努力の結末に幸福がないと知っていても

 十一月二十三日の朝、目を覚まして最初に視界に入ったのは、枕元に放り出されたままのスマートフォンだった。
 画面に表示された時刻は、午前七時十二分。通知を示すインジケータは完全に無音だった。澪から「今日来る?」といった念押しのメッセージが届いているわけでもなければ、僕から「必ず行く」と明確な言質を与えたわけでもない。スケジュールの予定表アプリには、自らの手で入力した「文化祭」という三文字の単語が無機質に刻まれているだけだ。ただ、数日前に実家の郵便受けへ一通の招待状が届いていた。外部の人間が校内へ入るには、その紙が必要らしい。
 カーテンを押し引きして外の様子を窺うと、空は驚くほど澄み切った秋晴れだった。
 十一月の乾いた薄い日差しが、向かいの家の赤茶けた屋根瓦を白く照らし出している。もしこの空模様が雨にでも濡れていれば、それを都合のいい免罪符にして、家から一歩も出ないという選択肢を迷わず選べたのにと、僕は少しだけ惜しく思った。
 別に、わざわざ足を運ばなくたって誰も困らない。澪に対してだって「行けたら行く」としか言っていないのだから。もし後日、どうして来なかったのかと聞かれたとしても、急用が入ったとでも適当に言えばそれで済む話だった。
 そんなことを考えながら制服へ着替え、階段を下りた。
「今日、どこかに出かけるの?」
 朝食のトーストをかじっていると、キッチンのシンクで食器を洗っていた母が振り返った。
「うん、ちょっと」
「どこに?」
「そこまで遠くないところ」
「お友達と?」
「まあ、そんな感じ」
「じゃあ、お昼はいらない?」
「たぶん」
「分かった。気をつけて行ってきなさいよ」
 マグカップに残った冷めたコーヒーを喉に流し込む。
 味は、いつもと何も変わらなかった。

 午前九時を回った頃、ポケットの中でスマートフォンが短く震えた。
 取り出して画面を確認すると、紗良からのメッセージだった。
――今日、自習室の席取る?
 ちょうどその瞬間、僕は澪の通う高校までの乗り換えを検索していた。
 文化祭の受付は十時からで、澪は午後三時頃までは美術部の展示室にいると言っていた。今から家を出れば、午前中のうちに十分間に合う。それに、そのあとで自習室へ向かえば、夕方から何時間かは勉強できる。
 そこまで考えたところで、自分が他人の文化祭といつもの自習室を両方成立させようとしていることに気づいた。
――今日はちょっと、別の用事があるから無理。
 送信した直後、すぐに既読がついた。
――珍しいね
――何の用事?
 一度、「神谷の学校の文化祭」と打ち込む。
 その文字列を見つめてから、「神谷の学校の」という部分だけを消した。
――知り合いの学校の文化祭。
――何その珍しい予定
――もしかしてデート?
――違う。
――秒で否定した
 続けて、もう一件届く。
――じゃあ明日は自習室行ける?
――行ける。
――じゃあ明日の朝また連絡して。
 何を、と問い返しかけてやめた。
 スマートフォンをポケットへしまい、家を出た。

 澪が通う私立の女子高は、僕が普段使っている路線とは完全に逆方向の郊外にあった。
 途中で一度私鉄へ乗り換え、見慣れない駅の改札を抜ける。文化祭の来場者らしい他校の生徒や家族連れが何組も同じ方向へ歩いていたため、地図を開く必要はなかった。
 人の流れについて歩いていると、少し前にいた女子生徒二人の会話が聞こえてきた。
「ねえ、今年の神谷先輩の油絵、絶対見ようね」
「去年も入賞してた人?」
「そうそう。美術部の」
 不意に、歩幅が小さくなった。
 二人の声は、そのまま周囲のざわめきへ溶けていった。
 同じ名字かもしれない。
 そう考えたものの、たぶん澪なのだろうとも思った。
 校門をくぐり、受付で招待状を見せてパンフレットを受け取る。校内には模擬店の看板が並び、焼いたソースと甘い菓子の匂いが混じっていた。見知らぬ制服の生徒たちが廊下を行き交い、中庭のステージからは音楽と歓声が響いてくる。
 当然だけれど、全部知らない。
 教室も、生徒も、先生も。
 その中を歩いているうちに、澪がここで過ごしてきた時間のことを考えた。
 毎朝この校門をくぐり、授業を受け、誰かと昼を食べて、放課後には美術室へ行く。
 僕が紗良や三浦と話し、自習室で数学を解いていたのと同じ日常生活が、澪にもあった。
 頭では分かっていた。
 それでも、実際にその中へ入ると妙な感じがした。
 パンフレットを開く。
 美術部展『境界』。本館三階、美術室。
 階段を昇りきり、三階の廊下の突き当たりまで進むと、手描きの看板が立て掛けられていた。
 入口の木製ドアの前に立った瞬間、不意に足が止まる。
 微かな油絵の具の匂いがした。
 強くはない。
 それでも、自習室で一度だけ思い出したときの匂いとは違った。
 あのとき、自習室に絵の具など存在しなかった。
 今は、この扉の向こうにある。
 僕は息を吸い込み、木製のドアを押し開けた。

