努力の結末に幸福がないと知っていても

「高瀬。卒業後のこと、もう考えてるか?」
 放課後の教室を、傾いた西日が鋭い刃のように斜めから切り裂いていた。窓際の机が白茶けて灼き尽くされる一方で、教卓の周辺にはすでによどんだ影が侵食している。黒田先生の机上には、僕が提出した進路希望調査票と、先月返却されたばかりの模試の成績表が無造作に並べられていた。
 第一志望の欄には県内の国立大学、経済学部。判定はA。現在の僕の成績を鑑みれば、息を切らしてまで挑むような場所ではない。安全圏という名の、極めて妥当な終着点だった。
「一応」
 黒田先生は調査票へ視線を落としたまま、記された大学名をペン先でなぞった。
「ここで確定か?」
「はい」
「今の学力なら、もう一つ上の水準も十分に狙えると思うぞ。例えば都内の国立大なんかでも――」
「今の大学でいいです」
 抑揚を完全に削ぎ落とした声で遮ると、先生は静かに顔を上げた。
「何か、特別にやりたいこととかはないのか?」
「特にないです」
 答えるまでに一秒の逡巡もなかった。迷う理由が存在しない。実家から通える距離にあり、国立ゆえに学費の負担も軽い。卒業後の就職の潰しも効く。何より、今の成績を維持していれば余裕を持って手が届く。条件というブロックを論理的に積み上げていけば、あえてリスクを背負ってまで他の大学へ進路を変更する理由は一つとして見当たらなかった。
「高瀬は、ちゃんとしてるからな」
 黒田先生はそう呟くと、再び手元の調査票へと視線を落とした。
 ちゃんとしている。
 昔から似たような評価は幾度となく下されてきた。悪い意味で使われている場面に遭遇したこともない。たぶん褒め言葉として機能しているのだろうと解釈し、僕もそれに合わせて微かに口角を上げた。

 面談を終えた足で、逃げ込むように自習室へ向かった。夕暮れ時の室内を支配しているのは、規則的なページ送りの音と、芯先が紙を刻む乾いた摩擦音、そして時折誰かが漏らす微弱な咳払いだけだ。窓際の空席に鞄を下ろし、数学の問題集を広げる。ページの上に整然と並ぶ無機質な数字を追っている間だけは、先刻まで議題に上がっていた進路という名の現実を、ひとまず思考の外へと締め出しておくことができた。
 数学はいい。
 好きなのかと問われれば、うまく答えられない。ただ、好悪という感情よりも、その絶対的な秩序に安堵を覚えるのだ。解が合致しないとすれば、途中のどこかに必ず論理の破綻が存在する。符号を取り違えたのか、演算を省略しすぎたのか、定理を曲解したのか。誤りの起点を特定し、そこまで巻き戻して修正を施せばいい。さっきまで狂っていた値も、たちまち唯一の正しい数字へと収束していく。
 二問目の途中式を書き連ねていたとき、不意に、鼻腔の奥を鋭い刺激臭が刺した。
 思わず顔を上げる。視界にあるのは見慣れた参考書の活字と白い蛍光灯、机の端に置かれた見知らぬ誰かのペットボトル。この無菌室のような空間に揮発性の溶剤を扱う人間などいるはずがない。それなのに、その匂いだけは記憶の底から鮮明な輪郭を持って立ち上がってきた。
 テレピン油。
 白いキャンバス地。くすんだ木目の床。壁際に整列した木製イーゼル。西陽に透ける光と、どれほど石鹸で洗っても爪の隙間に残香のようにへばりついていた絵の具の沈着。
『何ミリ?』
『知らないよ』
『分かんないのに直すの?』
 指先が強張り、僕はシャープペンシルを握り直した。改めて深呼吸してみても、あの異臭はすでに霧散している。最初から何事もなかったかのように、紙と埃と蛍光灯の熱が混ざり合った、無味乾燥な空気があるだけだった。
「高瀬」
 今度は、現実の肉声が鼓膜を打った。
