土曜日。受験勉強に使う参考書を物色するため、少し離れた街にある古い大型書店へ足を運んだ。
学習参考書のコーナーで目的の棚を一通り確認したあと、すぐに帰路に就けばよかったものを、僕は無意識のうちに店の奥へと歩を進めていた。
行き着いた先は、美術雑誌が並ぶ静かな書棚だった。自分から好んでその領域へ踏み込んだつもりは毛頭なかった。だというのに、僕の足は吸い寄せられるようにそこで止まっていた。
平積みされた一冊の雑誌。その光沢のある表紙には、『高校生絵画特集』という見出しが躍っていた。
まるで磁力に引かれるように、自然と手が伸びる。硬い紙質のページをパラパラと捲っていくうちに、不意に心臓が大きく跳ねた。見覚えのある文字列。中学生の頃から何度も目にしてきた、彼女のフルネーム。
神谷澪。
名前の横には、彼女が描いたとされる作品の写真が掲載されていた。雨上がりらしい夜の道路が、画面の奥へ細く伸びている。濡れたアスファルトには白い街灯が歪んで反射し、その周囲を濁った青と黒が覆っていた。
かつて僕が知っていた澪の絵よりも、ずっと暗い。
昔の澪は、もっと違う色を好んでいた気がする。
そこまで考えてしまっている自分に気づき、ページを捲る指が止まった。
まだ覚えているのだ。澪がどんな色をよく使っていたのか。何を描くときに長く紙を見ていたのか。絵の具を出す順番まで、全部ではないにしても、僕の中にはまだ残っている。
作品の横には、小さな活字で画評が添えられていた。最近のコンクールでもいくつか入賞を果たしているらしい。
『独特な色彩感覚』
『高校生離れした表現力』
並んだ賛辞の言葉を最後まで読み切る前に、僕は雑誌を閉じた。棚へ戻し、踵を返してその場を離れる。参考書売り場へ戻って、予定通りに数学の問題集を買って帰ればいい。
そう思って数歩進んだところで、足が止まった。
数秒の逡巡ののち、僕は再び引き返し、先ほどの雑誌をもう一度手に取った。今度は紹介文には目もくれず、ただ彼女の作品の細部だけを見つめる。この三年間で、澪の中に何があったのだろう。
どうして、こんな色を使うようになったのだろう。そんなことを考えたところで、もう僕には関係がない。三年近く会っていなかったし、そのあいだ絵の話をしたこともない。何年も筆を握っていない僕が、彼女の絵の変化について考えたところで何になる。
それでも、そのページを閉じるまでには随分と時間がかかった。
帰宅後、気づけば僕は自室のベッドに寝転がり、スマートフォンの検索窓に『神谷澪』という文字を打ち込んでいた。コンクールの受賞歴、美術部の広報ブログ、地方の展覧会の記録。検索結果に表示されたリンクをいくつか開き、すぐに閉じては、証拠隠滅のように検索履歴を消去する。
そんな無駄な抵抗を試みたところで、机に向かって数学を三問解き終える頃には、再び同じ三文字を入力している自分がいた。
何を確かめたいのか、自分でも分からない。
ただ、検索窓にその名前を打ち込む指だけが、どうしても止まらなかった。
*
翌日の日曜日。僕は紗良と連れ立って、駅前に新設された複合施設の雑貨屋へと出かけた。
エントランスを抜けると、紗良は目を輝かせて文具売り場へと消えていき、僕は少し店内を見たあと、同じ建物に入っていた書店の参考書コーナーへ向かった。四十分後に合流したとき、紗良はあれほど真剣に吟味していたはずのシャープペンシルを、結局一本も買っていなかった。
「あんなに食い入るように見てたのに?」
「実際に手に取って重さを確かめたら、なんか満足しちゃった」
「店からしたら、一番タチの悪い冷やかし客だな」
「試し書きしたからちゃんと貢献したよ」
「何に?」
「商品の比較に」
「牧野の中にしか何も残ってないだろ」
呆れながら、僕たちは店内にあるガラス張りのカフェへと入った。紗良はいつものミルクティーを、僕はブラックのドリップコーヒーを注文する。
向かい合わせの席に着くと、紗良がストローの紙袋を指先で器用に蛇腹に折り畳みながら口を開いた。
「高瀬ってさ、昔からずっとこんな感じだったの?」
「こんな感じって?」
「雑貨屋に来ても脇目も振らずに参考書のコーナーに直行する感じ」
「昔は普通に漫画とかも読んでたよ」
「漫画かあ。思ったより普通の子どもだね」
「一体何を期待してたんだよ」
「もっと意外性のある答え。実はマニアックな恐竜図鑑しか読まない偏屈な子どもだったとか」
「どういう歪んだ偏見だよ」
紗良が声を上げて笑う。
「じゃあ、中学生の頃は? 毎日何してたの?」
グラスの中で、ストローに押された氷がカランと涼しげな音を立てた。
その瞬間、昨日書店で見た雑誌のページが脳裏を過った。
神谷澪。
暗い絵。
「……別に。普通の毎日だよ」
「部活とか入ってなかったの?」
「入ってなかった」
「じゃあ趣味は?」
「だから、漫画読んだりとか、そのくらい」
「ほんとに?」
「なんで疑うんだよ」
「なんとなく。高瀬って、あんまり自分の昔の話をしないから」
紗良は僕の顔を見たあと、ミルクティーへ口をつけた。
「まあ、無理に言いたくないなら深追いはしないけど」
「別に、隠すような大層な過去はないよ」
「じゃあ今度、何か面白い武勇伝でも思い出したら教えてよ」
「期待しないで待ってて」
「じゃあ、ハードル下げて期待しとく」
結局、中学生の頃についてそれ以上深く掘り下げられることはなかった。
その後はお互いに買った本を見せ合ったり、カフェを出てから駅ビルの中をあてもなく散策したりした。紗良が雑貨屋でスマートフォンケースを十分近く悩み抜いた末に買わずに棚へ戻したり、僕が「また見るだけか」とからかうと「これは有意義な検討期間なの」と理屈っぽく言い返されたりした。
気がつけば、西側の窓ガラスがオレンジ色に染まる夕刻になっていた。
帰りの電車では、運良く空いていた二人掛けの席に並んで座った。
「今日、結局参考書しか買ってないじゃん」
紗良が僕の膝の上にある無骨な紙袋を見て呆れたように言う。
「もともと買う予定だったんだから、これで正解だろ」
「せっかく新しいおしゃれな雑貨屋に行ったのに? 雑貨屋だよ、本屋じゃないんだよ」
「欲しいものがなかったんだから仕方ないだろ」
「そういう理屈っぽいところ、ほんと高瀬らしい」
「またそれかよ。悪い意味だろ」
「今日はいい意味」
「じゃあ、いつもは悪い意味なんだな」
「さあね」
紗良は悪戯っぽく笑うと、窓の外へ視線を投げた。
何駅か過ぎたところで、紗良が先に立ち上がる。
「じゃ、私はここで降りるから。また明日ね」
「うん。また明日」
扉が閉まり、ホームに降り立った紗良の姿が、加速する車窓の向こうへと滑るように消えていく。
空いた隣の席に自分の鞄を引き寄せた。
電車が再び速度を上げたところで、ポケットの中のスマートフォンが短く震えた。
紗良から何か言い忘れたことでも送られてきたのかと思い、画面を取り出す。
違った。
神谷澪。
ポップアップされた通知を開く。
――今度会わない?
すぐには返信できなかった。
流れていく窓の外の景色を一度見やり、もう一度画面へと目を落とす。
家に着いてからも、澪からの短いメッセージには返信しないまま放置していた。無味乾燥な夕食を終え、風呂で機械的に汚れを落とし、いつものように学習机へ向かう。ブラックコーヒーを机の端に置き、数学の問題集を開く。シャープペンシルで一問だけ解を導き出したところで、どうしても集中力が途切れ、伏せてあったスマートフォンを手に取ってしまった。
――今度会わない?
