努力の結末に幸福がないと知っていても

 僕が相沢先生の主宰する絵画教室へ通い始めたのは、中学一年の春だった。
 寂れた商店街のどん詰まりに建つ、年端のいかない雑居ビルの二階。一階で営業するクリーニング店の脇には肩幅ほどの狭い階段が身を潜めており、一段踏みしめるたびに経年劣化した木材が悲鳴のような軋み音を立てた。曇りガラスの扉を押し開けると、湿った紙や削りたての木材、そして油絵の具の重たい匂いが混然一体となって肺の奥へと流れ込んでくる。その無数の匂いの底に潜む、鼻腔を鋭く突き刺すような揮発臭の正体がテレピン油であると知ったのは、そこからもう少し時間が経ってからのことだった。
 長い作業机が四つ、無機質に並べられている。壁際には無言の石膏像やガラス瓶、錆びた空き缶、無造作に丸められた布屑が雑然と配置され、窓際では洗い終えたばかりの筆が何本も逆立ちして並んでいた。床板には到底落としきれない赤や青の絵の具が染みついており、通い始めた当初の僕は、その荒涼とした床の染みを見るだけで、己が今から何かを創造する領域に足を踏み入れたのだという静かな高揚感を抱いていた。
 最初に与えられた課題は、無機質な白い紙コップと、一個の赤い林檎だった。
「まずは、見えてるものをそのまま描いてみようか」
「そのまま?」
「うん。上手く描こうとしなくていいから、ちゃんと見る」
 相沢先生に促され、改めて紙コップを観察する。
 それまで紙コップなど、ただの白くて真っ直ぐな円柱だと思い込んでいた。けれど、机の真ん中に置かれた物体を凝視し続けていると、上部の飲み口は真円ではなく潰れた楕円であり、底へと向かう二本の輪郭線もわずかに内側へと傾斜している事実に気がつく。
 画用紙に一本、輪郭を引いた。実物を睨み、紙へ視線を落とす。少しだけ、角度が違う。消しゴムをかけて引き直すと、今度は左側の膨らみが広すぎた。もう一度消し跡を擦っていると、背後から相沢先生が覗き込んできた。
「高瀬くん、よく見てるね」
「ここ、歪んでません?」
 僕は描線の縁を指の腹で示した。
「うん。ちょっとだけね」
「じゃあ、こっちも歪ませたほうがいいですか?」
「高瀬くんにそう見えてるなら、そう描けばいいよ」
 その何気ない肯定が、ひどく嬉しかった。
 卓越した技術を褒められたわけではない。ただ、対象を「よく見ている」という事実を認められた。
 もう一度紙コップへ向き直ると、先ほどまでは知覚できなかった微細な傾きや歪みが、次々と網膜に浮かび上がってきた。見つけるたびに、黒鉛の線を修正する。修正を重ねた分だけ、紙の上のいびつな形が、目の前に実在する物体の真理へと近づいていく。
 その計算式を解くようなプロセスが、たまらなく面白かった。
 次の週も、その次の週も、僕は憑かれたように教室へ通った。
 神谷澪とまともに言葉を交わしたのは、通い始めて数ヶ月が経過した頃だった。
 その日は学校の授業が早く終わり、いつもより二十分ほど早く教室へ到着した。窓際の定位置で、先週描きかけだったデッサンを広げる。自宅で冷静に見返したとき、ガラス瓶の口がほんのわずかに右へ傾斜していることに気がついていた。
 薄く線を引き直す作業に没頭していると、唐突に横から声が降ってきた。
「何してるの?」
 見上げると、同い年くらいの少女が立っていた。肩まで伸びた髪を後ろで無造作に束ね、制服の袖口には鉛筆の黒い粉が擦れた跡が残っている。
 彼女の隣の机には、使い込まれたスケッチブックが広げられていた。
 そこには、ただひたすらに木が描かれていた。
 葉をたっぷりと蓄えたもの、ひ弱に細いもの、枝の骨格だけを剥き出しにしたもの。それが同じ木を別の角度から捉えたものなのか、まったく別の木なのかは判然としない。
「ここが違うから、直してるんだ」
「どこ?」
「ここ」
 僕は瓶の口の微細なズレを指先で示した。
 少女は机上の実物と僕のデッサンを、不思議そうに交互に見比べる。
「同じじゃない?」
「違うよ。右がほんのちょっとだけ上がってる」
「どれくらい?」
「どれくらいって?」
「何ミリ?」
「……そんなの知らないよ」
「分かんないのに直すの?」
「見れば分かるだろ」
 彼女は僕の絵をもう一度だけ眺め回し、興味を失ったように「そっか」とだけ呟いた。
 そこへ、奥の流し台から絵筆を洗う相沢先生の声が飛んできた。
「澪ちゃん、今日も木描いてるの?」
「うん」
 その短いやり取りで、僕は初めて彼女の名前を知った。
「神谷?」
「そう」
「そっちは高瀬でしょ?」
「うん」
「下の名前は?」
「朔」
「朔」
 彼女は僕の名前の響きを確かめるように一度だけ舌の上で転がし、
「覚えた」
 と短く告げた。

 ある日、教室の中央に純白の立方体が置かれた。
 発泡スチロールで成型された、いっそ不気味なほど何の模様もない正六面体だった。窓から差し込む午後の斜光を浴びて、右側の面だけが薄い灰色の陰影を帯びている。
「今日はこれ。単純な構造のものほど、少しの誤魔化しもきかないからね」
 相沢先生から真新しい画用紙を受け取り、鉛筆を握る。
 一枚目は縦の比率が間延びした。二枚目では奥行きのパースを誇張しすぎた。三枚目は右の稜線が傾き、四枚目でようやく目の前に存在する絶対的な形へと肉薄した。
 それでも、もう少しだけ精度を上げられそうだった。
 五枚目。六枚目。
 机の上へ時系列順に並べてみると、最初の一枚と最後の一枚では、明らかな技術の進化が可視化されていた。六枚目のほうが、圧倒的に目前の立方体の真理に近い。
 描いた分だけ、確実に正解へと近づいている。
 その進捗が視覚的に証明されることが誇らしかった。
「澪、今日立方体だろ」
「描いたよ」