 顔を上げると、そこには牧野紗良が佇んでいた。両手には二本のアルミ缶。片方は甘ったるいミルクティー、もう片方は僕の定番である無糖のブラックコーヒーだ。
「はい、配給」
 机の端に無造作にブラックコーヒーが置かれる。いつも僕が選ぶ銘柄だった。
「またこれか」
「文句があるなら没収するけど」
「文句は言ってない」
「なら大人しく飲んで」
 紗良は向かいの席に腰を下ろし、慣れた手つきで自分の問題集を開いた。僕も缶を視界の端へと退け、中断していた数式へとペン先を戻そうと試みる。
「さっきから、ずっと同じ行でフリーズしてたよ」
「してない」
「してたって」
「何分」
「五分くらい」
 壁の時計を見やると、最後に時刻を確かめたときから、確かに五分以上の空白が過ぎ去っていた。
「……じゃあ、止まってたかも」
「でしょ」
 プルタブを引き起こす。静寂を切り裂く小さな金属音が響き、喉に流し込んだ液体はいつも通りに淡白な苦味を残した。それを嚥下して問題に視線を落とすと、斜め向かいの紗良もすでに自分の課題へと意識を沈めていた。
 数行の計算を進めたところで、ノートの隅に、身に覚えのない不揃いな筆跡があることに気がついた。
 二つの矩形を斜めにずらして重ね、それぞれの頂点を機械的に結んだだけの立方体。右上の稜線はだらしなく垂れ下がり、奥行きを示す線の長さも揃っていない。描こうとして描いた記憶は微塵もない。それでも、この不器用な線を引いたのが紛れもない自分自身であることだけは理解できた。
「それ、何描いたの?」
「何でもない」
 反射的に消しゴムを掴み、紙面へ押し当てるようにして乱暴に擦った。黒鉛の線は鈍い灰色へと滲み、さらに力を込めて何度も往復させる。まだ消えない。苛立ちのままに擦り続けると、紙の表面が毛羽立ち、無残に傷ついた。
「そんな躍起になって消す?」
「目障りだから」
「ただの余白じゃん」
「途中で計算スペースに使うかもしれない」
「そこに?」
「使うかもしれないだろ」
「ふうん」
 紗良はそれ以上詮索しようとはしなかった。静かに紙を繰る音が響き、立方体のあった場所には荒れた紙肌の痕跡だけが残された。
 呼吸を整え、数学へ意識を戻す。数行進んだところで、途中式の符号を一つ反転させ忘れているミスを見つけた。今度は消しゴムの角を軽く滑らせる。数字の残骸は綺麗に消え去り、白く戻った紙の上に正しい数式を難なく書き直すことができた。
 そのままペンを走らせる。
 最後に導かれた答えは、解答欄の数字と完全に一致していた。

 夜、赤本を取り出そうと自室のクローゼットを開けた。上段の棚には参考書や使わなくなった教科書が無造作に積層しており、その奥の暗がりに茶色い箱が息を潜めるように鎮座している。
 昔使っていた画材箱だった。
 蓋の端には、青い絵の具の汚れがこびりついている。三年近くも触れていないというのに、その染みだけは最後に見た日のままの鮮度を保っていた。参考書の山から赤本を引き抜こうと手を伸ばした拍子に、指先が箱の蓋に触れる。
 途端に、あの夕暮れの匂いがフラッシュバックした。
 無論、現実にテレピン油の異臭が漂ったわけではない。箱は固く閉ざされているし、三年も放置された画材から、自習室で感じたような揮発臭が漏れ出すはずもない。それでも指を離したあと、すぐには赤本へと意識を戻すことができなかった。
「朔、ご飯」
 一階から母の声が響いた。
「今行く」
 赤本だけを棚から引き抜き、画材箱はその暗がりに置き去りにした。クローゼットの扉を閉ざす直前まで、蓋に付着した青い汚点が細い隙間から僕の目を射抜いていた。