 教室内は、普段の授業スペースとしての面影をほとんど失っていた。
 作業机は壁際へ寄せられ、その上や臨時のパーテーションには、油彩、水彩、鉛筆デッサンがところ狭しと並べられている。小さな風景画から、人の背丈ほどもある大きなカンヴァスまで様々だった。
 すべてを見るつもりはなかった。
 作品カードの名前を追いながら、部屋の奥へ進む。
 窓際の一角に差しかかったところで、足が止まった。
 名前を見るより先に、それが澪の絵だと思った。
 縦長の、背丈ほどもあるカンヴァス。
 中央には一人の人物が立っている。女性のようにも見えるが、顔の造作はほとんど描かれていない。背後には歪んだ窓枠のような四角形があり、人物が窓のこちら側にいるのか、向こう側にいるのかも分からなかった。
 頭部の周囲には白が重ねられている。
 遠くから見れば光のようだった。
 近づくと、その下には濁った黄色や青、灰色が何層にも残っている。絵の具を厚く置いたところがあり、その上を削った細い溝も走っていた。
 特に人物の右肩から首筋にかけては、何度も絵の具を重ねたせいで、表面そのものが盛り上がっている。
 乾いた色の下から、暗い赤が覗いていた。
 何度も直したのだろう。
 昔の澪の絵を思い出す。
 腕が少しくらい長くても、そのとき描きたいものがほかにあれば、そちらを優先していた。僕が指摘すれば「今は」と答え、あとから気になれば家へ持ち帰って直した。
 目の前の絵にも、勢いのまま残されたような線はある。
 左側では青の上を太い黒が横切り、その下の橙色も隠しきれていない。
 けれど、右肩だけは違った。
 塗って、削って、その上からまた塗る。
 直した場所ほど、近くで見れば厚くなっている。
「そこ、そんな近くで見る人あんまりいないよ」
 後ろから声がした。
 振り返る。
 制服姿の澪が立っていた。
 袖には「美術部」と書かれた腕章があり、髪は後ろで一つにまとめている。先週カフェで会ったときより、ここにいるほうが自然に見えた。
「いつからいたの?」
「今」
「連絡してくれればよかったのに」
「ずっとここにいるって言ってただろ」
 澪が笑った。
「ほんとに来た」
「行けたらって言っただろ」
「朔の『行けたら』は、来ないって意味だと思ってた」
「たまたま予定なかっただけ」
「はいはい」
 もう一度、作品へ向き直る。
 下のカードには、
 『境目』 神谷澪 二年
 とあった。
「これ?」
「うん」
「文化祭用?」
「夏くらいから描いてた」
「そんな前から?」
「途中で何回かやめたけどね」
 澪も自分の作品を見る。
「嫌になって」
「何が」
「分かんなくなったから――」
 少し間があった。
「これ描いてる意味がね」
 その言葉に、もう一度キャンバスを見る。
「でも完成させたんだ」
「文化祭は待ってくれないから」
「締切があると描けるって、昔も言ってたな」
「覚えてた?」
「今思い出した」
「またそれ」
 澪は小さく笑って、僕と並んで作品を見た。
 しばらくして、
「どう?」
 と聞いた。
 何と答えればいいのか分からなかった。
 すごい、で済ませてもよかった。
 実際、この部屋の中でも澪の作品の前で足を止める人は多い。
 ちょうど後ろを通った二人組が、
「これ好き」
「神谷さんのだ」
 と話しながら、僕たちの少し横で止まった。
 僕が何も言わなくても、澪の絵を見ている人はいくらでもいた。
「上手い?」
 隣から聞かれた。
「……上手いよ」
「それだけ?」
 昔の会話が重なった。
「何て言ってほしいの」
「そういうことじゃないけど」
「じゃあ分かんない」
 澪が困ったように息を吐く。
「朔なら、何か言うと思った」
「何かって?」
「それが分かんないから聞いてる」
「期待されても困る」
「……ごめん」
 すぐに謝られると、それで終わらせるのも違う気がした。
 僕はもう一度、絵へ近づいた。
「ここ」
 人物の右肩を指す。
「何回も直したの?」
 澪の目もそこへ向いた。
「分かる?」
「下に赤が残ってる。その上も削ってるだろ」
「……うん」
「何回?」
「覚えてない」
「何でここだけ?」
「気に入らなかったから」
「何が?」
 澪はしばらく考えた。
「全部」
「前だったら、そのままにしてたじゃん」
「何を?」
「腕が長くても、光の向きが違っても。気にならないって言ってた」
 澪は僕ではなく、自分の絵を見た。
「……覚えてるんだ」
「今思い出しただけ」
 右肩には何層も色が重なっている。
 左側には太い筆跡が残っているのに、そこだけは何度も触ったことが分かった。
「今は、直したくなるんだよね」
「何で?」
「分かんない」
「そればっかり」
「朔も最近よく言うじゃん」
 何も返せなかった。
 少し離れて、もう一度全体を見る。
 人物は窓の前にいるようにも、その向こう側にいるようにも見えた。明るい場所へ出ようとしているのか、そこから戻ろうとしているのかも分からない。
 右肩に重なった絵の具まで含めて見ていると、きれいという言葉だけでは片づけにくかった。
「……苦しそう」
 口にしてから、自分でも少し意外だった。
 澪の顔から、さっきまでの表情が消えた。
「この絵が?」
「うん。なんか、そう見える」
 美術室では、ほかの客が普通に話している。
 靴底の擦れる音や笑い声が続き、離れたところでは部員が作品の説明をしていた。
 澪だけがしばらく黙っていた。
「みんな、きれいって言うんだよね」
「きれいではあると思う」
「すごいとも言われた」
「それも分かる」
 澪は腕章の端を指で摘んだ。
「でも朔は、苦しそうなんだ」
「うん。悪かった?」
「ううん」
 澪は首を振る。
 それから少しだけ笑った。
「やっぱり来てもらってよかった」
「何で」
 今度はすぐには答えなかった。
 自分の作品を見たまま、
「私もそう思ってたから」
 と言った。
「自分で?」
「うん」
「じゃあ何で――」
「神谷ー!」
 美術室の入口から声が飛んできた。
 同じ腕章をつけた生徒が、受付のほうから手を振っている。
「ちょっと代わってー」
「あ、うん!」
 澪は返事をしてから僕を見る。
「ごめん。行ってくる」
「うん」
「待っててね」
「別に、もう――」
「待ってて」
 今度は言い切られた。彼女の吐く息の量が多かった。
 それに対し、僕が返事をする前に、澪は入口へ向かっていった。途中で別の生徒に呼び止められ、何か話して笑ってから、そのまま受付へ走っていく。
 ここにいる澪を見るのは、まだ変な感じがした。
 中学のころなら、木を描くことや、ココアを選ぶことや、締切がないと絵を終えられないことくらいは知っていた。
 けれど、それから三年近く経っている。
 僕が知らない間にできた友達がいて、僕が知らない時間の中で描いた絵がある。
 目の前の『境目』にも、その時間が残っていた。
 右肩には、何度も重ねた色がある。
 昔のほうが――。
 そこまで考えて、やめた。
 作品の前では、また何人かが足を止めていた。
「すごい」
「色きれい」
「これ二年生が描いたの?」
 少し離れたところまで下がる。
 その声を聞きながら、もう一度『境目』を見る。
 きれいでも、すごいでもなく、苦しそう。
 どうして自分だけそう見えたのかは、まだ分からなかった。

 澪が美術室へ戻ってきたのは、十五分ほど経ってからだった。
 そのあいだずっと『境目』を見ていたわけではない。ほかの作品も眺めたし、一度廊下へ出て、自動販売機で冷たい缶コーヒーも買った。
 それでも美術室へ戻ると、気づけばまたあの絵の前にいた。
「ごめん、待たせた」
 振り返ると、澪は少しだけ息を弾ませていた。
「長かったな」
「受付の人がなかなか戻ってこなくて。もう帰ったかと思った」
「待っててって言われたから」
「ちゃんと待つんだ」
「じゃあ帰ればよかった?」
「そういう意味じゃないって」
 澪は笑い、僕の手にある缶を見る。
「またコーヒー飲んでる」
「ほかに思いつかなかった」
「ほんと苦いの好きだよね」
「普通だろ」
「はいはい」
 さっきまでの話は、そこでいったん途切れた。
 澪は近くへ来た客に作品について聞かれると、慣れた様子で答えていた。
 そこへ、同じ制服を着た女子生徒が近づいてきた。
「神谷、これ夏休みからやってたやつでしょ?」
「うん」
「やっと完成したんだ」
「一応ね」
 その子は『境目』を見る。
「めちゃくちゃ直してたもんね。一回ほぼ全部塗り潰してなかった?」
「した」
「私、最初のほうも好きだったけど」
「それ今言う?」
「完成版も好きだよ」
「フォロー雑すぎ」
 二人が笑った。
 ほぼ全部。
 もう一度、絵を見る。
 右肩だけではなかったらしい。
 中央の人物の周囲にも、下から別の色や形が透けている。最初は今とはかなり違う絵だったのかもしれない。
 澪はそれを塗り潰して、また描いた。
 僕だって、踏切の絵は何度も直した。
 それなのに、その話を聞くと妙な感じがした。
 中学のころの澪は、僕が気になる線を指摘しても、本人が気にならなければそのまま描いていた。一方で、自分で気になったときには家まで持ち帰って直した。
 今の『境目』には、その「気になる」が画面のほとんどに広がっている。
「朔?」
 気づくと、澪がこちらを見ていた。
「さっきから考え込んでるね」
「別に」
「出た、それ」
 澪は呆れたように笑った。
「そろそろ休憩だから、何か食べに行こうよ」
「美術部はいいの?」
「休憩くらいあるよ。私もお腹すいたし」
「じゃあ行ってくれば」
「朔も来るの」
「俺も?」
「せっかく文化祭来たのに、美術室しか見てないでしょ」
「目的それだったし」
 澪は何か言おうとして、やめた。
「まあいいや。行こ」
 腕章を外し、近くの部員へ声をかけて美術室を出ていく。
 僕も飲みかけの缶を持って、そのあとを追った。

 校内を歩き始めると、澪は何度も名前を呼ばれた。
「神谷、あとで写真撮ろ」
「分かった」
「澪ちゃん、二組の焼きそば食べた?」
「まだ」
「売り切れるよー」
「今行く」
 階段を下りるまでの短い間にも何人かに声を掛けられ、そのたびに澪は返事をしたり、笑ったり、手を振ったりする。
「友達、多いんだな」
 澪が振り返った。
「何、その意外そうな顔」
「どうせ中学のとき、そんなにいなかっただろ」
「朔は知らないでしょ」
「それはそうだけど」
 階段を下りていく澪の横顔を見る。
 三年近く経っているのだから、変わっていて当然だった。
 僕も絵を描かなくなり、その代わりに勉強する時間が増えた。紗良や三浦と知り合って、澪の知らない高校生活を送っている。
 それなのに、澪と会うと、僕は今の姿より先に昔との違いを探してしまう。
「何食べる?」
 前を歩いていた澪が振り返った。
「何でもいい」
「一番困る答え」
「澪が食べたいのでいいよ」
「じゃあ焼きそば」
「それで」
「早っ」
「何が」
「朔って、もっと悩む人だった気がする」
「食べ物ではいちいち悩まないよ」
 澪は前を向いたまま、
「絵はすごい悩んでたのにねー」
 と言った。そして、確かに「いつも飲んでるものも一緒だもんね」とだけ付け加えていた。
 彼女がそう言ってる間に、僕の歩く足が少し遅れた。
 澪は振り返らなかった。だから、僕も何も言わず、その隣へ追いついた。

