努力の結末に幸福がないと知っていても

「昔、一緒に絵描いてた人」
 結局、捻り出したのはこれまでと同じ、薄っぺらい模範解答だった。
「それは知ってる」
「じゃあ、何が聞きたいの」
「……うまく言えない」
 窓の外から、運動部の規則的な掛け声がくぐもって聞こえてくる。まだ五時前だというのに冬の日はすでに傾きかけ、窓ガラスの表面には教室の無機質な蛍光灯の光が薄っすらと反射し始めていた。
「ただ、高瀬にとって本当にそれだけの人なのかなって」
「特別な人じゃないよ」
 反射的に答えてから、その間髪を入れない即答はかえって不自然だったかもしれないと後悔した。
「そっか」
 それなら、会話はここで打ち切られるはずだった。
 小宮と待ち合わせの約束があるのなら、紗良はもう教室を出ればいい。僕だって自分の教科書をすべて鞄に収めたのだから、いつまでもこの薄暗い教室に居残る合理的な理由などない。
 それでも、お互いに牽制し合うように、どちらもその場から動こうとしなかった。
「何か言いたいことがあるなら言えばいいのに」
「高瀬って、そういうの嫌いじゃなかったっけ」
「何が?」
「言いたくないことを無理に聞かれるの」
 文化祭の日の夕暮れ、あの冷え切った公園の光景が脳裏を鋭くかすめた。
――そうやって待つの、やめろよ。
 過去の自分の声に囚われて返事に詰まっていると、紗良は小さく乾いた笑い声を立てた。
「じゃあ、もう聞かない」
「……うん」
「小宮を待たせてるから、行くね」
「ああ」
「それじゃ」
「牧野」
 咄嗟に呼び止めたものの、自分でも何を付け足すつもりだったのか完全に思考がショートしていた。
 怒っているのかと問いただしたいわけではない。澪の存在をネットで調べ上げた理由を再度追及して責め立てたいわけでもない。
「月曜、自習室に行くか?」
 紗良は、背を向けたままわずかに思案するような間を置いた。
「まだ分かんない」
「そうか」
「うん。じゃあね」
 パタンと閉まったスライド扉の乾いた余韻が残る教室で、僕はしばらくの間、重りでもつけられたようにその場から一歩も動くことができなかった。

 月曜日の朝、紗良はいつも通り何食わぬ顔で「おはよう」と声を掛けてきた。
 僕も同じトーンでそれを返す。
 午後の数学の授業の冒頭で、先週末の小テストの答案が返却された。
 僕は満点の十点。
 紗良は八点だった。
 授業終了のチャイムが鳴り終わると、彼女は自分の答案用紙を片手に僕の席へと歩み寄ってきた。
「また二点落としちゃった」
「見れば分かるだろ」
「どこで間違えたか教えてよ」
「ここだ。最初の数列の公差の計算」
「三じゃないわけ?」
「二に決まってるだろ。元の数字から引いてみろよ」
「あ……」
「ほら見ろ」
「でも、そのあとの展開は合ってるでしょ」
「最初のステップで躓いてたら、そのあとの論理構築なんて意味ないだろ」
「そこは部分点をさ」
「俺にそんな交渉をするな」
「高瀬先生、冷たいなあ」
「誰が先生だ」
 いつものように軽妙な嫌味で切り返すと、紗良はふっと表情を緩ませて柔らかく笑った。
 僕もつられて口元を緩ませる。
 周囲のクラスメイトの目から見れば、僕たちの関係はあの気まずい金曜日の放課後から何一つ変わっていないように映るはずだった。
「今日、自習室には行くのか?」
 今度は僕のほうから尋ねた。
「行くよ」
 金曜日の夕方にあの教室で感じた息苦しいほどの違和感は、きっと僕の神経過敏が引き起こしたただの杞憂だったのだ。
 僕は自分自身に言い聞かせるように、そう結論づけることにした。

 放課後の自習室は、いつもより人が少なく、空気がひんやりと冷たく感じられた。
 定位置の椅子に腰を下ろす。斜め前の席には紗良。机の上にはいつものように数学の問題集と英語の参考書、そして僕の無糖の缶コーヒーと彼女の甘いミルクティーが並んでいる。
 配置されている小物に至るまで、すべてが完璧に日常の枠内に収まっていた。
 数学の問題を開く。自力で数式を組み立てて解く。答えの数値を解答欄と確認する。すべて正解。次の問題へ移行する。また正解。
 紙をめくる規則的な音と、シャープペンシルの芯が上質紙を削り取る乾いた摩擦音だけが、室内に静かに響き渡る。その単調で予測可能なリズムの中に身を浸していると、昨日までの頭にこびりついていた澱みが少しずつ薄れていくような気がした。
「高瀬」
 紗良が、周囲の学習者に配慮したひそやかな声で僕を呼んだ。
「この英語の長文、意味が取れる?」
「俺だって英語が特別得意というわけじゃないけど」
「私よりはましでしょ」
「……ここの構文は、こう繋がるんじゃないのか?」
「どうして?」
「時制の一致だろ。昨日、英語の授業でやってたじゃないか」
「あ……」
「もしかして、授業を聞いてなかったのか?」
「半分くらいはね」
「知ってるよ、途中から完全に船を漕いでたし」
「なら起こしてくれればよかったのに」
「あんな厳しい英語の教師の真ん前で、そんな真似ができるかよ」
「一応は友達でしょ」
 意図せず、その単語が彼女の口から零れ落ちた。
 僕はわずかに鉛筆を動かす手を止めた。
「……何だ?」
「ううん、何でもない」
 解きかけの英語の参考書を、彼女の机へとそっと押し戻す。
 そこからの三十分ほどは、驚くほど平穏に勉強のプロセスが進んだ。
 十分。
 二十分。
 三十分。
 澪の存在について、脳裏を掠めることすらなかった。
 そう自覚した瞬間、皮肉にもその忘却そのものがトリガーとなって、あの夕暮れの公園の冷たい声が再び鮮明に蘇ってきた。
――朔が辞めたことまで、私に持たせないで。
 僕は奥歯を噛み締め、目の前の問題の続きをノートに書き殴る。
 今はただ、目の前の数学の計算処理に没頭すればいい。余計なノイズはすべて方程式の海に沈めてしまえばいいのだ。
「ねえ、高瀬」
「何だ」
 今度の紗良は、解けない問題を僕に突き出すことはしなかった。
「神谷さんと、何かトラブルでもあったんでしょ」
「トラブルというか……ただ、昔の個人的な話を少ししただけだ」
「絵の件で?」
「ああ」
「それで?」
「それだけだよ」
「高瀬、最近そればっかり」
「ほかにどう説明すればいいんだよ」
「例えば、本当に絵をやめた理由とか」
 すぐには言葉を返せなかった。
「なんでそこまで他人の過去を知りたがるんだ」
 自習室という空間の特性上、声を荒らげるわけにはいかない。それは紗良も同じだったらしく、彼女は少しだけ間を置いてから静かなトーンで答えた。
「知りたいから」
「なんで?」
「……友達だから」
「友達という記号があれば、過去のすべてを赤裸々に報告する義務が生じるのか?」
 口にした直後、自分のその攻撃的な防御反応は明らかに間違っていると思った。
「そういう意味で言ったんじゃない」
「分かってる。今のは言葉が過ぎた――」
「分かってるってば」
 そこで会話の糸がプツリと切れた。
 紗良は英語の参考書を開いたまま、しばらく次のページへと視線を送ろうとしなかった。
「別に、何もかも全部教えてほしいわけじゃないよ」
「じゃあ」
「ただ、あの神谷さんには、自分からその話をしたんだなって思っただけ」
 彼女の続く言葉の論理は、聞くまでもなく分かっていた。
「私には絶対に言いたくない過去の秘密を」
「澪は、その当時の同じ空間をリアルタイムで共有していたからな」
「それは頭では分かってる」
「だったら――」
「分かってるけど、それでも嫌だったの」
 これ以上の対話は不可能だった。
 自習室の冷たい空気の中、何席か離れたところで誰かがページを荒々しくめくる音がしている。僕の手元の問題集には、途中まで展開した数式が中途半端な姿で残ったままだった。
「……今の会話は忘れてくれ」
「そんなの無理でしょ」
「じゃあ、最初から何も聞かなかったことにしてくれよ」
「それも無理があるよ」
「高瀬だって、普段からよくやってるじゃん」
「何を?」
「自分にとって嫌なことを、最初からなかったみたいに処理するの」
 一瞬、彼女が何を指摘しているのか理解が追いつかなかった。
「……してないよ」
「してる」
「なんで牧野に俺の思考回路が分かるんだよ」
 声が、想定していたよりも一段階大きなボリュームになってしまった。
 少し離れた席で、シャープペンシルの音がピタリと止まる気配がした。
 僕たちは二人とも、それ以上の言葉を続けることを自制した。
「……外、行こっか」
 机の上には、さっきまで解いていた二次関数の問題が残っている。あと二行ほど数式を展開すれば、確実に答えに到達できるはずだった。
 それでも僕は、逃げるようにその問題集をパタンと閉じた。