 澪は自分のスケッチブックをめくり、たった一枚のページを提示した。
「一枚だけ?」
「うん」
「俺、納得いくまで六枚描いたけど」
「六枚も?」
「描くたびにズレを直したから」
 澪は僕の机まで歩み寄り、一枚目から順を追って僕の努力の結晶を眺めた。
「最後の、すごい四角い」
「立方体なんだから、四角くて当然だろ」
「私の、あんまり四角くない」
 澪の画用紙を覗き込む。確かに彼女の引いた線は微かに歪みを含んでおり、奥行きのパースも僕のものほど理路整然とは揃っていなかった。
「もう一枚、ちゃんと描けば?」
「いい」
「直さないの?」
「うん」
「何で?」
 澪は自分の描いた不完全な立方体をもう一度眺め下ろした。
「これでいいから」
 彼女の妥協の論理が、僕にはまったく理解できなかった。
 けれど、そのときはそれを大層な問題だとも思わなかった。僕は自分の描いた精緻な六枚目を見下ろし、最初よりも確実に技術が向上しているという優越感に浸るほうが余程心地よかったのだ。
「でも、朔の上手いね」
「まあね」
「ちゃんと立方体」
「だから、立方体なんだって」
 澪はあっけらかんと笑い、未練もなく自分のスケッチブックへと戻っていった。
 僕も無言のまま、さらなる完璧を求めて七枚目の画用紙を引っ張り出した。

 それからも、僕と澪は同じ教室の空気を吸いながら絵を描き続けた。
 中学二年へ進級しても、二人の対照的なスタンスは決して交わらなかった。僕は描いた日付を刻印し、過去の自分よりも正確に形を写し取れる場所を探求した。澪は相も変わらず、自らの本能の赴くままに紙を浪費していた。
 秋が深まった頃、相沢先生が外部のプロの画家を教室へ招いた。
 地元を中心に個展を開き、美術大学で教鞭も執っているという本格的な経歴の持ち主だった。その日はいつもの作業机が壁際へ追いやられ、僕たちはこれまで描き溜めた作品の中から、己の最高傑作を一枚選び出して壁に展示することになった。
 僕が選んだのは、ガラス瓶と純白の布、それに一個の林檎を配置した静物画だった。
 数週間前に完成を見た力作だ。瓶の複雑な曲線は何度もアタリを取り直し、布の有機的な皺は落ちる影の濃度を一つずつ丹念に拾い上げた。林檎の球体も、初期のデッサンより遥かに実物の質量に肉薄している。
 自分でも、欠点のない完璧な構成に仕上がったと自負していた。
 画鋲で壁に固定し、一歩引いて全体を俯瞰する。
 悪くない。完璧な静寂がそこにあった。
 ふと隣を見ると、澪がまたしても木の絵を壁に貼りつけていた。
 太い幹が画面の左側へと極端に偏り、枝葉の残骸だけが右上に向かってアンバランスに伸びている。自然界にこれほど奇異な樹木が実在するのか、僕には甚だ疑問だった。少なくとも僕であれば、真っ先にあの不自然な枝の角度を修正したはずだ。
 全員の作品が出揃うと、招かれた画家は壁の端から順に重々しい足取りで講評を始めた。一枚の絵の前に立ち止まって数分間の言葉を与え、また次へと歩を進める。自分の絵の順番が迫ってくるにつれ、それまで気にも留めなかった画鋲の小さな穴や、瓶の輪郭の僅かなブレが、急にサイレンのように警鐘を鳴らし始めた。
 やがて、画家の足が僕の静物画の正面でピタリと止まった。
「これ、誰が描いたの?」
「僕です」
 僕は緊張で少し強張った右手を上げた。
 画家は壁へ半歩にじり寄り、瓶の透明感から布の質感、林檎の立体感へと、舐め回すように視線を這わせた。
「丁寧だね。瓶の質感も実によく観察してる」
 画家はもう一度、瓶のハイライト部分に目を細めた。
「透明な材質を紙面に落とし込むのは誤魔化しがきかなくて難しいんだが、一切逃げずに真正面から描いてる。布の皺の陰影も的確に追えているし、何より基礎の骨格が非常にしっかりしてるね」
「ありがとうございます」
「こういう真摯な観察眼は武器になる。そのままの姿勢で研鑽を続けて」
「はい」
 自分でもはっきりと自覚できるほど、返事の声が上ずっていた。
 丁寧。よく見ている。基礎がしっかりしている。
 そのどれもが、僕がこの教室の扉を開いてから血の滲むような思いで積み上げてきた武器だった。対象を観察し、ズレを補正する。過去の自分を超えたことを確認し、また新たな線を引く。その数理的なアプローチをプロに絶賛されたことが、たまらなく誇らしかった。
 画家は穏やかな笑みを残し、隣の作品へと移動した。
 その次が、澪の描いた異形の木だった。
 画家は一度、無言のままその絵の前を通り過ぎた。
 けれど、二歩ほど進んだところで唐突に足を止め、弾かれたように振り返ったのだ。
 僕も怪訝に思い、そちらへ視線を向ける。
 画家は、先ほどの静物画のときよりも食い入るような姿勢で、澪の絵の前へと舞い戻っていた。
「これ、誰が描いた?」
「私です」
 澪が控えめに手を上げる。
「面白いね」
 画家は鼻先が触れんばかりの距離まで絵に近づいた。
「この枝の構造、実際の風景でもこうなってた?」
「もっと下でした」
「じゃあ、あえて上に持ち上げた理由は?」
「こっちのほうがよかったから」
「どうよかった?」
 澪は少しだけ絵を見た。
「空が広い」
「なるほど」
 画家は今度、幹に塗られた色彩の部分を指差した。
「ここの色使いも、見たままの色じゃないね?」
「たぶん」
「実物は?」
「覚えてないです」
「じゃあ、どうしてこの色に?」
「こっちがよかったから」
 画家の顔に、心底楽しそうな笑みが広がった。
「いいね」
 そこからも、画家の興味を惹くような質問がいくつも彼女に投げかけられた。
 僕は壁際に縫い留められたまま、その和やかなやり取りをただ眺めていた。