昼間に車内で見た一文が、液晶画面の上で依然として息を潜めている。誘いを断るための正当な理由を脳内で検索してみる。部活や習い事に追われているわけではない。週末に埋め合わせのきかない予定が詰まっているわけでもない。そもそも、僕自身が彼女からの誘いを明確に拒絶したいと望んでいるのかどうかすら、自分の中で答えが出せずにいた。
数分間の泥のような葛藤のすえ、僕は観念したように返信欄をタップした。
――いいよ。
送信ボタンを押した直後、あまりにも素っ気ない三文字だったかと微かな後悔がよぎった。もう少し何か付け加えるべきだったかもしれない。けれど、今さら続けて送るのも不自然に思えた。ほどなくして、画面に既読の文字が点灯した。
――ほんと?
――うん。
――じゃあ来週の土曜日はどう?
壁に掛けたカレンダーへ視線を移す。来週末の欄には、見事なまでに何の予定も書き込まれていない。そんなことは確認するまでもなく自明の理だった。それでも、何か急を要する用件でも入っていればよかったのにと、自分でも呆れるほど矛盾した願いをどこかへ押し付けたくなった。
――空いてる。
――よかった。
――駅前でいい?
――いいよ。
――何時にする?
――十四時くらいで。
――了解!
文末の感嘆符を見つめる。
スマートフォンを裏返して机に置き、傍らにある卓上予定表を引き寄せる。
来週の土曜日。十四時。駅前。
そこまで事務的に書き込んだところで、ペンの先が不自然に止まった。普段の僕なら、模試、歯医者、あるいは紗良と雑貨屋といった具合に、目的や行動の概要さえ掴めればそれで事足りていた。けれど今回に限っては、どういうわけか相手の名前を記さずにはいられなかった。
神谷澪。
黒いインクで書き終えたあと、少し距離を置いてその文字列を眺める。自分の整然とした予定表の中に、その三文字が侵入しているという事実が、酷く不協和音を奏でているように思えた。
三年近く前であれば、隣り合って歩くことも、約束を交わすことも日常の風景だったはずなのに。
今の僕には、まるで他人の予定を誤って書き写してしまったかのような、奇妙な違和感しか湧いてこない。
沈黙を破り、スマートフォンがもう一度短く震えた。
――楽しみにしてる。
期待を告げるそのメッセージに対して、僕はその夜、それ以上返信欄を開かなかった。机の端で冷めかけたコーヒーを一口煽り、逃避するように再び数式の整然とした列へ意識を沈めていった。
土曜日の朝が訪れてからというもの、十四時という中途半端な数字が、呪いのように頭の片隅にへばりついて離れなかった。待ち合わせの時刻は午後だというのに、朝食のトーストを咀嚼しているときも、自室で数学の問題と格闘しているときも、気がつけば壁の時計へと視線が引き寄せられている。
午前十一時十二分。
約束の時間までは、まだ三時間近くも残されている。
*
土曜日は、朝から壁の時計ばかりを疎ましく眺めていた。
待ち合わせは十四時。朝食を終えた時点でもまだ五時間以上の空白が横たわっており、自室へ戻って数学の問題集を開いても、ことさら急いでペンを走らせる理由はどこにもない。それなのに、たった一問の解を導き出すたびに、視線は磁石に引かれるように文字盤へと向かった。十一時十二分。次に顔を上げたときは十一時二十九分。秒針が刻む物理的な速度はいつもと何ら変わらないはずなのに、今日に限って、時間の進み方は粘り気を帯びたようにひどく遅かった。
「今日、どこか出かけるの?」
「午後からちょっと」
「友達と?」
中学時代の友達、と答えるまでに、喉の奥でわずかな間が空いた。
「あら、珍しいね。高校に入ってから、中学の子とわざわざ会うなんて話、全然聞かなかったから」
「たまたま向こうから連絡が来ただけだよ」
リビングのテレビでは、気象予報士が午後からの降水確率を告げていた。母に折り畳み傘を持つよう念を押され、適当に生返事をする。普段であれば、それ以上思考を割くような会話ではない。
自室へ戻って再び問題集と向き合ったものの、今日ばかりは数式や記号が妙に脳の表面を上滑りしていく。条件を読み直せば解の筋道は立つ。計算過程に破綻もない。それなのに、一問を処理するのに要するカロリーが普段の倍近くに感じられた。十二時半を回ったところで、僕は潔く諦めて問題集を閉じた。
クローゼットから引っ張り出した黒いパーカーと、穿き慣れたジーンズ。姿見の前に立って確認してみても、特筆すべき瑕疵のない、没個性な装いだ。
部屋を出る直前、無意識にもう一度だけ鏡を振り返り、前髪の毛先に触れて形を整える。
一体自分は何を気にしてるんだと内心で自嘲しながらも、指先を止めることはできなかった。
それから駅のコンコースに到着したのは、約束の十分前だった。
社会的な常識からすれば、決して早すぎる到着ではない。普段の僕ならそう合理的に処理するはずなのに、改札前で一人手持ち無沙汰になると、十分という余白が途方もなく間延びして感じられた。
十三時五十二分。
時間を確認してスマートフォンをポケットへ沈め、改札から吐き出されてくる人波を眺める。両手に紙袋を提げた家族連れ、休日の制服を着崩した高校生、僕と同じように柱の陰で所在なげに誰かを待つ人。その雑踏の隙間をぼんやりと目で追跡していると、人混みの向こう側に、ひどく見覚えのある歩調のシルエットが浮かび上がった。
髪の長さが、僕の記憶のフィルムに焼き付いているものより幾分か伸びている。
纏っている服も違う。顔の輪郭だって、中学生だったあの頃よりも少しだけ大人びた陰影を帯びていた。
それでも、一目で澪だと分かった。
向こうもこちらを認識したらしい。視線が空中で交錯すると、彼女は歩幅を広げ、人波を縫うようにして小走りで近づいてきた。
「朔」
名前を呼ばれたその瞬間、僕たちの間に横たわっていた三年という分厚い時間が、ほんの少しだけ収縮したような錯覚を覚えた。
「久しぶり」
「ほんとに久しぶり。なんだか、すごく変な感じがする」
「何が?」
「液晶の画面越しじゃなくて、こうして普通に朔が目の前にいるのが」
「待ち合わせしたんだから、そりゃいるだろ」
「もう、そういう理屈っぽい意味で言ったんじゃないってば」
ふわりと笑うと、左の眉がわずかに下がる。
そのあどけない癖だけは、過去の記憶と寸分違わずにそこにあった。
駅前のカフェへ場所を移すことになり、肩を並べて歩き出す。けれど、喧騒の改札口を離れて数歩も進まないうちに、早々に会話の糸が途切れてしまった。
隣を歩くのが紗良であれば、そのままで構わない。互いに話すべきトピックがなければ、駅まで無言で歩調を合わせることも珍しくない。
だが、澪との沈黙はまったく質が異なっていた。
何か無難な話題を探してこの空白を埋めなければと焦れば焦るほど、思考が空回りして、かえって何を口にすべきか分からなくなってしまう。
「朔、ちょっと歩くの遅くなった?」
張り詰めた沈黙の膜を先に破ったのは、澪のほうだった。
「そうか?」
「昔はもっとずっと速かったよ。気がついたら一人でどんどん先に行っちゃってたし」
「俺、そんな自分勝手なことしてたっけ」
「してたしてた。私が後ろから待ってって声を掛けても、全然聞いてくれないんだから」
「……それは悪かったな」
「今さら神妙な顔で謝るんだ」
「じゃあ謝るのは撤回する」
「だから、そういう意味じゃないってば」
澪が声を上げて笑い、僕も思わずつられて口元を緩めた。
その不器用なやり取りの温度だけは、三年前のあの頃にそのまま引き戻されたような気がした。