 焼きそばを買い、混雑している校舎を避けて裏手へ回った。
 コンクリートの壁際に置かれたベンチへ並んで座ると、表の文化祭の騒がしさはかなり遠くなった。十一月にしては日差しが暖かく、風が吹くたびに近くの木から乾いた葉が落ちてくる。
「朔の高校って、文化祭何やった?」
 澪が割り箸を割りながら聞いた。
「去年はクラスで喫茶店」
「朔、接客したの?」
「したよ」
「想像できない」
「普通にできるって」
「いらっしゃいませ、って?」
「そう」
「言ってみて」
「何で今」
 そこからしばらく、お互いの文化祭の話をした。澪は去年も美術部で作品を出していたらしい。
「何描いたの?」
「小さい油絵」
「賞取ったやつ?」
「違う」
「雑誌に載ってたのとも?」
 口にしたところで、澪の箸が止まった。
「雑誌?」
「この前見た」
「何を?」
「高校生の美術特集みたいなやつ」
「あー、私、載ってた?」
「載ってたよ」
 澪は本当に知らなかったらしく、目を丸くした。
「へえ」
「見てないの?」
「取材来たのは覚えてるけど、自分で見るの恥ずかしいし」
「賞は平気なのに?」
「それとは違う」
「顔、小さかったけど」
 言ってから、余計だったと思った。
 案の定、澪がこちらを見る。
「ちゃんと見たんだ」
「たまたま」
「本屋?」
「うん」
「美術雑誌の棚まで行って?」
「近く通っただけ」
「へえ」
「何だよ」
「別に」
 口元が緩んでいる。
「言えよ」
「朔、まだ私の絵気になるんだなと思って」
「違う」
「じゃあ何?」
「知ってる名前が載ってたら見るだろ」
 澪は焼きそばを一口食べ、容器を見たまま言った。
「嫌いな人でも?」
 箸が止まった。
「何それ」
「昔、私の絵見ると機嫌悪くなってたじゃん」
「そんなことない」
「あるよ」
「覚えてない」
「コンクールのあととか」
 返事はしなかった。
 風に煽られ、校舎の壁に貼られた模造紙がぱたぱたと鳴った。
「でもさ」
 澪もこちらを見ないまま続ける。
「見てくれてはいたよね」
「何が言いたいの」
「責めてるんじゃないよ」
「じゃあ何で今そんな話するんだよ」
「今日も、ちゃんと見てくれたから」
「文化祭に呼んだのは澪だろ」
「そうなんだけど」
 澪は箸の先で、容器に残った麺を動かした。
「朔って、変わってないところもあるんだなって思った」
「どこが」
「人の絵、ちゃんと見るところ」
「みんな見るだろ」
「見てはくれるよ。きれいとか、すごいとか」
「じゃあいいじゃん」
「うん」
 そこで一度、言葉が止まった。
「いいはずなんだけどね」
「何?」
「たまに分かんなくなる。何を見てほしかったのか」
 風で頬にかかった髪を、澪が耳へ掛ける。
「自分で描いたくせにね」
「だったら、人に見せなきゃいいじゃん」
「誰かに何か言われるのが嫌なら、自分だけで描けばいいだろ」
 ここまで流暢に話していた彼女に少しだけ間があった。
「朔はそうした?」
「何が」
「見せたくなくなったから、絵やめたの?」
 彼女の問いかけに思考が止まる。すぐには返せなかった。
「違う」
「じゃあ、何で?」
「あの話はもうしただろ」
「してないよ」
「したよ」
「受験とか、向いてなかったとか。朔が理由っぽいこと並べただけじゃん」
「何が違うんだよ」
 彼女との会話中、脳内には過去の記憶が走馬灯のように、でも、ゆっくりと、巡り続けていた。
「私が聞きたかったことと違った」
「何で、そんなに知りたいの?」
 澪は答えなかった。
 校舎の向こうから、マイクを通した声が聞こえてくる。
「数年前の話だぞ」
「うん」
「俺が絵やめようが何しようが、澪には関係ないだろ」
 澪の表情が変わった。
「……関係ない?」
「もう、ずっと会ってなかったんだし」
 言葉を止められなかった。頭は動いていないはずなのに。だからかもしれない。
 口だけは、攻撃的な言葉だけを発していた。
「澪は今も描いてる。賞も取ってる。俺はもう描いてない。今日だって澪の絵を見るために来た。それでいいだろ」
「よくない」
 澪ははっきり言った。
「私は、それじゃよくない」
「何で」
「分かんないけど」
「またそれ?」
「分かんないんだから仕方ないじゃん」
 今度は澪の声も少し強くなっていく。
「あのときから、ずっと分かんないんだよ。急に教室来なくなって、メッセージも返さなくなって。先生に聞いたら、受験だって言われて」
「受験はしただろ」
「一年以上あとじゃん」
「早くから勉強する人だっている」
「朔、本当にそれだけだった?」
 答えなかった。
「それまで、ずっと描いてたのに」
「飽きることくらいあるだろ」
「でも朔は飽きてなかった」
「何で澪に分かるんだよ」
「だって――」
「俺のこと、何でも知ってるみたいに言うなよ」
 声が重なった。
 少し離れたところを歩いていた人が、こちらを見たのだろう。視線を向けられた気配だけがあった。
 二人とも黙った。
 風に押された落ち葉が、ベンチの前を転がっていった。
「……分かると思ってた」
 きますい、気まずすぎる沈黙を破るように、澪が小さな声で言った。
「何が」
「朔のこと」
「何で」
「一緒に描いてたから」
「それだけ?」
「それだけじゃないけど」
「じゃあ何だよ」
 澪の唇が動いた。
 けれど、何も言わなかった。
 その沈黙が腹立たしかった。
「分かってないよ」
「何も分かってない」
「朔?」
「一緒に描いてたからって、勝手に分かったことにするなよ」
「そんなつもりじゃ――」
「だったら何なんだよ」
 喉まで出かかった。
 お前が――。
 そこで止めた。ここで言うことではないと思った。それ以上に、一度口にしたら、今度こそ戻れない気がした。
 僕はただベンチから立った。
「もういい」
「朔」
「帰る」
 空になった容器を持って歩き出すと、後ろで澪も立ち上がる音がした。
「待って」
「絵は見たから」
「そういうことじゃなくて」
「だったら何?」
 澪は僕の前まで来た。
 さっきまで焼きそばを食べながら笑っていたときとは違い、もう目を逸らさなかった。
「あとで、ちゃんと話したい」
「ちゃんとって何?」
 口にしたあとで、昔の会話を思い出した。
 人物デッサンの腕がおかしいと言った僕に、澪が同じことを聞いたことがある。
 ――ちゃんとって何?
 あのときは、僕が答えられなかった。
「文化祭終わったあと。三時過ぎ」
「何でそこまで」
「聞きたいから」
「だから、何を」
「朔が、何で絵やめたのか」
「それなら、さっきから言ってるだろ」
「向いてなかったとか、受験とかじゃなくて」
 澪はそこで一度言葉を切った。
「本当のやつ」
 簡単に言うなと思った。
 本当の理由を話したところで、今さら何かが変わるわけでもない。澪が聞いたところで、困るだけかもしれない。
 それでも、澪は待っていた。
 昔からこうだった。
 分からないことがあれば聞く。僕が答えに詰まっても、代わりの答えを勝手に作らない。
 ただ、こちらを見る。
「分かった」
 言ってから、自分でも少し驚いた。
 澪が目を瞬く。
「ほんと?」
「話せばいいんだろ」
「……うん」
「じゃあ話すよ」
 もう一度ごまかすこともできた。
 それでも今度は、そうしないことにした。
「全部」
 澪の顔から、わずかに残っていた笑みが消えた。