 夕食を終えると、いつもの机へと向かった。赤本を開き、一問目から機械的に解を導き出していく。途中で一度計算のプロセスを誤ったが、遡って修正を施せば答えはきれいに収束した。二問目へ進み、条件式をノートへ写し取っている最中、机の隅に伏せてあったスマートフォンが短く震えた。
 画面に表示された文字列を視界の端で捉える。
 神谷澪。
 ポップアップされたメッセージは、たった一行の短いものだった。
――久しぶり
 液晶の放つ青白い光が、机上の赤本の縁まで冷たく照らし出している。三年近くもの間、その名前から連絡が届くことなど一度たりともなかった。それなのに、何と返信すべきかを思考するよりも先に、過去と寸分違わぬ四文字が画面に浮かんでいる事実のほうが、酷く非現実的なバグのように思えた。
 返信欄を開くことはなかった。
 スマートフォンを再び伏せ、赤本の数式へと意識を強制的に戻す。つい先刻まで順調に解き進めていたはずなのに、条件の文字列を何度なぞっても、次の数式が全く組み上がってこない。どこまで思考を進めていたのかを確認するために途中式を遡り、結局、問題文の冒頭まで押し戻されてしまった。
 僕は静かに息を吐き、もう一度、同じ問題文の最初の一文字から読み直した。

 翌朝を迎えても、澪へ返信の言葉を紡ぐことはなかった。
 一度だけメッセージアプリを開いたが、昨夜届いたあの一行から新たな言葉は足されていない。催促の通知もなければ、具体的な用件の提示もない。ただ、三年近くも視界から遠ざけていた名前のすぐ下に、「久しぶり」という無機質な文字列が残骸のように横たわっているだけだった。
 返信欄には一切触れず、スマートフォンを鞄の底へと押し込んだ。
 登校して教室に入ると、紗良がすでに僕の席の傍らに立っていた。
「遅いよー」
「まだ予鈴すら鳴ってないだろ」
「私はずっと待ってたんだからね」
「待っててくれなんて一言も頼んでない」
「はい、数学」
 紗良が抱えていた問題集が、無造作に僕の机へ投下された。
「今日の小テスト、ここが範囲でしょ。教えて」
「昨日、自分で予習してなかったのか?」
「やったよ。ちゃんとやったけど、途中から意味が分かんなくなったの」
「どこから迷子になったんだよ」
「たぶん、ほぼ全部」
 問題集のページ上で待機させていたシャープペンシルの先が、紙面に黒く小さな点を穿った。
「高瀬?」
「……何でもない」
 数列の単元の最初のページを開き、自分のノートを隣へ並べた。紗良は僕が数式を展開していく過程を身を乗り出して覗き込み、理解が追いついている間だけは妙に威勢のいい相槌を打つ。
「ここまでのプロセスは?」
「分かる」
「じゃあ、この次の展開」
「分かんない」
「白旗を上げるのが早すぎるだろ」
「だって、急に難易度のギアが上がるんだもん」
「急じゃない。順当な応用だ」
「高瀬の異常な基準で語るのはやめてよ」
 論理の道筋を解説しているうちに、朝の教室は少しずつ喧騒の度合いを深めていった。椅子を引きずる鈍い音に、廊下で交わされる高い笑い声が混ざり合う。窓際の席で誰かがカーテンを勢いよく引き開け、冷たく澄んだ空気がどっと流れ込んできた。
 それでも紗良は問題集から視線を外さず、理解の糸が途切れるたびに同じ箇所を指差して食い下がってきた。
「ここ」
「そこはさっき全く同じ説明をしただろ」
「耳で聞いたのと、実際に自分で手を動かすのは次元が違うの」
「じゃあ、もう一回だけな」
「よろしくお願いします、高瀬先生」
「相談料百円な」
「ぼったくりだ」
 予鈴のチャイムが校舎に鳴り響くまで、僕たちはそんな不毛で心地よい応酬を繰り返した。

 小テストの配点は十点満点だった。僕は十点。紗良は九点。
「惜しかった。悔しすぎる」