 さっき、僕だって絶賛されたはずなのだ。瓶も布も林檎も、実物の真理を抉り出すように精緻に描き出した。基礎が完璧に仕上がっていると太鼓判を押された。
 それなのに、画家は一度見捨てたはずの澪の絵へ執着するように舞い戻った。
 帰り道、冷たい夜風に吹かれながら反芻したのは、自分が浴びた賞賛の言葉の数々だった。
 丁寧。
 よく見ている。
 基礎がしっかりしている。
 間違いなく、僕は高く評価されたはずだった。
 それなのに、最寄り駅までの道のりを独り歩く間、脳裏に幾度もフラッシュバックしたのは、壁に展示された自分の完璧な静物画ではなかった。
 一度は通り過ぎたにもかかわらず、まるで重力に逆らうように慌てて戻ってきた画家の背中だった。
 澪の異質な木の前でピタリと止まった足と、心底魅了されたように漏れた「面白いね」という一言だけが、耳の奥にこびりついて離れなかった。
 それから、僕が画用紙に向かう時間は目に見えて増えていった。
 学校でも家でも、描けば描くほど以前より精緻に形を捉えられるようになっていく。母から「朔は本当に絵が好きなんだね」と言われたときも、当時の僕は一点の曇りもなく「うん」と答えることができた。
 秋の終わりが近づく頃、人物デッサンの課題で、澪はモデルの右腕が長くなっていることよりも、その背後の窓から差し込む光を描くことに夢中になった。
「腕は直さないのか?」
「あとで」
「絶対に忘れるだろ」
「今はこっち」
「だったら、最初から背景の窓をメインに描けばよかったじゃん」
「最初は人物」
「じゃあ、途中で投げ出さずに人物を描き進めろよ」
「今は窓なの」
「……好きにすれば」
「うん」
 翌週、澪が家から持ってきた人物画を見ると、長かった右腕も肩の位置も直されていた。
「先週は気にならないって言ってたじゃん」
「そのときはね」
「家で直したの?」
「うん」
「どれくらいやってた?」
「分かんない。時計見てなかった」
 教室で最後に見たときより、窓にも人物にも大量の線が加わっていた。
「澪って、家でもこんなに描くんだ」
「描くよ」
「毎日?」
「知らない」
「自分のことだろ」
「数えてない」
 数えていないだけだった。
 何枚描いたかも、何時間描いたかも覚えていない。それでも、澪は僕が知らないところでずっと描いていた。

 ある日、先生から紹介されたコンクールへ出すと決めてから、それまでより絵のことを考える時間が増えた。
 絵を描くということに自分がどんどんとのめり込んでいるのがわかった。
 締切までは二か月近くある。テーマも画材も自由で、決められているのは作品の大きさくらいだった。何を描いてもいいのなら簡単だと思っていたのに、いざ題材を決めようとすると、なかなか一つに絞れなかった。
 学校からの帰り道でも、それまでなら通り過ぎていた場所を見るようになった。公園のベンチ、夕方の商店街、川沿いの道。描きたいかどうかより、絵にしたときに良く見えるかどうかを考えていた。
 一週間ほどして選んだのは、駅から家へ帰る途中にある小さな踏切だった。
 何日か帰りに写真を撮り、そのうちスケッチブックも持っていくようになった。踏切の位置や線路の角度を変えて描いているうちに、これなら大きな絵にできそうだと思った。
 一枚目から構図を修正し続け、七枚目まで描いたところで、床へ全部並べた。
 踏切の位置。線路の角度。空と住宅の割合。直したところは、次の絵では前より良くなっている。
 次の絵画教室で七枚を並べていると、後ろから来た澪がそのまま隣にしゃがんだ。
「それ全部同じ場所?」
「踏切」
「何枚?」
「七枚」
「またいっぱい描いたね」
 澪は一枚目から順番に見ていった。
 当然、最後の七枚目で止まると思っていた。
 けれど一通り見終えると、澪の手は一枚目へ戻った。
「私、これ好き」
「それ没だよ」
「なんで?」
「踏切が真ん中すぎる。先生にも言われたし」
「真ん中でもよくない?」
「よくないから変えたんだよ。七枚目のほうがまとまってるだろ」
 澪は七枚目を見る。それからまた、一枚目へ戻った。
「私はこっち」
「どこが?」
「道」
「道?」
「こっちのほうが長い」
「遠近なら七枚目のほうが出てるよ」
「そういうのじゃなくて」
「じゃあ何?」
 澪は一枚目を見たまま考えていた。
「分かんない」
「分かんないのに、こっちのほうがいいって言ってるの?」
「いいとは言ってない」
「今言っただろ」
「好きって言ったの」
「同じじゃない?」
「違うよ」
 迷いなく返された。
 何が違うのか、僕には分からなかった。
「七枚目は?」
「上手い」
「じゃあ、そっちのほうがいいじゃん」
「別だよ」
 話はそこで行き止まりになった。
 大きく描くのは七枚目に決めていた。それでも、澪の言ったことだけはうまく片づかなかった。
 上手い。好き。
 僕の中では、それまでほとんど同じ場所にあった言葉だった。
 その日の帰り、澪に連れて行かれたのは、絵画教室から歩いて十数分ほどの距離にある小さな児童公園だった。
 日が落ちたあとの公園に子どもの姿はなく、錆びついた古いブランコだけが風に押されてキィキィと細い音を立てて揺れている。澪はその遊具を通り過ぎ、さらに奥の暗がりにある一本の巨木の前で足を止めた。
 葉をすっかり落とした、冬の木だった。むき出しになった枝が青黒い空へ向かって血管のように広がり、何十本もの細い枝が複雑に絡み合っている。
「これ?」
「うん」
「澪って、前から木ばっかり描いてないか?」
「違うよ」
「俺には同じように見えるけど」
 澪は反論することなく、ただ黙ってその木を見上げていた。僕も釣られて見上げる。
 葉のない無数の枝と、暗くなりかけた冬の空。それ以外に、特筆すべき美しい要素はどこにも見当たらなかった。