 三時まで学校に残る気にはなれず、一度校門を出た。
 駅前の書店へ行き、いつものように参考書売り場へ入る。数学、英語、国語。見慣れた棚に、大学名の印刷された赤い背表紙が並んでいた。
 一冊取る。
 数ページめくって戻す。別の本を開いて、また戻した。何を読んでもほとんど頭に残らなかった。
 三時十分前になって書店を出た。
 学校へ戻ると、午前中より人が減っていた。文化祭の終わりを知らせる放送が流れ、廊下では模擬店の看板が外され始めている。朝には壁を埋めていた飾りが剥がされ、教室の前には畳まれた段ボールやゴミ袋が積まれていた。
 三階の美術室へ行く。
 澪は『境目』の前に立っていた。
「来た」
「約束したから」
 澪は一度頷いた。
「ちょっと待ってて」
 近くの部員へ声を掛けに行く。
 そのあいだ、もう一度『境目』を見た。
 人物の右肩には、何度も重ねられた絵の具が残っていた。近くで見れば、その部分だけ表面が盛り上がっている。
 中学二年の冬、自分の踏切を何度も直したことを思い出した。
 一度気になった場所を直すと、その隣が気になる。そこを直せば、今度は別の場所が気になった。僕と澪が同じだとは思わない。ただ、三年前の僕がこの絵を見たら、今の澪をどう思ったのだろうとは考えた。
「行こ」
 振り返ると、澪が鞄を肩へ掛けていた。
「どこ?」
「外。ここだと落ち着かないから」
 二人で美術室を出た。
 廊下では片づけが進んでいた。朝に見た看板はもういくつかなくなり、床には剥がしたテープの跡が残っている。
 校門を出て、どちらからともなく駅とは反対へ歩いた。
 午後の光はかなり傾いていて、住宅の壁や電柱の影が道路へ長く伸びていた。
 しばらく何も話さなかった。
「朔」
「うん」
「さっき言ってたこと」
 何のことかは分かっていた。
「分かってないって言ったじゃん」
「言った」
「教えて」
 彼女はそれ以上は聞かなかった。
 僕も答えなかった。
 文化祭の校舎から離れるにつれて、背後の音は少しずつ意味を失っていった。マイク越しの声は言葉ではなくなり、笑い声も人の声というより、遠くで何かがざわめいている程度になる。それなのに、隣を歩く澪の靴音だけはやけに近かった。
 何を話すのか、決めていなかったわけではない。
 むしろ逆だった。
 言わなければならないことは、三年前からほとんど変わっていなかった。
 ただ、それらは頭の中にあるあいだ、もっと複雑な形をしていた。悔しさや羨ましさや惨めさが互いに絡まり、その周りにはいくらでも事情をつけ足せた。自分にしか見えない場所に置いておけば、醜いところだけを隠して眺めることもできた。
 声にしてしまえば、それができなくなる。
 一度、澪の耳まで届いてしまえば、それはもう僕一人の過去ではない。
 少し先に、小さな公園が見えた。
 澪が何も言わずに中へ入った。
 低い柵の内側に、ブランコと滑り台がある。その奥にはベンチが一つだけ置かれていた。地面を覆う乾いた落ち葉が、ときどき風に押されて場所を変えている。
 澪はベンチには座らず、その前で立ち止まった。
 僕も数歩離れたところで足を止める。
 向かい合うには少し遠く、立ち去るには近すぎる距離だった。
 澪がこちらを見る。
「何で、絵やめたの」
 今度は、受験とも、向いていなかったとも答えなかった。
 その二つなら、何度でも言えた。
 聞かれた瞬間に取り出せるよう、いつの間にか決まった場所へしまっていた答えだった。
 けれど目の前にいるのは、僕が絵を描いていたことを知っている人間だった。
 どれだけ描いたのかも、何を描いたのかも、どんなふうにやめたのかも知っている。
 ここで同じ答えを口にしたら、たぶん僕はもう二度と本当のことを言わない。
 分からなかったわけではない。
 三年間、言わなかっただけだった。
「お前が嫌いだった」
 口から離れた途端、その言葉は僕のものではなくなった。
 三年間、頭の中にあるあいだは、もっと複雑だったはずなのに、声になればたったそれだけだった。
 嫌いだった。
 言い訳も事情もついていない。
 ひどく単純で、そのぶん逃げ道のない言葉だった。
 澪は何も言わなかった。
 何かを言われると思っていた。
 怒るか、傷つくか、少なくとも「どういう意味」と聞き返されると思っていた。
 でも、何も返ってこなかった。
 その沈黙のほうが、自分の言ったことをはっきり聞かせてきた。
 羨ましかった、と言えばよかったのかもしれない。
 悔しかった。
 お前の隣で描くのがしんどかった。
 そういう言葉なら、まだ僕と澪のあいだに何か残せた気がした。
 嫌いだった。
 自分で橋を落としたあとになって、その向こうに立つ澪を見ているような気分だった。
「……私が?」
「うん」
「いつから?」
「分かんない」
「分かんないのに、嫌いだったの?」
「いつからそうなったのかが分かんないってこと」
 澪はしばらく僕を見ていた。
 その目が、僕ではなくもっと昔のどこかを探しているように見えた。
「コンクール?」
 胸の奥で何かが小さく沈んだ。
 答えなかった。
 それで十分だったらしい。
「……やっぱり」
「分かってたみたいに言うなよ」
 思ったより強い声が出た。
「分かってないよ。結果が出てから、朔ずっと変だったから。そのあと教室にも来なくなったし、メッセージも返してこなくなった」
「だからって、全部分かってたわけじゃないだろ」
「分かってないから聞いてるんじゃん」
 言い返せなかった。
 全部話すと決めたのは僕なのに、少しでも自分の中へ踏み込まれると腹が立つ。
 知られたくなかった。
 けれど、何も知らない顔をされるのも嫌だった。
 たぶん三年前から、僕はずっとその矛盾した場所に立っていた。
「……お前が休んだ日」
「え?」
「コンクールの前。風邪で教室休んだだろ」
 澪は少し考えた。
「あった、かも」
「あのとき」
 次の言葉だけが喉に張りついた。
 嫌いだった、と言うよりも嫌だった。
 あれならまだ感情の話で済んだ。
「よかったって思った」
「何が?」
「お前が描けないから」
 言った途端、胃の奥が冷えた。
「あの日一日、お前は進まないって思った。俺は描けるから、そのぶん差がつくって」
 三年前の僕には、それはひどく簡単な計算だった。
 澪は一日描けない。
 僕は一日描ける。
 だから、そのぶん差が縮まる。
 ただそれだけだった。
 なのに今、澪を前に同じ式を口にすると、どこから計算しても最後には自分だけが余った。
 澪は何も言わない。
「熱出して休んでるのに」
 あの日の教室が浮かんだ。
 空いていた隣の席。
 机の下に収まったままの丸椅子。
 聞こえなかった筆洗の音。
 予定より進んだ踏切。
 相沢先生に、今日は集中してるね、と言われた。
 僕は嬉しかった。
 澪がいない日の静けさを、心地いいと思った。
「俺、よかったって思ったんだよ」
 澪は足元を見ていた。
 地面に何かがあるわけでもない。
 ただ、僕を見る場所をなくしたように思えた。
「その日の夜、お前からメッセージ来た。家で描いてるって」
「……覚えてる」
「結局描いてるのかよって思った」
「それも嫌だった」
 澪の手が、肩から下がった鞄の紐を掴んでいた。
「……」
「お前、ちゃんとやってないように見えてたんだよ」
「ちゃんと?」
「課題出されても別のもの描くし、形がおかしくても気にしないし。何時間描いたとか、何枚描いたとか聞いても、いつも知らないって言ってただろ」
「それは――」
「俺はやってた」
 遮った。
 止まったら、この先はもう言えない気がした。だから、僕は止まらなかった。
「毎日描いてた。先生に言われたところも直した。前より上手くなったか見比べて、コンクールだって何週間も前から準備した。七枚も下描き描いた」
 机の上に並べた七枚の紙が浮かぶ。
 一枚目より二枚目。
 二枚目より三枚目。
 踏切の傾き、線路の遠近、光の入り方。
 一枚ずつ直すたび、確かに昨日より良くなっていた。
 それを疑ったことはなかった。
「なのに、お前はぎりぎりになって描き始めて、途中で風邪引いて、それでも完成させて」
 一度息を吸った。
「俺より上だった」
 それだけは三年前から形を変えず、ずっと残っていた。
「俺のほうが上手かったのに」
 口にすると、ひどく幼かった。
 中学生の自分だけが、三年間どこにも進まずに残っていて、今の僕の喉を借りて喋ったみたいだった。
「最初は俺のほうが上手かった」
「……うん」
 澪は否定しなかった。
 その瞬間、ほんの少しだけ安堵した。
 そして、安堵した自分に気づいた。それが醜くて、心が嫌な方向に動き続けた。
「先生にも褒められてた。外から来た人にも、基礎ができてるって言われた。澪だってそう言った」
「言ったよ」
「なのに」
 七枚描いても届かなかったもの――。
 毎日描いても、自分のほうには来なかったもの――。
「みんな、お前の絵のほう見てた」
 その言葉の先に、澪の口元から、何か言いかけた気配だけが消えた。
「外から来た人も、一回通り過ぎたのに戻ってきた。相沢先生も、お前の絵の前だと長く話してた。コンクールでもお前が上だった。美術館でも、知らない人がお前の絵の前で止まってた」
「朔」
「俺はちゃんとやってたのに」
 自分の耳にも、情けなく聞こえた。
 ちゃんと。
 ずっと、その言葉の上に立っていた。
 描けば上手くなる。
 直せば正しくなる。
 時間をかければ、その分だけ前へ進む。
「毎日描いて、言われたところ直して、前より上手くなって。それなのに、お前のほうが見られた」
「だから私が嫌いだった?」
「それだけじゃない」
「じゃあ何?」
 答えるまでにこの質問も時間がかかった。
 これまで話したことより、そっちのほうが認めたくなかったのだろう。本当の本心、本質的なことはこっちだった。
「澪は楽しそうだった、気軽そうだった」
「どういうこと?」
「絵描いてるとき。自由に身を置いていた」
 澪は黙った。
「課題と違うもの描いて、気になったら家まで持って帰って、急に別の紙出して。何時間やったかも覚えてないのに、ずっと描いてた」
 あの夜の公園を思い出した。
 ヘッドライトが枝を横切った瞬間、
 ――今。
 と、澪が言った。
 あの一言だけは、今でも耳の奥に残っている。
「俺は、途中からそうじゃなかった」
 自分の口から出て、初めてその言葉の重さが分かった。
「前より上手くなったかとか。先生に直されないかとか。コンクールなら、どこまで行けるかとか」
 足元の落ち葉を靴先で押した。
「そういうのばっかり気になってた」
「朔には、そう見えてたんだ」
「何が」
「私が、何も気にしないで描いてたみたいに」
「そう見えてたよ」
「違うよ」
「知らないよ」
 反射的に声が強くなった。
「俺にはそう見えてたんだから」
 同じ時間を過ごしていたはずなのに、その瞬間、僕が知っていた過去と澪が知っていた過去が、まったく別の場所にあるもののように思えた。
「好きなもの描いて、先生に何言われても平気そうで、それで評価されて。俺が欲しかったものを、澪は欲しがってないみたいな顔で取ってった」
「そんなつもり――」
「分かってる」
 言わせたくなかった。
 悪気はなかった。
 そんなことは最初から分かっていた。
「澪が悪くないのは分かってる」
 それが一番厄介だった。
 澪が嫌なやつならよかった。
 僕の絵を笑っていたなら。
 賞を取ったことを自慢していたなら。
 僕より上だと、一度でも口にしていたなら。
 そうだったら、もっと簡単に嫌えた。
「俺の絵を馬鹿にしたこともない。賞取ったって自慢もしなかった」
 声が小さくなる。
「むしろ、ずっと褒めてた」
 階段が浮かんだ。
 角の潰れたスケッチブック。
 そこに貼られていた踏切の小さな写真。
 その横に残っていた、澪の字。
「『朔の絵、好き』って」
 澪の顔から、それまでそこにあったものが抜け落ちた。
「……覚えてたんだ」
「忘れるわけないだろ」
 コンクールの順位よりも、美術館で知らない人が澪の前に立ち止まったことよりも、あの一言のほうが長く残った。
 好き。
 本来なら、自分を救う側にあるはずの言葉だった。
 それが三年間、喉に刺さった魚の骨みたいに、飲み込むことも吐き出すこともできずに残っていた。
「それが一番嫌だった」
 澪は動かなかった。
 でも僕には、それまで数歩先にいた人間が急に遠くへ行ったように感じられた。
「……何それ」
 声が少し遅れて届いた。
「私、本当に好きだったんだけど」
「知ってる」
「知ってるのに?」
「だから嫌だったんだよ」
「意味分かんない」
「俺だって分かんなかったよ」
「好きって言っただけじゃん」
「分かってる」
「馬鹿にしたわけでもない」
「それも分かってる」
「じゃあ、何で」
 澪の声が公園に響いた。
 それまで遠くへ退いていた世界が、その一声で急に戻ってきた。
 車の走る音。
 葉の擦れる音。
 ブランコの鎖が風に揺れて、金属同士の触れ合う乾いた音を立てている。
「私、朔の絵好きだった」
 澪の目元が赤くなっていた。
 それでも涙は落ちなかった。
 ぎりぎりまで張った水面みたいに、そこに溜まったまま耐えていた。
「今でも覚えてるよ。踏切も、立方体も、瓶も、人物も」
「やめろよ」
「何で」
「そういうの」
「だから、何で」
 澪が一歩近づいた。
 僕は反射的に半歩下がりそうになって、踏みとどまった。
「俺が負けたあとに、お前から好きって言われて、嬉しいと思う?」
「じゃあ何て言えばよかったの」
 今度は澪も引かなかった。
「何も言わなければよかった? 朔が悔しそうだから、絵の話しないほうがよかった?」
「そうかもしれない」
 言った途端、澪の顔に初めて明確な傷が浮かんだように見えた。
「じゃあ私、どうすればよかったの」
「知らないよ」
「コンクール辞退すればよかった?」
「そんなこと言ってない」
「じゃあ何なの」
「だから、お前は何も悪くないって言ってるだろ!」
 自分の声が公園の壁にぶつかって戻ってきた。
 そのあと、急に静かになった。
 何もない静けさではなかった。
 さっきまで投げ合った言葉だけが地面に散らばって、誰も拾えなくなったような静けさだった。
 澪が手の甲で目元を擦った。
「……ずるい」
「何が」
「何も悪くないって言いながら、嫌いだったって言うところ」
「実際そうだったんだから仕方ないだろ」