 建物の外へ出ると、冬の空はすでに完全に日が落ちて暗黒に染まっていた。
 駅へと向かう帰宅者たちの流れから外れ、自習室の裏手にある小さな児童広場まで無言で歩く。昼間は近所の子どもたちが遊ぶその場所には、低いコンクリートの滑り台と木製のベンチがあり、砂場の端には踏み潰された枯れ葉が吹き溜まりを作っていた。
 僕たちはどちらも、そのベンチに腰を下ろそうとはしなかった。
「さっきの」
 沈黙に耐えきれず、自分から切り出す。
「俺が嫌なことをなかったことにするって、どういう意味だ?」
「本当に自覚がないの?」
「分からないからこうして聞き返してるんだ」
「高瀬ってさ、何か自分の中で処理しきれないことがあると、決まって勉強に逃げ込むよね」
 まったく予想していなかった角度からの指摘だった。
「学生なんだから、普通は勉強するだろ」
「そういう表面的な意味じゃない」
「じゃあ何だっていうんだよ」
「文化祭の次の日だって、まさにそうだったじゃない」
 あの日の自習室での自分の姿が、客観的な映像として頭に浮かぶ。
「あの日、全然問題文に集中できてなかったくせに、何時間も意地になったようにずっと数学の計算ばっかりやってたじゃん」
「自習室の席に座っていたんだから当然だ」
「一問解いて、赤丸つけて、また機械みたいに次の問題へ進んでた」
「それの何が悪いんだよ」
「悪いなんて一言も言ってないよ」
「じゃあ何なんだよ」
 彼女からの返事が来るまでに、少しだけ冷たい風が二人の間を通り抜けた。
「何か核心に触れるようなことを考えそうになるたびに、強引に『次の問題』っていう安全な場所へ自分を避難させてるみたいだった」
「そんなことない」
「そっか」
 彼女はあっさりと引き下がった。
 強く否定したはずなのに、その淡白な反応のほうがかえって僕の心にさざ波を立てた。
 文化祭の翌日、僕は朝から憑かれたように数学のテキストを開いた。問題の条件が脳内で霧散していく恐怖をごまかすように、何度も読み直し、答えが出れば機械的に赤い丸をつけた。
 複雑な数式を解いているあいだだけは、次に自分が何をすべきかという「正解」が明確に規定されていたからだ。
「私ね、そういう高瀬のことが好きだったんだよね」
「え?」
「あ」
 紗良の言葉が不自然に途切れた。
「変な意味じゃなくて、って言おうとしたけど……それも嘘になるか」
「何だよそれ」
「ちゃんとしてるところ」
「ちゃんとしてる?」
「真面目に勉強して、現実的な大学の進路を考えて、だいたい毎日同じ時間にこの自習室に来て。いつも同じ無糖のコーヒーを飲んでる」
「最後のコーヒーは関係あるのか?」
「あるよ」
「なんで」
「明確な論理はないけど、あるの」
 いつもの僕たちの、軽口の叩き合いに近いトーンだった。
 それなのに、あの頃の無菌室のような平穏な空気にはどうしても戻れなかった。
「高瀬って、これからもずっとこんな感じで生きていくんだろうなって勝手に思ってた」
「人間なんだから、成長や環境で多少は変化するだろ」
「そういう表面的なことじゃなくて。来年も再来年も、根本的な部分はだいたい同じ高瀬のままでいそうっていうか」
 前にも、彼女から似たようなニュアンスのことを言われた記憶がある。
――高瀬、そのまま大学生になりそう。
 あのときの僕は、その言葉をむしろ安定に対する賛辞として受け取り、おかしいとも不満とも思わなかった。
「それがよかったのか?」
「……安心したの」
「何に?」
「分かんない」
 もしこれが澪であれば、そこでまた「分かんないものは分かんない」と開き直っていただろう。
 以前の僕なら、それをただの思考放棄の適当な答えだと切り捨てていたはずだ。
 だが今の僕は、紗良がその先の言葉を見つけ出すまで黙って続きを待った。
「神谷さんの存在を知ったとき、急に足元がぐらつくみたいに変な感じがした」
「何が」
「私が知ってる高瀬って、高校に入学してからの、計算高くて合理的な高瀬の姿だけなんだなって」
「高校で初めて知り合ったんだから、当たり前だろ」
「頭では分かってるよ」
「だったら――」
「分かってても、それでも嫌だったんだって。わかってよ」
 今度は、彼女は自分の感情を否定せずに言い直した。
「神谷さんは、高瀬が泥臭く絵を描いていた過去を知ってる。文化祭の日、高瀬もその神谷さんには絵の話をした」
「俺のすべてを知ってるわけじゃない」
「でも、私は一ミリも知らなかった」
「出会う前の昔のことなんだから、知らないのは仕方ないだろ」
「だから、別に隠してたことを責めてるわけじゃないってば」
「じゃあ何が言いたいんだよ」
 駅のほうから、電車の到着を知らせる電子音が夜風に乗って微かに聞こえてきた。
 その音が完全に途切れてから、
「嫉妬したの」
 と紗良がはっきりと言った。
「……誰に」
「神谷さんに」
 その二つの名詞が、僕の脳内でどうしても論理的に繋がらなかった。
「なんで」
「好きだから、じゃない?」
「……俺のことを?」
「ほかに誰がいるっていうのよ」
「いや、でも」
「そんなに驚くこと?」
「驚くに決まってるだろ」
「そっか」
 そこで紗良は少しだけ自嘲気味に笑った。
 僕のほうは、顔の筋肉が強張ったままで到底笑えなかった。
「別に、今この場で白黒の返事がほしいわけじゃないから安心して」
「でも――」
「ほんとに。今日こんなこと言う予定なんて、最初から一ミリもなかったし」
「じゃあなんで言ったんだよ」
「高瀬がしつこく聞くからでしょ」
「俺のせいにするのか?」
「半分くらいはね」
「雑な責任転嫁だな」
「高瀬にだけは言われたくない」
 そこまでは、いつもの負けず嫌いな紗良のペースだった。
 だが、次の言葉が彼女の口から出るまでに、ひどく重たい時間が流れた。
「たぶん、神谷さん本人に対して嫌悪感を持ったわけじゃないんだと思う」
「……うん」
「この何日か、なんであんなに必死になって彼女のことをネットで検索したんだろうって、自分でも考えてた」
「それで?」
「ネットに上がってる絵も見た。コンクールの受賞歴とか、雑誌に載ってるインタビューとかも」
「うん」
「高瀬も昔、こういう圧倒的なものを描いてたのかなって想像したら、無性に嫌だった」
「あいつと同じレベルなわけないだろ」
「だから、そういう技術の優劣の話をしてるんじゃないってば」
 すぐに鋭く反論された。
「私が全く知らないところで、高瀬が本気でのめり込んでたものがあったのかもしれないって思ったら、重かったの」
「中学のころの、ほんのわずかな期間だけだよ」
「……どれくらい描いてたの?」
「ほぼ毎日」
 紗良の目がわずかに動いた。
「そんなに?」
「家でも描いてたし、絵画教室にもずっと通ってた」
「……そっか」
 短く返したあと、紗良は少しだけ視線を落とした。
「好きだった?」
 即座に答えようとして、言葉が喉の奥でつっかえた。
 好きだった。
 そう単純に言い切ってしまえば、会話は簡単に進むはずだった。
 でも、文化祭の日にあの公園で澪にぶちまけた黒い感情の数々を思い出すと、その「好き」という一言だけではあまりにも実態からかけ離れているような気がしたのだ。
「……分かんない」
 僕が紗良に対して、明確な論理を放棄してそう答えたのは、これが初めてだった。
「純粋に絵を描く行為が好きだったのか、それとも昨日より今日上手くなるという自分の成長が好きだったのか。あるいはただ単に、澪に勝ちたいという競争心だけだったのか。今はもう、自分の中でどれが本物だったのか分からないんだ」
「うん」
「でも」
 そこから先の感情は、昨日まで自分でも直視したことがなかった領域だった。
「コンクールで無惨に負けて、絶望したあとも……本当は、描きたかった」
 自らの口で音声にしたあとで、その言葉の重みだけが心の中にドス黒く残った。
「描きたかったの?」
「……たぶんな」
 あの重たい木製の画材箱を、自らの手で閉じた日のことを思い出す。
 デッサン用の鉛筆も、絵の具のチューブも、スケッチブックも、すべてが嫌いになって憎しみの果てに捨てたわけではなかった。ただ箱ごとクローゼットの暗闇へ押し込んで、見えないように扉を閉ざしただけだ。
「そっか」
「何だよ」
「ううん」
 紗良はそれ以上、僕の心の奥底を穿り返そうとはしなかった。
 そのまま、冷たい夜の空気が二人の間を流れていく。
「私ね、高瀬と一緒にいる時間が、すごく楽だったんだよね」
「それは俺も同じだ」
「劇的なことなんて、何も起きないから」
「何だよそれ」
「一緒に並んで勉強して、休憩にコンビニへ行って、帰りは同じ時間の電車に乗って。学校の先生の愚痴を言って、次のテストの範囲の話をして」
 彼女の言葉を聞きながら、その平坦な日常のピースが一つずつ脳裏に浮かび上がってきた。
 自習室の無機質な白い机。
 僕のブラックの缶コーヒーと、紗良の甘いミルクティー。
 帰りの電車の向かいの席で、窓ガラスに頭をもたれさせて眠そうに欠伸をしていた彼女の姿。
 どれもこれも、映画になるような特別な出来事だと思ったことは一度もない。
 だからこそ、何度繰り返しても精神的な負荷がかからず、飽きることがなかったのかもしれない。
「だいたい毎日同じことの繰り返しだったけど、私はそのルーティンが好きだったの」
「別に、それが悪いことだとは思わないだろ」
「うん」
 短い肯定のあと、紗良は静かに言葉を継いだ。
「文化祭の次の日も、高瀬すごい変で、ピリピリしてたじゃん」
「……うん」
「でも、こうして自習室に来て、一緒にコンビニのベンチに座って、くだらない話をしてたら、途中からだんだん『いつもの高瀬』に戻っていった」
 いつもの。
 その呪縛のような言葉を、今日は嫌というほど聞かされている。
「それを見て、私、ちょっとだけ嬉しかったの」
「なんで」
「元の鞘に戻ったって思えたから」
「何に?」
「私が知ってる、安全でいつもの高瀬に」
 文化祭の帰りの、あの薄暗い電車の座席での出来事を思い出した。
 メッセージアプリの一番上には、澪の名前が重く鎮座していた。
――楽しみにしてる。
 その言葉に何も返せないまま画面を逃げるように閉じて、僕はその下にあった紗良とのトークルームを開いたのだ。
――明日、何時にする?
 あのとき僕が渇望していたのは、紗良という人間と過ごす時間そのものだったのか、それとも「明日もいつも通りだ」と錯覚させてくれる予測可能な予定の枠組みだったのか。
 今まで、その二つを厳密に分けて自己分析したことなど一度もなかった。
「牧野を、精神安定剤みたいに利用したつもりはないよ」
「分かってるよ」
 彼女からの声に、僕を責め立てるような棘は全く含まれていなかった。
「高瀬が意図的に私を利用しようとしてたなんて、そんな悪意は疑ってないよ」
「じゃあ」
「私のほうだって、高瀬がいつも通りでいてくれることに勝手に依存して安心してたんだから」
「それの何が悪いって言うんだよ」
「悪くないよ」
 即座に肯定された。
 だから余計に、その次に続く逆接の言葉の重みが際立った。
「でもね、あの神谷さんの絵の圧倒的な熱量を見てから、もし高瀬がまたあの熱の中に戻って絵を描き始めたら、この関係はどうなっちゃうんだろうって怖くなったの」
「何も変わらないだろ」
「分かんないじゃん」
「いきなり美大を目指すとか、そういう大それた話じゃないし」
「そういう現実的な進路のことじゃない」
「じゃあ何だ」
 答えはすぐには返ってこなかった。
「……私の知らない高瀬が、また出てくるような気がしたの」
 その抽象的な恐怖の正体を、頭の中で反芻する。
「絵を描いたくらいで、人間が急に別人にすり替わるわけじゃないよ」
「うん」
「じゃあ」
「頭では分かってるの」
 それでも、彼女の言葉の波はそこで止まらなかった。
「でも、嫌だったの」
 さっきと同じ、剥き出しの感情の吐露だった。
「自分の好きな人が昔情熱を注いでたことなのに、それがなくなったままのほうが安心できるなんて、人間として変だよね」
「そこまで自分を卑下しなくても」
「でも、たぶんそれが私の本音だった」
 紗良はそれ以上、自分の醜さを正当化するような言い訳はしなかった。
「だから、あの神谷さんのことを躍起になってネットで調べたし、高瀬にもデリカシーなく色々聞いた」
「うん」
「あなたの裏側を、もっともっと知りたかった」
 駅前のロータリーを足早に歩くサラリーマンたちの声が、広場の端を無関係に通り過ぎていく。
「高瀬に数学の分からないところを聞くのも好きだったし、暇なときに自習室に誘うのも好きだった。高瀬、面倒くさそうに文句は言うけど、ほとんど断らないから」
「俺だって、別に嫌じゃなかったから付き合ってたんだよ」
「知ってる」
「だったらいいだろ」
「うん。私もそう思ってた」
 そこまで聞かされても、現状の何が致命的な問題として立ちはだかっているのか、僕の論理回路ではまだうまく処理しきれていなかった。
「このまま、ずっとそういう関係が続くんだと思ってた」
 その「ずっと」という一言だけが、僕の思考の網に深く引っかかった。
 来年も。再来年も。
 だいたい同じ時間にあの自習室の席へ来て、同じ自販機でコーヒーを買い、同じダイヤの電車で並んで帰る。
 そんな固定化された未来の予定を、明確に立てたことは一度もない。
 でも、それが唐突に消滅するとも、心のどこかで考えていなかったのは事実だった。
「牧野」
「うん」
「俺……」
 何か、決定的な言葉を返さなければならないと焦った。
 彼女のことが好きなのか。
 それとも、恋愛感情とは違うのか。
 紗良と平穏に過ごしてきたこの数ヶ月の時間を、自分はどう定義していたのか。
 どれもこれも、今この瞬間にたった一つの答えとして提出するには、あまりにも形が不鮮明すぎた。
「……ごめん」
「高瀬も、その言葉に逃げるんだ」
「何?」
「神谷さんにも、最後はそうやって言ったんでしょ?」
「……言ったよ」
「やっぱり」
「なんで分かるんだよ」
「なんとなく、ね」
 紗良の声に、少しだけいつもの軽口の調子が戻った気がした。
「じゃあ、私には今はいいよ」
「何が」
「『ごめん』って謝るのは」
「でも」
「私のほうも、勝手な理想を押し付けてたんだし」
「それは謝るようなことじゃ――」
「高瀬が勝手に決めないでよ」
 鋭く言葉を遮られた。
「前にも言ったじゃん。私にとってそれが大したことかどうかは、私が自分で決めるって」
 昼のフードコートで、彼女が器を見つめながら放った言葉だった。
「……うん」
 それからしばらく、僕たちはどちらも言葉を発さなかった。
 紗良との間に沈黙が落ちることは、これまでにも日常茶飯事だった。自習室では一時間近く無言でノートに向かうこともあるし、帰りの電車でどちらも眠気に負けて黙り込んでいることだってある。
 だが、あの無害な沈黙には、「次に誰かが口を開けば、また普通に日常の続きが始まる」という絶対的な前提が存在していた。
 今日のこの冷たい沈黙には、その前提がすっぽりと抜け落ちている。
 それでも、無理に言葉を取り繕って空間を埋めようという気にはなれなかった。
「私ね、しばらく高瀬と一緒にいる時間を減らすことにする」
「……え」
「別に、小学生みたいに絶交するとかじゃないよ」
「じゃあ、なんで」
「ちょっと一人で落ち着いて考えたいから」
「何を?」
「自分のこと」
「自分?」
「大学の進路とかもね」
 まったく予想していなかったベクトルへと話が変わった。
「地元の教育学部でいいってずっと思ってたけど、それも本当に自分で納得して決めたのかなって、ちょっと分かんなくなってきたの」
「この前、資料見てた大学か?」
「うん」
「行きたいんじゃないのかよ」
「今は、たぶん」
「じゃあ――」
「高瀬って、本当にすぐ白黒の答えを出そうとするよね」
 続きの正論を、見透かされたように止められた。
「別に、目標は早く決めたほうが合理的だろ」
「理屈ではそうなんだけどさ」
 紗良は少し考えるように視線を落としてから、
「今は、分かんないまま宙ぶらりんで迷っててもいいかなって」
 と、静かに言った。
「……そう」
「うん」
 それは、合理性を重んじる僕の脳内では、いまだにうまく処理しきれない非効率な答えだった。
「今日は、もう帰るね」
「一緒に駅まで?」
 思考を巡らせるよりも先に、反射的に尋ねていた。
「ううん。今日は別々で帰ろうかな」
「……分かった」
「うん」
 紗良が広場を抜け、駅の方角へと歩き出す。
 数歩進んだ先で、彼女はピタリと足を止めた。
「高瀬」
「何」
「明日の数学、小テストあるよね」
「あるよ」
「範囲、どこからだっけ?」
「教科書の百四十二ページから」
「百四十二ね、了解」
「そういう事務的なことは普通に聞くんだな」
「明日の点数に必要だから」
「都合いいな」
「お互い様でしょ」
 その最後のやり取りだけは、いつもの僕たちの軽口のまま返すことができた。
「じゃあ、また明日学校で」
「うん。また明日」
 紗良は今度こそ振り返ることなく、駅へと向かって歩いていった。
 いつもなら、僕も当然のように彼女と同じ方向へと歩調を合わせる。
 並んで改札を抜け、ホームの黄色い線の内側で電車を待つ。電車が滑り込んくれば隣か向かいの席に腰を下ろし、紗良が目的の駅で先に降りるまで、他愛のない話をしたり、心地よい沈黙を共有したりする。
 そのルーティンを、これまでに何度繰り返してきたのか数えたこともない。
 数える必要があると考えたことすらなかった。
 今日は、その見慣れた帰路を、紗良の背中だけが一人で遠ざかっていく。
 今から小走りで追いつこうと思えば、まだ十分に間に合う距離だった。
 けれど、彼女は明確に「今日は別で帰る」と線を引いた。
 僕は暗くなった広場の片隅に残されたまま、駅へ向かう人波の中に紗良の制服のシルエットが混じり、やがてどれが彼女なのか完全に判別がつかなくなるまで、ただじっと見送り続けていた。