「待ってるんだよ」
「何を?」
「光」
 数分間その場に立っていても、目に見える変化は何も起きなかった。風が吹くたびに足元で枯れ葉が擦れ合う音がし、遠くの踏切から電車の走行音が聞こえてくる。空の彩度だけが、少しずつ、確実に失われていく。
「まだか?」
「もうちょっと」
「どんどん暗くなってるけど」
「うん」
 澪は木から一秒たりとも目を離そうとはしなかった。
 何を待たされているのか理解できないまま、僕も寒さを凌ぐためにポケットへ手を突っ込んで立ち尽くしていた。
 やがて、公園の外の道路から、車のエンジン音が近づいてきた。
 角を曲がってきた車のヘッドライトが、公園を囲む柵の隙間を鋭く抜ける。
 その光の帯が、木の幹を一直線に横切った。
 闇に沈んでいた幹の中央部分だけが、ほんの一瞬、舞台のスポットライトを浴びたように白く鮮烈に浮かび上がる。
「今」
 それまで息を潜めていた澪の声が、微かに跳ねた。
 彼女はすぐにスマートフォンを取り出してカメラを起動したが、レンズを向けた頃には、すでに車は通り過ぎ、木は再び暗闇へと沈んでいた。
「撮れた?」
「微妙」
「じゃあ、もう帰る?」
「もう一台待つ」
「まだ待つのかよ」
「お願い」
 今度は、あらかじめカメラアプリを起動した状態で彼女は待機した。
 数分後、別の車のヘッドライトが再び木の幹を舐める。澪がすかさずシャッターを切り、その直後に続いた車の光でもう一枚撮影した。
 車が過ぎ去り、また世界が暗くなる。
 撮ったばかりの写真を一枚ずつスワイプして確認していた澪の顔が、そこでようやく安堵したように緩んだ。
「撮れた?」
「うん」
 得意げに見せられた液晶画面には、ほとんど真っ黒な木が写っていた。細い枝先は夜の空に溶け込んで同化しており、その中で、幹の一部分だけが不自然なほど白く浮かび上がっている。
「なんか、暗くないか?」
「暗いよ」
「木の全体像がほとんど見えないじゃん」
「これがいい」
「これ、コンクールの絵の題材にするの?」
「たぶん」
 澪は愛おしそうに写真をもう一度見つめた。
「何がそんなにいいんだよ?」
「分かんない」
「またその答えか」
「でも、描きたい」
 その言葉のトーンだけは、先ほどまでの曖昧なものとは違い、力強い確信に満ちていた。
「理由も分かんないのに描くのか?」
「うん」
「それ、描く理由になってるか?」
「知らない」
 澪は満足げにスマートフォンをコートのポケットにしまった。
「帰ろ。寒い」
「お前が来たいって言い出したんだろ」
「もう見たから」
 目的を果たして未練のなくなった澪は、さっさと公園の出口へ向かって歩き出した。
 駅までの帰り道でも、澪は歩きながら何度もスマートフォンの写真を確認していた。
「それ、本当にコンクールの絵にするのか?」
「たぶん」
「今から?」
「まだ一か月半あるじゃん」
「下描きは?」
「これから」
「構図は?」
「描きながら」
「途中で失敗したらどうするんだよ?」
「もう一枚描く」
「締切に間に合わなくなったら?」
「そのとき考える」
 あまりにも楽観的で、無責任な回答だった。
「……よくそんな無計画なことができるな」
「朔はできないの?」
「やらない。失敗するリスクがあるなら、最初から構図も進め方も綿密に決めておく。あとで全部やり直すより、そのほうが確実に完成に近づけるだろ」
 澪は足を止め、しばらく僕の顔をじっと見つめた。
「朔っぽい」
「何だよ、それ」
「ちゃんとしてる」
「普通のことだろ」
「うん」
 澪はそれ以上、僕のやり方を否定することはなかった。
 僕にはすでに確固たる題材があり、七枚もの下描きから完璧な構図も割り出している。大きな画用紙へ本番の線を引き始める準備も万端に整っていた。
 一方の澪は、今日この日になって、ようやく描くべき対象を見つけたばかりだ。
 まだ下描きすら存在しない。
 僕のほうが、圧倒的に先へ進んでいる。
 その事実は揺るぎないはずだった。
 それなのに、帰り道で僕が幾度となく思い出したのは、僕の完璧な踏切の構図ではなく、澪が見つけたあの木そのものでもなかった。
 寒風の吹く暗い公園でじっと光を待ち続け、木の幹が照らされた瞬間に澪が発した、
「今」
 という、あの熱を帯びた声だけだった。

 翌週、絵画教室の重い扉を押し開けると、いつもなら視界の端で揺れているはずの澪の姿がなく、彼女の定位置だけが不自然なほどぽっかりと空いていた。
 机の下には丸椅子が几帳面に押し込まれ、立てかけられているはずの巨大な画用紙も、濁った水入れも、色とりどりの絵の具がこびりついた筆の束も見当たらない。自分の席へと歩みを進めながら、その無機質な空白がひどく異質に感じられた。
「先生、神谷はどうしたんですか。あいつが休むなんて珍しいですね」
 画材棚の前にいた相沢先生へ声を掛ける。
「ああ、澪ちゃん? 今日は残念ながらお休み。風邪を引いちゃったみたいでね」
「風邪ですか? 先週まではピンピンしてましたけど」
「昨日、お母さんから教室宛てに連絡があってね。結構な熱が出ちゃったらしいのよ」
「……そうなんですか」
「最近、コンクールの作品にかかりきりで、家でも夜遅くまでずっと絵の具をいじってたみたいだから。知らず知らずのうちに無理がたたったのかもしれないね」
 先週、彼女の指先にこびりついていた色素の残骸を思い出した。どれだけ洗っても爪の隙間から落ちようとしなかった、深い青と黒の染み。
 プラスチックケースから自らの画用紙を取り出し、イーゼルに固定する。
 隣の席から、筆を無造作に水で洗う音も、画用紙を乱暴に擦る音も聞こえてこない。頼みもしないのに僕の領域へ踏み込み、無遠慮に絵を覗き込んでくる厄介な存在もいなかった。
