伊月と呼ばれたその人は、後ろ手に戸を閉めながら店内を見渡した。視線が千尋の上を一瞬だけ通り過ぎる。
あおいがすぐに近づいて、千尋とは別のテーブル席に案内した。
「伊月さん、今日はどうする。お酒? それとも晩ご飯かな」
「夕飯をとっていないので、まずはそちらを」
「じゃ、盛り合わせと小鉢だな」
板場から声を発した虎徹が、てきぱきと用意を始める。
それはごく自然な流れだった。あおいがすぐ名前を呼んだことといい、伊月は馴染みの常連客らしい。
伊月の纏う牛首紬の深い茶色が、和紙のランプの下でまた違う顔を見せる。昼間は生地の節がくっきりと粒立って見えた。今は光が柔らかい分、粒の輪郭がほどけて、深い茶の中に溶け込んでいる。
また着物に見入ってしまったせいか、千尋は知らないうちに卓へ身を乗り出していた。視線に気付いた伊月がこちらを見て、「何か」とでも言いたげに首を傾げる。
「す、すみません、じろじろ見てしまって」
千尋は慌てて頭を下げた。
だが、それだけでは止まらなかった。
「あの、昼間、駅でもお見かけしたんです。鼓門の前に立っていらっしゃいましたよね。そのときも思ったんですけど、そのお着物、牛首紬ですよね! 昼間に外の光で見たときと、今この照明の下で見たときと、正直、別の生地みたいで……。とにかく、素敵です!!」
目の前の牛首紬がどれだけ素晴らしいか、伝えずにはいられなかった。
言い終わってからテーブルの下で拳を握りしめていると、フロアにいたあおいが千尋に加勢する。
「伊月さん、いつもいいもの着てるもんね。さすが、着物屋の店長さん!」
「え、着物屋さん?」
千尋は口を開けたまま固まった。
言うなれば今、千尋は初対面の相手の服装を、頼まれてもいないのに解説していた。その相手は、着物を売って生計を立てている人だったとは……。
「す、すみません、私、知ったようなことを」
顔から火が出そうだった。釈迦に説法とはこのことである。
伊月は表情を変えないまま懐へ手を入れると、細い紙入れから一枚抜き取った。それから席を立ち、千尋の卓の脇まで来て差し出す。
「気にしないでください。着物を売っているので、そういうことを言っていただけるとむしろ光栄です。僕は忍足伊月といいます」
受け取った名刺には「きもの処 柊屋 店長 忍足伊月」とあった。千尋も慌てて、自分の名前を伝える。
あおいが割って入るように言った。
「柊屋さんは、ここから歩いてすぐのところにあるんですよ。板場の入り口にある花嫁暖簾を見立ててくれたのって、実は柊屋さんの先代の店長さんなんです。わたしの母が実家の近くの呉服屋さんに相談したら、それなら金沢の柊屋さんへ行きなさいって言われてね。もう二十年近く前の話。柄も紋の入れ方も全部、先代の店長さんが決めてくれたんですよ」
千尋は板場の脇の可憐な暖簾を見た。
紺の地に、白と薄紅の梅。伝統的な友禅染めの中に、可憐さとお祝いの気持ちが込められている気がする。
「先代は僕の伯母です。四年前に身体を悪くして、店を畳むと言い出しまして。それで僕が継ぎました」
伊月は自分の席へ戻り、湯呑みを引き寄せた。
千尋も名刺を名刺入れへしまい、伊月につられるようにして加賀棒茶へ手を伸ばす。
かちり、と音が鳴った。
ブレスレットの金具が、湯呑みの縁に当たっている。持ち上げるたびに当たりそうで気になった。千尋は素早く留め具を外し、バッグの内ポケットへ落とし込む。
あおいが板場から、盛り合わせと小鉢の載ったお盆を運んできた。
「おまちどうさま。まずはいつもの、おでんの盛り合わせ。小鉢の中身は、加賀湯葉と青菜のおひたしにしました!」
それらを伊月の前に並べてから、千尋の方をくるりと振り返る。
「三枝さん。さっきから話を聞いてると、本当に着物好きなんですね。もう、大好き〜っていうのが溢れてた」
「そ、そうですか?」
うっかり熱く語りすぎてしまったようだ。
「そんなに好きなら、いっそのこと着物にかかわるお仕事すればいいのに。……あ、もしかしてもう、そういうところで働いていたりするんですか?」
「いえ、着物とは関係ないところに勤めています。無理ですよ。……今から全然違う業界なんて」