 翌朝、教室へ入ると、紗良はもう自分の席に座っていた。
「おはよ」
「おはよう」
 交わした言葉は、それだけだった。
 昨日、自分で宣言した通り、紗良は僕の席へ近づいてこなかった。完全に絶交したわけではない。明日から一切口を利かなくなるというわけでもない。ただ、これまでのように必要以上に一緒にいる時間を減らす。それだけのことのはずなのに、いつもなら僕の前の席に綺麗に収まっているはずの她的な鞄が、今日は教室の反対側のロッカーの近くに追いやられている。その位置のズレが、朝のホームルームが始まってからも妙に視界の端でざらついた。
 返却された数学の小テストの結果は、僕は満点の十点、紗良は九点だった。途中の計算プロセスで一箇所だけ、プラスとマイナスの符号を取り違えるというケアレスミスを犯していた。
 普段なら授業が終了した瞬間に答案を握りしめて僕のところへやってきて、「どこで間違えたの?」と詰め寄ってくるはずだった。だが今日は、小宮が紗良の席へと赴き、二人で答案用紙を突き合わせながら何やら楽しげに言葉を交わしている。
 僕は自分の答案を無言で筆箱の奥底へと押し込んだ。
「おい高瀬、お前らまた何か喧嘩でもしてんのか?」
 斜め前の席から三浦が振り返り、面白がるような目を向けてくる。
「してないって何度言えば分かるんだよ」
「そうかあ? 最近あいつ、あっちのグループにべったりじゃん」
「ほんとに何も起きてない。ただ、ちょっとお互いに距離を置いてるだけだ」
「それ、大喧嘩したカップルが別れ際に吐く常套句だぞ」
「そもそも付き合ってない」
「そこは重要じゃないんだよ」
「じゃあどこが重要なんだよ」
「高瀬って、こう見えて意外と人間関係めんどくさいタイプなんだなって思ってさ」
「急に何を言い出すんだよ」
「俺、最初のうちは牧野のほうがよっぽど扱いづらいお姉系かと思ってたけど、訂正するわ」
「本人に直接それを言ってみろよ」
「殺されるわ」
「なら俺にも変なちょっかいを出すな」
 三浦が肩を揺らしてケラケラと笑い、僕もそれに合わせて適当に口元を歪ませた。そこで会話は自然に途切れた。
 昼休みは三浦たち男子の輪に混じり、紗良は小宮の隣で弁当を広げている。午後の退屈な授業も普通に受け、放課後のチャイムが鳴れば、いつもと同じように次の時間が訪れた。
 困惑したのは、本当にそのあとだった。
 国語の教科書をバッグに詰め込みながら、無意識の癖で前の席に視線を走らせる。そこにはもう、彼女の姿は影も形も残っていなかった。
 自習室へ向かったのかもしれない。あるいは、今日は真っ直ぐ帰宅したのかもしれない。今から自習室を覗きに行けば顔を合わせるかもしれないし、すれ違うだけかもしれない。
 そんな不確定な確率の計算ばかりを脳内で巡らせている自分が急に滑稽に思えてきて、僕はその日、誰とも目を合わさずにまっすぐ自宅へと帰路についた。

 家に戻ると、室内の空気はひんやりと静まり返っていた。
 母は夕方の特売にでも出かけているらしく、三和土には彼女のスニーカーの姿がない。父が帰宅するにはまだ早すぎる時間だった。リビングの壁掛け時計は、午後四時二十分を刻んでいる。
 冷えた麦茶を一気に飲み干してから二階へと上がり、制服の上着を乱暴に脱ぎ捨てる。いつもなら、そのままの勢いで自室の机に向かい、数学の参考書を開く時間帯だった。
 問題集を開く。
 今日学校の授業でやったばかりの単元だ。難易度としては基礎の反復に過ぎない。一問目に目を通し、与えられた条件を正確に方程式へと翻訳していく。最初の数行は、いつもと変わらない淀みない筆致で進んでいった。
 ふと、手がピタリと止まる。
 部屋があまりにも静かすぎた。
 普段なら、この薄暮の時間帯の自習室は、誰かがページを繰る乾いた音や、椅子を引きずる鈍い摩擦音、そして時折誰かが漏らす小さな咳払いで満たされているはずだ。僕の斜め前にはいつでも紗良が座っていて、難解な問題に直面するたびに、無言で問題集の端を僕の机へと滑り込ませてきた。そこには決まって、「ここ、意味が分からない」という控えめなメモ書きが添えられている。
 今日この場所にあるのは、家の前を走り去る車のエンジンの低くくぐもった走行音だけだった。
 問題集の白紙の余白に、シャープペンシルをそっと置いた。
 机の少し先。
 クローゼットの重たい折り戸が、不気味なほどの存在感を放って僕を見据えている。
 三年間ずっと、それはあの中に眠っていた。
 中に何が収められているのか、忘れてなどいなかった。頭の中でインデックスを引けば、中身のディテールまで正確に再現できる自信すらあった。それでも、「そこにあるという事実を知っていること」と、「実際に自らの手でその封印を解くこと」の間には、越えがたい絶対的な壁が存在していた。
 椅子から立ち上がり、クローゼットの取っ手に手を掛ける。
 一度だけ、ためらいから指の動きが凍りついた。
 ただ、中身を確認するだけだ。
 再び筆を執って絵を描くわけではない。
 自分にそう言い聞かせ、僕は思い切って扉を引いた。
 最上段に積まれた受験用の分厚い参考書と赤本の群れをどかすと、その奥の暗がりにひっそりと息を潜めていた茶色い木製の箱が姿を現した。
 一番上に重なっていた赤本の束を持ち上げた拍子に、木箱の蓋の端にこびりついた乾いた絵の具の痕跡が視界に飛び込んできた。
 三年前のあの日、あの場所に放置したときと寸分の狂いもない、鮮やかな青の染み。
 箱の真鍮の金具に指を差し入れる。
 またしても、動作が停止する。
 深く息を吸い込み、僕は躊躇なくその蓋を勢いよく跳ね上げた。
 立ち込めてきたのは、古びた紙の繊維と、乾ききった絵の具の粒子、そして長年密閉されていた木材特有の乾いた匂いが入り交じった、懐かしくも生々しい気配だった。
 自習室の空気の中で唐突に鼻腔を刺激したあの幻臭とは比べ物にならないほど微弱で、テレピン油の鋭い揮発臭なんてほとんど痕跡をとどめていない。
 それでも、それは紛れもなく、僕が過去に置き忘れてきた匂いそのものだった。
 硬い木軸の鉛筆、使い減らした練り消しゴム、カチカチに固着した絵の具のチューブ、毛先の広がった使い古しの筆。そして、無数の色彩の戦場跡が刻み込まれた木製のパレット。小さな金属製の鉛筆削りに至るまで、当時のままの配置で収まっていた。
 その下から、何冊もの使い古されたスケッチブックの束を引き抜く。
 一番上にあった一冊を手に取り、表紙を開いた。
 角は完全に潰れ、紙の切り口は手垢と黒鉛の粉で薄汚れている。最初のページを繰ると、そこにあったのは不格好な「自分の左手」のデッサンだった。
 中学一年の春。
 机の上に自分の左手を無造作に置き、必死の思いでその輪郭を追った痕跡。指のバランスは奇妙に短く、描線は緊張からか不自然に硬直している。次のページをめくっても、その次をめくっても、ひたすら同じ左手が執拗に描かれ続けていた。ページが進むにつれて、わずかずつ指の長さの比率が正確になり、関節の曲線の滑らかさが加わっていく。
 さらにページを先へと送る。
 無機質なペットボトル。パイプ椅子。一個の林檎。無造作に置かれた紙コップ。
 そして、あの幾何学的な「立方体」の群れ。
 それは一枚や二枚ではなかった。
 最初に描いたページは、今見れば失笑してしまうほどパースが狂い、歪みきっている。けれど二枚目、三枚目とページをめくるごとに、奥行きの消失点が正確な位置へと収束していく。
 六月十四日。
 六月十四日。
 六月十四日。
 同じ日付が、何ページにも続いていた。
 紙をめくるたびに、己の技術が微速に、しかし確実に研ぎ澄まされていく。
 昔の僕は、その変化の過程を確認するのが何よりも好きだった。
 一枚前でできなかった線が、次の紙では形になっている。一枚目の失敗を教訓に、二枚目ではより正確に実物の真理へと肉薄できる。その成長の可視化が、たまらなく誇らしかった。
 あの頃の僕なら、この先のページを開けばいくらでも未来への道筋が見えると信じ込んでいたはずだ。
 人物。背景の窓。打ち捨てられた靴。
 ページの途中に、鉛筆の先で乱暴に書き殴られたような、小さな文字が見つかった。
『肩』
 その一文字を見た瞬間、脳裏にあの日の湿った空気が鮮やかに蘇ってきた。
 相沢先生から、人物デッサンの肩から腕にかけての線の硬さを指摘された日の夜。悔しさに歯噛みしながら、自室の机の上で自分の肩のラインを狂ったように何十回も描き直した深夜の記憶。
 たった一人の大人から下された些細な指摘を、僕はそれほどまでに重く受け止め、家まで持ち帰って執着していたのだ。
 そんな幼いまでの生真面目さの履歴書が、この紙の束にはすべて残されていた。
 さらにページを繰っていくと、今度はあのコンクールのために制作した「踏切」の初期の下描きが挟まっていた。
 一枚目。
 二枚目。
 三枚目。
 そして、試行錯誤の果てに到達した七枚目まで。
 比較すれば一目瞭然だった。
 進めば進むほど構図のバランスは洗練され、線路の遠近法は狂いのない美しさを獲得している。最後の一枚である七枚目が、客観的に見て最も完成度が高いことは疑いようがなかった。
――最初の下描きのほうが、私は好きだな。
 あのとき、澪が呟いた言葉が脳裏をよぎる。
 僕は、七枚目のほうが圧倒的に上手いと主張した。
 今こうして冷静な目で実物を照らし合わせても、その評価に微塵の揺らぎもない。技術的な正解という意味において、七枚目のほうが優れているのは絶対的な事実だ。
 それなのに、なぜか僕の手は、自然と一番最初の一枚目へとページを巻き戻していた。
 画面の中央に無造作に配置された踏切。その奥へと、ひたすら泥臭くまっすぐに伸びていく線路。
――帰り道っぽくて、いいと思うけどな。
 当時の彼女の意図を、当時の僕はまったく理解できなかった。今こうして改めて説明しろと言われても、的確な言語化は難しい。
 それでも、七枚目の完璧なバランスの紙へと再び視線を戻す気には、どうしてもなれなかった。
 しばらくの間、僕はその稚拙な一枚目の下描きを凝視したまま、身動き一つできずに立ち尽くしていた。
 その下の層から、いよいよあのコンクールへ提出した本番の作品が現れた。
 箱から慎重に引きずり出す。
 踏切。夕暮れの住宅街。斜めに差し込むドラマチックな光。
 実に三年ぶりの再会だった。何ヶ月もの間、自室の机の特等席で向き合い続けたはずの自分の最高傑作を、今の僕はまるで他人の作品を見るような冷めた目で眺めていた。
 記憶の中のイメージは、いつの間にか美化されすぎていたらしい。
 心のどこかで、もっと圧倒的な輝きを放つ傑作であるはずだと思い込んでいた。
 だが、現実にそこに存在していたのは、ただの一人の未熟な中学生が必死の思いで描き上げた、背伸びした絵画に過ぎなかった。
 表面を指の腹でそっと撫でてみる。
 何度も何度も消しゴムで修正を重ね、その上からさらに絵の具を盛り付けた箇所だけが、周囲の平滑な紙肌から不自然に浮き上がり、毛羽立っていた。
 指先を走らせると、そこだけが微かにざらついた感触を伝える。
 その感触に触れた瞬間、あの文化祭の美術室で目撃した澪の『境目』の記憶が呼び覚まされた。
 あの人物の右肩のあたりに、異様なまでの執念で何層も塗り重ねられていた絵の具の盛り上がり。
 素材も違えば、表現の方向性も、修正に至った動機すらもまったく共通点はない。
 ただ、そのざらつきだけが、なぜか『境目』の右肩と重なって見えた。
 ため息をつき、僕はその踏切の絵を再び静かに木箱の中へと収めた。
 スケッチブックの束も、その上にきれいに並べ直す。
 蓋を閉じようとした最後の一瞬、箱の端の隅っこに、一本の硬い物体が引っかかっているのに気がついた。
 短い鉛筆。
 表面の黄色い塗装はところどころ剥げ落ち、生々しい木肌の繊維が剥き出しになっている。昔、一番気に入って使い込んでいたお下がりだった。
 無意識のうちに、それを指先で摘み上げていた。
 現在、学校の勉強で愛用しているシャープペンシルとは比較にならないほど太く、重量感がない。
 一度はそのまま箱に戻そうとした。
 そうして蓋を閉めさえすれば、すべては再び永久の闇の中へと封印され、今日のこのセンチメンタルな時間もなかったことにできるはずだった。
 だが、僕はなぜかその鉛筆を手から離さず、そのまま自室の勉強机へと持って歩いていった。

