今度会ったらキスしよう

 教室はいつも通り、チョークと、少しの汗のにおいと、清潔感の端切れを集めたみたいな、押しつけがましい石けんのにおいがする。
 窓の外では蝉の絶叫がこだましていて、扇風機が運んでくる微弱な冷房で冷えた天井付近の風が気持ち悪い、そんな八月だった。

「たまにね、私が総理大臣だったらって……いや、大統領かも。そう、とにかく顎をちょっと動かしたら人ひとり消しちゃえるような立場だったらって考えて、めっちゃ怖くなるんだよね」
 すっかり汗をかききったパックのカフェオレをズゴって音がするまで吸って、私は更に続ける。教室の一番後ろ、左隣の、窓際の席に向かって。
「だってさ、もし私がそんな立場だったら、死ぬほど人口減らす自信あるよ。とりあえずそうだな、一日一本電車に乗って、不快に思ったやつを全員消していく。そうやって毎日誰かが見せしめになればさ、きっと、正しいはずなのにクソみたいな思いする人、減るじゃんね。そういうのがさ、結局のところ、超近道でみんなが幸せになると思うんだ。私みたいなでたらめなやつ、多分任期も全うせずに暗殺されるのがオチだろうし。じゃあそれなら、どうせならって。手の届くとこだけでも美化しときますかって、それくらいのことしちゃうかも」
「ああ、確かにそういう短絡的なことやりそうだね、いさちゃんは。典型的な、人の上に立たせちゃいけないタイプだ」
 私の力説を涼しげな顔で受け流して、笹名木許斐は言った。
「短絡的……まあ、確かにそうなんだろうけど」
「納得いってないって顔だ。いさちゃんさ、すぐ顔に出すのよくないぞ」
「出してない」
「つもり、なんだよね。わかるわかる」
 なんだコイツ。
 いつでも『平常運転』みたいな顔をして、全部お見通しみたいな口調でしか喋らない、頭の先からスカートの裏地までちっとも食えないこの女、笹名木許斐は私の唯一の友人だ。
 いや正しくは、友人『だった』。
「あんたってさ、死んでもそんな感じなんだね」
 私の眼前にある、一番後ろの窓際の机の上には、透明な花瓶に生けられた白い花が置かれている。この教室という空間において、それは故人への手向けの意味を持つ。
 そう、笹名木許斐は先々週の水曜、電車に轢かれて死んだ。しかも始発から二番目の。心底、早起きが苦手なくせに。
「自分で呼び出しといて、ひどいなあ。いさちゃん、こういう私がほしかったくせに」
 だからこれは、私の妄想だ。
 潔という名前の上二文字だけを取った愛称で私を呼ぶ『これ』は、私の妄想。
「第一、いさちゃん電車乗れないじゃん。頭の中が読めない他人と密室に閉じ込められるとパニックになるからって。だからあんまり仲良くもないお母さんに運転してもらって、申し訳なさを誤魔化すみたいに一応助手席には乗って、でもひとことも喋る内容なんて思いつかなくて病んでるじゃん」
 本物の許斐はここまでずけずけと言ってこない。あくまでこの許斐は私の妄想で、彼女に対して投げる言葉も実際に口に出しているわけでもない。教室にいる他の人間からしたら、私はちょっと前に死んだクラスメートの机を眺めている、なんでもないやつ。未練がましいだけのやつ。
「うるさいなあ……黙ってよ」
 別に強く望んだわけじゃない。
 許斐が死んだって聞いたとき、私は「はあ、そうですか」と思った。多分、今も心のどっかではそう思ってて、「くだらない死に方だね」と揶揄してやりたい自分もいる。
「嫌。少なくとも私が自分から黙る理由はないもん。別に大して傷ついてもないくせに。それにいさちゃん、何も大統領じゃなくても、私一人のことくらい、黙らせようと思ったらいくらでも黙らせられると思うけど」
「そうだね~」
「はあ? その返しウザすぎ! ビビったわ、さすがに」
 こういうとき、本当に許斐は『驚いた!』って顔をする。あんまり表情を変えない彼女は、いざというとき全然感情を隠せない。顔に出るのはお前もだろ。
「でもさ、どうすんの。ずっと私とお喋りしとくわけにもいかないでしょ」
 私のウザさに驚いていたはずの許斐は、一転して私の今後を案じ始める。彼女にとって言葉にした感情は空気に触れて溶けていく類いのもので、口にした不満が尾を引くことは滅多にない。こういうところは本家そっくりだ。
「知らんよ、勝手に出てきたんだもん」
「勝手って……ご無体な」
「でも本当なの。あんたが死んでちょっとしたら、視界の端っこにあんたがいた。……ややこしいな。もしかしてあんたさ、ずっと前から私の中に住んでた?」
 私のわけのわからない質問に、許斐はお手本通りわけがわからんって顔をして、呆れたように窓の外へと視線を逃がした。
「……それこそ、知らんよ。なんでいさちゃんが私の皮を被っただけの『私』に話しかけてきて、そんで自分のこと散々に否定させて、気持ちよくなってんのかなんて、知らんし、普通に気持ち悪いと思うよ。……って、こうやって言わせてんのもいさちゃんだしさ。何がしたいんですかねって感じは、あります」
 妙に胸がちくりとすることを言い当ててくるくせに、妙に言葉の末尾が曖昧で、どこか丸みを帯びていて、私のこと、芯から傷つけるつもりなんてないんだろうなって喋り方。
 私の中に残留している、笹名木許斐のパッチワーク。私が求めている、彼女の五体の一部分。
 ああマジで、こういう言い方本当に好きじゃないんだけどさ、逃げてるって言われるんだろうけどさ、私って人間向いてないな、本当。他人とまともに向き合えた記憶なんてろくにないよ。一番それに近かったあんたでさえ、なんかなあって、どうしたらいいんかなあって思ってるうちに消えちゃった。ちゃったって言い方、被害者ヅラって感じか。
 なんとなくわかってる。私は被害者じゃなくて、でも加害者でもなくて。だから、多分あんたを呼んじゃったんだと思うんだ。私はほら、欠陥人間だから。罪悪感も後悔もなんとなくだから。責任の所在がわかんないとずっと不安になっちゃうから。許斐の姿をしたあんたに裁いてほしくて、私の全部、責めてほしくて。
「そうだね。勝手なのは、私」
 私と許斐を離れ離れにしたのは、死なんて絶対的なものじゃない。もっと自分勝手で、愚かな、私の過ちによって、私は今、許斐の偽物と話をしている。

 許斐が死ぬ一ヶ月前から、私たちはもう友だちでもなんでもなかった。