*
駅前のカフェに入ると、僕は習慣通りにブラックコーヒーを、澪はホットココアを注文した。
「澪、まだココアなんて飲んでるんだな」
「そういう朔だって、相変わらずブラックコーヒーじゃん」
「コーヒーは一般的な大人の嗜好品だろ」
「中学生の頃から苦い顔してブラックを買ってた人が言うセリフじゃないと思うけど」
それはかつて通っていた絵画教室の近くにあった、古い自動販売機での記憶だった。
僕自身は、あの場所に自販機があったという事実程度の認識しか残っていない。だというのに、澪は僕がいつも決まった銘柄のブラックコーヒーを選んでいたという細部まで、鮮明な解像度で記憶し続けていた。
「そんな些細なこと、よくずっと覚えてるな」
「朔が自分のことなのに忘れてるだけでしょ」
それは、過去の時間を手繰り寄せるような何気ない返事だった。
それから僕たちは、互いの所属する高校という未知の領域についての情報交換を始めた。理不尽な教師の愚痴や、クラスの特異な生態について。澪は美術部に籍を置いており、僕は絵に描いたような帰宅部だった。
「朔なら、高校でも何か部活やってるんだと勝手に思ってた」
「例えばどんな部活だよ」
「うーん、科学部とか?」
「絶対に適当に言ってるだろ、それ」
「あ、ばれた?」
会話のラリーは続いた。
けれど、その手触りは昔とは決定的に違っていた。
一つの話題が消費されるたびに、ひび割れた氷の上を歩くような慎重さで次の言葉を探し求めている自分がいる。三年間という残酷な空白は、言葉を交わしている最中よりも、言葉が途切れたあとに訪れる底知れぬ沈黙の深さのほうに、はっきりとその痕跡を残していた。
「朔、今付き合ってる彼女とかいるの?」
ストローの先でカップの底のココアをかき混ぜながら、澪が不意に視線を上げて尋ねてきた。
「唐突だな、なんだよ、その質問」
「いいじゃん、別に。そのくらいの近況報告を聞いてもいいじゃん」
「いないよ」
「そっか」
「澪のほうはどうなんだよ」
「私もいないよ。そもそも女子校だから、出会いなんて皆無だし」
「なんだ、じゃあ同じような境遇じゃないか」
詮索はここで打ち切られるかと思ったが、澪は少しだけ意味ありげな間を置いてから、なおも言葉を継いできた。
「でも、特定の彼女じゃなくても、高校でいつも一緒にいるような親しい子くらいはいるんでしょ?」
脳裏に、自習室で向かいに座る紗良の顔が反射的に浮かび上がった。
「……まあ、いるにはいるけど」
「女の子?」
「牧野っていう。同じクラスの」
「本当に、ただの友達? 付き合ってないの?」
「付き合ってないって。一緒に自習室に行ったりするだけだ」
「そっか」
澪はそれ以上、紗良という存在について深く踏み込んではこなかった。
代わりに僕のほうから卒業後の進路を尋ねると、澪は美大へ進学するつもりだと明かした。まだ具体的な志望校の絞り込みまでは終わっていないらしい。
「朔のほうは?」
「俺は県内の国立。経済学部を第一志望にしてる」
「なんか、いかにも朔が選びそうな手堅い進路だね」
その言葉だけは、どうしても聞き流すことができなかった。
「それ、どういう意味を含んで言ってる?」
「え、何が?」
「『俺が選びそう』っていう評価基準だよ」
澪は意表を突かれたように少し困った顔をしてから、思考を整理するようにカップの縁を指先でゆっくりとなぞった。
「なんだろう、安定思考? 固い選択?」
「安定?」
「実家から無理なく通えて、就職にも困らなそう。一番合理的なカードを選んでそう」
彼女の分析は、恐ろしいほど正確に僕の思考回路の裏側までをトレースしていた。
「それ、悪く言ってるのか?」
「別に。ただ、すごく朔っぽい選択だなって素直に思っただけだよ」
「牧野にも最近、似たようなことを指摘されたばっかり」
「牧野さんって、さっきの?」
「ああ。高瀬は絶対に、急にレールを外れるような突拍子もないことはしなさそう、とかな」
澪は、その言葉を聞いて一度だけゆっくりと瞬きをした。
「じゃあ、その牧野さんっていう子は、今の朔のことしか知らないんだね」
「どういう意味だよ、それは」
「高校に入ってから出会ったんでしょ?」
「そうだけど」
「だったら、絵を描いてた頃の朔のことは知らないじゃない」
その言葉だけが、会話の底へ重く沈んで残った。
澪は僕の反論を待つことなく、すぐに過去の記憶へと話題をスライドさせた。
「昔の朔はさ、デッサンの線がたった一ミリズレてるってだけで、同じ曲線を執拗に何度も描き直したりしてたよね」
「一ミリなんて大げさなこと言ってないだろ」
「言ってたようなもんでしょ。私は横でずっと見てたんだから」
「絶対に言ってないって」
「じゃあ譲って二ミリ? どっちにしても神経質すぎることに変わりはないでしょ」
「そういう物理的な数値の問題じゃないだろ」
言い合いから逃避するように、冷めたコーヒーのカップへと手を伸ばした。
そのときだった。カップを持ち上げようとする澪の右手に、異質な色彩がこびりついているのが視界に飛び込んできた。
中指の側面、爪の生え際のすぐ近く。小さな青い絵の具の痕跡だった。おそらく、どれだけ石鹸で擦っても皮膚の隙間に入り込んで落ちなかったのだろう。
僕は反射的に、自分の右手へと視線を落とした。
当然のことながら、そこには何の汚れもない。ただ鉛筆ダコが僅かに硬くなっているだけの、清潔な手だ。
かつての僕は、この指先をつねに何かしらの色で汚していたはずだ。
デッサン用の鉛筆の黒鉛だったり、パレットに出した絵の具だったり。石鹸で何度洗い流そうとも、爪の端には決まって色の跡がへばりついていた。
「朔」
澪の声に引っ張られるように、僕はゆっくりと顔を上げた。
「今も絵、描いてる?」
「描いてないよ」
「全然?」
「ああ。一枚も」
「どうして?」
「高校の授業のペースも早いし、予習復習で手一杯だ。それに、大学受験の準備もあるからな」
澪は僕の答えを聞いても、すぐには次の言葉を発しなかった。
「でも朔、きっぱりと絵をやめたのは中学二年の冬だったよね。高校受験にはまだ早すぎたはずだけど」
「受験対策は少しでも早く始めるに越したことはないだろ」
「中二の冬から?」
「俺は人より要領が悪いから、早めに勉強にシフトしただけだよ」
「それだけの理由で、絵まで全部やめる必要があったの?」
僕は沈黙の盾の後ろに隠れ、答えを放棄した。
すると澪もまた、それ以上新しい質問を重ねてくることはなかった。
昔からそうだ。僕が核心を突かれて口を噤んだとき、澪は決して安易な別の話題へと逃げ道を用意してくれない。執拗に言葉で責め立てるわけでもなく、ただ僕の目の奥をじっと見据えて、僕が自ら口を開くまで待ち続けるのだ。
「……向いてなかったんだよ」
「誰が?」
「俺がだよ」
「誰かにそうやって否定されたの?」
「誰かに言われたわけじゃない」
「じゃあ、なんで自分から勝手に向いてないなんて――」
「自分でそう思ったからだよ」
自分でも気づかぬうちに、声に強いトゲが混じり、想定以上の音量でカフェの空間に響いてしまった。
そこで初めて、周囲の環境音が唐突に耳の中へ雪崩れ込んできた。
隣のテーブルの弾んだ笑い声。陶器の食器が触れ合うカチャカチャという音。カウンターの奥でエスプレッソマシンのスチームがミルクを泡立てる高い稼働音。
「……ごめん」
張り詰めた糸を断ち切るように、澪が先に謝罪を口にした。
「別に。怒ってないよ」