 数学の問題集が広げられたままの無機質な机の上に、その使い古された一本の鉛筆をコトリと置いた。
 たった一本の古い木軸が転がっただけなのに、それまでの整然とした勉強道具の並びが、途端にひどくバランスを欠いた不格好なものに見えた。
 赤本。数学の問題集。現代文の参考書。シャープペンシル。消しゴム。
 その最果てに、無様に塗装が剥げた鉛筆が転がっている。
 三年前の僕の部屋であれば、おそらくその主従関係は真逆だったはずだ。
 あらゆる参考書の山の中に鉛筆が埋もれており、たまにそこに転がり込んできた数学の教科書のほうが、どこかよそよそしい異物のように感じられたに違いない。
 問題集をパタンと閉じる。
 引き出しの奥をごそごそと漁り、一枚の白いコピー用紙を取り出した。
 学校のプリント類を印刷するために買い置きしてある、どこの家庭にもあるような無地の用紙だ。そこには、思考を誘導するようなグリッドの罫線も、解くべき問題文も、名前を書くための空白の欄すらない。
 それを、机の中央へと配置する。
 右手で、あの古い鉛筆をしっかりと握り締めた。
 今から何か素晴らしい芸術作品を創り上げようなんていう大それた野心が働いていたわけではなかった。
 少なくとも、僕はそう自分に言い聞かせていた。
 白い紙の上に、鉛筆の黒い芯をそっと下ろす。
 斜め方向へ、一本の直線をスッと引く。
 少しだけ間隔を空け、平行にもう一本の直線を引く。
 二つの線の端と端を、短い横線で繋ぎ合わせる。
 さらに奥へ向かう消失点に向けて、パースの線を伸ばしてみる。
 気づけば、紙の上には不格好な立方体が姿を現していた。
 それは、自習室の退屈な時間つぶしに問題集の余白へ描き殴った落書きよりも少しだけ大きいだけで、本質的には何一つ変わらない稚拙なものだった。
 右上の稜線はだらしなく下がり、奥行きを規定するパースの長さも左右でチグハグに狂っている。
 どこをどう修正すべきなのかは、一目瞭然だった。
 消しゴムを手に取る。
 不格好に垂れ下がった右上の描線を綺麗に拭い去り、わずかに角度を修正して引き直す。
 まだ、どこか座りが悪い。
 もう一度、その部分を消しゴムで消し去る。
 今度は、先ほどよりも少しだけ実物の構造に近づいた気がした。
 その瞬間、ほんの僅かではあるが、握り締めていた指先の強張りがふっと緩んだ気がした。
 どこが間違っているのかを自らの目で発見する。
 そこを的確に削り、正しい形へと補正する。
 そうすれば、昨日よりも今日、さっきよりも今の方が正確な形に近づいていく。
 かつて、僕がこの作業に夢中になっていた理由はまさにそこにあったはずだった。
 だが、描き進めるうちに、かつての純粋な高揚感とは異なる不穏なノイズが頭をもたげてきた。
 右側の構造を整えたら、今度は左側の稜線の角度が妙に気になり始める。左を直せば、今度は全体の奥行きが窮屈に見えてくる。そこを修正しようと試みれば、最初に完璧だと思って定めたはずの線までがすべて連鎖的に狂い始めていくように感じられた。
 消す。
 描く。
 また消す。
 幾度もの往復を繰り返すうちに、最初に描いた自信満々な線の半分以上は、すでに消しゴムのカスとなって机の上に散らばっていた。
 目の前にあるのは、クリーンな正解ではない。
 幾重もの失敗と迷走の消し跡が薄っすらと層をなし、その中央でどうにか形を保っている、傷だらけの不完全な立方体だった。
 それでも、最初の一本目を引いたときに感じたあの硬直した空気感は、少しずつ和らいでいた。
 鉛筆の先を、そっと紙から離す。
 本来なら真っ白であるはずのコピー用紙の表面は、執拗なまでの修正の歴史によってあちこちが黒ずみ、毛羽立っていた。
 鉛筆を握りしめたまま、僕は自らの手で描き殴ったその傷だらけの立方体をじっと見つめ続けた。
 窓の外では、夜の静寂がいよいよ深まり、街灯の光がアスファルトの路面を寂しく照らし出していた。
 僕はもう一度、小さく息を吸い込むと、その傷だらけのコピー用紙の隅に、新しい補助線をそっと引き足した。

「朔、今日何かあったのか?」
 夕食の途中で、母がふと箸を止めて尋ねてきた。
「別に、何もないけど」
「だって、今日は自習室に寄らないでまっすぐ帰ってきたって言うからさ。珍しいなと思って」
「たまには、そういう日もあるだろ」
「疲れてるの?」
「……たぶん」
「テストが近いんでしょ?」
「まあ、そうだけど」
「無理しすぎないようにね」
「してないよ」
 テレビのワイドショーを眺めていた父が、画面から目を離さないまま、その重たい会話の隙間に割り込んできた。
「高校二年のうちからそんなに根を詰めてカリカリしなくてもいいだろ」
「今からやっといたほうが、あとで余白ができるから」
「まあ、本人がそうしたいなら止めはしないけどな」
 会話はそこで途切れた。
 母も父も、それ以上深く突っ込んではこなかった。
 自習室へ足を運ばなかったことも、いつもより早い時間に帰宅したことも、わざわざ詳細な理由を説明するほどの大ごとではないらしい。
 僕のほうも、進んで事情を釈明するつもりなどなかった。
 食事が終わると、足早に自分の部屋へと引き返した。
 天井のスイッチをひねると、蛍光灯の白い光が、夕方からそのまま放置されていた机の上の白いコピー用紙を照らし出した。
 昼間よりも、立方体の右半分の鉛筆の線がやけに濃く目に焼き付いて見える。左側には、何度も消しゴムを往復させたせいで毛羽立った紙の荒れが痛々しく広がっていた。
 自分で好んでそこに放置したのだから、この光景が変わっていなくて当然だった。
 椅子を引き寄せて腰を下ろし、分厚い赤本を開く。
 いつものように数学の過去問を解き始めた。
 一問目は難なく正解。
 二問目も、条件の読み落としなくスムーズに解けた。
 しかし、三問目に差し掛かったところで、途中の展開式でプラスとマイナスの符号を反転させる致命的なケアレスミスを犯した。
 該当する数字だけをシャープペンシルの消しゴムでこする。
 一度擦ればみるみる薄くなり、二度、三度と往復させれば、元の白い紙肌と見分けがつかないほど綺麗に消え去った。
 正しい数値に書き直し、そこから再び計算を最後まで駆け抜けさせる。
 導き出された答えは、解答冊子の数値と美しく一致した。
 余白に赤い丸を几帳面につける。
 たった今、自らの手で間違えて消し去った場所は、意識して目を凝らさなければ分からないほど綺麗に浄化されていた。
 そのすぐ隣に鎮座しているコピー用紙のそれとは、決定的に違っていた。
 消し去ったはずの左側は、決して元の完全な白には戻っていない。輪郭線そのものは消え失せても、微かな黒鉛の粒子が繊維の奥に残り、執拗に擦ったせいで傷ついた表面がうっすらと波打っている。
 もう一度念入りに消しゴムをかければ、もう少しだけ跡を薄くできるかもしれない。
 それでも、数学の答案用紙の途中式のように、完璧な無に帰すことなど絶対にできない。
 そこまで思考を巡らせたあと、僕は無理やり意識を切り替え、次のページへと問題集をめくった。
 条件を咀嚼する。
 式を組み立てる。
 解答を導き出す。
 正解。
 どれほどページを進めていこうとも、視界の隅に引っかかり続けるその紙の存在感は、少しも薄れることがなかった。

 翌朝、制服のシャツに袖を通し、スクールバッグへ教科書を無造作に詰め込んでいく。
 朝の光が差し込む机の上には、赤本と数学の問題集、そしてあの日の夜からずっと置き去りにされている一枚のコピー用紙が並んでいた。
 昨日の夜のうちに、どうして片付けてしまわなかったのか。
 右半分だけにやけに生々しく残る立方体。
 左側の、執拗な消し跡。
 きれいに整えようとして、逆に不格好に毛羽立たせてしまった紙の肌理。
 そもそも、こんな未完成の失敗作を自分の部屋の目につく場所にわざわざ放置しておく合理的な理由などどこにも存在しなかった。
 僕は思わず、その紙を指先で摘み上げた。
 自室のゴミ箱は、勉強机の足元からわずか一歩の距離にある。
 ただ、その指の力を抜いて放り投げさえすれば、この奇妙な苛立ちの正体もすべて一緒に闇の中へと葬り去ることができる。
 たかが、そこらのコピー用紙一枚だ。惜しむ理由なんて何もない。
 もしまた立方体を描きたくなったのなら、いつでも新しい紙を取り出して何枚でも描けばいい。
 それなのに、なぜか指先の力がどうしても抜けなかった。
 頭の中でどれだけ論理的な結論を導き出しても、紙を握りしめた僕の手は一ミリも動かなかった。
 結局、僕はそれを再び机の元の場所へと戻した。
 昨日とは少し位置を変え、数学の問題集の真横にピタリと寄り添うように配置する。
 スクールバッグを肩にひっかけ、そのまま振り返ることもせずに部屋を飛び出した。
 足元にあるゴミ箱の中身は、昨日の夜から一種類のゴミすらも増えていなかった。
 ただ机の上だけには、未完成の不格好な立方体がぽつんと取り残されていた。

 立方体を描き殴ったその翌日も、その紙は相変わらず机の特等席を陣取ったままだった。
 いつも通りに登校して授業を受け、昼休みには三浦のどうでもいい冗談に相槌を打ち、放課後には足早に一人で自習室へと向かった。
 紗良とは、朝の昇降口ですれ違いざまに短い挨拶を交わしただけで、そのあとの授業の合間も一切言葉を交わすことなく一日が過ぎ去っていった。
 夕暮れ時に帰宅し、自分の部屋のドアを開ける。
 赤本も、数学の分厚い問題集も、朝に配置した通りの寸分違わぬ座標に収まっている。
 その整然とした風景の中で、あの白地のコピー用紙だけが、奇妙なほどに周囲の景色から浮き上がって異質なノイズを放っていた。
 右半分には、意地汚いほどに濃い黒鉛のラインが定着している。
 左側には、必死に過去を消そうとして失敗した泥臭い灰色の擦り跡が広がっている。
 正確でもなければ、美しいわけでもない。
 これは、一つの完成された作品なのだろうか。それとも、途中で投げ出して思考を放棄しただけの単なるゴミクズなのだろうか。自分で手を動かして作り出したものだというのに、それが何であるのかを僕自身が一番定義できずにいた。
 僕はあえてその紙に触れようとはせず、すぐ隣のスペースで無言のまま数学の演習を始めた。
 一問解いては、次のページへ進む。
 計算の途中で、無意識のうちに右手の鉛筆の先がふと紙の上の立方体へと引き寄せられそうになるのを、必死で意志の力で数字の羅列へと引き戻した。
 その翌日も、さらにその次の日も、まったく同じルーティンが繰り返された。
 新しい線を書き足すことは、二度となかった。
 同時に、それをゴミ箱へ放り捨てることも、決してしなかった。
 たった一枚の紙が加わっただけというのに、これまでの生活の背景として完全に溶け込んでいたはずの部屋の風景は、その日から二度と元のかたちに戻ることはなかった。