 昼前の短い休み時間、赤ペンで採点された答案用紙が僕の机の上へ突き出された。最後の一問。思考のプロセスは合っているのに、途中の展開式でプラスとマイナスの符号が反転している。
「ここ。符号の反転ミス」
「それだけ?」
「ああ、ミスはそれだけっぽい」
「じゃあ、実質的には十点満点でよくない?」
「九点はどこまでいっても九点だろ」
「そういう減点方式なところ、ほんと厳しいよね。高瀬は」
「俺がこれを採点したわけじゃないんだから」
「気分の問題だよ」
「採点基準に個人的な気分を介入させたら、テストの根本が崩壊するだろ」
「出た、隙のない正論」
 紗良は制服のポケットをごそごそと探り、一口サイズの小さなチョコレートを取り出すと、答案用紙の傍らへコトリと置いた。
「はい。朝の特別講習の授業料」
「これ一個で釣り合うと思ってるのか?」
「文句があるなら没収するけど」
「昨日も全く同じ脅し文句を聞いた気がするな」
「汎用性が高くて便利だからね、その言葉」
 僕は小さく息を吐き、そのチョコレートを筆箱の横へと静かに並べた。
 昼休みのチャイムが鳴り終わるか終わらないかのうちに、紗良はごく自然な流儀で前の席をこちらへ向けた。机を挟んで弁当の包みを解くこの構図がいつから定着したのか、記憶の糸をたぐっても明確な起点は見当たらない。空席だったから座ったのが先か、英語の解答をせがまれたのが発端か。気がつけば、このささやかな昼食は僕たちの日常として定着していた。
「高瀬ってさ、進学先はやっぱり県内の国立から変えないつもり?」
 紗良は卵焼きの黄色を箸で器用に割りながら、ふと思い出したような口調で尋ねてきた。
「そのつもりだけど。今のところは、わざわざ志望を下げる理由も上げる理由もないからな」
「へえ。てっきり地元への愛着が強いのかと思ってた」
「そんな大層なんないよ」
「ほんと、徹底して現実的だねえ。夢がないというか、無駄がないというか」
「牧野は?」
「私はとにかくキャンパスが近いところがいいな。朝早く起きるのなんて絶対無理だし、満員電車に揺られて一時間も消耗するなんて想像しただけでも気が滅入る」
「それが、四年間も通う大学を決める一番の基準になるの?」
「なるよ。四年間も毎朝続く苦行を回避できるなら、それはもう一番重い枷になるでしょ」
 紗良は箸の先を、真っ直ぐ僕へと向けた。
「高瀬みたいに毎朝、機械の歯車みたいに狂いなく起きられる人間には、私のこの切実な悩みは一生分かんないと思うよ」
「俺だって朝は眠いけど」
「眠いって口では言いながら、でも絶対に遅刻はしないじゃん」
「それが普通なんだよ」
「出た、そういうところ」
「何が」
 紗良はすぐには答えず、僕の顔をじっと観察した。まるで方程式の解を確かめるような探る目つきのあと、卵焼きの残りを口へ放り込む。
「高瀬ってさ、環境が変わっても高瀬のまま大学生になりそうだね」
「意味が分からない」
「ちゃんと一限の授業に出て、きっちり単位を取って、就活の時期になったら誰よりも早く堅実に動き始める。きっと就活が始まる前から、狂いのない予定表を作って、その通りに動くんでしょ」
「それが悪いことみたいに言うなよ」
「悪いなんて一言も言ってないってば」
 紗良はころころと楽しげに笑う。
「なんか、先の人生が全部、今の延長線上にすっぽり綺麗に収まりそうだなと思って。それが高瀬らしいなって感心してたの」
「だから、それが普通じゃないの?」
「その普通を、一度も脱線せずに走り続けられる人って、実はすごく希少なんだよ。高瀬は自分の異常さに気づいていないだけ」
 どんな言葉を返すか思考を回しているところへ、弁当箱を抱えた三浦が横から首を突っ込んできた。凪いだ水面に投げ込まれた、無作法な石ころのように。