言葉とは裏腹に渦巻く苛立ちを流し込むように、すっかり冷めきったコーヒーを煽る。
「でも、一個だけ言わせて」
「何だよ」
「私、朔が絵をやめた理由、今でも全然納得できてないし、分かってない」
「分からなくていいよ。俺の問題だ」
澪は何か反論を唇に乗せかけたように見えたが、結局は諦めたように言葉を飲み込んだ。
「……そっか」
伏せられた彼女のまつ毛の影がわずかに揺れ、ヒリついた追及の時間はそこで終わった。
*
それからの時間は、互いに地雷原を避けるように、駅前の老舗のパン屋が更地になったとか、高校の教師の癖が強すぎるとか、絵とはまるで無関係な話題へと終始した。
どちらから明確に話題を振ったわけでもない。
ただ、しばらく他愛のない会話を転がしているうちに、どうにか以前のように自然に笑い合える空気を取り戻してはいた。
「そうだ」
カップの底のココアがほとんどなくなりかけたころ、澪がふと思いついたように口を開いた。
「朔、十一月二十三日って何か予定入ってる?」
「何かあるの?」
「高校の文化祭。美術部で展示をやる」
その言葉を聞いて、僕は持っていたカップをソーサーに静かに下ろした。
「澪もそこに作品を出すのか?」
「うん。今、文化祭に向けて描いてるやつを」
「へえ」
「よかったら、朔に見に来てほしい」
口調こそ軽い誘いのように聞こえたが、澪は僕から視線を逸らそうとはしなかった。
「俺が?」
「うん。朔に」
「何でだよ」
澪が、困ったように少しだけ笑みをこぼした。
「……見てほしいから」
「何でわざわざ俺に?」
「またそれだ」
「何がだよ」
「朔って、昔から何でも論理的な理由を聞きたがるよね」
「聞くだろ、普通は」
「全部の行動に理由がなくてもよくない?」
その問い掛けに、僕は返す言葉を持たなかった。
「ただ朔に見てほしいから。それじゃ駄目なのかな?」
澪はそれ以上の補足説明を放棄した。
僕はポケットからスマートフォンを取り出し、予定表のアプリを開く。
十一月二十三日のマスは、見事なまでに純白の空白だった。
「……たぶん、行けると思う」
「ほんと?」
「他に予定もないしな」
「じゃあ絶対に来てよ」
「行けたらね」
「朔の『行けたら行く』は、結局だいたい来るパターンのやつだ」
「それは三年前の話だろ」
「人間の本質なんて、今も変わってなさそうだけど」
意地悪く言い返そうとしたが、喉まで出かかった言葉をどうにか飲み込んだ。
*
カフェの扉を押して外へ出ると、アスファルトを黒く濡らす雨が降っていた。
朝の気象予報士の言葉を思い出し、鞄の底から折り畳み傘を引っ張り出す。隣で、澪は灰色の空をただ無防備に見上げるだけだった。
「傘は?」
「持ってない」
「午後から雨が降るってニュースで言ってたよ」
「家を出るときは晴れてたから、大丈夫だと過信してた」
「それじゃ天気予報の存在意義がないだろ」
「でも、朔なら絶対に抜かりなく持ってくると思ったから」
「最初から俺の傘を当てにしてたのか?」
「ううん、今その言い訳を思いついた」
僕が広げた一人用の窮屈な傘の下へ、澪が当然の権利のように滑り込んでくる。
「狭いな」
「折り畳みだから仕方ないじゃん」
「そっち、右肩が濡れてるよ」
「朔こそ、左半分がはみ出てる」
傘の柄を傾け、少しだけ澪のほうへと雨除けの面積を譲る。
「また朔はそういうことする」
「何がだよ」
「自分のほうがびしょ濡れになってるじゃん」
「俺は別に濡れてもいいだろ」
「私はよくないけど」
水たまりを避けて歩調を合わせるたび、服越しの肩が触れ合った。
パラパラと傘の布地を叩く不規則な雨音を聞いているうちに、ずっと忘れていた古い風景が、少しずつ輪郭を取り戻していった。
絵画教室からの帰り道。
あの日も、今日と同じように突然の雨に見舞われた。
どちらか一方しか傘を持っていなくて、こうして身を寄せ合いながら二人で駅までの道のりを歩いた。
ただ、それが僕の傘だったのか、彼女の傘だったのか、その細部だけはどうしても思い出すことができなかった。
「朔」
「何?」
「今日、会えてよかった」
視線を駅前の信号に向けたまま、澪がぽつりと言った。
「急にどうしたんだよ」
「朔のほうは?」
「何が」
「今日こうやって会って、どう思った?」
足元の水しぶきの音と、傘を打つ雨の音だけが間断なく降り注いでいる。
「……まあ、悪くはなかったよ」
「その文頭の『まあ』は絶対にいらなくない?」
「そんな細かい装飾語まで気にするのか?」
「気にするよ。すごく大事なところだもん」
澪は悪戯っぽく笑い声を立てた。
「ほんと、そういう捻くれたところは変わんないね」
雨に煙る駅のアーケードは、もうすぐ目の前まで迫っていた。
帰りの電車に揺られながら、スマートフォンを取り出して予定表アプリを開いた。
十一月二十三日。
純白のまま残されていた空白のマスに、指先を滑らせて「文化祭」と入力する。
どこで開催されるのか、学校名は書かなかった。
誰の展示を見に行くのか、澪の名前も残さなかった。
それでも、僕自身が何のためにその日を空けたのかは分かっていた。
*
週が明けた月曜日の昼休み、いつものように机を挟んで弁当を広げた瞬間、紗良に不意を突かれた。
「土曜日、結局どうだった?」
「何が?」
「中学の友達。久しぶりに会ったんでしょ」
「別に。いつも通り普通だったよ」
「高瀬、ほんと語彙力が『普通』に全振りされてるよね」
紗良は呆れたように息を吐きながら、サンドイッチの包装を開ける。
「じゃあせめて、昔と変わってなくて懐かしかったとか、そういう人間味のある感想はないの?」
「まあ、それはあったかもしれないけど」
「へえ。その子って、どんな友達なの?」
「神谷澪っていうやつ。中学の学校自体は別だった。同じ絵画教室に通ってただけで」
紗良の指先が、空中でピタリと硬直した。
「絵画教室?」
「ああ」
「高瀬、昔絵なんて習ってたの?」
「中学の頃に少しだけ」
「そんなの、今まで一回も聞いたことなかった」
「わざわざ昔の習い事を話す機会もなかったからな」
紗良は目の前の昼食を食べることも忘れたように、目を丸くして僕の顔をまじまじと見つめた。
「どんな絵を描いてたの?」
「鉛筆のデッサンとか、水彩画とか。ごく一般的なやつだよ」
「見たい」
「もう残ってないと思うけど」
「本当に一枚も?」
「たぶんな」
クローゼットの一番奥に押し込められた、青い染みのついた古い画材箱の存在が脳裏をよぎる。
最後にあの箱を開けたのがいつだったのか、記憶を辿ってもはっきりとした日付は浮かんでこなかった。
「もして残ってたら、今度絶対に見せてよ」
「奇跡的に発掘されたらな」
紗良は少し残念そうに引き下がり、それ以上僕の過去を深く掘り下げることはしなかった。
僕も、文化祭に招待されたという事実までは、打ち明けなかった。
昼休みが終われば午後の授業をこなし、放課後にはいつものように紗良と肩を並べて自習室のデスクへ向かった。帰りのコンビニのレジで彼女は定番のミルクティーを購入し、僕はいつものブラックコーヒーを選んだ。
帰りの電車に揺られながら、次のマーク模試の日程を確認しようとスマートフォンを取り出し、予定表のアプリを開く。
十一月二十三日。
文化祭。
数日前に入力したばかりのその単語は、模試や小テストといった他の無機質な予定とまったく同じフォントで表示されている。
それなのに、液晶画面のその一点だけが、まるで微熱を帯びているかのように異常な引力で僕の視線を縛り付けて離さなかった。