 紗良と一緒に自習室へこもる時間を意図的に削るようになってから、すでに何日かの時間が流れていた。
 学校の中では、相変わらず「普通」の仮面を被って立ち回っていた。
 授業中に配られるプリントを後ろの席へと回し、テストの出題範囲について尋ねられれば事務的に答えた。三浦が会話の輪の中心にいれば当たり障りのない相槌を打ち、数学の解き方で詰まっている奴がいれば、いつもの調子で的確に手順を教えてやった。
 決定的に変質したのは、やはり放課後の時間帯だった。
 彼女と並んで自習室へ向かうことはない。
 帰りの電車のホームで、隣り合って並んで立つこともない。
 最初の数日間は、放課後というチャイムが鳴るたびに、まるで歯車の一部がごっそり欠落したような奇妙な虚脱感に苛まれた。
 夕方の教室を出るときに誰かを待つ必要がないという解放感と、自習室のドアを開けたときに斜め前の席がぽっかりと空っぽであるという静けさが、交互に胸を締め付けた。
 コンビニに立ち寄れば、いつもなら二つ並んでレジを通していた缶コーヒーを、今日は自分のぶんだけ一つだけ掴み取る。
 帰りの車内では、かつて彼女が座っていたはずの向かい側の空席を横目に、一人で英単語帳のページをめくる。
 そんな孤立したルーティンにさえ、人間というのは驚くほど短期間で順応してしまうものらしかった。
 一人でも、机に向かって勉強はできる。
 一人で、缶コーヒーを買って飲むこともできる。
 一人で、満員の電車に揺られて帰宅することもできる。
 どれもこれも、生きる上ではごく当たり前の営みでしかなかった。
 ただ、その「当たり前」のシステムへ適応していく速度があまりにもスムーズすぎて、自分の感情の摩耗具合に自らがおろおろしてしまうことが、少しだけ癪に障った。

「高瀬」
 その日の放課後、一日の終わりのホームルームが終わり、教室を抜け出そうとした背中に黒田先生の声が飛んできた。
「ちょっと職員室まで来い」
「……進路ですか」
「半分正解」
 職員室の隅にあるパイプ椅子へ腰を下ろすと、先生は以前提出した進路希望調査票を机の上へ置いた。
「模試、またA判定だったな」
「はい」
「第一志望はこのまま?」
「今のところ、変える理由はありません」
「じゃあ、なんでこの大学の経済学部なんだ?」
 何度も答えてきた質問だった。
「家から通えます。国立なので学費も抑えられます。今の成績なら無理なく狙えますし、就職を考えても経済学部なら選択肢を残せます」
「うん。全部ちゃんとしてる」
「悪いですか」
「悪くない。で、お前、経済って勉強したいの?」
 すぐに返そうとして、言葉が止まった。
「興味はあります」
「何に?」
「……まだ、そこまでは」
 黒田先生はそれ以上追及せず、調査票をファイルへ戻した。
「次の提出までに一回考えとけ。ここでいいのか、ここがいいのか」
「……はい」
「終わり」
 夕闇の迫るアスファルトの道を一人で歩きながら、その二つの言葉を何度か反芻した。
 家から通える。学費の負担が少ない。合格の確実性が高い。就職に有利である。
 どれ一つとして、嘘ではない。
 ただ、それだけで「ここがいい」と言っていたのかは、うまく分からなかった。

 その日も、家へ戻れば立方体の紙は数学の問題集の横に残っていた。
 新しい線を加えることはしなかった。
 ただ、捨てもしなかった。
 数日後の夕方、問題集から顔を上げると、窓の外の一角だけが白く光っていた。向かいの家の窓に西日が反射し、そこだけ輪郭を失ったように浮かんでいる。
 机の端には、あの古い鉛筆が転がっていた。
 何を描こうと決めるより先に、新しいコピー用紙を一枚出した。
 窓枠の線を引く。
 向かいの屋根。電柱。電線。白く反射した窓。
 一時間もしないうちに外は暗くなり、その日はそこで鉛筆を置いた。
 翌日、また同じ時間に窓の外を見た。
 今度は、新しい紙を一枚出した。
 それから数日で、自室の机の上には「窓」の紙が四枚に増えていた。
 一枚目の紙に描き足したわけではない。翌日、また新しく無地のコピー用紙を引っ張り出し、同じアングルから同じ風景をゼロから描き直した。その次の日も、さらに一枚。
 一枚目よりは二枚目。
 二枚目よりは三枚目。
 昔の僕なら、その進捗の階段をそのまま上達の指標にしていたはずだ。紙の端に律儀に日付を書き込み、過去の作品と見比べ、一番正確にトレースできた最高の一枚だけを手元に残す。
 描いている最中に、現実との微細なズレに気づく。
 窓枠の幅が意図より太い。向かいの家の屋根の勾配が急すぎる。電線が通る座標が低すぎる。夕暮れの刻一刻と移ろう光を捉えようとすると、記憶の中の色よりも遥かにその光は白く鋭かった。
 一枚目を執拗に消しゴムで修正して形を合わせる代わりに、僕は翌日にまた別の紙を新しくおろした。
 四枚の紙に描かれたのは、すべて同じ「窓」だった。
 同じ場所に立ち、同じ視点で外を眺めたというのに、紙の上に定着した痕跡は一枚ごとに微妙な揺らぎを見せていた。
 技術的な精度だけで選ぶなら、間違いなく四枚目が最も整っていた。窓枠の比率は均等で、向かいの屋根の角度も現実とほぼ一致している。
 かつての僕なら、間違いなくその四枚目を正解として採用していただろう。
 けれど、なぜか僕の机の上から片付けられずに残っていたのは、三枚目の紙だった。
 向かいの家の窓ガラスに、西日が強く反射している。現実のそれよりも、はるかに大きな白い塊として描かれていた。描いている途中でその違和感に気づき、手元にはいつでもそれを消し去るための消しゴムがあった。
 それでも、僕はその日は直さなかった。
 翌日になっても、その不自然に肥大した反射の光はそのまま放置されていた。
 どうしてそれを修正しなかったのか、理由は自分でも分からなかった。

 その日の放課後、僕は帰路の途中にある駅ビルのテナントに入った小さな画材屋へと足を向けた。
 中学生の頃に通い詰めたあの店ではない。もっとこぢんまりとした店舗で、狭い通路の両側にスケッチブックや絵の具のチューブが窮屈そうに陳列されている。
 並んでいる商品の名前は、どれも僕の記憶に深く刻まれているものばかりだった。
 練り消しゴム。木炭。デッサン用の鉛筆。筆洗バケツ。キャンバス。
 初めて足を踏み入れるはずの空間なのに、そこに満ちている物体のラインナップだけは、三年前までの僕の日常のそれと完全に一致していた。
 陳列棚から、適度な厚みを持つ画用紙のスケッチブックを手に取る。
 十二枚綴り。
 値札に目をやると、普段使いのコピー用紙とは比較にならないほど高価だった。
 残り十一枚もの白紙のページが、この先どうなるのか。
 そもそも、この先も自分がこうして鉛筆を握り続けるのかどうかすら、今の僕には全く見えていなかった。
 一度は陳列棚へ戻そうと腕を伸ばしかけた。
 それでも、手からスケッチブックを離すことができず、そのままレジへと持って行った。
「レジ袋はご利用になれますか?」
「いえ、大丈夫です」
 スクールバッグには入りきらなかったので、僕はその真新しいスケッチブックをむき出しのまま手で抱えて店を出た。
 帰りの電車の車内。膝の上にはいつもの通学鞄、その横には新しいスケッチブック。
 制服のズボン、赤本の詰まった重い鞄、そして画用紙の束。
 三年前なら何一つ違和感のない組み合わせだった。
 今は、少しだけちぐはぐに見えた。
 それでも僕は、それを自室まで持ち帰った。

 新しい画用紙に最初の線を下ろしたのは、その日の夜遅くのことだった。
 机の隅にコピー用紙の三枚目を置き、それをそのままカンヴァスのようにして模写するつもりはなかった。窓の外の空はすでに完全に夜の闇に飲み込まれており、向かいの家の屋根にあの白い夕日の反射が焼き付いているわけでもない。だから、あの光の記憶だけは、三枚目の紙に定着していたものをそのまま借用することにした。
 窓枠の直線。
 向かいに連なる家々の輪郭。
 傾いた屋根。
 電柱を繋ぐ黒い電線。
 鉛筆を走らせていると、昔の癖が疼くように、直したくなる箇所が次から次へと頭をもたげてきた。
 線が歪んでいる。
 左右の窓枠の幅が均等ではない。
 屋根の傾斜角の数度単位のズレ。
 何度か消しゴムの角をあてて拭い去った。
 ただ、あの立方体を描いたときのように、たった一本の完璧な線を引くために同じ場所を執拗に擦り続けるような真似はしなかった。多少の歪みを抱えたまま、そのまま次の構造体へと鉛筆を進めることもあった。
 それが正しいアプローチなのかどうか、僕には分からなかった。
 単に、細部をすべて完璧にコントロールし直す気力が、今の僕には残されていなかっただけなのかもしれない。
 一時間ほど没頭したところで、僕はパタリと鉛筆を置いた。
 翌日の放課後、学校から戻ると、手洗いを済ませてすぐにその続きに取り掛かった。
 夕方の時刻を迎えると、現実の窓の外の空の色と向かいの家のトーンが、記憶の中のそれに奇妙にシンクロしてくる。そのわずかな時間だけ手元の三枚目のコピー用紙と実景を往復させ、暗闇に閉ざされたあとは自分の記憶と本能に頼って線を引き足した。
 その翌日も、さらにその次の日の夜も、同じ作業が静かに繰り返された。
 何時から何時まで机に向かったのか、タイムスタンプの記録など一切残していない。
 それが、トータルで何枚目の挑戦だったのかも、途中でカウントすることを放棄していた。
 ただ、学校から帰宅して自室の椅子に座れば目の前に紙があり、夕暮れのグラデーションが窓の外を染め上げる頃合いになると、自然と指先が鉛筆を求めた。
「よし、これで完成だ」と声に出して宣言した瞬間など、一度たりとも訪れなかった。
 ある日の夕方、いつものように鞄を放り出して机に向かい、これまでのプロセスが詰まった紙の束をざっと俯瞰してみた。
 細部を検証すれば、今からでもいくらでも修正の余地は残されている。
 窓枠の右側の角度。
 屋根の瓦の重なり。
 あの不自然なまでに大きく誇張された夕日の反射。
 消しゴムは、すぐ目の前のペン立てに挿さっている。
 それでも、その日は最後までそれを手に取ろうとは思わなかった。
 これ以上、この紙に手を加える必要はない。
 そう直感的に思った。
 それがどのような基準における「完成」なのかは、自分でも分からなかった。
 紙を机の端へ寄せ、その隣で数学の問題集を開いた。

 翌日の放課後、自習室はかなり混んでいた。
 空いていた一人席に座って数学を始める。しばらくすると、正面の椅子が引かれた。
「ここ、いい?」
 紗良だった。
「うん」
「ほか空いてなくて」
 実際、ほとんどの席が埋まっている。
「別に説明しなくていいよ」
「なんとなく」
 英語の参考書が机の向こうに開かれた。
 前なら珍しくもなかった配置だった。斜め前か正面かの違いくらいで、同じ机でそれぞれ勉強することは何度もあった。
 今日は、最初の二十分ほど一度も話さなかった。
 それでも、気まずいというほどではない。
 ページをめくる音がして、シャープペンシルが紙を擦る。正面にも同じ音がある。それだけで、最近一人で使っていた自習室とは少し違った。
 小さく折れた紙が、机の中央まで滑ってきた。
――ここ分からない。
 下には英語の問題番号。
 該当する問題を確かめて、答えを書く。
 紙を返す。
 少ししてまた戻ってきた。
――なんで?
 今度は解説を書く。
 もう一度返す。
 何度か往復したあと、最後に、
――ありがとう。
 とだけ書かれていた。
 以前なら「百円」とか、「次から授業聞け」とか、そのくらいは返していた気がする。
 ペン先を紙の上で少し止めた。
――うん。
 今日はそれだけ書いた。
 紙はもう戻ってこなかった。
 そのあとも正面からページをめくる音は続いた。