「じゃあ私、どうしようもないじゃん」
 その言葉が胸に残った。
 でも、それを考えるより先に別のものが口から出た。
「俺だってそうだったよ」
 澪を見ていられなかった。
「お前が下手になればいいとか、失敗すればいいとか。そんなこと、考えたくなかった」
 その瞬間、澪との距離が変わった。
 足の位置は何も動いていないのに、さっきまで近くにあった声も顔も、一段遠い場所へ押しやられたように感じた。
「……思ったの?」
 声まで遠かった。
 誤魔化すことはできた。
 風邪で休んだ日に安心しただけだ、と言えばいい。
 それ以上ではなかったことにすればいい。
 でも違った。
 澪の絵が上手くいっていない日。
 先生が澪の前で足を止めなかった日。
 結果が出る前。
 僕より下ならいいのに、と考えたことは一度ではなかった。
 一つ一つは頭の隅を掠めただけの小さなものだった。
 けれど思い返せば、それらは底に沈んだ砂のように、なくならず溜まり続けていた。
「……うん」
 澪の頬が強張った。
「私が失敗すればいいって?」
「ずっとじゃない」
「一回ならいいの?」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ、どういう意味?」
 答えがなかった。
「そう思ってる自分も嫌だったんだよ」
 やっとそれだけ言った。
 澪はしばらく黙っていた。
 その沈黙の中で、自分が今まで口にした言葉が、初めて外側から聞こえてきた。
 嫌いだった。
 休んでよかった。
 失敗すればいいと思った。
 頭の中にあったときには、それぞれに理由がついていた。
 悔しかったから。
 努力していたから。
 負けたから。
 でも声にすると、その周囲にくっついていた事情は全部剥がれ落ちて、考えたという事実だけが残った。
「じゃあ、朔は何が嫌だったの」
「何がって」
「私なのか、そういうこと考える自分なのか、分かんない」
「……お前も嫌いだったよ」
「何で」
 答えは考えるより先に出た。
「いたから」
 澪が止まった。
「お前がいたら、比べるから」
「じゃあ、私がいなかったらよかった?」
 何も言えなかった。
 肯定すれば、澪と一緒に描いていた時間まで否定することになる気がした。
 否定すれば、ここまで話してきたことが嘘になる。
「私が絵画教室やめてたら、朔はずっと描いてた?」
 澪はそこで黙った。
 昔からそうだった。
 一度聞けば、勝手に答えを補わない。
 僕が口を開くまで待つ。
 昔はその待ち方を嫌だと思ったことはなかった。
 今は、その数秒が逃げ道を一つずつ塞いでいくように感じた。
「そうやって待つの、やめろよ」
「聞いたから待ってるだけじゃん」
「答えたくないことだってあるだろ」
「でも、全部話すって言ったの朔でしょ」
「だからって何でも聞いていいわけじゃない」
「じゃあ、どこまでならいいの?」
 また答えられなかった。
 澪が短く息を吐き、一歩離れた。
「……もし、私が入選で、朔が優秀賞だったら?」
 顔を上げる。
「そのあとも、絵描いてた?」
「分かんない」
「分かんない?」
「そうなってないんだから、分かるわけないだろ」
 本当は何度も考えたことがある。
 順位が逆だったら。
 美術館で、自分の絵の前に知らない人が集まっていたら。
 母が澪の絵ではなく僕の絵の前で足を止めていたら。
 そのあと澪から「好き」と言われていたら。
 次の土曜日も、僕は教室へ行っただろうか。
 想像の中なら、いくらでも都合よく続きを作れた。
 だからこそ、それが本当なのか分からなかった。
「……そっか」
 澪が目を伏せた。
「違う」
「何が?」
「それだけじゃない」
「じゃあ何?」
「分かんないよ」
 自分で言って、腹が立った。
 三年間、分かっているつもりだった。
 澪に負けた。
 澪が嫌いだった。
 だから絵をやめた。
 それだけのこととして、自分の中では整理していた。
 けれど一つずつ口にすると、どの理由も途中で途切れた。
 最後まで辿り着けるものが一つもなかった。
 澪はしばらく地面を見ていた。
 それから、
「私も、朔に負けたくないって思ったことあるよ」
 と言った。
「……え?」
 言葉の意味より先に、意味がないと思った。
 澪と、負けたくない、という言葉がうまく結びつかなかった。
「最初のころ」
 澪は僕ではなく、公園の木を見ていた。
「朔のほうが上手かった」
「でも――」
「先生には褒められるし、描くのも速いし、形もちゃんとしてた」
 一度、言葉を切る。
「私、朔の絵見るの嫌なときあったよ」
 過去は変わらないと思っていた。
 起きたことは、起きた順番のまま残っている。
 僕は六枚描いた。
 澪は一枚だった。
 僕は褒められた。
 澪は気にしていなかった。
 そういう出来事が動かない標本みたいに、三年前の同じ場所に保存されていると思っていた。
「何でそんなこと――」
「言わなかったから」
「何で言わなかったんだよ」
「言ってどうするの?」
 澪の声には、まだ苛立ちが残っていた。
「私だって悔しかったよ」
「……」
「立方体とか、本当に嫌だった」
「それは知ってる」
「朔も知らないでしょ」
 澪が首を振る。
「立方体が嫌だったんじゃない。朔の隣で描くのが嫌だった」
 その一言で、記憶の中の教室が少し変わった。
 白い立方体。
 六枚目の紙を机に置いた僕。
 その横で一枚目を見ていた澪。
 あのとき僕は、澪の顔を見ていただろうか。
「何枚描いても、朔のほうが形がきれいだった。先生にもっと見てって言われても、私は何を直せばいいのか分かんないときもあった」
「でも、結局は澪のほうが――」
「だから」
 澪の声が僕の言葉を切った。
「私も今、結果の話してないよ」
 口を閉じる。
「私がそのとき悔しかったって話してるのに、朔はすぐ最後の順位に戻すじゃん」
 反論しかけて、できなかった。
 実際、たった今も頭には「優秀賞」という文字が浮かんでいた。
「上か下か。勝ったか負けたか。朔、さっきからそればっかりじゃん」
「そんな言い方してない」
「同じだよ、ずっと同じだって……」
 澪の目には涙が溜まっていた。
「私が途中で嫌だったこととか、悔しかったこととか、最後に朔より上だったら全部関係なくなるの?」
「そんなこと言ってない」
「でも、私が何言っても最後はコンクールの話に戻るじゃん」
 何も返せなかった。
 澪が泣きそうだったからではない。
 言っていることが分かってしまったからだった。
「私、朔みたいに描けたらって思ってたよ」
「……嘘だろ」
 本当にそう思った。
「何で」
「澪は好きなように描いてただろ」
「好きなように描いてたら、何も気にしないと思ってる?」
 澪は手の甲で目元を拭った。
「先生が朔の絵褒めたら嫌だったし、外から来た人に基礎ができてるって言われてるの見て、いいなって思ってた」
 初めて聞いた話だった。
 僕の記憶にいる澪は、そんなことを考えていなかった。
 いや。
 知らなかっただけだった。
 同じ机に座っていたのに、僕は澪が過ごした時間の半分も見ていなかった。
「朔みたいに描けたら、もっと普通に上手いって言われるのかなって思ったこともある」
「澪だって上手いって言われてただろ」
「そういう話じゃない」
「じゃあ何」
「……『面白い』って言われるの、嫌なときもあった」
 すぐには理解できなかった。
 僕がずっと欲しがっていた言葉だった。
 一度通り過ぎた人を引き戻した言葉。
 僕には与えられなかった言葉。
「何が面白いのか、自分では分かんないから。次も同じこと言われなきゃ駄目なのかなって思ったり」
 文化祭で見た『境目』が浮かんだ。
 人物の右肩。
 何度も何度も絵の具を重ねられ、そこだけ周囲より厚くなっていた場所。
 昼間は、ただ苦しそうだと思った。
 今になって、あの重なりの下に別の時間まで埋まっていたような気がした。
「高校入ってから、もっとそうなった」
「だから、あの絵?」
「かもしれない」
 澪は鼻をすすり、少し顔を逸らした。
「賞取ったら、次もって言われるし。先生にも、友達にも」
「そんなの――」
「朔だって、似たようなことあったんじゃないの」
「勝手に分かったみたいに言うなよ」
 反射的に返した。
 澪もすぐにこちらを見る。
「朔だって、さっき私の絵見て『苦しそう』って言ったじゃん」
「あれは絵を見て――」
「私は朔を見て言ってる」
「同じじゃないだろ」
「私には分かんないよ」
 澪が小さく息を吐いた。
「だから嫌なんだよ」
「何が」
「そういうところ。俺のこと分かってるみたいに言うところ。絵やめた理由も何回も聞いて、今日だって、俺なら何か言うと思ったって」
「だって……」
「何」
 今度は澪が答えなかった。
 それまで僕に向けられていた問いだけが、初めて澪の側で止まった。
「朔なら、ちゃんと見てくれると思ったから」
「それだよ」
「何が」
「何で俺なんだよ」
 澪が黙る。
「ほかの人がすごいとか、きれいって言ってるなら、それでいいだろ。俺が何て言うかまで気にする必要ないじゃん」
「……あるよ」
「何で」
 しばらく答えは返ってこなかった。
「昔から、朔には見せたかったから」
「だから、何で」
「分かんない」
「またそれかよ」
「分かんないものは分かんないよ、朔だってそうじゃん」
 声が重なった。
 澪は一度息を整え、小さな声で続けた。
「でも、聞きたかった。朔がどう思うか」
「俺が褒めなかったから?」
「違う」
 すぐに否定された。
「腕が長いとか、光が違うとか。そういうのも言ったでしょ」
「最後の下描きは澪が言ったんだろ」
 ほんの少しだけ、澪の口元に昔の形が戻った。
「そうだけど」
 すぐに消える。
「賞取るようになってから、何見せても最初に『すごい』って言われることが増えた。先生も、昔みたいに細かいこと言わなくなったし」
「それで?」
「朔がいなくなったの、嫌だった」
 ずっと欲しかったはずの言葉だった。
 なのに何も軽くならなかった。
「だから三年も経って、理由聞いてるの?」
「ずっと気になってたから」
「俺がいなくなって困ったからだろ」
「違う」
「何が」
「朔だったから」
 澪の頬を涙が一つ落ちた。
 夕方の光を拾って一瞬だけ明るくなり、すぐに手の甲で拭われる。
 それでも、そこを通った跡までは消えなかった。
「誰でもよかったわけじゃない、朔が良かったんだよ」
「それが分かんないんだよ」
「私だって分かんないよ」
 澪は一度息を吸った。
「でも、朔はずっと描くと思ってた」
「何で」
 返事までに間があった。
「好きだったから」
 頭の中で、何かが一瞬だけ違う形を作った。
「……何が」
「朔が絵描いてるの」
 それだけだった。
 自分が何を聞き違えたのかを考えるより先に、澪が続けた。
「朔、描くの好きだったじゃん」
「それ、お前がそう思ってただけだろ」
「朔だって同じじゃん」
「何が」
「私のこと」
 澪は赤くなった目でこちらを見る。
「私が何考えて描いてたか知らないのに、楽しそうだったとか、何も気にしてなかったみたいに決めてた」
「それは――」
「朔にはそう見えてたんでしょ。それは分かった。でも、私と同じだったよ」
 僕が知っていた澪。
 澪が知っていた僕。
 どちらも嘘ではなかったのだと思う。
 ただ、お互いに相手の見えるところだけを全部だと思っていた。
「朔はずっと描くって、勝手に思ってたんだよ」
 否定できなかった。
「……じゃあ同じだろ」
「何が?」
「勝手だったってこと」
 澪は少し考えたあと、目元を拭った。
「うん。勝手だった」
 意外なくらいあっさり認めた。
「朔が描かなくなって嫌だった。今日来てほしかったのも、朔ならほかの人と違うこと言うって思ってたから」
「……」
「それは私が勝手に期待してた」
 そう言われれば、少しは楽になると思っていたのかもしれない。
 澪が鞄の肩紐を握る。
「でも」
 今度は、僕をまっすぐ見た。
「朔が絵やめたことまで、私のせいにされるのは嫌」
「そんなこと――」
「言ってるよ」
 声はもう大きくなかった。
 だからこそ、逃げる場所がなかった。
「私がいたから比べたって。私がいなかったらって。じゃあ、朔が絵やめたのも私がいたせいなの?」
「……」
「それまで私が持たなきゃいけないの?」
 何も言えなかった。彼女の言葉はただただまっっすぐで、そして正しかった。
「朔が辞めたことまで、私に持たせないで」
 風が吹いた。
 落ち葉が何枚か、僕と澪の間を転がっていった。
 三年前、絵画教室へ行かなくなった。
 澪から来たメッセージに返さなかった。
 相沢先生のところへ画材を取りに行くこともせず、母に頼んだ。
 戻ってきた画材箱をクローゼットへ入れた。
 そのあと、数学ばかりやるようになった。
 思い返してみれば、そのどの場面にも澪はいなかった。
 教室へ行かなかった足も。
 メッセージを閉じた指も。
 画材箱を押し込んだ手も。
 全部、自分のものだった。
「……帰る」
「澪」
「もういい」
 昼間、僕が言ったのと同じ言葉だった。
 あのときは、その二文字で僕が会話を終わらせた。
 今度は、それを澪から返された。
 澪が鞄を肩へ掛け直し、公園の出口へ向かう。
「待って」
 澪は止まった。
 振り返る。
 怒っているというより、ひどく疲れて見えた。
 長いあいだ何かを支えていた人が、ようやくそれを床へ置いたあとのようだった。
「何?」
「俺は……」
 何か言わなければならないと思った。
 謝ることなら、いくつもあった。
 嫌いだったと言ったこと。
 風邪を喜んだこと。
 失敗を願ったこと。
 「好き」と言われたことまで憎んだこと。
 自分が絵をやめた責任の一部を、いつの間にか澪へ預けていたこと。
 けれど、どれか一つを選んで謝ったら、それ以外には目を瞑ることになるような気がした。
「……ごめん」
 結局、口から出たのは、一番何も指していない言葉だった。
 澪は少し黙った。
「何に?」
 答えられなかった。
 さっきまであれだけ言葉が出たのに、今度は一文字も続かなかった。
 何に謝っているのか。
 何を悪かったと思っているのか。
 その形を、僕自身がまだ掴めていなかった。
 澪はしばらく待った。
 それから、小さく息を吐いた。
「ほら」
 顔を上げる。
「分かってないの、朔もじゃん」
 澪は背を向けた。
 今度は呼び止めなかった。