僕は逃げるように電源ボタンを押し、暗転した画面を深いポケットの底へと沈めた。
学習参考書のコーナーで目的の棚を一通り確認したあと、すぐに帰路に就けばよかったものを、僕は無意識のうちに店の奥へと歩を進めていた。
行き着いた先は、美術雑誌が並ぶ静かな書棚だった。自分から好んでその領域へ踏み込んだつもりは毛頭なかった。だというのに、僕の足は吸い寄せられるようにそこで止まっていた。
平積みされた一冊の雑誌。その光沢のある表紙には、『高校生絵画特集』という見出しが躍っていた。
まるで磁力に引かれるように、自然と手が伸びる。硬い紙質のページをパラパラと捲っていくうちに、不意に心臓が大きく跳ねた。見覚えのある文字列。中学生の頃から何度も目にしてきた、彼女のフルネーム。
神谷澪。
名前の横には、彼女が描いたとされる作品の写真が掲載されていた。雨上がりらしい夜の道路が、画面の奥へ細く伸びている。濡れたアスファルトには白い街灯が歪んで反射し、その周囲を濁った青と黒が覆っていた。
かつて僕が知っていた澪の絵よりも、ずっと暗い。
昔の澪は、もっと違う色を好んでいた気がする。
そこまで考えてしまっている自分に気づき、ページを捲る指が止まった。
まだ覚えているのだ。澪がどんな色をよく使っていたのか。何を描くときに長く紙を見ていたのか。絵の具を出す順番まで、全部ではないにしても、僕の中にはまだ残っている。
作品の横には、小さな活字で画評が添えられていた。最近のコンクールでもいくつか入賞を果たしているらしい。
『独特な色彩感覚』
『高校生離れした表現力』
並んだ賛辞の言葉を最後まで読み切る前に、僕は雑誌を閉じた。棚へ戻し、踵を返してその場を離れる。参考書売り場へ戻って、予定通りに数学の問題集を買って帰ればいい。
そう思って数歩進んだところで、足が止まった。
数秒の逡巡ののち、僕は再び引き返し、先ほどの雑誌をもう一度手に取った。今度は紹介文には目もくれず、ただ彼女の作品の細部だけを見つめる。この三年間で、澪の中に何があったのだろう。
どうして、こんな色を使うようになったのだろう。そんなことを考えたところで、もう僕には関係がない。三年近く会っていなかったし、そのあいだ絵の話をしたこともない。何年も筆を握っていない僕が、彼女の絵の変化について考えたところで何になる。
それでも、そのページを閉じるまでには随分と時間がかかった。
帰宅後、気づけば僕は自室のベッドに寝転がり、スマートフォンの検索窓に『神谷澪』という文字を打ち込んでいた。コンクールの受賞歴、美術部の広報ブログ、地方の展覧会の記録。検索結果に表示されたリンクをいくつか開き、すぐに閉じては、証拠隠滅のように検索履歴を消去する。
そんな無駄な抵抗を試みたところで、机に向かって数学を三問解き終える頃には、再び同じ三文字を入力している自分がいた。
何を確かめたいのか、自分でも分からない。
ただ、検索窓にその名前を打ち込む指だけが、どうしても止まらなかった。
*
翌日の日曜日。僕は紗良と連れ立って、駅前に新設された複合施設の雑貨屋へと出かけた。
エントランスを抜けると、紗良は目を輝かせて文具売り場へと消えていき、僕は少し店内を見たあと、同じ建物に入っていた書店の参考書コーナーへ向かった。四十分後に合流したとき、紗良はあれほど真剣に吟味していたはずのシャープペンシルを、結局一本も買っていなかった。
「あんなに食い入るように見てたのに?」
「実際に手に取って重さを確かめたら、なんか満足しちゃった」
「店からしたら、一番タチの悪い冷やかし客だな」
「試し書きしたからちゃんと貢献したよ」
「何に?」
「商品の比較に」
「牧野の中にしか何も残ってないだろ」
呆れながら、僕たちは店内にあるガラス張りのカフェへと入った。紗良はいつものミルクティーを、僕はブラックのドリップコーヒーを注文する。
向かい合わせの席に着くと、紗良がストローの紙袋を指先で器用に蛇腹に折り畳みながら口を開いた。
「高瀬ってさ、昔からずっとこんな感じだったの?」
「こんな感じって?」
「雑貨屋に来ても脇目も振らずに参考書のコーナーに直行する感じ」
「昔は普通に漫画とかも読んでたよ」
「漫画かあ。思ったより普通の子どもだね」
「一体何を期待してたんだよ」
「もっと意外性のある答え。実はマニアックな恐竜図鑑しか読まない偏屈な子どもだったとか」
「どういう歪んだ偏見だよ」
紗良が声を上げて笑う。
「じゃあ、中学生の頃は? 毎日何してたの?」
グラスの中で、ストローに押された氷がカランと涼しげな音を立てた。
その瞬間、昨日書店で見た雑誌のページが脳裏を過った。
神谷澪。
暗い絵。
「……別に。普通の毎日だよ」
「部活とか入ってなかったの?」
「入ってなかった」
「じゃあ趣味は?」
「だから、漫画読んだりとか、そのくらい」
「ほんとに?」
「なんで疑うんだよ」
「なんとなく。高瀬って、あんまり自分の昔の話をしないから」
紗良は僕の顔を見たあと、ミルクティーへ口をつけた。
「まあ、無理に言いたくないなら深追いはしないけど」
「別に、隠すような大層な過去はないよ」
「じゃあ今度、何か面白い武勇伝でも思い出したら教えてよ」
「期待しないで待ってて」
「じゃあ、ハードル下げて期待しとく」
結局、中学生の頃についてそれ以上深く掘り下げられることはなかった。
その後はお互いに買った本を見せ合ったり、カフェを出てから駅ビルの中をあてもなく散策したりした。紗良が雑貨屋でスマートフォンケースを十分近く悩み抜いた末に買わずに棚へ戻したり、僕が「また見るだけか」とからかうと「これは有意義な検討期間なの」と理屈っぽく言い返されたりした。
気がつけば、西側の窓ガラスがオレンジ色に染まる夕刻になっていた。
帰りの電車では、運良く空いていた二人掛けの席に並んで座った。
「今日、結局参考書しか買ってないじゃん」
紗良が僕の膝の上にある無骨な紙袋を見て呆れたように言う。
「もともと買う予定だったんだから、これで正解だろ」
「せっかく新しいおしゃれな雑貨屋に行ったのに? 雑貨屋だよ、本屋じゃないんだよ」
「欲しいものがなかったんだから仕方ないだろ」
「そういう理屈っぽいところ、ほんと高瀬らしい」
「またそれかよ。悪い意味だろ」
「今日はいい意味」
「じゃあ、いつもは悪い意味なんだな」
「さあね」
紗良は悪戯っぽく笑うと、窓の外へ視線を投げた。
何駅か過ぎたところで、紗良が先に立ち上がる。
「じゃ、私はここで降りるから。また明日ね」
「うん。また明日」
扉が閉まり、ホームに降り立った紗良の姿が、加速する車窓の向こうへと滑るように消えていく。
空いた隣の席に自分の鞄を引き寄せた。
電車が再び速度を上げたところで、ポケットの中のスマートフォンが短く震えた。
紗良から何か言い忘れたことでも送られてきたのかと思い、画面を取り出す。
違った。
神谷澪。
ポップアップされた通知を開く。
――今度会わない?
すぐには返信できなかった。
流れていく窓の外の景色を一度見やり、もう一度画面へと目を落とす。
家に着いてからも、澪からの短いメッセージには返信しないまま放置していた。無味乾燥な夕食を終え、風呂で機械的に汚れを落とし、いつものように学習机へ向かう。ブラックコーヒーを机の端に置き、数学の問題集を開く。シャープペンシルで一問だけ解を導き出したところで、どうしても集中力が途切れ、伏せてあったスマートフォンを手に取ってしまった。
――今度会わない?