「お前ら、また二人向かい合って進路の話してんの? ほんと、飽きもせず毎日一緒にいるよな」
「別に、約束して一緒にいるわけじゃ――」
「たまたま席が空いてただけだから」
 僕の生真面目な弁明を遮るように、紗良がぴしゃりと言い放った。三浦が露骨にニヤニヤと笑みを深める。
「はいはい。毎日毎日、都合よくたまたま向かい合っちゃうわけね。運命ってやつか」
「うるさい。向こう行け」
 紗良が箸を投げつけるフリをして威嚇すると、三浦は弁当を抱え込んだまま自分の席へと逃げ帰っていった。
「あいつ、ほんと子どもかよ」
「そう言いながら、高瀬も面白がって笑ってるじゃん」
「笑ってない」
「いや、今のは絶対に笑ってたね」
 これ以上の否定のループは面倒になり、僕は残っていたご飯を無言で口へ運ぶ。向かいの紗良も、何事もなかったかのように自分の弁当へと意識を戻していた。
 たぶん明日も、寸分違わず似たような昼休みが繰り返される。
 その平坦な事実を、特別だと思ったことは一度もなかった。

 放課後、昇降口へ向かうと、紗良がちょうどローファーへ履き替えているところだった。
「高瀬、今日も自習室へ籠もるの?」
「行くけど。今日は行かない理由もないし」
「じゃあ、私も便乗して行こうかな。一人だとサボりそうだし」
「今日は数学?」
「英語ですぅー。さすがの私も、数学しかやってない脳筋だとは思わないでほしいな」
「昨日は数学やってたからな」
「その一言が絶妙に失礼なのよね、ほんと高瀬って」
 校門を抜けると、午後から湧き出した雲が、夕空の彩度を奪い去っていた。駅へと向かう生徒の群れに紛れながら、紗良は明日の英語の小テストが面倒だとか、三浦が昼休みに購買のパンを二つも平らげていたとか、とりとめのない饒舌を止めない。
 自習室へ辿り着くころには、その内容の半分はすでに頭から揮発していた。
 中に入ると、僕たちは示し合わせたように離れた席を選んだ。以前、一度だけ隣同士に座ったことがあるが、質問と雑談の応酬で完全に時間を浪費した。それ以来、どちらから提案したわけでもなく、互いの間に適切な物理的距離を設けるルールになっている。
 三十分ほど経過したころ、机の上を小さく折り畳まれた紙片が滑ってきた。
――ここ分からない
 英文法の問題番号だけが走り書きされている。
 解答だけを教えればまた理屈を聞かれると思い、余白に簡単な解説を書き足して弾き返す。
 数分後。
――説明長い
 紙が戻ってきた。
 僕はそのすぐ下に一言だけ、
――じゃあ自分でやれ
 と書いて打ち返した。
 斜め前で紗良がこちらを振り返り、声を出さずに口だけ動かす。
 けち。
 聞こえなかったふりをして、僕は問題集へと意識を戻した。

 休憩時間になり、息抜きのために自習室の外のスペースへ出た。
 自動販売機で買ったミルクティーのボトルを両手で握りしめながら、紗良がふと記憶の引き出しを開けた。
「そういえば、昨日高瀬が描いてたやつ、気になってたんだけど」
「昨日?」
「ノートの端っこに描いてた、あの立方体みたいなやつ」
 指摘されて、昨日の紙面の記憶が鮮明に戻ってきた。もう黒鉛の線はない。紙が毛羽立つほど擦り消した、その跡だけが残っている。
「ああ……あれはただの落書きだよ。意味なんてない」
「高瀬って絵とか描くんだね。ずっと数字ばっかり追ってる人間だと思ってたから、なんか意外だった」
「だから、描くってほど立派なものじゃない。考え事をしてたら、たまたま手が勝手に動いただけだよ」
「ふうん」
 紗良はペットボトルの結露を指先で拭いながら、少しだけ首を傾げた。
「でも、無目的な落書きをするなんて高瀬らしくないなって」