 最初のうちは、ただ単純に教室の空気が静かになっただけだと思っていた。
 しかし、いざ筆を握りキャンバスに向かい合うと、恐ろしいほどに手が止まらなかった。いつもなら隣の気配に削がれていた集中力が極限まで研ぎ澄まされ、視界がクリアになる。線路の錆びた色合いを微調整し、踏切の根元に落ちる影の濃度を深め、遠景の住宅街の輪郭に夕暮れの薄いベールを重ねていく。
「高瀬くん、今日はいつにも増してすごい集中力だね。声を掛けるのも躊躇うくらいだったよ」
 相沢先生の声で、現実の世界へと引き戻された。
「いつも通り真面目にやってるつもりですけど」
「いや、今日は特別だよ。さっきから一回も顔を上げずに、ずっとキャンバスと睨み合ってたから」
 相沢先生の指摘にハッとして壁の時計を見上げると、すでに一時間以上の時間が僕の記憶から抜け落ちていた。
 先生は数歩後ろへ下がり、目を細めて僕の踏切の絵を俯瞰した。
「線路に反射する夕日の光、前よりもずっと自然に画面に馴染んだね」
「ですよね。自分でも、今日は思い通りの色が出せた気がします」
「うん。このペースなら、もう完成のゴールテープが見えてるんじゃない?」
 僕も先生の隣まで後退し、自らの作品の全体像を確認する。
 当初の予定表よりも、ゆうに一日か二日は制作のスケジュールを巻いている。細部の描き込みも想像以上に進展していた。
 澪は今日、熱にうなされてキャンバスに向かうことすらできていない。
 僕は今日、誰にも邪魔されることなく圧倒的に先へ進んだ。
 その二つの事実が頭の中で並んだ。
 ――よかった。
 そう思った。
 僕は絵筆を握りしめたまま、動けなくなった。
「高瀬くん? 急に黙り込んでどうしたの?」
「……いえ、何でもないです。ちょっと疲れただけなんで」
 その夜、洗面所で絵の具のついた筆を濯いでいると、ズボンのポケットでスマートフォンが短く振動した。
 通知の送り主は澪だった。
――今日の教室、進んだ?
――まあまあだな。それなりには進んだよ。
 送信した瞬間に既読のマークがついたが、次の言葉が返ってくるまでには不自然なほどの空白の時間があった。
――いいな。
 僕は意図的に話題のベクトルをずらした。
――そんなことより、そっちの風邪の具合はどうなんだよ。大丈夫なのか?
――熱は下がった。
――熱が引いたばかりなら、無駄なエネルギー使ってないで大人しく寝ろよ。
 今度は、先ほどよりもさらに長い沈黙が横たわった。
――今、描いてる。
 液晶画面を見つめたまま、フリック入力しようとしていた僕の親指が完全に硬直した。
――は? お前、風邪で学校も教室も休んでるのに描いてるのかよ?
――暇だったから。少しだけ。
――熱が下がったばっかりで体力落ちてるだろ。絵の具の匂い嗅いだら余計に悪化するぞ。
――大丈夫。
 彼女は教室を休んだのだから、今日は一枚の紙にも触れていないはずだ。
 僕の心は、いつの間にかそんな虫のいい希望的観測を事実だと信じ込んでいた。
 けれど現実の澪は、熱が下がりきっていない意識の中でさえ、あの巨大な画用紙を部屋に広げ、筆を握っている。
――とにかく、あんまり無理すんなよ。倒れたら元も子もないだろ。
――ありがと。
 僕はスマートフォンを伏せた。

 澪の作品が完成の域に達した姿を目の当たりにしたのは、コンクールの提出期限まで残り三日に迫った頃だった。
 彼女は風邪を拗らせてから数日間、教室を休む日々が続いていたため、僕はてっきり彼女の進捗は絶望的に遅れているものだとばかり高を括っていた。けれど教室へ足を踏み入れると、窓際の指定席にはすっかり回復した澪の姿があり、その傍らには、クラフト紙で厳重に包まれた巨大な作品が誇らしげに立てかけられていた。
「久しぶり。ようやく復活したのか」
「あ、朔」
「体調はもう完全に大丈夫なのかよ?」
「うん」
「ほんとに無理してないか?」
「大丈夫」
「心配されるようなことするからだろ。ならいいけど」
 澪は苦笑いしながら、傍らに鎮座する自分の作品へと手を伸ばした。
「その絵、もう完成したのか?」
「たぶん」
「また『たぶん』かよ。自分の作品だろ」
「もう出すから、完成」
 彼女がクラフト紙の覆いを剥ぎ取ると、そこに秘匿されていた全貌があらわになった。
 あの日、寒風吹きすさぶ公園でともに見上げた巨木だった。
 葉をことごとく落とした冬の幹と、重く沈んだ暗い空。車のヘッドライトが、ほんの一瞬だけ闇を切り裂いて横切ったあの瞬間。
 題材の根本は同じはずなのに、実物とはまるで違う空気を纏っていた。
 背景は、単純な黒一色で塗り潰されてはいなかった。極限まで顔を近づけて観察すると、深い青や鈍い紫、濁った灰色が無数に地層のように塗り重ねられており、その深淵には血のように暗い赤すらも混入している。力任せに引かれた太い筆の軌跡も、水分を失ってひび割れた絵の具の隆起も、生々しい傷跡のように画面に残存していた。それなのに、三歩後ろへ下がって全体を俯瞰すると、その混沌とした色彩の暴動が魔法のように一つの秩序へと統合され、吸い込まれそうなほど深い「夜の闇」を形成しているのだ。
 木の枝は、僕たちが目で見た実際のスケールを遥かに凌駕して四方へ広がり、画用紙という枠を越えて外の世界へまで浸食していくような錯覚を覚えさせた。その圧倒的な闇の中で、幹の左側に位置するごく一部だけが、スポットライトを浴びたように鮮烈な白で浮かび上がっている。
 構成としては極めてシンプルなのに、一度絵の隅へと視線を外しても、強烈な引力に捕らわれたように、気づけばあの鋭い白い光の焦点へと眼球が引き戻されてしまうのだ。
「どう?」
 横から問われ、僕はようやく口を開いた。