昼間に車内で見た一文が、液晶画面の上で依然として息を潜めている。誘いを断るための正当な理由を脳内で検索してみる。部活や習い事に追われているわけではない。週末に埋め合わせのきかない予定が詰まっているわけでもない。そもそも、僕自身が彼女からの誘いを明確に拒絶したいと望んでいるのかどうかすら、自分の中で答えが出せずにいた。
数分間の泥のような葛藤のすえ、僕は観念したように返信欄をタップした。
――いいよ。
送信ボタンを押した直後、あまりにも素っ気ない三文字だったかと微かな後悔がよぎった。もう少し何か付け加えるべきだったかもしれない。けれど、今さら続けて送るのも不自然に思えた。ほどなくして、画面に既読の文字が点灯した。
――ほんと?
――うん。
――じゃあ来週の土曜日はどう?
壁に掛けたカレンダーへ視線を移す。来週末の欄には、見事なまでに何の予定も書き込まれていない。そんなことは確認するまでもなく自明の理だった。それでも、何か急を要する用件でも入っていればよかったのにと、自分でも呆れるほど矛盾した願いをどこかへ押し付けたくなった。
――空いてる。
――よかった。
――駅前でいい?
――いいよ。
――何時にする?
――十四時くらいで。
――了解!
文末の感嘆符を見つめる。
スマートフォンを裏返して机に置き、傍らにある卓上予定表を引き寄せる。
来週の土曜日。十四時。駅前。
そこまで事務的に書き込んだところで、ペンの先が不自然に止まった。普段の僕なら、模試、歯医者、あるいは紗良と雑貨屋といった具合に、目的や行動の概要さえ掴めればそれで事足りていた。けれど今回に限っては、どういうわけか相手の名前を記さずにはいられなかった。
神谷澪。
黒いインクで書き終えたあと、少し距離を置いてその文字列を眺める。自分の整然とした予定表の中に、その三文字が侵入しているという事実が、酷く不協和音を奏でているように思えた。
三年近く前であれば、隣り合って歩くことも、約束を交わすことも日常の風景だったはずなのに。
今の僕には、まるで他人の予定を誤って書き写してしまったかのような、奇妙な違和感しか湧いてこない。
沈黙を破り、スマートフォンがもう一度短く震えた。
――楽しみにしてる。
期待を告げるそのメッセージに対して、僕はその夜、それ以上返信欄を開かなかった。机の端で冷めかけたコーヒーを一口煽り、逃避するように再び数式の整然とした列へ意識を沈めていった。
土曜日の朝が訪れてからというもの、十四時という中途半端な数字が、呪いのように頭の片隅にへばりついて離れなかった。待ち合わせの時刻は午後だというのに、朝食のトーストを咀嚼しているときも、自室で数学の問題と格闘しているときも、気がつけば壁の時計へと視線が引き寄せられている。
午前十一時十二分。
約束の時間までは、まだ三時間近くも残されている。
*
土曜日は、朝から壁の時計ばかりを疎ましく眺めていた。
待ち合わせは十四時。朝食を終えた時点でもまだ五時間以上の空白が横たわっており、自室へ戻って数学の問題集を開いても、ことさら急いでペンを走らせる理由はどこにもない。それなのに、たった一問の解を導き出すたびに、視線は磁石に引かれるように文字盤へと向かった。十一時十二分。次に顔を上げたときは十一時二十九分。秒針が刻む物理的な速度はいつもと何ら変わらないはずなのに、今日に限って、時間の進み方は粘り気を帯びたようにひどく遅かった。
「今日、どこか出かけるの?」
「午後からちょっと」
「友達と?」
中学時代の友達、と答えるまでに、喉の奥でわずかな間が空いた。
「あら、珍しいね。高校に入ってから、中学の子とわざわざ会うなんて話、全然聞かなかったから」
「たまたま向こうから連絡が来ただけだよ」
リビングのテレビでは、気象予報士が午後からの降水確率を告げていた。母に折り畳み傘を持つよう念を押され、適当に生返事をする。普段であれば、それ以上思考を割くような会話ではない。
自室へ戻って再び問題集と向き合ったものの、今日ばかりは数式や記号が妙に脳の表面を上滑りしていく。条件を読み直せば解の筋道は立つ。計算過程に破綻もない。それなのに、一問を処理するのに要するカロリーが普段の倍近くに感じられた。十二時半を回ったところで、僕は潔く諦めて問題集を閉じた。
クローゼットから引っ張り出した黒いパーカーと、穿き慣れたジーンズ。姿見の前に立って確認してみても、特筆すべき瑕疵のない、没個性な装いだ。
部屋を出る直前、無意識にもう一度だけ鏡を振り返り、前髪の毛先に触れて形を整える。
一体自分は何を気にしてるんだと内心で自嘲しながらも、指先を止めることはできなかった。
それから駅のコンコースに到着したのは、約束の十分前だった。
社会的な常識からすれば、決して早すぎる到着ではない。普段の僕ならそう合理的に処理するはずなのに、改札前で一人手持ち無沙汰になると、十分という余白が途方もなく間延びして感じられた。
十三時五十二分。
時間を確認してスマートフォンをポケットへ沈め、改札から吐き出されてくる人波を眺める。両手に紙袋を提げた家族連れ、休日の制服を着崩した高校生、僕と同じように柱の陰で所在なげに誰かを待つ人。その雑踏の隙間をぼんやりと目で追跡していると、人混みの向こう側に、ひどく見覚えのある歩調のシルエットが浮かび上がった。
髪の長さが、僕の記憶のフィルムに焼き付いているものより幾分か伸びている。
纏っている服も違う。顔の輪郭だって、中学生だったあの頃よりも少しだけ大人びた陰影を帯びていた。
それでも、一目で澪だと分かった。
向こうもこちらを認識したらしい。視線が空中で交錯すると、彼女は歩幅を広げ、人波を縫うようにして小走りで近づいてきた。
「朔」
名前を呼ばれたその瞬間、僕たちの間に横たわっていた三年という分厚い時間が、ほんの少しだけ収縮したような錯覚を覚えた。
「久しぶり」
「ほんとに久しぶり。なんだか、すごく変な感じがする」
「何が?」
「液晶の画面越しじゃなくて、こうして普通に朔が目の前にいるのが」
「待ち合わせしたんだから、そりゃいるだろ」
「もう、そういう理屈っぽい意味で言ったんじゃないってば」
ふわりと笑うと、左の眉がわずかに下がる。
そのあどけない癖だけは、過去の記憶と寸分違わずにそこにあった。
駅前のカフェへ場所を移すことになり、肩を並べて歩き出す。けれど、喧騒の改札口を離れて数歩も進まないうちに、早々に会話の糸が途切れてしまった。
隣を歩くのが紗良であれば、そのままで構わない。互いに話すべきトピックがなければ、駅まで無言で歩調を合わせることも珍しくない。
だが、澪との沈黙はまったく質が異なっていた。
何か無難な話題を探してこの空白を埋めなければと焦れば焦るほど、思考が空回りして、かえって何を口にすべきか分からなくなってしまう。
「朔、ちょっと歩くの遅くなった?」
張り詰めた沈黙の膜を先に破ったのは、澪のほうだった。
「そうか?」
「昔はもっとずっと速かったよ。気がついたら一人でどんどん先に行っちゃってたし」
「俺、そんな自分勝手なことしてたっけ」
「してたしてた。私が後ろから待ってって声を掛けても、全然聞いてくれないんだから」
「……それは悪かったな」
「今さら神妙な顔で謝るんだ」
「じゃあ謝るのは撤回する」
「だから、そういう意味じゃないってば」
澪が声を上げて笑い、僕も思わずつられて口元を緩めた。
その不器用なやり取りの温度だけは、三年前のあの頃にそのまま引き戻されたような気がした。
*