 無目的。その言葉が、鋭いガラス片のように胸の奥に引っかかった。
「落書きなんだから無目的で当然だろ。もう全部消したし」
「知ってる。紙が破れるんじゃないかってくらい、ものすごい勢いで消しゴムかけてたし」
 僕がそれ以上の弁明を諦めて沈黙を選ぶと、紗良も空気を察したのか、踏み込んでくることはなかった。遠くで休憩の終わりを告げる無機質なチャイムが鳴り、またそれぞれの席へと戻っていく。
 たったそれだけの、他愛のない会話の延長だった。
 けれど、数学の問題集を開いてからも、先ほどの紗良の言葉だけが思考の端にへばりついて離れなかった。
 ――無目的な落書きをするなんて、高瀬らしくない。
 たぶん当然だった。
 紗良は、僕が絵を描いていたことを知らない。

 家へ帰り、自室のベッドに倒れ込んだところで、スマートフォンの画面が明るくなった。紗良からのメッセージだった。
――今日ありがと。
――何が。ほぼ自分で解いてただろ。
――精神的支援をしていただきました。
――してない。
――してました。
 液晶画面を見つめながら、自然と口元が緩む。くだらないラリーを返すためにメッセージ一覧へ戻ったとき、無意識に視線が下へ引き寄せられた。
 紗良のアイコンのすぐ下。神谷澪という名前が、まるで消し忘れた染みのように居座っている。昼休みに一度だけ開いたトーク画面には、三年近く続いた空白のあとに、たった一言だけが浮かんでいた。
――久しぶり。
 届いているのは、本当にそれだけだ。返信欄をタップする勇気も、その一言をなかったことにして画面を閉じる踏ん切りもつかないまま、僕はただ薄暗い部屋でその四文字を睨みつけていた。
 不意に、画面上部から紗良の新しいポップアップが降りてくる。
――そういえば明日の小テスト範囲どこだっけ?
 そちらの通知は、何の躊躇いもなく開くことができた。
――142ページから148ページ。
――ありがとう高瀬先生。
――感謝するなら百円でもくれ。
――ミルクティーで払ったでしょ。
――あれ一本で一日有効なわけないだろ。
――当然でしょ、サブスクだよ。
――じゃあ追加料金請求するわ。
 数秒後、怒って抗議する犬のスタンプが送られてきた。僕は息を吐き、適当なスタンプを返して画面を閉じる。
 何も考えずに済む、この平坦で心地よいやり取り。
 そのすぐ下には、まだ神谷澪の名前が残っている。
 僕は数学の問題集を開いた。
 一問目。
 二問目。
 三問目。
 今日は答えが止まらなかった。
 神谷澪には、まだどうしても返事を返すことができなかった。
 澪へようやく返信の文字を打ち込んだのは、あの一言が届いてからきっちり三日後のことだった。
 帰りの電車で紗良と別れ、一人になった車内でのことだ。空席の目立つ車両に揺られながら、窓側の席に腰を下ろしてスマートフォンを取り出す。
 メッセージ一覧を開く。神谷澪。
 三日前に届いた「久しぶり」という無機質な文字列が、変わらずそこに残されている。この三日間、画面を開くたびに幾度となく目には入っていた。返そうと思えば、いつだって一瞬で返せたはずの言葉だ。
 返信欄をタップし、フリック入力で何文字か打っては、バックスペースで消す。
 結局、数分の葛藤の末に送信したのは、送られてきたものと寸分違わぬ無難な同音反復だった。
――久しぶり。
 送信ボタンを押す。数秒も経たないうちに、既読のマークがついた。
――元気?
 予想していたよりもずっと早いレスポンスだった。昔の澪なら、こういう返事はもう少し遅かったような気がしていた。けれど、それすら確かな記憶ではない。
――普通。そっちは?
――まあまあ元気。
――高校はどう?