 自習室を出ると、雨が降っていた。
「傘ある?」
「ある」
「さすが」
「降水確率七十だったから」
「朝晴れてたじゃん」
「天気予報は見ようよ」
 折り畳み傘を出しているあいだに、紗良は鞄の中を探して諦めたらしい。
 駅までは五分ほどだった。
「駅まで入る?」
 一度口にしてから、そのまま返事を待った。
「……いいの?」
「駅までなら」
「じゃあ、お邪魔します」
 傘を開く。
 二人で歩き出した。
 文化祭の日にも、小さな傘へ二人で入った。
 あのとき隣にいたのは澪だった。
 そこまで思い出して、それ以上は続かなかった。
 紗良の肩が傘の外へ出ていた。
「もっと入れば?」
「大丈夫」
「濡れてるよ」
「高瀬も濡れてる」
「俺の傘なんだけど」
「だから?」
「もう真ん中寄っていいってこと」
「最初からそう言って」
 紗良が少し寄る。
 傘の中に二人分の幅が収まった。
 横断歩道の前で止まると、雨粒の音だけが近くなった。
「高瀬」
「何?」
「最近、自習室来ない日あるよね」
「うん」
「家で何してるの?」
「勉強したり」
「『したり』?」
 自分でも曖昧な言い方だった。
 信号が変わる。
「……絵も、たまに」
「そっか」
 それだけ言って、しばらく次の言葉はなかった。
「何描いてるの?」
「窓とか」
「立方体じゃないんだ」
「なんで立方体」
「前、自習室で描いてたじゃん」
「一回だけだろ」
「覚えてたから」
「今は窓」
「へえ」
 また雨の音だけになった。
 聞かれると思っていたことが来ない。
「見せてって言わないんだ」
「嫌なんでしょ?」
「前は」
「今は?」
 誰にも見せていない。
 母にも、父にも。
 描いていることすら、まだ言っていなかった。
「……まだ嫌」
「じゃあ言わない」
「うん」
 理由も聞かれなかった。
 それだけで、少し歩きやすくなった。
 駅の屋根まで来て傘を閉じる。紗良の制服の肩だけ、色が濃くなっていた。
「ありがと」
「うん」
「じゃあね」
「また明日」
「うん」
 同じ路線だった。
 けれど、紗良はいつも僕と乗っていた車両ではなく、その一つ先へ歩いていった。
 僕も自分のところへ向かった。
 距離を置くと言ってから、こういうことが少しずつ増えた。
 朝は挨拶をする。
 分からない問題は聞く。
 雨が降れば同じ傘にも入る。
 それでも帰りの電車は別にする。
 今は、それで困らなかった。

 放課後の終礼が終わり、国語の教科書を無造作にスクールバッグへ放り込んでいると、いつの間にか僕の机の横に紗良が立っていた。
「ねえ高瀬、今日の帰り、駅前のコンビニに寄ったりしない?」
「急にどうしたんだよ」
「なんかね、期間限定の新しいミルクティーが新発売されたらしいのよ」
「またミルクティーか。お前は本当にそればかりだな」
「高瀬だって、毎日のようにあの苦いコーヒーを好んで飲んでるくせに、私ばかり責める筋合いはないはずだけど!」
「それは、まあ、否定はしないけどさ」
 僕たちは並んで教室を抜け出し、校門の外へと足を踏み出した。空はすでに低い夕方の茜色に染まりかけており、会話の合間に口元からこぼれる白い息が、冬の冷たい気配を帯びていた。
 いつものコンビニの自動ドアをくぐると、紗良は迷うことなく新商品のフレーバーが並ぶ冷ケースへと直行した。僕も自然と足が向かい、いつもの無糖のブラックコーヒーの缶棚の前で立ち止まる。
「いる?」
 振り返ると、紗良の手には彼女が選んだミルクティーと一緒に、僕が普段から愛飲している銘柄の缶コーヒーが握られていた。
「いや、今日はいいよ」
「そっか」
 僕が短く答えると、彼女は素直にその缶を元の棚へとカチャリと戻した。
「買わないの?」
「さっき、学校の自販機で飲んだばかりだからさ」
「じゃあ何にする?」
「水でいい」
「珍しい」
「毎日コーヒーしか飲まないわけじゃないよ」
「それはそうか」
 僕はペットボトルのミネラルウォーターを一本だけ掴み取り、紗良は限定のミルクティーを片手にレジへと向かった。
 いるかと聞かれて、いらないと答えた。
 たったそれだけのやり取りで、コーヒーは棚へ戻った。
 そこに余計な深読みや、理由を説明する義務も、相手の顔色を窺って答えを変える必要もなかった。そのあまりにも自然な距離感が、今の僕にはひどく心地よかった。

 コンビニの自動ドアを抜け、街灯の灯り始めた駅へと続く坂道を並んで歩く。
「絵、まだ描いてる?」
 正面を向いたまま、彼女がふと思い出したようなトーンで尋ねてきた。
「たまにな」
「窓?」
「今は部屋の中を描いてる」
「部屋?」
「机とか椅子とか。窓もあるけど」
「ああ、この前言ってたやつ?」
「そう」
 そのあと、彼女はそれ以上根掘り葉掘り突っ込んでこなかった。僕も自分から余計な解説を付け加えることはせず、そのまましばらく並んでアスファルトを踏み鳴らした。
「ねえ」
「何だ?」
「この前のことなんだけどさ」
「この前って?」
「私が、高瀬のこと好きって言ったやつ」
「ああ」
「忘れてないよね」
「忘れるわけないだろ」
「ならよかった」
「なんでそんなこと確認するんだよ」
「うやむやにされて、なかったことにされるのは嫌だからね」
 前にも、どこかで全く同じニュアンスの台詞を聞いた気がした。
「適当になかったことになんてしてないよ」
「うん」
 数秒間の沈黙が、僕たちの足音の間に挟まった。
「今ここで、俺から何か明確な返事をしたほうがいいのか?」
 少しの勇気を持って、僕はそう問い返してみた。
「ううん、まだいい」
「いいの?」
「うん」
「前は――」
「前とはちょっと違うから」
 紗良は少しだけ視線を落として考えてから、言葉を続けた。
「高瀬のことは好きだよ。そこは、たぶん変わってない」
「たぶん?」
「こういうときだけ細かいね」
「大事な話だろ」
「だから、たぶんって言ってるの」
「意味分かんないよ」
「私もまだ自分の気持ちが完全に分かんないんだもん」
 それなら、今ここで無理に結論を急ぐべきことでもないのかもしれない。
「前はさ、高瀬にはずっと、あの頃の冷徹で計算高い『いつもの高瀬』のままの姿でいてほしかったんだよね」
「……うん」
「私の知らない新しい一面が増えるのも嫌だったし、高瀬が何かに迷って変わっていくのも怖かったの」
「今は違うのか?」
「前よりは平気になった」
「何が?」
「高瀬のすべてを把握してなくても」
 その言葉の重みに、僕はすぐには気の利いた返しを見つけられなかった。
「絵を描くこと自体は、正直に言うと今でもまだちょっと嫌だよ」
「嫌なんだな」
「全部が完全に平気になったなんて言ったら、それこそ嘘になるからね。神谷さんの存在だって、別に今でも完全に脳内から消去されて何とも思わなくなったわけじゃないし」
「うん」
「でもね、だからって高瀬が絵を描くのをやめればいいとは今は思わない」
 ちょうど目の前の横断歩道の信号が赤に変わった。ヘッドライトを点灯させた何台かの車が、僕たちの前を足早に通り過ぎていく。
「……そっか」
「何よ、その間の抜けた返事は」
「ほかに何て言えば正解なんだよ」
「別にいいけどさ」
 信号が青に変わり、僕たちは再び歩き出した。
「もしさ、この先……めちゃくちゃ絵を描くのが楽しくなっちゃったらどうする?」
「急な仮定だな」
「例えばの話」
「そんなの分かんないよ」
「美大に行きたくなるとか」
「それは、今のところは考えてない」
「絶対に行かないって言い切れる?」
 少しだけ思考を巡らせた。
「今は、行かないと思ってる」
「あ、『今は』って言った」
「何なんだよ、その採点官みたいな態度は」
「はい、百点」
「勝手に点数をつけるな」
「高瀬は数学が好きなんだから、数字で評価されて嬉しいでしょ」
「全く関係ないだろ」
 駅の巨大なコンコースの灯りが、だんだんと近づいてきた。
「私もさ、前までの私だったら絶対に『行かないで』ってすがってたかもしれない」
「今は?」
「知らない」
「そこは突き放すんだな」
「だって、まだ起きてない未来のことだもん」
 それは、まったくもって彼女の言う通りだった。
 僕はそれ以上言葉を返すこともなく、そのまま駅の改札まで並んで歩いた。

 ホームへ下りると、ちょうどタイミング良く電車が滑り込んできた。
 今日は同じ車両のドアから乗り込んだ。二人掛けのボックス席が運良く空いていたので並んで腰を下ろし、紗良は鞄からスマートフォンを取り出し、僕は英単語帳を開いた。
 そこから何駅か過ぎるあいだ、僕たちはほとんど言葉を交わさなかった。
 以前にも、こういう無言の時間はいくらでもあった。ただ、あのころの僕は紗良が次に何をするのか、だいたいの行動パターンを把握しきっていた。自習室のあとにコンビニへ寄って、同じダイヤの電車へ乗る。翌日も似たような時間帯に学校で顔を合わせる。
 今は、明日の予定を互いに確認し合ってはいない。紗良が家に帰ってから何を考え、どんな選択をするのかも僕は知らない。
 僕のほうも、自室の机の上で途中まで描きかけている部屋の絵の細部について、彼女にすべてを報告しているわけではない。
 それでも、僕のすぐ隣の座席には紗良が座っていた。
 彼女が降りる駅のアナウンスが流れると、紗良はスマートフォンの画面を消して鞄へしまった。
「じゃあね」
「うん」
 電車がホームに滑り込み、ドアがプシューと音を立てて開く。
「高瀬」
「何?」
「大学のことだけど」
「うん」
「これから先、また気が変わるかもしれないから」
「分かった」
「でもね、今はあそこがいいの」
「うん」
「それだけ?」
「俺から何か気の利いたアドバイスでも言ってほしいのか?」
「ううん。それでいい」
「じゃあ最初から聞くなよ」
「ただの確認」
「何の確認だよ」
「高瀬が、また余計な説教とか理屈を並べ立ててこないかどうかの」
「相変わらず信用がないな」
 発車を知らせるけたたましいメロディが鳴り響いた。
「また明日ね」
「うん。また明日」
 扉が静かに閉じた。
 走り出した車内で、僕は膝の上の英単語帳をもう一度開いた。無機質なアルファベットの列を数行目で追っても、さっき彼女が残していった一言だけが、脳裏に鮮やかに残響していた。
――今は、あそこがいい。
 彼女は決して「ここでいい」という妥協の言葉を口にはしなかった。
 澪から連絡が入ったのは、十二月もいよいよ三週目に差し掛かった頃のことだった。
 朝から路面を湿らせていた冷たい雨は、放課後になっても一向に勢いを弱める様子を見せない。その日は自習室へ直行するのをやめ、駅前の大きな書店で参考書を立ち読みしてから帰宅する予定だった。
 自動ドアを抜けて外へ出た瞬間、ポケットの中でスマートフォンが微かに振動した。
 画面の通知バナーには、神谷澪の名前が浮かんでいる。
――今度、少し会えない?
 思わず、歩いていた足の速度が緩慢になった。
 文化祭の日、あの小さな公園で感情を剥き出しにして言い合い、彼女は先にその場を去っていった。それ以来、僕たちは一度もまともに顔を合わせていない。
 このまま何もなかったことにしたほうが、余計な摩擦を生まずに済むのかもしれない。実際に会えば、またあのときのように、お互いの神経を逆撫でする言葉をぶつけてしまうかもしれない。
 頭の中で、もっともらしい断りの文面をいくつも探した。
 しかし、どれ一つとして採用できなかった。
――いつにする?
――土曜日。
――午後なら、いつでもいい。
――じゃあ、二時で。
 二時。
 前に彼女とこの街で再会したときと、全く同じ時刻だった。
 ただの偶然だろう。
――分かった。
 短い返答を打ち込み、スマートフォンをポケットへ戻した。

 土曜日の午後。
 待ち合わせの指定場所は、前回と同じ駅のコンコースだった。
 ただ、今回はあの日とは違って、必要以上に早く到着するように家を出たりはしなかった。時計の針が二時の三分前を指す頃に改札の前へ歩み出ると、澪はもうそこに立っていた。
「……早いな」
「朔にそんなセリフを言われる筋合いはないけど」
 苗字ではなく、いつものように「朔」と呼ぶ声。
「今日は三分前だぞ」
「私は五分前に着いてたもん」
「大して変わらないだろ、たった二分だ」
「その二分が大きな違いなの」
「相変わらず細かいな、お前は」
「朔が言う?」
 お互いに、ふっと息を抜くように笑い合った。
 こうしてごく普通に言葉を交わせているという事実そのものを、どこか意識してしまう自分がいた。
「どこへ行く?」
「寒いから、屋外は嫌。どこか建物の中がいい」
「へえ、珍しいな」
「何がよ」
「お前がちゃんと自分の希望を言うなんて珍しいと思ってさ」
「それくらい普通に言うよ」
「昔は『どこでもいい』の一点張りだったくせに」
 そう言われてみれば、確かに記憶のなかの彼女はいつも僕の選択に身を委ねていた気がする。
「……じゃあ、あのとき入った駅前のカフェにするか?」
 少しだけ様子を窺うように尋ねると、彼女は微かに眉をひそめた。
「ううん、別のところにしようよ」
「分かった」
 それ以上、理由は聞かなかった。
 僕たちは並んで駅のロータリーを離れ、人通りの少ない別の通りへと歩き出した。

