ありがとうの形

 いつもより色が濃い夕焼けの中、一人トボトボと校庭を歩いてゆく。思えば、こんなに遅くに家へ帰るのは初めてかもしれない。
 それに、最近急に日没が早くなった気がする。夏は早く夜になってほしいと願っていたはずなのに、今はもう少しだけ沈まないでほしいと思うくらいに、日没を物悲しく感じていた。
 校門をくぐると道が二手に分かれる。迷わず家のある右へ曲がる。
 通学用の鞄が重い。自分と名前も知らない彼に買ったペットボトル分。
 ありがとう、ってちゃんと伝えたかった。言葉だけじゃなくて、このペットボトルを渡すみたいに、形としても。
 だけど、そのどれも叶わなかった。人に何かしてもらったら、どんな形でもありがとうを返しなさい、と教えられたのに。
 他の誰でもないお父さんの教え。なのに、今日それを破ってしまいそう。
 名前も学年も、在籍しているクラスも分からない彼を探すなんて、沈む夕陽を止めるくらいにきっと難しい。
 ごめんなさい、と心の中で唱えていると、足に強烈な負担がかかった。それもそのはず、平坦だった道が坂道になっていたのだから。ベビーカーを離せば確実に下まで落ちてしまうほどの勾配。
 だけどなんてことはない。歩き始めた時から高校二年生の今日まで、ずっと上ってきたのだから。といってもさっきので疲れちゃうくらいだから、大した体力はないけれど。
 この先にある家に向かって重い足を前に進める。沈む寸前の夕陽と相まって、坂道はアスファルトの黒を見せない紅葉の道のようになっていた。歩くたび落ちている葉が舞いそうなくらい。そんな妄想をしていたら、あっという間に坂の頂点に辿り着き、我が家が姿を現した。
 真新しい外装。そして内装も外装に相応しく綺麗になっていることも知っている。
 家に入ろうとドアノブに手をかけたところで動きを止めた。さっきも聞いたガシャンという音に。


 「ママぁー、パパぁー、バケツひっくり返しちゃった……」


 「あぁ、まぁ。道路だし大丈夫よ」


 「そうだぞ、ほら再開だ。いつも色んな場所に連れて行ってくれる車なんだから、綺麗にしよ!」


 向かいの家に住んでいる家族が揃って洗車をしていた。耐えきれず、素早く家に入ると。


 「ちょっと! 遅かったんじゃないの、(みお)


 玄関で挨拶すると、お母さんが飛び出してきた。今にも泣いてしまいそうなくらい、お母さんは目を潤ませている。


 「ごめん、掃除長引いちゃって」


 「もしものことがあったと思って、ずっと心配してたのよ?」


 「ごめんなさい」


 「でもいいわ。無事ならよかった。待ってて、もう夕飯できるから」


 お母さんが台所へ戻ってゆく。安心したようにゆっくり息を吐きながら。
 私も荷物を置きに自室へ、と思ったけどすぐに行くのをやめる。代わり長い廊下を通って、居間へと行く。
 下手したらクラス分の机を置いて授業ができるくらいに広い居間。その奥の部屋へと足を踏み入れる。
 そこは居間とは違って、五畳ほどしかないこじんまりとした和室に薄くしか部屋を灯さない豆電球。私が五年前からずっと、毎日欠かさず訪れる部屋。だって。


 「ただいま、お父さん」


 仏壇のそばにある写真。紅葉を背景に微笑むお父さんが写っている。今にも私の名前を呼んでくれそうなくらい、そこにいるって思わせる写真。
 でもその微笑みが二度と動かないことを私は知っている。
 真顔になることも、怒ることも、涙を流すことすら、ない。永遠にお父さんは微笑んでいる。
 だけど、それでもいい。その表情しかできなくても、お父さんに会えるなら。
 写真の中のお父さんと目を合わせて、私はいつものように話しかける。
 でも、いつもと同じようにはいかなかった。今日は色んなことがありすぎて。
 それに、教えも破ってしまったから。お父さんが、特別な魔法を伝授するように、教えてくれたことを。
 人に何かしてもらったら、ちゃんとありがとうを返すんだよ、って。
 どうしよう、なんて話せば。もうすぐ夕食だから早く何か言わないと、と焦る。


 「やっぱり何かあったんだね」


 「あっ」


 部屋の灯りが増えたのは、襖が開いて居間の電気が漏れているからだ、と気づいた頃には、お母さんがすぐ近くにいて。


 「ほら、言いなさいよ」


 詰め寄られて、言い逃れできない状況になる。仕方なく私は白状することにした。男の子の存在を上手く隠しながら。
 お父さんの教えを破った。このことを前面に押し出す。事実、今の私にとって一番の悩みだから。すると。


 「今はその教えを破ってることになるけど、(みお)はこれからちゃんとお礼するつもりなんでしょ?」


 「それは、もちろん」


 「ならいいじゃない。ちゃんと返そうって気持ちがあるなら」


 「今、返せてなくても?」


 「もちろん! いいんだよ、時間がかかっても。ちゃんと返せばいいの」


 そういえばお父さんもそんなことを言っていたような。どんなに時間がかかっても、どんな形であっても、と。
 最後はお説教みたいになったけど、心は楽になった。それから今度はくすぐったい気持ちになる。お父さんへの罪悪感が少なくなった代わりに、氷上さんといた時の感覚が蘇って。
 顔赤いよ? とか言われる前に部屋から出ていってくれるよう、お母さんを説得し、やんわりと居間へ追い出した。その様子を見届けてから、もう一度写真と向き合い、光の漏れる部屋へと戻る。私を救ってくれた男の子にお礼をしっかり伝える、と決意して。