ガシャン
放課後の掃除でのこと。身体がよろけた反動で、バケツがひっくり返った。
周りがざわつき始める。私の教室前の廊下が水浸しになっていることに。
そうさせた当の本人である私は、あまりのパニック状態に動き出せないでいた。水はどうしてか広がり続ける性質を持っているから、一刻も早く対応しなければいけないというのに。
自分のローファーに水が届きそうになったその時。
ボスン
何かがそばで落ちる音がしたかと思えば、目の前に男の子が現れた。その人は、さっきの音の正体であろう落ちているカバンから体操着を取り出す。と次の瞬間、迷いなくそれを廊下に投げ捨てた。水浸しになっているところへ。
「あ、えっと……」
体操着で廊下を黙々と拭き始めるその男の子に声をかけようとして、慌てて止める。今はそんなことしてる場合じゃない。そもそもどう切り出せばいいかも分からないのに。
とにかく、声をかけるよりやるべきことを私は今さらになってやり始めた。自分の教室からありったけの雑巾を持ち出したり、偶然いた担任に雑巾の追加をお願いしたり。
そうしているうちに廊下は元通りになっていった。幸い、ひそひそと文句を言う通行人もいなくてほっとする。
そして最後の雑巾一枚をこぼしたバケツに男の子が入れてくれたところで。
「ありがとうございます」
廊下に人がたくさんいることを自覚しながらも、頭を下げてお礼を伝える。するとパッと男の子は顔を上げた。
ずっと下を向いて拭いてくれていたから、こうして顔を見るのは初めてで、なぜだか脈打ちが激しくなる。
薄くて、でも血色のいい唇に、絹を思わせる繊細そうな白い肌。
高い鼻に瞼に届く髪はどこも光が反射していて、ほどよい眩しさを目に与えてくれた。
そして大きな瞳は、私の今の表情が見えるほど澄んでいて。
だけど魅力的な顔の男の子は笑っても怒ってもいない表情で、だからこそその気まずさを和らげるために、次にかけるべき言葉を探して。
「すみません。体操着、濡れたましたよね?」
廊下の隅で役目を終えたように彼の体操着が眠っていた。水をたくさん吸ってるのが一目瞭然で重そう。
「いいよ、僕が勝手にやったことだし」
無表情だった男の子がぎこちなく笑う。無理な笑みが余計に焦りを生んで。
「でも、私のせいで……」
迷惑をかけてしまった。さらにお礼のことまで考え出していると。
「いいの、そんなに責めないで」
また微笑む。だけどやっぱりどこかたどたどしい。両頬が同じ高さに上がっていなくて、顔が歪んで見えた。
ますます申し訳ない気持ちになって、でも……と言いかけると。
「それより、そのバケツの中の雑巾、どうするの?」
彼が指をさす。その先には、水浸しの廊下を元通りにしてくれた救世主の雑巾たちが積まれたバケツがある。彼の体操着のように、水をたくさん吸っていると一目で分かる濡れっぷり。
「これは……汚れてるのは捨てて、新しいのは雑巾が足りてない教室の掃除道具入れにかけておいてと、先生が言ってて」
「一人でするつもりなの?」
「はい、一人でやります。私が起こしたことなので」
むしろ、それ以外の選択肢があるの? と逆に困惑してしまう。だって、悪いのは全部私なのに。周りの人をびっくりさせちゃったし、一時的とはいえあそこを通行止めにしてしまったし。それに、何より彼に……。
「僕もそれ、手伝うよ」
「え?」
わけが分からず呆気にとられる。バケツをひっくり返した時と同じくらいのパニック状態に陥る。でも、運よくさっきよりも早くに正気が戻って。
「いえいえ! 私一人でやりますから」
「あんなに雑巾あるのに?」
「大丈夫ですから! もう十分ですし。これ以上迷惑もかけたくないので」
「かけることになるよ」
え……と私が声を漏らす隙も与えないまま、彼は。
「一人でそんな重いもの持って、転んだらどうするの? 実際さっきもよろけてこぼしてたよね」