 公園を出たのは、それからしばらくしてからだった。
 駅へ向かう途中、文化祭帰りらしい生徒たちと何度かすれ違った。紙袋を持って笑っている人や、制服の上にクラスTシャツを着たままの人もいる。
 少し前まで、僕もあの学校にいた。
 澪と焼きそばを食べていた。
 それがもう、ずいぶん前のことのように感じた。
 ホームへ下りても、澪の姿はなかった。
 空いていた電車の窓際へ座り、スマートフォンを取り出す。
 メッセージ一覧の一番上には、神谷澪。
 開くと、文化祭へ来る前に届いていた言葉が残っていた。
――楽しみにしてる。
 文化祭へ来ることも、絵を見せることも、本当に楽しみにしていたのだろう。
 返信欄を開く。
――ごめん
 消す。
――さっきは
 それも消した。
 何を書いても、さっきの「何に?」へ戻ってしまう気がした。
 画面を閉じる。
 その下に、牧野紗良の名前があった。
 開く。
――明日、何時にする?
 数分もしないうちに返事が来た。
――10時でいい?
――いいよ
――駅前?
――うん
――寝坊しないでね
――しない
 いつも通りだった。
 学校でも、数学でも、三浦の話でもいい。
 澪いつもの日曜日を過ごしたかった。