千尋は反射的に頭を振っていた。給与、規模、福利厚生。いろいろな言葉が頭の中をぐるぐる回る。その反面、祖母の顔や、一番好きな半幅帯、袖を通してみたい着物たちも次々と浮かんでくる。
そんな千尋を見て、伊月が静かに箸を置いた。
「もし転職に踏み出せないとしたら、多少ですがその気持ちは分かります。僕も以前の仕事を辞めるとき、かなり迷いましたから」
「え……」
「着物屋を伯母から引き継ぐ前は、東京で金融の仕事をしていたんです。九年。継ぐか継がないかを決めるのに半年かかりました。着物の商売が右肩上がりでないことくらい、数字を扱う仕事をしていれば嫌でも分かります。伯母には、無理に継がなくていいと何度も言われました」
千尋は言葉が出なかった。
目の前の人は、千尋の祖母のように、着物と共に生きてきたのだとばかり思っていた。着物に着られていない立ち姿やそこから滲み出る和の気品は、もとからそこにあったものなのだと……。
「それでも、やらないままにしておくほうが嫌だったので」
伊月はそう言って、大根に箸を入れた。
「あれ、珍しい。伊月さんが自分から自分のことを喋るなんて滅多にないよ。ねぇ虎徹くん」
あおいが驚いた顔つきをしつつ、板場のほうを見る。
「着物を褒める奴に弱いんだ、こいつは。普段は客商売が務まるのが不思議なくらい、澄ました面してるくせに」
鍋の向こうから飛んできた声を聞き流して、伊月は二つに割れた大根を静かに口へ運んでいた。
やがてあおいが板場から硝子の器を意気揚々と運んできて、千尋の前へ置く。
「三枝さん、おまちどうさま! らくまつのおすすめ、車麩のフレンチトーストです」
こんがりと焼き色のついた輪が、四角いプレートの皿の真ん中に乗っていた。両面にバターで焼いた跡がまだらに残り、シュガーパウダーがほんのり。傍らにはバニラアイスがひとすくい添えられ、全体にキラキラ輝く茶色いシロップがかかっている。
「加賀棒茶のシロップは手作りなんですよ。虎徹くん、そこだけは絶対に市販のを使わないんだから」
あおいが器の縁を指して言った。板場では、当の本人がフライパンを湯に沈めている。
千尋はフォークを取って、輪の端に刃を当てた。
一瞬だけさくっとした手応えがあって、あとはフォークがするすると下に降りていく。
現れた断面がふるりと揺れた。
さくり、ふるっ。これは美味しいやつだ! 食べる前から心が弾む。
いざ口に入れると、まずバターの風味が舌の上にふわりと広がった。
さくり、ふるっ。噛むとフォークを入れたときと同じ感触がして、卵の濃厚なコクが心を満たしていく。
間を置かずアイスをすくった。
ほんのり温かかった車麩フレンチトーストと、冷たくて甘いアイスが絡み合い、頬が落ちそうだ。
噛み締めていたら、最後に加賀棒茶のシロップのどこか爽やかな香味が、極上の後味を醸し出す。
(美味しくて、夢みたい……!)
夢でないことは分かる。だって美味しいから。
千尋はゆっくりとフォークを進めた。輪の形が半分になり、四分の一になり、皿の上には溶けたアイスの跡だけが残っている。
皿の上にあった幸せなものが、千尋の中に全部移った。
お腹も、心も温かい。じわじわ引いていく後味の余韻と満足感に、じっくりと浸る。
と、何やら視線を感じて、千尋はゆっくりとあたりを見回した。伊月が、こちらを見つめている。
「すみません、不躾でした」
何か聞く前に謝られた。
改めて、伊月の容姿が整っているなぁと思った。纏っている牛首紬の素晴らしさに負けていない。
「随分美味しそうに食べていたので。そのデザート」
伊月は空っぽの皿に目を留めている。
きっと、千尋はよほどうっとりしていたのだろう。だが仕方ない。だって本当に美味しかったのだ。
「とっても美味しかったです。もう、他のフレンチトーストが食べられなくなりそう」
思っていることをそのまま伝えた。
伊月は微かに、閉じていた蕾がふわりと開くみたいに口角を上げた。フロアにいたあおいはもう、向日葵みたいな顔で笑う。
「よかったー。お口に合ったみたいで」
「ごちそうさまでした。……あの、また金沢に来ることがあったら、寄らせてもらってもいいですか。次のときも、おすすめを頼みたくて」
