「この坂、いつも上ってるの?」
うん、と私は頷く。
私たちは今、例の坂道の途中にいる。私の家の前に立ちはだかる、急な坂道。それにしても。
「氷上さんって体力すごいね」
出会ったあの日も今も、氷上さんは全く疲れた様子を見せなかったから。バスケも華麗なシュートを決めていたし。
「まぁ、だいたい移動手段徒歩だから」
「そうなの?」
自転車に乗れない……いや氷上さんに限ってそんなことはない。乗らないんだ、うん、と勝手に納得した。
それからしばらく坂を上り、ふと足音が一人分しか聞こえなくなって振り返ると、かなり後ろの方で彼が立ち止まっていた。見るからに坂の途中あたりで。
あまり引き返したくなかった。特に今彼が止まっている場所には。そばには電柱があり、彼はそれをじっと見つめている。
「氷上さん?」
意を決して引き返し、そっと呼びかけてみると。
「あ、ごめん。ちょっと坂道で疲れちゃったみたい」
「え、本当?」
とてもそうには見えないから。でも深く訊けそうにもない。電柱を見ていた時とは打って変わっておちゃらけた様子を見せるから、余計に不安になる。
「ほんと。行こ」
ずっと止まっていたのに、今度は先を歩いていってしまう。私の訝しげな顔を無視して。
その後ろを静かについていった。釈然としないまま。
こういう時秋の風って使えない。夏だったら今日も暑いねって話題起こしができるのに。
でも秋だからこそ、こんな形のありがとうを見つけることができた。まだありがとうになるかは分からないけれど。
そうなるように頑張らなくちゃ。紅葉が綺麗なことをしっかり伝えて、と今日やるべきことを整理していたら。
「実は僕、もう何年も紅葉見てなくて」
「え、そうなの?」
短い反応だけしておく。どうして? とは訊かなかった。すごく気になるけれど、さっき彼がそうしてくれたように、私も訊いちゃいけないと思って。
「だから、今すごく楽しみなんだ」
「それならよかった」
胸を撫で下ろす。少なくとも紅葉を見に行こうという誘いに不信感を持たれていないことを知れて。
思えば、今日の私の心は忙しない。不安になったり、安心したり。
それだけ負担は大きいはずなのに、なぜかそれを苦とは思わなかった。
どうしてだろう、と答えに行きつく前に坂を上り、私の家が姿を現す。ここが私の家、とは言わず素通りすると、すぐに桜並木が見えた。
近くには川も流れていて、それに沿うように桜の木たちは並んでいる。春になればここは一面桃色に染め上げられる場所。
でも、それよりも私は今の桜の木が好きだった。
桜の花びらよりも、温もりを感じるところが。
太陽の光の色に近いからかな、なんて考えるのを慌ててやめる。隣の彼に気を配らなくては。
だけど、氷上さんは並木を見上げたまま、微動だにしない。余計なお節介をかけない方がいいと思って、再び私も紅葉観賞にふける。
でも一度彼のことを意識したからか、純粋に紅葉のことだけを考えられなくなってしまった。氷上さんは、この光景を見てどう感じているんだろうとか、私の狙い通り綺麗だと思ってくれてるのかなとか。考えたって仕方ないことばかり頭に浮かんでしまう。
「ありがとう」
「え?」
突如、頭上からお礼が降り注いで。夕陽に照らされて光る落ち葉と共に。
見上げると、柔らかく微笑んでいる氷上さんと目が合う。やっぱり大きくてずっと見ていられる瞳。
このままその瞳の中に吸い込まれてみたい、なんて。
「本当に久しぶりだったんだ、見るの。紅葉ってこんなに綺麗なんだね」
「うん。私、桜より紅葉の方が好きなの」
「え、珍しい。どうして?」
彼が迷わず質問してくる。自分のことを訊かれていることに、嬉しさが込み上げつつも、訊かれたからにはと真剣に考える。
「太陽の光の色に似ているからかな。太陽の光って暖かいから、それに似ている紅葉を見るだけで同じ暖かさを感じられるんだよね」
さっき紅葉を見て浮かんだことを口にしてみた。ちゃんと言語化できたか不安だったけれど。
「太陽の光に似ているかぁ。確かにそんな感じするかも。あったかくて、何か安心する」
「氷上さんも?」
「うん。水城さんに教えられてそう思っただけなんだけどね」
「苗字、どうして知ってるの?」
一瞬驚きの色を顔に染める氷上さんだけど、すぐに表情を崩して。
「噂で」
「あ、私と一緒」
さっきのやり取りの再現みたいで、お互いクスリと笑い合う。
そのことだけじゃない。色んな意味で私はその表情になっていた。苗字であってもさん付けでも名前を呼んでくれたこと、紅葉を見て安心するという同じ感想を持ってくれたこと。
実は私もそうだから。氷上さんが言ってくれたように、私も紅葉を見ると安心したような気持ちになれる。暖かい気持ちになれる。
暖かいと安心がリンクする理由は分からないけれど、少なくとも私はその二つがセットのように思う。
だからもう少ししたら来る冬は不安になることが多いのかもしれない。ううん、冬が苦手なのにはもっと確かな理由がある。お父さんがいなくなった季節だから。
「水城さん」
「あ、はい!」
不意に呼ばれて返事が力んでしまう。氷上さんはもう笑ってなくて、代わりに真剣な表情を浮かべていた。
「本当に今日はありがとう。もう邪魔だなんて思わないよ、落ち葉のこと。ううん、思いたくないよ」
「それって……」
「むしろ、楽しみになるかも……掃除するのが。落ち葉を見るたび、今日の光景を思い出すだろうから」
ありがとう、ともう一度彼は言ってくれた。その瞬間、身体がすごく軽くなる。形がどうであれ、感謝の気持ちを彼に伝えることができたから。お父さんの教えも、守れたから。
陽が沈んでしまう寸前だからか、オレンジがさらに濃くなった。
形だけのお礼として買った紅茶みたいな色。
「帰ろうか」
先に氷上さんがそう提案してきた。もちろん私も頷く。
でも、わがままな自分が顔を出す。もう少し、あとちょっとだけ、彼と紅葉を見ていたい、なんて。
だって、これが最後だと分かっているから。お礼は返してしまった。彼に会える口実を私はもう持っていない。
階段を降りて、堤防から離れる。少し歩けば私の家。彼との別れは目の前。家の前で止まってふと気づいた時には遅かった。
「もしかして、ここが水城さんの家?」
「あ、うん……はい」
結局ここが私の家、と宣言してるみたいになって恥ずかしくなる。顔を俯けていたら。
「じゃあね」
氷上さんは控えめな笑みを浮かべながら手を小さく振った。まるで明日も会える友人に軽く別れを告げるように。
「うん、また……」
私も軽く手を振ってみた。もうその頃には、こっちを見ていなかったけど。
自分の家の前が坂道であることを恨むのは、今日で二回目。一回目はこの坂道でお父さんが命を落としたから。
二回目は去り行く氷上さんの姿をすぐに消してしまったから。陽は完全に落ちて、暖色系だった空は寒色系へと変貌している。まるで秋から急に冬へと移ったかのように。
ひゅっと、冷たい風が吹いてきた。それが運んできたのか、枯れ葉も一緒に宙を舞っている。その風は坂の方へと通り過ぎていった。
彼の後を追うように。