「それは……」
「廊下ならまだいいよ? でも階段だったら軽傷じゃ済まないかもしれない。そしたら、心配されるでしょ。誰かに」
「心配してくれる人……」
すぐにお母さんや友人の顔が浮かぶ。遅れてお父さんの顔も。
浮かんだ顔はお母さんよりも、お父さんの方が若く見えた。
「それに、ケガ人が出たって話になったら、学校の評判にも傷がつくだろうね。今どきSNSで尋常じゃない早さで拡散するよ」
「確かに、そっちの方が迷惑がかかりそうですね……」
「でしょ? なら、僕に手伝わせた方がいいよ。僕は迷惑とか思わないし」
「……じゃあ、お願いします」
控えめに伝えると、彼は隅に置かれた体操着を片手に、さらにバケツを違う方の手で運ぼうとする。
「さ、さすがに私が」
「迷惑かけたくないでしょ」
そう言われて、仕方なく食い下がる。言っても聞いてくれそうにないから。
両手にかかる力がない代わりに、余計な神経がフル稼働して、無意識に彼の方を見てしまう。
まっすぐに、ただ前を見つめていた。それも目の前じゃなくて、廊下の突き当りを見ているような、遠い目をしていた。
あんな目で、未来とかを想像しているのかな。さっきみたいに、私がよろけてケガをして誰かに心配かけられる、そんな悪い未来まで。
彼は見ず知らずの私を助けてくれて優しい人だ。でも同時に少し強引な人だとも思った。
とはいえ、迷惑をかけてしまったことは事実なわけで。これから私は、その迷惑に対して一つ一つお礼を伝えていきたい。だからといって、すぐに何か返せるわけでもないけれど。今はただ、こんなに優しさをくれる彼に渡すありがとうの形を考えていた。
と、いつの間に突き当りが目と鼻の先にあり、そこにある教室へと私たちは自然に入っていった。
掃除道具入れを覗き込んでは、雑巾を入れたり入れなかったり。
そんな単純で、だけど一階から四階までの全教室となるとかなりの重労働で作業が全部終わった時にはへとへとだった。家の前の坂を毎日上っているというのに。
「大丈夫?」
「だぁ、い丈夫だよ!」
バケツを持ってくれていて明らかに私が楽をしているから、彼より疲れているふうを出すなんて許されない、と見栄を張ってみせる。だけど。
「途中で休憩挟まなかったの僕が悪いよ。やっぱり僕一人でやった方がよかったのかな」
「いや、私が失敗したことを私がやらないって、おかしいよ」
「そう言うと思って、申し出なかったんだけど。でもちょっと後悔してる」
今度は本当に顔を歪めている。そんな顔してほしくない、と本能的に思って、必死で今自分にできることを探す。彼ににありがとうを届けるためにも。すると、夕陽が差し込む二階の体育館への渡り廊下に光る箱を見つけた。すぐにこれだ、と閃く。
「ちょっと、待ってて。あ、好きな飲み物とかある?」
「急に? えっと、今の気分でいいかな?」
「うん」
「じゃあ、紅茶。あったかいの」
注文を取り終え、小走りで渡り廊下へと向かっていると。
「走らないで、危ないから」
後ろから彼の声が聞こえて、走るのをやめる。さっき言ってた迷惑の文字が浮かんで。
今度は速く歩き、目的の飲み物を買った。二本のペットボトルが、濡れた雑巾で冷えた指先を温めてくれた。
彼の待つ二階の教室がある廊下に来ると、あれ? と首を傾げる。
待っていたはずの彼の姿が見えなくて。
ちゃんと彼と別れた地点まで来て、目の前の教室の中を覗いてみるも、誰の姿もなかった。
嫌な予感が背中を走る。
これが正しければ、彼はあまりにも優しすぎる。そして残酷すぎる。
ううん、それは正しい。困ってた私を助けてくれて、その上後の仕事まで。重いものまで持ってくれて。
だからこそ、残酷すぎる。ありがとうを伝える隙すら、与えてくれないなんて。
ついさっき取り出したはずの二本の紅茶からは、既に温もりが消え去っていた。