駅前のカフェに入ると、僕は習慣通りにブラックコーヒーを、澪はホットココアを注文した。
「澪、まだココアなんて飲んでるんだな」
「そういう朔だって、相変わらずブラックコーヒーじゃん」
「コーヒーは一般的な大人の嗜好品だろ」
「中学生の頃から苦い顔してブラックを買ってた人が言うセリフじゃないと思うけど」
それはかつて通っていた絵画教室の近くにあった、古い自動販売機での記憶だった。
僕自身は、あの場所に自販機があったという事実程度の認識しか残っていない。だというのに、澪は僕がいつも決まった銘柄のブラックコーヒーを選んでいたという細部まで、鮮明な解像度で記憶し続けていた。
「そんな些細なこと、よくずっと覚えてるな」
「朔が自分のことなのに忘れてるだけでしょ」
それは、過去の時間を手繰り寄せるような何気ない返事だった。
それから僕たちは、互いの所属する高校という未知の領域についての情報交換を始めた。理不尽な教師の愚痴や、クラスの特異な生態について。澪は美術部に籍を置いており、僕は絵に描いたような帰宅部だった。
「朔なら、高校でも何か部活やってるんだと勝手に思ってた」
「例えばどんな部活だよ」
「うーん、科学部とか?」
「絶対に適当に言ってるだろ、それ」
「あ、ばれた?」
会話のラリーは続いた。
けれど、その手触りは昔とは決定的に違っていた。
一つの話題が消費されるたびに、ひび割れた氷の上を歩くような慎重さで次の言葉を探し求めている自分がいる。三年間という残酷な空白は、言葉を交わしている最中よりも、言葉が途切れたあとに訪れる底知れぬ沈黙の深さのほうに、はっきりとその痕跡を残していた。
「朔、今付き合ってる彼女とかいるの?」
ストローの先でカップの底のココアをかき混ぜながら、澪が不意に視線を上げて尋ねてきた。
「唐突だな、なんだよ、その質問」
「いいじゃん、別に。そのくらいの近況報告を聞いてもいいじゃん」
「いないよ」
「そっか」
「澪のほうはどうなんだよ」
「私もいないよ。そもそも女子校だから、出会いなんて皆無だし」
「なんだ、じゃあ同じような境遇じゃないか」
詮索はここで打ち切られるかと思ったが、澪は少しだけ意味ありげな間を置いてから、なおも言葉を継いできた。
「でも、特定の彼女じゃなくても、高校でいつも一緒にいるような親しい子くらいはいるんでしょ?」
脳裏に、自習室で向かいに座る紗良の顔が反射的に浮かび上がった。
「……まあ、いるにはいるけど」
「女の子?」
「牧野っていう。同じクラスの」
「本当に、ただの友達? 付き合ってないの?」
「付き合ってないって。一緒に自習室に行ったりするだけだ」
「そっか」
澪はそれ以上、紗良という存在について深く踏み込んではこなかった。
代わりに僕のほうから卒業後の進路を尋ねると、澪は美大へ進学するつもりだと明かした。まだ具体的な志望校の絞り込みまでは終わっていないらしい。
「朔のほうは?」
「俺は県内の国立。経済学部を第一志望にしてる」
「なんか、いかにも朔が選びそうな手堅い進路だね」
その言葉だけは、どうしても聞き流すことができなかった。
「それ、どういう意味を含んで言ってる?」
「え、何が?」
「『俺が選びそう』っていう評価基準だよ」
澪は意表を突かれたように少し困った顔をしてから、思考を整理するようにカップの縁を指先でゆっくりとなぞった。
「なんだろう、安定思考? 固い選択?」
「安定?」
「実家から無理なく通えて、就職にも困らなそう。一番合理的なカードを選んでそう」
彼女の分析は、恐ろしいほど正確に僕の思考回路の裏側までをトレースしていた。
「それ、悪く言ってるのか?」
「別に。ただ、すごく朔っぽい選択だなって素直に思っただけだよ」
「牧野にも最近、似たようなことを指摘されたばっかり」
「牧野さんって、さっきの?」
「ああ。高瀬は絶対に、急にレールを外れるような突拍子もないことはしなさそう、とかな」
澪は、その言葉を聞いて一度だけゆっくりと瞬きをした。
「じゃあ、その牧野さんっていう子は、今の朔のことしか知らないんだね」
「どういう意味だよ、それは」
「高校に入ってから出会ったんでしょ?」
「そうだけど」
「だったら、絵を描いてた頃の朔のことは知らないじゃない」
その言葉だけが、会話の底へ重く沈んで残った。
澪は僕の反論を待つことなく、すぐに過去の記憶へと話題をスライドさせた。
「昔の朔はさ、デッサンの線がたった一ミリズレてるってだけで、同じ曲線を執拗に何度も描き直したりしてたよね」
「一ミリなんて大げさなこと言ってないだろ」
「言ってたようなもんでしょ。私は横でずっと見てたんだから」
「絶対に言ってないって」
「じゃあ譲って二ミリ? どっちにしても神経質すぎることに変わりはないでしょ」
「そういう物理的な数値の問題じゃないだろ」
言い合いから逃避するように、冷めたコーヒーのカップへと手を伸ばした。
そのときだった。カップを持ち上げようとする澪の右手に、異質な色彩がこびりついているのが視界に飛び込んできた。
中指の側面、爪の生え際のすぐ近く。小さな青い絵の具の痕跡だった。おそらく、どれだけ石鹸で擦っても皮膚の隙間に入り込んで落ちなかったのだろう。
僕は反射的に、自分の右手へと視線を落とした。
当然のことながら、そこには何の汚れもない。ただ鉛筆ダコが僅かに硬くなっているだけの、清潔な手だ。
かつての僕は、この指先をつねに何かしらの色で汚していたはずだ。
デッサン用の鉛筆の黒鉛だったり、パレットに出した絵の具だったり。石鹸で何度洗い流そうとも、爪の端には決まって色の跡がへばりついていた。
「朔」
澪の声に引っ張られるように、僕はゆっくりと顔を上げた。
「今も絵、描いてる?」
「描いてないよ」
「全然?」
「ああ。一枚も」
「どうして?」
「高校の授業のペースも早いし、予習復習で手一杯だ。それに、大学受験の準備もあるからな」
澪は僕の答えを聞いても、すぐには次の言葉を発しなかった。
「でも朔、きっぱりと絵をやめたのは中学二年の冬だったよね。高校受験にはまだ早すぎたはずだけど」
「受験対策は少しでも早く始めるに越したことはないだろ」
「中二の冬から?」
「俺は人より要領が悪いから、早めに勉強にシフトしただけだよ」
「それだけの理由で、絵まで全部やめる必要があったの?」
僕は沈黙の盾の後ろに隠れ、答えを放棄した。
すると澪もまた、それ以上新しい質問を重ねてくることはなかった。
昔からそうだ。僕が核心を突かれて口を噤んだとき、澪は決して安易な別の話題へと逃げ道を用意してくれない。執拗に言葉で責め立てるわけでもなく、ただ僕の目の奥をじっと見据えて、僕が自ら口を開くまで待ち続けるのだ。
「……向いてなかったんだよ」
「誰が?」
「俺がだよ」
「誰かにそうやって否定されたの?」
「誰かに言われたわけじゃない」
「じゃあ、なんで自分から勝手に向いてないなんて――」
「自分でそう思ったからだよ」
自分でも気づかぬうちに、声に強いトゲが混じり、想定以上の音量でカフェの空間に響いてしまった。
そこで初めて、周囲の環境音が唐突に耳の中へ雪崩れ込んできた。
隣のテーブルの弾んだ笑い声。陶器の食器が触れ合うカチャカチャという音。カウンターの奥でエスプレッソマシンのスチームがミルクを泡立てる高い稼働音。
「……ごめん」
張り詰めた糸を断ち切るように、澪が先に謝罪を口にした。
「別に。怒ってないよ」
言葉とは裏腹に渦巻く苛立ちを流し込むように、すっかり冷めきったコーヒーを煽る。