 最終的に足を踏み入れたのは、駅から住宅街の方角へ十分ほど歩いた場所にある、ひっそりとした佇まいの古い喫茶店だった。
 前に利用したチェーンの店よりも遥かに古びており、年季の入った木のテーブルの表面には、無数の小さな傷跡が刻み込まれていた。窓際の二人掛けの席に腰を下ろすと、十二月の低い位置にある冬の淡い陽光が、分厚いガラスを透過してテーブルの木目を白く照らし出した。
 僕はいつものように熱いブレンドコーヒーを。
 澪は、甘い匂いの漂うカフェオレを注文した。
「……ココアじゃないんだな」
「もう高校生だもん」
「年齢と好みにどういう相関関係があるんだよ」
「なんとなく」
「またその便利な言葉で押し切るのかよ」
「便利だから」
 湯気の立つカップが運ばれてきてからも、すぐに文化祭の核心に迫るような話題にはならなかった。
 通っている学校の授業のこと。
 目前に迫った期末テストの重圧。
 冬休みの予定。
 三年という途方もない空白があるせいで、お互いの知らない情報のアウトラインはいくらでも転がっていた。
 やがて、会話のトーンは自然と進路の話へとシフトしていった。
「澪は、美大へ行くのか?」
「たぶんね」
「たぶんなんだ」
「受けるつもりではいる」
 彼女の口から出た大学名は、僕でも知っている国内でも有数の国立の美術大学だった。
「難しいのか?」
「そりゃあ難しいよ」
「でも、澪なら行けるんじゃないのか」
「何、その無責任な言い方」
「だって、こうしてコンクールで賞とか取ってるし」
「それと大学に受かるかは全く別の話なの」
「そうなの?」
「そうだよ」
 澪の返答が、少しだけ短く、棘を帯びた。
「そういうふうに言われるの、たまらなく嫌なときがある」
「何がだよ?」
「『当然美大に行くんでしょ』とか、『将来は絵の仕事するんでしょ』とか」
「……行きたいんじゃないのかよ」
「今は、行きたいと思ってる」
「じゃあ――」
 僕は言いかけた言葉を、喉の奥で止めた。
 才能があるんだから行けばいい。
 賞も取っているんだから、迷わずにそのまま続ければいい。
 少し前の僕なら、間違いなくそのどちらかの正論を、無神経に彼女へ投げつけていたと思う。
「今は、本当に行きたいんだ」
「うん」
「そっか」
「……それだけ?」
「駄目か?」
「駄目じゃないけど」
 カップの向こうから、少しだけ思考を探るような間が空いた。
「朔、変わったね」
「何が」
「前までの朔なら、絶対に『才能あるんだから行けばいいじゃん』で強引に終わらせてた」
「今も大して変わらないだろ」
「ちょっと違う」
「そうか?」
「うん」
 そこまで言って、澪はまたカフェオレに口をつけた。
「私が自分の意思で選ぶ前から、すでにレールが決まってるみたいに周りから言われるのが、無性に嫌なのかも」
「周りって、誰にだよ」
「いろんな人に。学校の先生とか、親戚とか。絵をやってる人間にも」
「昔は違ったのか?」
「昔は、ただ描くのが楽しくて、他人の言葉なんて別に何とも思わなかった」
「今は違う?」
「自分で心から『行きたい』と思ってその場所へ行くのと、周りが『当然そうするだろう』と思ってるからそこへ行くのとは、たぶん全然違うことだから」
「そっか」
 僕はそれ以上、彼女の葛藤に踏み込もうとはしなかった。
 澪も、自分の内面の不確かさをそれ以上きれいに言語化して説明しようとはしなかった。

 しばらくして、他愛のない会話がふっと途切れた。
「朔」
「何」
「文化祭のときのこと」
「うん」
「ごめん」
 僕は、コーヒーカップから手を離した。
「何に対しての謝罪だよ?」
 口にしてから、あの公園のときと立場が完全に逆転していることに気づいた。
 あの日、公園では僕が謝って、澪が同じように「何に?」と冷たく聞き返してきたのだ。
「……いっぱいあるよ」
「俺もだよ」
「何が?」
「いっぱいだ」
 それで、僕たちは二人とも少しだけ自嘲気味に笑い合った。
 どれから順番に謝るべきなのかを論理的に決め始めれば、たぶんまた泥沼の言い合いになって長くなる。
「でも」
 澪が、カップの縁へと静かに視線を落とした。
「あのとき、『朔が絵をやめたことの責任まで私に持たせないで』って言ったのは……今でもそう思ってる」
「うん」
「そこに関しては、絶対に謝らないからね」
「分かってるよ」
「朔のほうは?」
「何が」
「今でも、私がいたから絵をやめたって、私のせいだと思ってる?」
 僕は少しの間、自分の中の最もデリケートな部分を確かめるように考えた。
「……澪があの空間に存在していたことは、確かに一つのトリガーとしては関係あるよ」
「うん」
「でも、最終的に絵を辞めるって決断したのは、間違いなく俺自身だと思ってる」
 口にしてから、自分でもその言葉の響きと事実を頭の中で反芻し、確かめた。
「教室へ足を運ばなくなったのも、お前からのメッセージを無視して返さなかったのも、自分の手であの画材箱の蓋を閉じたのも……全部、俺自身の弱さのせいだったから」
「……そっか」
「だから、あのときは責任転嫁して悪かった」
「私もね、ずっと朔の抱えてる苦しみのこと、完全に分かってるつもりだったの」
「それはお互い様だろ」
「そうだね」
 澪はカフェオレを一口静かに飲んだ。
 その流れで、また当たり障りのない学校の話へと戻りかけた。
 なぜか、そのタイミングで僕のほうから不意に口を開いていた。
「俺、最近また絵を描いてるんだ」
 澪の指が、カップの取っ手でピタリと止まった。
「……え?」
「たまにな」
「朔が?」
「俺以外に誰がいるんだよ」
「いつから?」
「最近だ」
「なんで急に?」
「分かんない」
 澪が驚いたように目を瞬かせた。
「あの朔が、それ言うんだ」
「悪いか?」
「悪くないよ」
 彼女は少しだけ嬉しそうに笑った。
「何を描いてるの?」
「最初は、立方体」
「……また立方体?」
「何だよその呆れたような顔は」
「また完璧なパースで六枚とか連続で描いたわけ?」
「一枚だけだ」
「一枚だけ?」
「一枚の紙の上で、何回も何回も消して描き直したんだよ」
「……朔っぽいね」
「そのあとは、窓」
「窓?」
「自室の部屋から見える、ただの窓の風景だ」
 澪の表情のトーンが、少しだけ変わった。
「今は、窓なんだ」
「……その言い方、どっかで聞いたような気がするな」
「知らない」
「絶対覚えてるだろ」
「なんとなくね」
「ほんと便利だな、その言葉」
 会話が一度、心地よく途切れる。
「見たい」
 澪が静かに言った。
 それは、最初から予想していた言葉だった。
「嫌だ」
 僕はほとんど思考を挟まずに即答した。
「見事な即答だね」
「今は嫌なんだよ」
「そっか」
「……それであっさり引き下がるんだ」
「だって、見せるのが嫌なんでしょ?」
「うん」
「じゃあ仕方ないじゃん」
 澪はそのまま、残り少ないカフェオレを音を立てずに飲んだ。
「見たい気持ちは変わらないけどね」
「そこは譲らずに残るんだな」
「残るよ」
「そっか」
 以前の僕なら、その曖昧な保留の状態がたまらなく嫌だったはずだ。
 見たいなら見せる。
 嫌なら意地でも見せない。
 どちらか一方の極端な結論に完全に決着させたほうが、思考としては分かりやすかった。
 今は違う。澪が「見たい」という欲求を持ったままであっても、僕の意思で「見せない」という選択を維持し続けていいのだ。
 僕たちは、それ以上の確約も約束もしなかった。
「朔」
「何?」
「絵を描くの、好き?」
 思いがけない、本質的な質問だった。
「分かんない」
「またそれ?」
「今描いてる行為が、本当に好きでやってるからなのかどうかも、自分でも分かんないんだよ」
「ふうん」
「何だよ」
「別に」
「澪のほうはどうなんだよ」
「何が」
「絵のこと」
 澪は少しの間、宙を見つめて考えた。
「今は、無性に描きたい」
「好きかどうかは?」
「分かんない」
「俺と同じじゃんかよ」
「朔なんかと一緒にしないでよ」
「なんでだよ」
 澪が吹き出すように笑う。
 僕もつられて、少しだけ声に出して笑った。

 喫茶店のドアを開けて外へ出る頃には、朝からずっと冷たく降り続いていた雨はすっかり上がっていた。
 濡れたアスファルトの路面が、等間隔に並ぶ街灯の黄色い光を鏡のように反射して輝いている。
 僕たちは駅へと続く道を並んで歩き始めた。
「朔」
「何」
「私たちさ」
 彼女の次の言葉が来るまでに、少しだけ沈黙の時間が挟まった。
「もう、前みたいには戻れないと思う」
「うん」
 毎週同じ絵画教室の空間へ通い、帰り道を二人で並んで歩く。互いのスケッチブックを当然のように共有し、今日は何枚描いたのかも、どこをどう消して直したのかも、すべてを知り尽くしている。
 もう、あの無垢で残酷な時間と同じ関係性には絶対に戻らない。
「嫌?」
「分かんない」
「またそれ」
「でも、もう戻らなくていいとは思う」
「なんで?」
「もしあの頃に戻ったら、俺はまた絶対に同じことを繰り返す気がするから」
「同じこと?」
「純粋な表現じゃなく、ただ澪に勝ちたいってことばかりに執着するとか」
 そこまでの自己分析は、すぐに口をついて出た。
 もう一つの感情は、言葉にするのに少しだけ遅れた。
「澪なら、俺の絵のすべてを分かってくれるって、甘えて勝手に思い込んだり」
「……うん」
「だから、別に前と同じ形じゃなくていいんだ」
 澪はすぐには返答しなかった。
「私もね、朔には私の絵を見てほしいって思う」
「今もか?」
「今もだよ」
「コンクールで賞を取ったときも?」
「うん、見てほしい」
「もし、全然上手くいかなくて失敗したときもか?」
「たぶん、そういうときも」
「勝手だな、お前は」
「朔にだけは言われたくない」
「それはそうだな」
「でも、私がそうやって『見てほしい』って勝手に思うことくらいは、もう無理にやめなくてもいいかなって思えるようになった」
 その言い方のニュアンスなら、今の僕にも十分に理解できた。
「俺が実際に見るかどうかは、俺の自由だからな」
「冷たいなあ」
「『全部見る』なんて義務みたいに約束したら、また関係が変に歪むだろ」
「……それは、そうかもね」
 そこで会話の糸がフッと切れた。
 澪は、僕に見せたいという欲求を抱き続ける。
 僕は、彼女の絵を見たくないときがある。
 僕も今、自分の部屋で絵を描いている。
 でも、その過程を彼女に見せたくないときがある。
 それでも、だからといってこの先二度と会えなくなるというわけではないのだ。
 今は、その曖昧な距離感のままで十分に機能していた。
「朔も、本当は私に勝ちたい?」
 不意に、鋭い問いが飛んできた。
 適当にはぐらかして誤魔化すことは容易かった。
「思うよ」
「今も?」
「たぶんな」
「最近の私の絵なんて、実物でちゃんと見たの『境目』くらいでしょ?」
「あれ一枚見ただけでも、十分に思ったよ」
「何を?」
「ひどく悔しいなって」
「何が悔しかったの」
「分かんない」
「朔、ほんとにその言葉ばっかりだね」
「お前にだけは言われたくない」
 澪が少しだけ、嬉しそうに笑った。
「私も、朔には絶対に負けたくないよ」
「それこそ今の俺の描いてる絵なんて、一ミリも見てないだろ」
「だから見たいんじゃん」
「それは見せない」
「知ってるよ、それくらい」
 今度は、二人とも無理なく普通に笑い合えた。
 純粋な表現欲求だけでなく、他人に勝ちたいという泥臭い執着心は、依然として僕の中に残っている。
 澪の中にも、同じように黒い炎がくすぶっていた。
 それが表現者として完全になくさなければいけない不純物なのかどうかは、まだ二人とも答えを出せずにいた。
 改札のフラッパーの前まで来て、澪が足を止めて言った。
「また、連絡していい?」
「いいよ」
「ちゃんと既読スルーしないで返してね」
「内容によるな」
「そこは相変わらず冷徹なんだから」
「すべてが完全に変わる必要なんてないだろ」
「それはそうかもね」
 澪は改札の向こう側へと身を翻した。
 数歩進んだところで、振り返ってまた声が飛んでくる。
「朔」
「何だ」
「『ずっと描いててね』なんて、無責任なことは言わないから」
 前にも、どこかで似たような響きの言葉を聞いたことがあるような気がした。
「朔の好きにして」
 昔、僕も相手を突き放すときに何度も使った台詞だった。

 進路希望調査票の最終提出日は、二学期の終業式を目前に控えた年内最後の登校日だった。
 朝のホームルーム。冷え切った教室の教卓に両手をつき、黒田先生が声を張り上げる。
「おい、今日まだ出してないやつ、放課後の最終締切までだからな」
 教卓の上には、すでに何人かの調査票が無造作に重ねられていた。
 僕の通学鞄の底にも、同じ一枚が入っている。
 第一志望の欄には、県内にある国立大学の経済学部。第二志望には同じ県内の私立大学。第三志望には、少し離れた公立大学の文系学部。
 秋の面談のときに書いた内容と、並びはほとんど変わっていない。
 美術系の大学は一つも書いていないし、書こうとも思わなかった。
 再び鉛筆を握るようになったことと、この先の進路の選択は、今の僕の中ではまだ明確に結びついていない。だから書類の上だけを見れば、以前の僕と何一つ違いはなかった。
 それでもその日は、朝から何度となく鞄のファスナーを開けては、底にある紙の存在を確かめていた。