「……とにかく、異様に暗いな」
「前も言ってた」
「あの時よりも、さらに数段暗くなってるだろ」
「暗くしたから」
「実際に公園で見たときは、こんな闇に沈むような暗さじゃなかったはずだ」
「覚えてるんだ」
「一緒に隣で見てたんだから、脳裏に焼き付いてるに決まってるだろ」
「じゃあ、やっぱり違う?」
「ああ、明確に違うな」
「変?」
 問われて、僕はもう一度キャンバスを食い入るように見つめた。
 枝の狂ったパースも、現実にはあり得ない色彩の構成も、不自然に絞り込まれた光源の位置も、あの日僕の網膜が捉えた物理的な事実とは何一つ合致していない。
 そう冷徹に切り捨ててしまえば、それで済むはずだった。
 けれど、そんな理論だけでこの作品を否定し去るには、僕はすでに彼女の描いた闇の奥底を、あまりにも長時間見つめすぎた後だった。
「……お前の技術なら、もっと『普通』の風景画として描くこともできたんじゃないのか?」
「普通って?」
「人間の目に見えた物理現象の通りに、忠実に写し取るって意味だよ」
「でも、木には見えるでしょ」
「俺が言いたいのは、そういう表面的な分類の話じゃなくてだな……」
 その先の反論を、うまく言語化して紡ぐことができなかった。
「朔は、これ好き?」
「え?」
「好きかどうか」
 他者の作品を評価する際、これまで一度もそんな主観的な物差しで問われた経験はなかった。
「……分からない。好きとも嫌いとも、簡単には言えない」
「朔が分かんないって言うの、珍しい」
「俺だって全知全能の神じゃないんだ。世の中のすべての事象に明確な答えを持ってるわけじゃない」
「そっか」
 そのあっさりとした納得の仕方が、なぜか無性に腹立たしかった。
「でも、技術的な精度や完成度なら、絶対に俺のほうがちゃんと正解を描けていると思う」
 澪は僅かに瞳を瞬かせた。
「うん」
「……うん?」
「上手いのは朔だよ」
 以前の僕であれば、何よりも澪の口からその言葉を引き出したかったはずだった。
 それなのに、思っていたほど嬉しくなかった。
「朔のも見せて」
 僕はプラスチックケースから踏切の絵を取り出し、澪の木の隣へと並べて立てかけた。
 対照的な二枚の作品を並列させてから、僕たちは数歩後ろへ下がって全体像を俯瞰した。
 僕が描き上げた踏切の絵は、脳内で計算した通りの設計図に沿って仕上がっていた。錆びた線路は消失点に向かって正確に収束し、踏切の位置も七枚目の下描きから狂いがない。背景の住宅街もアスファルトの質感も、幾度となく写真と照合して矛盾を潰してある。
 一方、その真横に置かれた澪の木はどうだ。
 枝の構造は歪にねじれ、色彩も現実世界の物理法則を無視している。粗を探せば、僕であれば即座に直したくなる箇所がいくつもあった。
 でも。それでも。二枚を視界の同一フレーム内に収めたとき、僕の眼球を奪い去ったのは、どう抗っても澪の描いた木のほうだった。
「朔」
「何?」
「これって、毎日通るところ?」
「そうだけど」
「何で、ここ描いたの?」
「何でって……構図が絵にするのにちょうどよかったからだよ」
「構図?」
「線路のパースで画面の奥行きを出せるし、手前に踏切があるから視線を誘導しやすい。夕方の設定にすれば、ドラマチックな光も入れられるし」
「うん」
「何だよ」
「ここ、好きなのかなって」
「別に」
 僕は即答した。
「好きじゃないの?」
「ただ毎日通り過ぎてるだけの道だよ」
「じゃあ、何で描いたの?」
「だから、コンクールの絵の題材にしたら一番映えると思ったからだよ」
 自分でも驚くほど、強い口調になっていた。
「それじゃ、何か駄目なのか?」
「駄目じゃない」
 澪はそれ以上追及せず、もう一度僕の踏切へ視線を戻した。
「やっぱり、最初の下描きのほうが好き」
「……何言ってんだよ。最終的に完成の域まで練り上げたのは、こっちの絵だぞ」
「うん」
「構図も、線の精度も、あの荒削りな一枚目の下描きなんかより、こっちのほうが絶対に上手くなってるはずだ」
「上手いのはこっち」
「じゃあ、何でそっちのほうがいいなんて言うんだよ!」
 自分でも制御できないほど、大きな声が教室の壁に反響した。
「でも、最初のほうが好き」
「だから何でだよ!」
「分かんない」
「そんな理屈、意味が分からないよ」
「……ごめん」
「別に、同情して謝ってほしいわけじゃない!」
 僕は自らの踏切の絵を持ち上げた。
 最初の衝動だけで描いたあの一枚目より、計算し尽くされた今の完成品のほうが、圧倒的に上手くて正しい。
 その論理は絶対に間違っていないはずだった。

 二月の半ば、コンクールの結果が届いた。
 僕は入選。
 澪は優秀賞だった。
 紙の上では、たった一段の差だった。
 入賞作品は、市立美術館の特設ギャラリーで一斉に一般公開された。
 展示初日は休日と重なっており、僕は母に促されるまま一緒に美術館へと足を運んだ。
 自室で何ヶ月も向き合い続けたあの踏切の風景が、美術館の白い壁に収まっている。その下部には、真鍮の小さなプレートが添えられ、
 高瀬朔 入選
 と印字されていた。
「すごいじゃない」
「入選だけどな」
「入選なんでしょ?」
「そうだけど」
「こんな立派な美術館に飾ってもらえるんだから、十分にすごいことだよ」
 十分。
 相沢先生の口からも、同じような言葉を聞いた。
 論理的には、すべてその通りだった。
「そういえば、澪ちゃんも同じコンクールに出したんだっけ?」
「うん」
「どれ?」
 優秀賞以上の作品は、入選作品のエリアよりもさらに贅沢な間隔を取って展示されていた。
「あれ」
 僕が指差すまでもなく、近づく前からすでに、澪の描いた木の絵の前には数人の鑑賞者が足を止めていた。