――特に変わらない。普通だよ。
 画面の向こう側の温度を探るような、探り合いのラリー。そこでふと、不自然な間が空いた。既読はついているのに、次の文字が送られてこない。
 数十秒の空白のあと、短いメッセージが届いた。
――朔っぽい。
 その四文字を見た瞬間、僕の指先は画面の上で完全に硬直した。
 何が僕らしいのか。そう問い返そうとして、すんでのところで踏みとどまった。もしこれが紗良や三浦との会話であったなら、僕は迷うことなく「どういう意味だよ」と突っ込んでいたはずだ。しかし、澪に対してだけは、安易に言葉を返すことがひどく危険な行為に思えた。
 そんなふうに、無意識のうちに相手との距離を測ろうとする自分自身の臆病さが、たまらなく嫌だった。
 スマートフォンを裏返して膝に置くと、窓の向こうを流れていた単調な住宅街の景色が途切れ、代わりに、紫の絵の具を溶かしたような暮れなずむ空が広がっていた。
 翌日の昼休み、紗良は僕の前の席に座るなり、不躾なほど近くから顔を覗き込んできた。
「高瀬、今日ちょっと心ここにあらずって感じじゃない?」
「そんなことないけど」
「絶対してる。さっきからずっと、教科書の同じページ開いたままぼーっとしてたよ」
 指摘されて視線を落とす。確かに、開いたページはここしばらくまったく進んでいなかった。
「ちょっと寝不足なだけだよ」
「昨日、夜更かしでもしたの?」
「してない」
「じゃあなんでそんなに眠そうなのさ」
「人間なんだから、理由もなく眠い日くらいあるだろ」
「便利だね、それ」
 紗良は呆れたように笑い、自分の弁当の蓋を開けた。卵焼きを口に運びながら、ふと何かを閃いたように顔を上げる。
「そうだ。今週の日曜って暇?」
「今週?」
「そう。駅前に新しく大きな雑貨屋がオープンしたらしいんだよね。結構フロアも広いらしくて」
「雑貨屋?」
「おしゃれなカフェも併設されてるんだって。気分転換に行ってみたくない?」
 思考を巡らせる。予定表の週末の欄は空白だ。断るための合理的な理由も、特に思い当たらない。
「いいよ」
「早っ。もうちょっと悩むかと思ったのに」
「予定が何もないからな」
「そういうところ、本当に高瀬っぽいよね」
 その言葉を聞いた瞬間、反射的に昨日のスマートフォンの画面が脳裏に戻った。
 ――朔っぽい。
 僕は持っていた箸を止めた。
「……それ、どういう意味?」
「え、何が?」
「『高瀬っぽい』って」
 紗良はキョトンと瞬きをした。
「急にどうしたの、怖い顔して」
「いや、牧野がどういう基準で俺のことを『高瀬っぽい』って評価してるのかなと思って」
「なんだか面倒くさい質問するね」
「いいから教えてよ」
 紗良は少し考え込む素振りを見せると、指を一つずつ折り曲げながら説明を始めた。
「まず、自分の予定とかタスクをちゃんと把握してるところ。忘れ物もしないし、待ち合わせの時間にも絶対に遅れないでしょ」
「それは社会生活を送る上での最低限の普通じゃないの?」
「だから、高瀬はその『普通』を寸分の狂いもなく実行するんだよ。そこがすごいところなの」
「それ、褒めてる?」
「たぶんね」
「たぶんなんだ」
「あと、感情に任せて急に全部投げ出して学校辞めるとか、そういう突拍子もないこと絶対にしなさそう」
 唐突な極論に、思わず紗良の顔を見つめ返した。
「なんで急に学校辞めるなんて極端な話になるんだよ」
「例えばの話だってば。なんていうか……昨日まで積み上げてきたものと全然違うことを、ある日突然、衝動的に始めたりしなさそうっていうか。常に計算通りに動きそう」
「それが、牧野の思う『高瀬っぽい』なの?」
「私の中ではね」
 紗良はそう結論づけると、何事もなかったかのように食事を再開した。
 僕も静かに箸を持ち直す。
 予定を忘れない。時間を守る。衝動的な真似はせず、積み上げたものから簡単には外れない。
 それが、紗良の知っている「高瀬」という人間の輪郭だ。
 一方で昨日、澪は僕の薄っぺらい返信を見て「朔っぽい」と言った。
 同じ自分に向けられた似たような言葉なのに、その二つが指しているものは、どこか違う場所にあるように思えた。
 けれど、澪の言う「朔らしさ」の正体が何なのか、今の僕にはまだ分からなかった。