「高瀬、進路出した?」
 昼休み、三浦が僕の机の端へ無遠慮に肘をついてきた。
「まだ」
「え、珍し」
「何が」
「お前なら配られた初日にきっちり出してそうじゃん」
「締切は今日だから」
「そういう融通の話をしてるんじゃないんだよ」
 三浦は自分の折れ曲がった調査票をひらひらと揺らした。
「俺なんか昨日、親に『出し忘れてるんじゃないの』って言われてようやく思い出したわ」
「それは単純に遅すぎるだろ」
「で、高瀬はどこ書いたの?」
「前と同じだよ」
「国立?」
「うん」
「つまんな」
「進路にエンタメ性を求めるなよ」
「だって、一年の頃からずっと同じじゃん」
「別にお前に面白がられる筋合いはないだろ」
「まあいいけどさ」
 三浦が無造作に調査票を半分に折り曲げようとする。
「おい、それ先生に提出する原本だろ」
「あ」
「何やってんだよ」
「危ねえ、癖で折るところだった」
「新しいの貰って書き直せよ」
「面倒くさい」
「知らないぞ」
「高瀬、放課後一緒に職員室まで出しに行こうぜ」
「なんでだよ」
「一人だとまた絶対忘れる」
「今まさに手に持ってるだろ」
「俺の記憶力を信用するな」
「胸を張って言うことじゃないだろ」
 少し離れた窓際の席では、紗良と小宮が互いの調査票を机に広げて見せ合っていた。
 不意に目が合うと、紗良がすっと立ち上がってこちらへ歩いてくる。
「高瀬」
「何」
「まだ出してないの?」
「三浦とまったく同じ質問をするなよ。牧野は?」
「さっき職員室行って出してきた」
「この前話してたところ?」
「今のところはね」
「そっか」
 紗良が少し小首を傾げて続ける。
「高瀬も?」
 少しの間、頭の中で言葉を探した。
「……今のところは」
「あ、真似した」
「使い勝手がよかったから借りただけだ」
「使用料百円ね」
「数学の補習代から相殺しといてくれ」
「まだ高瀬のほうが払い足りないくらいだよ」
「なんでそうなるんだよ」
 午後の授業を告げる予鈴が鳴り響いた。
「放課後な、高瀬!」
 三浦が念を押すように言ってくる。
「何が」
「一緒に出しに行くやつ」
「勝手に出せよ」
「絶対忘れるから待ってろよ!」
「知らないって」
 いつも通りのくだらない言い合いのまま、昼休みが終わった。

 放課後、三浦は宣言通り調査票を机の中に置き忘れそうになっていた。
「高瀬」
 鞄を持って教室を出ようとしたところで呼び止められる。
「何」
「紙」
「だから自分で管理しろって」
「机の奥に入れたままだった」
「早く取ってこいよ」
「待ってて!」
「置いていくぞ」
 三浦は慌てて自分の席へ戻り、引き出しの奥から調査票を引っ張り出してきた。
「よし、セーフ」
「何がセーフなんだよ」
 二人で並んで職員室へ向かう。ところが廊下の曲がり角で、三浦だけ別の学年の体育の先生に呼び止められた。
「あ、やべ。俺ちょっと呼ばれたわ。高瀬、ついでに出しといて!」
「おい、自分で出せって――」
 僕の制止の声も聞かず、三浦はそのまま走って行ってしまった。
 結局、僕は二枚の調査票を手にしたまま職員室の扉をくぐることになった。
「失礼します」
 黒田先生のデスクへ向かい、まずは三浦の折れ曲がりかけた用紙を差し出した。
「先生、これ三浦の分です」
「本人はどうした」
「廊下で別の先生に捕まってました」
「あいつはまったく……」
 黒田先生は呆れたようにため息をつきながらそれを受け取った。
「で、お前のは?」
 手元に残ったもう一枚を見つめる。
「これです」
 差し出そうとしたその瞬間、
「ちょっと待て」
 と先生の手が止まった。
「時間あるか」
「ありますけど」
「じゃあ座れ」
「……また面談ですか」
「五分で済む」
「前も同じこと言いましたよね」
「先生は納得いくまで何回でもやるんだよ」
 諦めて、パイプ椅子に腰を下ろす。
 黒田先生は僕の調査票を受け取り、第一志望から第三志望までを視線でなぞった。
「……変わってないな」
「はい」
「経済学部」
「はい」
「前に『理由を自分の頭で考えろ』って言ったの、覚えてるか」
「覚えてます」
「考えたのか?」
「一応」
「じゃあ改めて聞くぞ。なんでここなんだ?」
 これまで何度も繰り返してきた問いだった。
 実家から通える立地。国公立の安い学費。模試の判定。就職の実績。
 どれも今でも確かな理由であり、現実的なメリットだ。
「家から無理なく通えますし、国立なので学費も抑えられます。今の成績なら安全圏ですし、学問としてなら今のところ経済が一番興味を持てそうだからです」
「今のところ、か」
「はい」
「前より言い切らなくなったな。『ここしかない』みたいな顔をしてたのに」
「……悪かったですか」
「いや」
 先生はそれ以上突っ込まず、もう一度だけ紙面を見つめた。
「じゃあ最後に聞く。本当にお前は、これでいいのか?」
 以前にも似たようなことを聞かれた。
 あのときの僕は、「今のところで十分です」と即答した。
 今、手元にある紙に書かれた大学名も学部名も、あの頃と一文字も変わっていない。
 けれど、喉から出た言葉は違っていた。
「……分かりません」
「分からない?」
「はい」
「行きたくないのか?」
「そうじゃないです」
「じゃあどういうことだ」
 頭の中で言葉の輪郭を確かめながら、ゆっくりと紡ぎ出す。
「今は、ここに出したいと思ってます」
「あとで気が変わるかもしれないってことか?」
「たぶん」
 口にしてみると、不思議とその先の思考も素直に出てきた。
「実際に大学に入ってから、経済じゃないほうがよかったって思うかもしれないですし、もっと上を目指せばよかったって後悔するかもしれない。逆に、ここですら自分には合わなかったって挫折するかもしれないですし」
「まあ、誰だってそうだがな」
「だから……今の僕が出せる答えとしては、これです」
 先生はしばらく無言で僕の顔を見つめたあと、机の端に積まれていた予備の白紙の調査票を指差した。
「書き直すか?」
 その白紙を一枚取れば、今この場でいくらでも書き直せる。
 大学を変えることも、学部を変えることも、あるいは空欄のまま持ち帰ることだってできる。
 僕は自分の書いた第一志望の文字をもう一度見つめた。
 県内国立大学。
 経済学部。
「……いいえ。これで出します」
「そうか。分かった」
 先生は調査票を受け取り、すでに集まっていたクラスメイトたちの提出束の上へと重ねた。
 僕の名前は、その重なりの下へと静かに隠れていった。
「もう終わりですか」
「終わりだ」
 椅子から立ち上がる。
「失礼しました」
「高瀬」
 背中に声をかけられ、振り返る。
「はい」
「また気が変わったら、いつでも言いに来い」
「締切、今日ですよね」
「今日提出したからって、お前のこれからの進路そのものが確定して終わるわけじゃない」
「……はい」
「あと三浦に、次からは這ってでも自分で出しに来いって言っとけ」
「もう僕が出しちゃいましたけど」
「だから次回の話だ」
「分かりました」

 職員室を出ると、廊下の壁に寄りかかって三浦が待っていた。
「出してくれた?」
「出したよ」
「マジで神。助かったわ」
「黒田先生が、次からは自分で持ってこいって」
「先生が言ってたの?」
「俺もそう思ってる」
「相変わらず厳しいねえ」
「当たり前のことだろ」
 並んで階段を下りていく。
「高瀬、今日自習室寄ってく?」
「いや、今日はまっすぐ帰る」
「珍し」
「最近みんなその言葉ばっかりだな」
「だって実際珍しいじゃん」
 昇降口で靴を履き替え、三浦と別れた。
「じゃあな、良いお年を」
「うん、また来年」
 ガラス扉を抜けて外へ出ると、冷え切った冬の空気の中に紗良が立っていた。
「帰るの?」
「うん」
「駅まで一緒に行っていい?」
「いいよ」
 並んで校門を出て、歩道の端を歩き出す。
「黒田先生、何か言ってた?」
「本当にこれでいいのか、って」
「高瀬、なんて答えたの?」
「『分かりません』って答えた」
「……高瀬が?」
「何だよ」
「そんなこと言うんだと思って」
「俺だってそれくらい言うよ」
「最近はね」
「最近って何だよ」
「前までの高瀬なら、絶対に『はい、これで完璧です』って言い切ってたでしょ」
 否定しようとして、言葉を飲み込んだ。
「……そうかもな」
「でも、出したんでしょ」
「うん」
「分かんないままなのに?」
「今は、あそこがいいから」
「あ」
「何」
「それ、私の真似でしょ」
「違うよ」
「絶対真似した」
「使い勝手がよかったから借りただけだ」
「じゃあやっぱり使用料発生ね」
「まだ取るのかよ」
「大学に合格するまでずっと」
「高すぎるだろ」
 横断歩道の信号が青に変わる。
「絵は?」
「たまに描いてる」
「今日も帰ったら描くの?」
「さあ、分かんないな。牧野は今日勉強するのか?」
「分かんない」
「ほんと便利だな、それ」
「でしょ」
 駅に着くまで、それ以上進路の話を蒸し返すことはなかった。
 ホームへ下りると夕方の電車は混み合っていて、二人で吊り革に掴まりながら、揺られるあいだはほとんど言葉を交わさなかった。
「じゃあね」
 紗良の降りる駅で扉が開く。
「うん。また三学期」
「うん、また」
 短く手を挙げて、紗良は人の波の中へと降りていった。

 帰宅して部屋に入り、制服の上着を脱いだところでスマートフォンが短く震えた。
 画面を見ると、澪からのメッセージが届いていた。
――進路、今日出した?
――なんで知ってるんだよ。
――うちの学校も今日が締切だったから。
――朔はどこにしたの?
――前と同じところ。
 すぐに既読がついた。
――経済?
――うん。
 少しの間があってから、
――そっか。
 それだけの返信が届いた。
 美大は受けないのかとか、絵をまた描いているのにとか、そういった言葉は一切添えられていなかった。
 僕も、澪の志望校について改めて尋ねることはしなかった。
――今は行きたい。
 以前、喫茶店で彼女がそう言っていた。
 今の僕たちには、それ以上の言葉は必要なかった。
 スマートフォンを机の端へと置いた。

 夕食を済ませて風呂に入り、夜の十時を回ったところで自室の机に向かった。
 今夜は、最初から数学の演習を進めるつもりだった。
 赤本を開く。
 今日第一志望欄に書いた大学の、数年前の過去問のページだ。
 一問目の問題文を追う。大問の前半は順調に進んだが、三行目の展開式で一度手が止まった。符号を確認し、余白に計算を書き直して先へと進める。
 導き出された数値を巻末の解答と照らし合わせる。
 完全に一致していた。
 赤ペンを取り、答案の上に丸をつける。
 次の問題へ進もうとして、ページをめくりかけた指先が止まった。
 赤本のすぐ隣には、とある美大のパンフレットが置かれている。
 そのパンフレットの底の隙間から、白いコピー用紙の端が少しだけ覗いていた。
 指先を滑らせて、そっと引き抜く。
 あの日、最初に描いたあの立方体のデッサンだった。
 窓や自室の風景を描き始めてからというもの、いつの間にか他の新しい紙の山の下へと埋もれていたものだ。
 左側半分は消しゴムで途中まで削り取られ、右側には太く濃い線が残り、何度も擦った部分の紙肌が無惨に毛羽立っている。
 久しぶりに目にしても、狂っている箇所は一目瞭然だった。
 奥へと伸びるパースの線が一本、明らかに角度を誤ってずれている。
 ペン立てから消しゴムを取る。
 そこだけを軽く削り落として、正しい角度で引き直せばいい。
 紙の上へと消しゴムを近づける。
 あと数ミリ下ろせば、鉛筆の黒い線に触れる。
 間違っている。
 客観的なデッサンの基準で見れば、今でも間違いなく不正確な線だ。
 消して直せば、今よりずっと正確な「正解の立方体」になることも分かっている。
 右側には迷いのない濃い輪郭線があり、左側には消しきれなかった灰色の迷走の跡が残っている。
 その間を、少しだけ角度のずれた一本の線が、不格好に繋ぎ止めていた。
 僕は、握りかけていた消しゴムをそっと机の上へと戻した。
 直さなかった立方体の紙を、そのまま赤本のすぐ横へと並べて置く。
 さっき赤丸をつけた数学の解答用紙へと右手を戻し、僕は次の問題のページをめくった。