 親子連れが少し離れた距離から見上げ、その横では一人の女性が至近距離から絵の具の隆起を覗き込んでいる。僕たちがその場所に辿り着くころに二人が立ち去り、入れ替わるようにまた別の人間が吸い寄せられるように足を止めた。
 母も、その異形の木の正面に立った。
「ああ」
 母の口から、感嘆とも戸惑いともつかない微かな吐息が漏れた。
「これ、すごいね」
「そう?」
 僕はできるだけ平坦に返した。
「何て表現すればいいんだろう。どこか不気味で怖いんだけど……なぜか、ずっと見入っちゃう」
 僕も改めて、その木の絵と対峙する。ちょっと怖いけど、見ちゃう。
 母の言わんとしている感覚が、僕にも痛いほどに理解できてしまった。僕は少し離れた壁に掛けられている、自分の踏切の絵を振り返った。線路の精緻な遠近法も、建物のパースも、自分のほうが正確に捉えられている。
 そう思ってから、また澪の木の絵へと視線を戻す。
 しばらくしてまた自分の絵に逃げ込み、それでもやはり、木の絵の前に足を止める人々へと目が引き寄せられてしまう。
 美術館の重いガラス扉を押し開けて外へ出たころには、空はすでに薄闇に包まれていた。
「帰り、どこかで何か美味しいものでも食べてく?」
 母が冷気に身をすくめながら聞いた。
「いい」
「せっかくだし、奮発してお祝いしようよ」
「何の祝いだよ」
「何って、入選のお祝いでしょ。あれだけ毎日頑張ってたじゃない」
 頑張っていた。
「ほんと、いいから」
 自分でも制御できないほど、苛立った強い声が出た。
 母の表情が、一瞬だけ戸惑いに凍りつく。
「あ……そう。じゃあ真っ直ぐ帰ろっか」
 母はそれ以上、僕の感情に踏み込んでくることはなかった。

 三日後、絵画教室へ行っても、僕と澪はほとんど言葉を交わさなかった。
 教室の重い扉を出て細い階段を下りかけたところで、背後から急かすような足音が追いかけてきた。
「朔」
 名前を呼ばれて振り返ると、数段上の踊り場に澪が立っていた。
「何だよ」
「今日、怒ってた?」
「別に、怒ってないけど」
「いつもと違った」
「怒ってないって言ってるだろ」
「私?」
「だから、違うって」
 そのまま静かに別れていれば、それで会話は終わっていたはずだった。
「……結果のこと?」
 その言葉が、腹の底でくすぶっていた熱を不意に煽り立てた。
「違う」
「でも――」
「違うって言ってるだろ!」
 我知らず声を荒らげたあと、僕は一呼吸置いて言い切った。
「結果なんて最初から関係ない。僕は入選という形で、きちんと正当に評価された。先生にも十分立派だと言われた。だから、そんなことでいちいちへそを曲げる理由なんてどこにもないだろ」
 澪はそれ以上、何も言葉を返さなかった。
「もういいか?」
 背中を向けて階段を下りようとすると、
「待って」
 制服の袖口を、冷たく細い指がぐっと掴んだ。
「何だよ、しつこいな」
「これ、見て」
 澪は肩に掛けた鞄から、使い古されて角がすり潰されたスケッチブックを取り出した。
 ページを何枚か繰り、開いたその場所を僕の目の前へと突き出す。
 そこには、あの日の市立美術館の白い壁に掛けられていた、僕の踏切の絵の小さな写真が貼り付けられていた。
 写真のすぐ横に、見慣れた不器用な筆跡で小さな文字が書き添えられている。
 朔の絵、好き。
「……何で、こんなもの書くんだよ」
「何が?」
「何で、わざわざこんなこと……」
「好きだから」
 迷いのない、澱みのない声だった。
「朔の絵、好き」
 その言葉は、誰かを気遣うための慰めなどではなかった。
 僕が入選という結果に終わったから同情してくれているわけでもない。
 澪はただ、その事実だけを伝えようとしていた。
「前も言った。最初のやつも好きだった」
「……やめてくれよ」
「え?」
「そういうの、もう聞きたくないから」
 澪の表情が硬化した。
「なんで?」
「分かんないなら、もういい」
「分かんない。言って」
「言ったって、お前にはどうせ分かんないだろ」
「言ってないのに決めないで」
 澪はスケッチブックを両手で抱え込んだまま、一歩も引かずに僕の目の前に立ちふさがっている。
「好きだから書いた。それだけ」
「もういいって!」
 澪の指に力が入り、スケッチブックの表紙が歪んだ。
「じゃあ、何が嫌なの?」
 追及する彼女の瞳を、僕は直視することができなかった。
「朔」
「……帰る」
「待って」
「今度は何だ」
「私、何かした?」
 優秀賞を獲得したのは彼女だ。
 僕よりも上位に立った。
 外部から招かれた画家は、一通り過ぎたあとにわざわざ彼女の木の絵へ引き返した。相沢先生だって彼女の絵を評価した。美術館に足を運んだ見ず知らずの鑑賞者たちは彼女の絵の前に足を止め、実の母親でさえ「つい見入っちゃう」と感嘆の声を漏らした。
 それなのに、当の澪は僕の絵を「好きだ」と言った。
 口を開けば、いくらでも恨み言を並べ立てることはできた。
 だが、そのどれを並べ立てたところで、澪が僕に対して何か悪意ある行為をしたわけではない。
 彼女は僕の絵の技術的欠陥を嘲笑ったことなど一度もない。優秀賞という栄誉を自慢に利用したこともない。
 むしろ、常に僕の絵を肯定し続けていた。
 ただ、ひたむきに「好きだ」と告げた。
「……別に、何もしてないよ」
 絞り出すように発せられた言葉に、澪の眉間が寄った。
「じゃあ、なんで?」
 僕は答えられなかった。
 彼女の横をすり抜け、冷たい階段を一歩一歩、逃げるように駆け下りる。
 今度は、背後から引き止める声は聞こえなかった。

 次の土曜日、僕は絵画教室へ行かなかった。
 午後四時を過ぎたころ、澪からメッセージが届いた。
――今日、来ないの?
