動く。それも構わず、僕の口は勝手に動いてしまう。これから告げる言葉が確実に彼女を苦しめることは分かっているというのに。


 「僕の家、どんどん貧乏になってっ。加害者だから被害者遺族にお金払わないといけなかったから。それで働きすぎたお父さんは病気でもう生きてないし、今度は必死で働いてるお母さんもいつそうなるかわからない。そっか、それもこれも全部水城さんのせいだったんだね」


 最低な言葉が溢れてくる。


 あれだけあった好きという気持ちは伝えられなかったというのに。


 「そうだね……」


 顔を上げたことで、今まで水城さんの表情を見ていなかったのだと気づく。そして上げ終えた時はっとする。


 彼女が微笑んでいたから。頬を赤らめて。


 まるで好きな人に告白された幸せな少女のよう。


 こんなのズルい。今この瞬間、人生で湧くはずだった怒りでいっぱいのはずなのに、それすらも躊躇わせる顔なんて作って。これからもすぐ隣でしてほしい表情なんてして……。


 その顔のまま、彼女は踵を返して、一人歩いて行ってしまう。ごめんなさい、と謝りたかった。なのに声は出なくて。最終的に手を下したのは僕なのに。
 ふと誰もいないはずの廊下に彼女が現れる。遠くない未来に消えてしまうと思わせるほど、半透明の姿で。その周りは水で溢れかえっていた。
 幻の彼女は困り果てていて、泣きそうだった。早くその表情を辞めさせたくて、目の端に溜まっている雫を拭おうにも、僕の指先が触れようとした刹那、彼女は消えてしまう。
 あの時に戻ってやり直したい。あの告白をなかったことにしたい。


 もしそうなれたら、思い出させなかったのに。


 彼女がバケツをひっくり返したことで父親を帰らぬ人にさせたと。


 押し寄せる後悔を抱えて、彼女の後を追うように帰る。校門をくぐると、道が二手に分かれていて立ち止まる。
 右の方で視界の端にあるはずのない枯葉が舞った気がした。それらを振り払うように、左へ曲がった。


 途端に身体を小刻みに震わすほどの凶悪な風が吹き荒れる。


 アスファルトが濡れていたなら、あの日のように凍ってしまうだろう。