放課後の掃除でのこと。身体がよろけた反動で、バケツがひっくり返った。
周りがざわつき始める。私の教室前の廊下が水浸しになっていることに。
そうさせた当の本人である私は、あまりのパニック状態に動き出せないでいた。水はどうしてか広がり続ける性質を持っているから、一刻も早く対応しなければいけないというのに。
自分のローファーに水が届きそうになったその時。
ボスン
何かがそばで落ちる音がしたかと思えば、目の前に男の子が現れた。その人は、さっきの音の正体であろう落ちているカバンから体操着を取り出す。と次の瞬間、迷いなくそれを廊下に投げ捨てた。水浸しになっているところへ。
「あ、えっと……」
体操着で廊下を黙々と拭き始めるその男の子に声をかけようとして、慌てて止める。今はそんなことしてる場合じゃない。そもそもどう切り出せばいいかも分からないのに。
とにかく、声をかけるよりやるべきことを私は今さらになってやり始めた。自分の教室からありったけの雑巾を持ち出したり、偶然いた担任に雑巾の追加をお願いしたり。
そうしているうちに廊下は元通りになっていった。幸い、ひそひそと文句を言う通行人もいなくてほっとする。
そして最後の雑巾一枚をこぼしたバケツに男の子が入れてくれたところで。
「ありがとうございます」
廊下に人がたくさんいることを自覚しながらも、頭を下げてお礼を伝える。するとパッと男の子は顔を上げた。
ずっと下を向いて拭いてくれていたから、こうして顔を見るのは初めてで、なぜだか脈打ちが激しくなる。
薄くて、でも血色のいい唇に、絹を思わせる繊細そうな白い肌。
高い鼻に瞼に届く髪はどこも光が反射していて、ほどよい眩しさを目に与えてくれた。
そして大きな瞳は、私の今の表情が見えるほど澄んでいて。
だけど魅力的な顔の男の子は笑っても怒ってもいない表情で、だからこそその気まずさを和らげるために、次にかけるべき言葉を探して。
「すみません。体操着、濡れたましたよね?」
廊下の隅で役目を終えたように彼の体操着が眠っていた。水をたくさん吸ってるのが一目瞭然で重そう。
「いいよ、僕が勝手にやったことだし」
無表情だった男の子がぎこちなく笑う。無理な笑みが余計に焦りを生んで。
「でも、私のせいで……」
迷惑をかけてしまった。さらにお礼のことまで考え出していると。
「いいの、そんなに責めないで」
また微笑む。だけどやっぱりどこかたどたどしい。両頬が同じ高さに上がっていなくて、顔が歪んで見えた。
ますます申し訳ない気持ちになって、でも……と言いかけると。
「それより、そのバケツの中の雑巾、どうするの?」
彼が指をさす。その先には、水浸しの廊下を元通りにしてくれた救世主の雑巾たちが積まれたバケツがある。彼の体操着のように、水をたくさん吸っていると一目で分かる濡れっぷり。
「これは……汚れてるのは捨てて、新しいのは雑巾が足りてない教室の掃除道具入れにかけておいてと、先生が言ってて」
「一人でするつもりなの?」
「はい、一人でやります。私が起こしたことなので」
むしろ、それ以外の選択肢があるの? と逆に困惑してしまう。だって、悪いのは全部私なのに。周りの人をびっくりさせちゃったし、一時的とはいえあそこを通行止めにしてしまったし。それに、何より彼に……。
「僕もそれ、手伝うよ」
「え?」
わけが分からず呆気にとられる。バケツをひっくり返した時と同じくらいのパニック状態に陥る。でも、運よくさっきよりも早くに正気が戻って。
「いえいえ! 私一人でやりますから」
「あんなに雑巾あるのに?」
「大丈夫ですから! もう十分ですし。これ以上迷惑もかけたくないので」
「かけることになるよ」
え……と私が声を漏らす隙も与えないまま、彼は。
「一人でそんな重いもの持って、転んだらどうするの? 実際さっきもよろけてこぼしてたよね」