「もちろん! あのね、十一月に入ったらカニ面が出るんですよ。香箱蟹──ズワイガニのメスなんだけど、甲羅に身をぎゅうぎゅうに詰めて、出汁で炊くんです。金沢おでんの一番の贅沢。でも蟹が獲れる時期が短いから、出せるのは年内までなんです。だから、その頃にまた来てくれたら嬉しいな」
「カニ面……」
一番の贅沢。もう十分幸せなのに、まだ上があるなんて……千尋がまだ見ぬおでんだねの美味しさを想像していると、板場から低い声がした。
「新しいデザートも考えておくからな」
目を向けると、虎徹はもう鍋の中の何かを箸の先で寄せていた。あおいがおかしそうに肩を竦める。
釣り銭を財布へ落としながら、千尋は伊月のほうを見た。箸を置いた伊月が、軽く頭を下げる。
「金沢に来るんでしたら、柊屋にもぜひ」
千尋はすぐに頷いた。
「はい! 行きます!」
4
千尋はキャリーケースの取っ手を握って、ガラスの引き戸を開けた。秋の夜の、心地いい風が頬を撫でる。
「おやすみなさーい」
背中に、あおいの声がかかった。
「また、来ます!」
千尋は振り返って頭を下げ、戸を閉めた。おでんの温かさと、あおいの笑顔を胸に感じたまま歩き出す。
しまいこんでいたスマートフォンでホテルまでのマップを見ようと思い、バッグの内ポケットへ手を入れた。
すると、細いチェーンが指先に触れた。
千尋は足を止め、自分の手首を見た。何も付いていない。
そうだ、湯呑みに当たるのが気になってブレスレットは外しておいたのだ。伊月から名刺をもらった、あのときに。
購入して以来、睡眠と入浴のとき以外はつけっぱなしだった。
ただなんとなく……いや、そうではない。広夢に褒められたくて、大金をはたいて得たブレスレット。これを外してしまったら、広夢との四年間を否定するような気がしたのだ。
なのに、さっきはすんなり外した。外したことすら、忘れていた。
らくまつに入ったときは、誰とも喋りたくなかった。
源助大根の熱さに驚いてから車麩を齧って、花嫁暖簾を見つけて。伊月が来てからは着物のことを話した。フレンチトーストにうっとりした。
『大好き〜っていうのが溢れてた』
あおいが言った通りだ。
黒い花のモチーフより、白い花のモチーフ。巻き髪より、ストレートヘア。ヒールの細いパンプスより、もっと楽な靴。
流行りのカフェより、歌舞伎。
ワンピースより、着物。
美味しいものを食べて幸せになったら、心の奥に押し込んでいたものがどんどん飛び出してくる。
だいぶ長いこと開けていない桐の箪笥を思い出したとき、バッグの中のスマートフォンが光った。
画面を開くと、通知が積み上がっていた。そのほとんどが、同期の女子社員たち専用の会話グループに届いたメッセージで占められている。
一番上に表示されていたのは、本人の顔をハートマークで半分隠した真弥子のアイコンだった。
『ねぇねぇ聞いた? 佐島くんの話』
『聞いた。人事の子が言ってたけど、どっかの誰かと結婚するらしいよ。男子社員の育休についても聞いてたみたい』
『できちゃった婚ってこと? 千尋とは円満に別れたって言い張ってたけど嘘に決まってるじゃん』
『あ〜その話、佐島の部署の係長やら課長やらにも伝わってたよ。二人ともかなりピキッてた。千尋と婚約寸前だったの知ってるから』
『うわ……佐島ってば今後どんな顔して会社くるんだろウケる』
『あの人の居場所なんてないんじゃないの?』
こんなやり取りがしばらく続いていた。やはり、真弥子の口に戸は立てられなかったようだ。
それらを眺めてから、千尋はそっとスマートフォンをしまった。
明日は九時から、加州テキスタイルでプレゼンの結果を聞く。それが終われば、東京へ戻る。
部屋に帰ったら、桐の箪笥を開けてみよう。一番好きな半幅帯、祖母からもらった着物。四年ぶりに広げてみたい。
十一月になったら、らくまつでカニ面が出る。新しいデザートも、あるかもしれない。
そのときは出張ではなく、プライベートで来ようと思った。
今度は、カウンター席がいい。そうだ、着物で行くのはどうだろう。もちろん、柊屋にもお邪魔しよう!