 その日の夜、机へ向かって数学の問題集を開いた。
 条件を読む。
 一度では頭に入らず、最初から読み直す。
 ――朔が辞めたことまで、私に持たせないで。
 もう一度読む。
 式を書く。
 途中で計算を間違えていたので消し、最初からやり直した。
 答え合わせをする。
 正解だった。
 赤い丸をつける。
 次の問題へ進む。
 また正解する。
 それでも、その夜はページをめくるたび、公園で言われた言葉が戻ってきた。

 翌朝、待ち合わせより十分早く駅へ着いた。
 早めに出たつもりはない。いつも通り家を出て、来た電車に乗っただけだ。それでも駅前の時計は九時五十分を指している。自習室が開くまで、あと十分ある。
 ベンチへ座り、スマートフォンを開いた。
 通知はない。
 メッセージ一覧の一番上に、神谷澪の名前があった。
 最後のやり取りは文化祭へ行く前で止まっている。昨日、公園であれだけ話したのに、そのことは画面のどこにも残っていなかった。僕も何も送っていないし、澪からも来ていない。
 名前を押す。
――楽しみにしてる。
 そこから先はない。
 しばらく画面を見てから閉じた。
「おはよ」
 顔を上げると、紗良がいた。
「早くない?」
「牧野も」
「私は二分前。高瀬は?」
「十分前」
「また時間見てなかった?」
「普通に来ただけ」
「普通に来て十分前なのが高瀬なんだよ」
 呆れたように言っていた紗良が、途中で僕の顔を見る。
「……寝た?」
「寝たよ」
「何時間?」
「六時間くらい」
「少な」
「普通」
「それ、高瀬の普通でしょ。目も赤いし」
「寝不足なだけ」
「昨日何時に帰ったの?」
「七時くらい」
「文化祭ってそんな遅くまでやってた?」
「終わったあと、ちょっと話してたから」
「誰と?」
 言ってから、そこまで答える必要はなかったと思った。
「この前話した、中学の絵画教室のやつ」
 紗良がわずかに間を置いた。
「……神谷さん?」
「そう」
「ふうん」
 それ以上、紗良は聞いてこなかった。
「じゃ、行こ。そろそろ開くでしょ」
 二人でいつもの道を歩いた。

 自習室へ戻ってからは、お互いにほとんど言葉を交わさなかった。
 問題を一つ解いて、次へと進む。午前中よりは、文字も数式もスムーズに頭の中へ入ってきた。
 一時を過ぎたころ、紗良がパタンと参考書を閉じた。
「お昼どうする?」
「食べる」
「駅前でいい?」
「うん」
 駅ビルのフードコートへ足を運び、紗良はうどんを、僕はラーメンを注文した。
「珍しい」
「何が?」
「高瀬がラーメン」
「普通に食べるよ」
「定食しか食べなさそう」
「どういう偏見だよ」
「栄養バランスとか考えて」
「高校生に何を求めてるんだよ」
「でも野菜追加してるじゃん」
「無料だったから」
「ほら」
「何がほらなんだよ」
 いつものように軽妙に言い返すと、紗良が小さく笑った。
 さっきまでの息苦しい沈黙が、そこでようやく薄まった気がした。
 ラーメンを半分ほど食べ進めたところで、
「高瀬」
 と名前を呼ばれた。
「何?」
「昨日、神谷さんと何話したの?」
 また、その話題へ引き戻される。
「なんで」
「今日ずっと変だから」
「寝不足だよ」
「六時間って、普段もそのくらいでしょ」
 返事に詰まっていると、少し間を置いてから、
「喧嘩した?」
 と核心を突くように聞かれた。
「……なんでそう思うの」
「当たり?」
「昔の話しただけ」
「絵の?」
「うん」
「辞めたこと?」
 思わず顔を上げた。
「なんで分かるの」
「だって、高瀬その話だけ露骨に嫌がるじゃん」
「別に」
「さっきもそうだったよ」
 そこまで言ってから、紗良は少しだけ声を柔らかく落とした。
「神谷さんとは話せたんだ?」
「昔から知ってるから」
「……そっか」
「何」
「何でもない」
「怒ってる?」
「怒ってないよ」
 すぐに否定の言葉が返ってきたけれど、いつもの弾むような調子には聞こえなかった。
「私さ、高瀬のこと結構知ってると思ってた」
「急に何」
「数学得意で、コーヒー好きで、朝は強くて。辛いの苦手で」
「最後いつ知ったんだよ」
「一年の文化祭」
「ああ」
「時間には細かいくせに、待ち合わせは勝手に早く来るし」
「それ必要?」
「そういうのも含めてでしょ」
 紗良は少し考えてから続けた。
「でも、絵描いてたことは知らなかった」
「言ってないから」
「うん。だから、隠してたとか責めたいわけじゃないよ」
「じゃあ何?」
 今度は紗良が答えるまでに時間がかかった。
「なんか変な感じするだけ」
「何が?」
「私が知らない高瀬を、神谷さんは知ってるんだなって」
 その言い方に、何かが引っかかった。
「そんな大したことじゃないよ」
 僕は言った。
「中学のときに絵を描いてただけだし」
 紗良はすぐには返さなかった。
 うどんの残った器を見ながら、箸を持ち直す。
「大したことかどうかって、高瀬が決めることじゃなくない?」
「俺の話なのに?」
「そうなんだけど」
 そこで言葉を探すように黙った。
「私にとっては、大したことかもしれないじゃん」
 意味を聞こうとしたとき、紗良は器へ目を戻した。
「もう食べよ。うどん伸びる」
「もう伸びてるだろ」
「高瀬が喋らせるから」
「牧野から話し始めたんじゃん」
「はいはい」
 紗良は箸を動かし始めた。
 僕もラーメンへ意識を戻す。
 会話はそこで終わった。
 けれど、さっきまでと同じ日常の空気へ戻れた感じはしなかった。
 紗良が知らない僕。
 澪が知っている僕。
 自分の過去をそんなふうに境界線で分けたことは、これまでの人生で一度もなかった。
 僕にとって絵を描いていた頃は、とっくに終わった過去の時間だったからだ。誰が知っていて、誰が知らないかなんて考える必要すらもなかった。
 それなのに、澪と再会してしまってから、その境目だけがやけに鮮明に目につくようになっていた。