「それは……」
「廊下ならまだいいよ? でも階段だったら軽傷じゃ済まないかもしれない。そしたら、心配されるでしょ。誰かに」
「心配してくれる人……」
すぐにお母さんや友人の顔が浮かぶ。遅れてお父さんの顔も。
浮かんだ顔はお母さんよりも、お父さんの方が若く見えた。
「それに、ケガ人が出たって話になったら、学校の評判にも傷がつくだろうね。今どきSNSで尋常じゃない早さで拡散するよ」
「確かに、そっちの方が迷惑がかかりそうですね……」
「でしょ? なら、僕に手伝わせた方がいいよ。僕は迷惑とか思わないし」
「……じゃあ、お願いします」
控えめに伝えると、彼は隅に置かれた体操着を片手に、さらにバケツを違う方の手で運ぼうとする。
「さ、さすがに私が」
「迷惑かけたくないでしょ」
そう言われて、仕方なく食い下がる。言っても聞いてくれそうにないから。
両手にかかる力がない代わりに、余計な神経がフル稼働して、無意識に彼の方を見てしまう。
まっすぐに、ただ前を見つめていた。それも目の前じゃなくて、廊下の突き当りを見ているような、遠い目をしていた。
あんな目で、未来とかを想像しているのかな。さっきみたいに、私がよろけてケガをして誰かに心配かけられる、そんな悪い未来まで。
彼は見ず知らずの私を助けてくれて優しい人だ。でも同時に少し強引な人だとも思った。
とはいえ、迷惑をかけてしまったことは事実なわけで。これから私は、その迷惑に対して一つ一つお礼を伝えていきたい。だからといって、すぐに何か返せるわけでもないけれど。今はただ、こんなに優しさをくれる彼に渡すありがとうの形を考えていた。
と、いつの間に突き当りが目と鼻の先にあり、そこにある教室へと私たちは自然に入っていった。
掃除道具入れを覗き込んでは、雑巾を入れたり入れなかったり。
そんな単純で、だけど一階から四階までの全教室となるとかなりの重労働で作業が全部終わった時にはへとへとだった。家の前の坂を毎日上っているというのに。
「大丈夫?」
「だぁ、い丈夫だよ!」
バケツを持ってくれていて明らかに私が楽をしているから、彼より疲れているふうを出すなんて許されない、と見栄を張ってみせる。だけど。
「途中で休憩挟まなかったの僕が悪いよ。やっぱり僕一人でやった方がよかったのかな」
「いや、私が失敗したことを私がやらないって、おかしいよ」
「そう言うと思って、申し出なかったんだけど。でもちょっと後悔してる」
今度は本当に顔を歪めている。そんな顔してほしくない、と本能的に思って、必死で今自分にできることを探す。彼ににありがとうを届けるためにも。すると、夕陽が差し込む二階の体育館への渡り廊下に光る箱を見つけた。すぐにこれだ、と閃く。
「ちょっと、待ってて。あ、好きな飲み物とかある?」
「急に? えっと、今の気分でいいかな?」
「うん」
「じゃあ、紅茶。あったかいの」
注文を取り終え、小走りで渡り廊下へと向かっていると。
「走らないで、危ないから」
後ろから彼の声が聞こえて、走るのをやめる。さっき言ってた迷惑の文字が浮かんで。
今度は速く歩き、目的の飲み物を買った。二本のペットボトルが、濡れた雑巾で冷えた指先を温めてくれた。
彼の待つ二階の教室がある廊下に来ると、あれ? と首を傾げる。
待っていたはずの彼の姿が見えなくて。
ちゃんと彼と別れた地点まで来て、目の前の教室の中を覗いてみるも、誰の姿もなかった。
嫌な予感が背中を走る。
これが正しければ、彼はあまりにも優しすぎる。そして残酷すぎる。
ううん、それは正しい。困ってた私を助けてくれて、その上後の仕事まで。重いものまで持ってくれて。
だからこそ、残酷すぎる。ありがとうを伝える隙すら、与えてくれないなんて。
ついさっき取り出したはずの二本の紅茶からは、既に温もりが消え去っていた。