 返信はしなかった。
 翌週も休んだ。
 その次の週も、足が向くことはなかった。
 相沢先生から電話があったのは、三週目の午後だった。
『高瀬くん? 久しぶりだね。元気にしてたかい?』
「はい、一応……」
『最近ずっと教室に顔を出さないからさ、先生ちょっと心配になっちゃってさ』
「あ……すみません」
『謝ることなんて何もないよ。学校、忙しい?』
「まあ……受験勉強の準備とかもあるので」
『受験?』
「はい、高校の」
 受話器の向こうで、相沢先生がわずかに言葉を飲み込む気配が伝わってきた。
『高瀬くん、まだ中学二年生だったよね』
「はい。だからこそ、早めに基礎固めをしておいたほうが後々焦らないと思って」
『そうか……』
 それから、少しだけトーンを落とした声で問いかけてきた。
『で、絵のほうはどうなんだい? 家では何か描いてるのかい?』
「……いえ、あまり描いてないです」
『そうかい』
 ここで「どうして描かないんだ」と聞かれるものだと身構えていた。
 けれど、相沢先生は一切の追及をしてこなかった。
『無理に教室へ顔を出す必要なんてないからね。また何かを描きたくなったら、そのときはいつでもフラリと戻ってくればいいんだから』
「……はい」
『君の画材道具は、まだ全部教室に預かったままにしてあるからね。もし引き取りに来るなら、いつでも』
「分かりました」
 通話が終わったあとも、
 ――また描きたくなったら。
 という言葉だけが残った。
 僕は自分で画材を取りに行かなかった。
 母に頼んだ。
 その翌日の夕方、母は使い古された大きな木製の画材箱と、何冊ものスケッチブックを抱えて帰宅した。
「ふう、結構これ重たいんだね」
 玄関の床にドンと音を立てて下ろされた箱には、あちこちに飛び散った絵の具の乾いた染みがこびりついていた。
「わざわざすまなかったな」
「先生、元気ができたらまたいつでも遊びにおいでって伝えておいてだってさ」
「……ああ、分かったよ」
 母が差し出したのは、無数の傷がついた数冊のスケッチブックだった。
 角が完全に潰れ、ページを繰るたびに紙擦れの音がする。表紙の端が鉛筆の黒い粉で汚れているものもあれば、ページの余白に描画した日付が几帳面な文字で書き込まれているものもあった。
「朔」
「何だよ」
「絵画教室、これで完全に辞めるつもりなの?」
 僕は床に置かれた使い古された画材箱の金属製の留め金を、無言で強く握りしめた。
「受験勉強も本格化するしな」
「でも、まだ高校受験だって来年以降でしょうに」
「早めにスタートを切っておくに越したことはないだろ」
「そういう問題じゃないでしょ。あんなに毎日楽しそうに絵を描いてたのに、急にパタリとやめちゃうなんて、母さんにはなんだか勿体なく見えちゃうけどね」
「今までは今まで、今は今だろ」
「……そう。朔が自分で決めたことなら、母さんはもう何も言わないけどさ」
 母はそれ以上追及せず、台所へと引っ込んでいった。
 僕は重い画材箱とスケッチブックの束を抱え上げ、自分の部屋へと階段を上がった。
 自室の床にそれを下ろし、年季の入った留め金を外して蓋を押し上げる。
 瞬時に、鼻の奥をツンと突くような絵の具と古い木材の匂いが広がった。
 デッサン用の鉛筆。木炭。練り消しゴム。煤けた筆。乾きかけた絵の具のチューブ。何色もの絵の具が混ざり合った木製のパレット。
 蓋を開け放っただけで、あの雑然とした教室の空気が蘇ってくる。
 僕は一番上にあった古いスケッチブックを手に取り、適当に途中のページを開いた。
 そこにあったのは、不格好な立方体だった。次のページにも、その次のページにも、同じ立方体が並んでいる。最初の一枚は、縦の比率が間延びしていた。
 ページをめくる。
 描くたびに、線の歪みが補正されていく。さらにページを繰ると、瓶、林檎、靴、左手、人物。ページを進むたびに、前より描けるものが増えていた。
 そこに嘘はなかった。
 僕はスケッチブックを閉じた。画材箱の中へ戻す。蓋を押し下げる。金属の留め具を下ろすと、乾いた音が鳴った。