 新しい月曜日になれば、学校はいつも通りの平坦さで機能していた。
 朝のホームルームがあり、退屈な授業が始まり、昼休みには三浦が昨日のサッカーの試合について熱っぽく話している。
 紗良もいつものように僕の前の席へ椅子を引いて座り、コンビニで買ったパンの袋を開けた。
「今日、放課後どうする?」
「自習室」
「私も行こ」
「英語?」
「今日は日本史」
「珍しい」
「テスト近いから」
「まだ二週間あるだろ」
「二週間しかないの」
「成長したじゃん」
「誰目線?」
 紗良が丸めたパンの袋を投げるふりをする。
 僕は反射的に身体を逸らした。
 午後の数学の授業では、黒板に書かれた複雑な問題をノートへ写し、手際よく方程式を立てる。
 答え合わせをする。
 正解。
 赤い丸をつけても、あの文化祭の翌日のような激しい動揺に襲われることはなくなっていた。
 放課後も、約束通り紗良と並んで自習室へ向かった。
 向かいの席で日本史の用語集をやっていたはずなのに、気づけば彼女は数学の問題集を開いて首を傾げている。
「ここ、何でマイナスになるの?」
 彼女の手元の答案を覗き込む。
「左辺から右辺へ移項してるから」
「移項、嫌い」
「数学の概念に好き嫌い持ち込むなよ」
「あるでしょ。高瀬だって」
「例えば?」
 紗良は少しだけペン先を止めて考えてから、
「立方体」
 と言った。
 シャープペンシルを持つ僕の手が、ピタリと止まった。
 紗良もすぐに自分の失言に気づいたらしい。
「あ、ごめん」
「何で謝るの」
「なんとなく」
「別にいいよ」
「……うん」
 それ以上は続かなかった。
 僕は問題集の数式へ視線を戻す。
 紗良も、自分のテキストのページへと意識を戻した。
 たったそれだけのやり取りだったのに、以前なら存在しなかった見えない防壁が、二人の間に確かに置かれた気がした。

 それから数日が経っても、澪からの連絡は一切来なかった。
 僕からも送らなかった。
 話すべきドロドロとした感情は、あの公園ですべて吐き出した。
 結果がああやって不格好に決裂したとしても、三年前みたいに何も言わずに逃げるように消えるよりは何倍もマシだったはずだ。
 そう無理やり考えることにした。
 けれど夜の静けさの中になると、ときどき無意識にメッセージアプリの一覧を開いてしまう自分がいた。
 神谷澪の名前はある。
 返信欄には触れないまま、ただ画面を見つめるだけだった。

 金曜日の昼休み、紗良は珍しく小宮と連れ立って自分の席で昼を食べていた。
 僕は三浦の冗談に相槌を打ちながらパンをかじっていたが、途中で三浦が向こうの席を顎でしゃくった。
「高瀬、最近牧野と喧嘩してんの?」
「してないけど」
「そう?」
「何で」
「最近、あいつがこっちの席に来る回数減ってないか?」
 紗良のほうへと視線を走らせる。
 小宮と何か楽しそうに話しながら笑い声を上げていた。
「普通じゃない?」
「前なんて、ほぼ毎日この席に居座ってたじゃん」
「毎日ではないだろ」
「ほぼ毎日だね」
 否定しようとして、言葉を飲み込んだ。
 言われてみれば確かに、昼休みに彼女が僕の前へ座る回数は目に見えて減っていた。
 自習室へは一緒に行く。
 勉強の質問で話もする。
 でも、あの文化祭の翌日から、学校という空間では以前より確実に一定の距離を保たれている。
 偶然なのかもしれない。
「高瀬、お前なんかやらかしたんだろ?」
「何もしてない」
「じゃあ牧野が勝手に機嫌斜めなわけ?」
「知らないよ」
「ふうん」
 三浦はそれ以上深く追求することなく、自分のパンへと興味を戻した。
 僕も紗良から目を逸らす。
 普通だった。
 少なくとも、そういう安全な解釈にしておきたかった。

 その日の放課後、机の中に忘れていた参考書を取りに教室へ戻ると、夕暮れの教室に紗良が一人で残っていた。
 窓の外のグラウンドからは、運動部の気合の入った掛け声が響いている。
 冬が近づいて日が短くなってきたせいで、教室の中にはもう薄暗い夕方の色が混じり始めていた。
「自習室行かないの?」
 声を掛けると、紗良がスマートフォンの画面から顔を上げた。
「今日はやめとく」
「用事?」
「小宮と駅ビルで買い物」
「そっか」
 机の引き出しから教科書を取り出し、スクールバッグへ放り込む。
 紗良はまたスマートフォンの液晶へと目を移した。
 いつもの彼女なら、「このあと高瀬も来る?」とか、「明日は何時にする?」とか、次に繋がる言葉が必ず一つくらいは続く。
 今日の教室には、何もなかった。
 鞄のファスナーをジッパーで閉める。
「じゃあ、また月曜」
「うん」
 教室の引き戸に手を掛けたところで、
「高瀬」
 と背後から呼ばれた。
 振り返る。
 紗良はスマートフォンを両手で持ったまま、じっとこちらを見据えていた。
 何かを言うべきか、迷っているような硬い表情だった。
「何?」
「……神谷さんって、どんな人なの?」
 その名前が唐突に出るとは全く予想していなかった。
「急に何だよ」
「ネットで調べたから」
「調べた?」
 紗良はスマートフォンを机の上へ伏せるように置いた。
「名前、すごく珍しいじゃん。検索したらすぐに出てきた」
 好奇心から検索した理由は分かる。
 それでも、自分の見えないテリトリーを探られたような嫌な感覚が先に立った。
「何でわざわざ検索なんてするんだよ」
 自分でも驚くほど、声に強い棘が混じってしまった。
 紗良の目がわずかに大きく見開かれる。
 僕もすぐに感情的になりすぎたと気づいた。
「……ごめん」
 先に謝ったのは、紗良のほうだった。
 それで余計に、僕は言葉を繋げなくなってしまった。
「別に、変な詮索をしようと思ったわけじゃないんだよ」
「分かってる」
「絵、見たの」
「……うん」
「すごく、圧倒される人なんだね」
「そうみたいだな」
「コンクールの賞とかも、いっぱいいっぱい出てきた」
「うん」
 紗良はスマートフォンの画面を完全に暗転させた。
 漆黒の画面に、教室の白い蛍光灯の光が冷たく反射している。
「私さ」
 そこで一度言葉を切り、彼女は深く息を吸った。
「高瀬の過去のこと、本当に何も知らなかったんだなって痛感したの」
「だから、ただの中学のときの習い事だって言っただろ」
「うん」
「そんな大した話じゃないんだ」
「でも、わざわざ文化祭には足を運んだんでしょ」
「呼ばれたから行っただけだ」
「何年も一切連絡取ってなかった相手なのに?」
 その追及に、僕はすぐには返答できなかった。
 行けたら行く、と適当に逃げ道を残していたくせに、当日は朝から乗り換えの路線を調べ、見ず知らずの女子校までわざわざ足を運んだ。
 駅前の書店で彼女の載っている美術雑誌を読み込んだ。
 美術室では、何度も何度も同じあの『境目』の絵の前へと引き寄せられるように戻った。
「……たまたま、時間が空いただけだよ」
 自分で口にしていながら、それがひどく下手くそで苦しい説明だということは自覚していた。
 紗良もその弁解には何も反論しなかった。
 しばらく重苦しい沈黙が教室を支配したあと、
「高瀬」
 と、静かに呼ばれる。
「何だ」
 今度は、声の底の調子が決定的に違っていた。
「神谷さんって、高瀬にとって誰なの?」
 質問の意味が分からないふりをして逃げることは簡単だった。
 中学の絵画教室で机を並べていた同級生。
 三年近く会っていなかった過去の知り合い。
 今も絵を描き続けていて、華々しく賞を取っている才能のある人間。
 表面的な答えのラベルなら、いくらでも並べ立てることができる。
 でも、紗良が本当に知ろうとしているのは、たぶんそういう形式的な肩書のことではない。
 僕の人生において、神谷澪という存在がどれほどの質量を持って居座っているのか。
 それだけは、どんなに頭をひねっても的確な言葉の形にはなって出てこなかった。