「でも、一個だけ言わせて」
「何だよ」
「私、朔が絵をやめた理由、今でも全然納得できてないし、分かってない」
「分からなくていいよ。俺の問題だ」
澪は何か反論を唇に乗せかけたように見えたが、結局は諦めたように言葉を飲み込んだ。
「……そっか」
伏せられた彼女のまつ毛の影がわずかに揺れ、ヒリついた追及の時間はそこで終わった。
*
それからの時間は、互いに地雷原を避けるように、駅前の老舗のパン屋が更地になったとか、高校の教師の癖が強すぎるとか、絵とはまるで無関係な話題へと終始した。
どちらから明確に話題を振ったわけでもない。
ただ、しばらく他愛のない会話を転がしているうちに、どうにか以前のように自然に笑い合える空気を取り戻してはいた。
「そうだ」
カップの底のココアがほとんどなくなりかけたころ、澪がふと思いついたように口を開いた。
「朔、十一月二十三日って何か予定入ってる?」
「何かあるの?」
「高校の文化祭。美術部で展示をやる」
その言葉を聞いて、僕は持っていたカップをソーサーに静かに下ろした。
「澪もそこに作品を出すのか?」
「うん。今、文化祭に向けて描いてるやつを」
「へえ」
「よかったら、朔に見に来てほしい」
口調こそ軽い誘いのように聞こえたが、澪は僕から視線を逸らそうとはしなかった。
「俺が?」
「うん。朔に」
「何でだよ」
澪が、困ったように少しだけ笑みをこぼした。
「……見てほしいから」
「何でわざわざ俺に?」
「またそれだ」
「何がだよ」
「朔って、昔から何でも論理的な理由を聞きたがるよね」
「聞くだろ、普通は」
「全部の行動に理由がなくてもよくない?」
その問い掛けに、僕は返す言葉を持たなかった。
「ただ朔に見てほしいから。それじゃ駄目なのかな?」
澪はそれ以上の補足説明を放棄した。
僕はポケットからスマートフォンを取り出し、予定表のアプリを開く。
十一月二十三日のマスは、見事なまでに純白の空白だった。
「……たぶん、行けると思う」
「ほんと?」
「他に予定もないしな」
「じゃあ絶対に来てよ」
「行けたらね」
「朔の『行けたら行く』は、結局だいたい来るパターンのやつだ」
「それは三年前の話だろ」
「人間の本質なんて、今も変わってなさそうだけど」
意地悪く言い返そうとしたが、喉まで出かかった言葉をどうにか飲み込んだ。
*
カフェの扉を押して外へ出ると、アスファルトを黒く濡らす雨が降っていた。
朝の気象予報士の言葉を思い出し、鞄の底から折り畳み傘を引っ張り出す。隣で、澪は灰色の空をただ無防備に見上げるだけだった。
「傘は?」
「持ってない」
「午後から雨が降るってニュースで言ってたよ」
「家を出るときは晴れてたから、大丈夫だと過信してた」
「それじゃ天気予報の存在意義がないだろ」
「でも、朔なら絶対に抜かりなく持ってくると思ったから」
「最初から俺の傘を当てにしてたのか?」
「ううん、今その言い訳を思いついた」
僕が広げた一人用の窮屈な傘の下へ、澪が当然の権利のように滑り込んでくる。
「狭いな」
「折り畳みだから仕方ないじゃん」
「そっち、右肩が濡れてるよ」
「朔こそ、左半分がはみ出てる」
傘の柄を傾け、少しだけ澪のほうへと雨除けの面積を譲る。
「また朔はそういうことする」
「何がだよ」
「自分のほうがびしょ濡れになってるじゃん」
「俺は別に濡れてもいいだろ」
「私はよくないけど」
水たまりを避けて歩調を合わせるたび、服越しの肩が触れ合った。
パラパラと傘の布地を叩く不規則な雨音を聞いているうちに、ずっと忘れていた古い風景が、少しずつ輪郭を取り戻していった。
絵画教室からの帰り道。
あの日も、今日と同じように突然の雨に見舞われた。
どちらか一方しか傘を持っていなくて、こうして身を寄せ合いながら二人で駅までの道のりを歩いた。
ただ、それが僕の傘だったのか、彼女の傘だったのか、その細部だけはどうしても思い出すことができなかった。
「朔」
「何?」
「今日、会えてよかった」
視線を駅前の信号に向けたまま、澪がぽつりと言った。
「急にどうしたんだよ」
「朔のほうは?」
「何が」
「今日こうやって会って、どう思った?」
足元の水しぶきの音と、傘を打つ雨の音だけが間断なく降り注いでいる。
「……まあ、悪くはなかったよ」
「その文頭の『まあ』は絶対にいらなくない?」
「そんな細かい装飾語まで気にするのか?」
「気にするよ。すごく大事なところだもん」
澪は悪戯っぽく笑い声を立てた。
「ほんと、そういう捻くれたところは変わんないね」
雨に煙る駅のアーケードは、もうすぐ目の前まで迫っていた。
帰りの電車に揺られながら、スマートフォンを取り出して予定表アプリを開いた。
十一月二十三日。
純白のまま残されていた空白のマスに、指先を滑らせて「文化祭」と入力する。
どこで開催されるのか、学校名は書かなかった。
誰の展示を見に行くのか、澪の名前も残さなかった。
それでも、僕自身が何のためにその日を空けたのかは分かっていた。
*
週が明けた月曜日の昼休み、いつものように机を挟んで弁当を広げた瞬間、紗良に不意を突かれた。
「土曜日、結局どうだった?」
「何が?」
「中学の友達。久しぶりに会ったんでしょ」
「別に。いつも通り普通だったよ」
「高瀬、ほんと語彙力が『普通』に全振りされてるよね」
紗良は呆れたように息を吐きながら、サンドイッチの包装を開ける。
「じゃあせめて、昔と変わってなくて懐かしかったとか、そういう人間味のある感想はないの?」
「まあ、それはあったかもしれないけど」
「へえ。その子って、どんな友達なの?」
「神谷澪っていうやつ。中学の学校自体は別だった。同じ絵画教室に通ってただけで」
紗良の指先が、空中でピタリと硬直した。
「絵画教室?」
「ああ」
「高瀬、昔絵なんて習ってたの?」
「中学の頃に少しだけ」
「そんなの、今まで一回も聞いたことなかった」
「わざわざ昔の習い事を話す機会もなかったからな」
紗良は目の前の昼食を食べることも忘れたように、目を丸くして僕の顔をまじまじと見つめた。
「どんな絵を描いてたの?」
「鉛筆のデッサンとか、水彩画とか。ごく一般的なやつだよ」
「見たい」
「もう残ってないと思うけど」
「本当に一枚も?」
「たぶんな」
クローゼットの一番奥に押し込められた、青い染みのついた古い画材箱の存在が脳裏をよぎる。
最後にあの箱を開けたのがいつだったのか、記憶を辿ってもはっきりとした日付は浮かんでこなかった。
「もして残ってたら、今度絶対に見せてよ」
「奇跡的に発掘されたらな」
紗良は少し残念そうに引き下がり、それ以上僕の過去を深く掘り下げることはしなかった。
僕も、文化祭に招待されたという事実までは、打ち明けなかった。
昼休みが終われば午後の授業をこなし、放課後にはいつものように紗良と肩を並べて自習室のデスクへ向かった。帰りのコンビニのレジで彼女は定番のミルクティーを購入し、僕はいつものブラックコーヒーを選んだ。
帰りの電車に揺られながら、次のマーク模試の日程を確認しようとスマートフォンを取り出し、予定表のアプリを開く。
十一月二十三日。
文化祭。
数日前に入力したばかりのその単語は、模試や小テストといった他の無機質な予定とまったく同じフォントで表示されている。
それなのに、液晶画面のその一点だけが、まるで微熱を帯びているかのように異常な引力で僕の視線を縛り付けて離さなかった。
僕は逃げるように電源ボタンを押し、暗転した画面を深いポケットの底へと沈めた。