駅の明かりが近付いてきた。ガラスの屋根が夜空の下で白く光り、その手前に鼓門が立っている。
ライトアップされた鼓門には、昼間とは別の美しさがあった。
あ、これも好き。
新たな『好き』を胸に抱きながら、千尋は少し、歩くスピードを上げていた。
了
あおいがすぐに近づいて、千尋とは別のテーブル席に案内した。
「伊月さん、今日はどうする。お酒? それとも晩ご飯かな」
「夕飯をとっていないので、まずはそちらを」
「じゃ、盛り合わせと小鉢だな」
板場から声を発した虎徹が、てきぱきと用意を始める。
それはごく自然な流れだった。あおいがすぐ名前を呼んだことといい、伊月は馴染みの常連客らしい。
伊月の纏う牛首紬の深い茶色が、和紙のランプの下でまた違う顔を見せる。昼間は生地の節がくっきりと粒立って見えた。今は光が柔らかい分、粒の輪郭がほどけて、深い茶の中に溶け込んでいる。
また着物に見入ってしまったせいか、千尋は知らないうちに卓へ身を乗り出していた。視線に気付いた伊月がこちらを見て、「何か」とでも言いたげに首を傾げる。
「す、すみません、じろじろ見てしまって」
千尋は慌てて頭を下げた。
だが、それだけでは止まらなかった。
「あの、昼間、駅でもお見かけしたんです。鼓門の前に立っていらっしゃいましたよね。そのときも思ったんですけど、そのお着物、牛首紬ですよね! 昼間に外の光で見たときと、今この照明の下で見たときと、正直、別の生地みたいで……。とにかく、素敵です!!」
目の前の牛首紬がどれだけ素晴らしいか、伝えずにはいられなかった。
言い終わってからテーブルの下で拳を握りしめていると、フロアにいたあおいが千尋に加勢する。
「伊月さん、いつもいいもの着てるもんね。さすが、着物屋の店長さん!」
「え、着物屋さん?」
千尋は口を開けたまま固まった。
言うなれば今、千尋は初対面の相手の服装を、頼まれてもいないのに解説していた。その相手は、着物を売って生計を立てている人だったとは……。
「す、すみません、私、知ったようなことを」
顔から火が出そうだった。釈迦に説法とはこのことである。
伊月は表情を変えないまま懐へ手を入れると、細い紙入れから一枚抜き取った。それから席を立ち、千尋の卓の脇まで来て差し出す。
「気にしないでください。着物を売っているので、そういうことを言っていただけるとむしろ光栄です。僕は忍足伊月といいます」
受け取った名刺には「きもの処 柊屋 店長 忍足伊月」とあった。千尋も慌てて、自分の名前を伝える。
あおいが割って入るように言った。
「柊屋さんは、ここから歩いてすぐのところにあるんですよ。板場の入り口にある花嫁暖簾を見立ててくれたのって、実は柊屋さんの先代の店長さんなんです。わたしの母が実家の近くの呉服屋さんに相談したら、それなら金沢の柊屋さんへ行きなさいって言われてね。もう二十年近く前の話。柄も紋の入れ方も全部、先代の店長さんが決めてくれたんですよ」
千尋は板場の脇の可憐な暖簾を見た。
紺の地に、白と薄紅の梅。伝統的な友禅染めの中に、可憐さとお祝いの気持ちが込められている気がする。
「先代は僕の伯母です。四年前に身体を悪くして、店を畳むと言い出しまして。それで僕が継ぎました」
伊月は自分の席へ戻り、湯呑みを引き寄せた。
千尋も名刺を名刺入れへしまい、伊月につられるようにして加賀棒茶へ手を伸ばす。
かちり、と音が鳴った。
ブレスレットの金具が、湯呑みの縁に当たっている。持ち上げるたびに当たりそうで気になった。千尋は素早く留め具を外し、バッグの内ポケットへ落とし込む。
あおいが板場から、盛り合わせと小鉢の載ったお盆を運んできた。
「おまちどうさま。まずはいつもの、おでんの盛り合わせ。小鉢の中身は、加賀湯葉と青菜のおひたしにしました!」
それらを伊月の前に並べてから、千尋の方をくるりと振り返る。
「三枝さん。さっきから話を聞いてると、本当に着物好きなんですね。もう、大好き〜っていうのが溢れてた」
「そ、そうですか?」
うっかり熱く語りすぎてしまったようだ。
「そんなに好きなら、いっそのこと着物にかかわるお仕事すればいいのに。……あ、もしかしてもう、そういうところで働いていたりするんですか?」
「いえ、着物とは関係ないところに勤めています。無理ですよ。……今から全然違う業界なんて」
千尋は反射的に頭を振っていた。給与、規模、福利厚生。いろいろな言葉が頭の中をぐるぐる回る。その反面、祖母の顔や、一番好きな半幅帯、袖を通してみたい着物たちも次々と浮かんでくる。
そんな千尋を見て、伊月が静かに箸を置いた。
「もし転職に踏み出せないとしたら、多少ですがその気持ちは分かります。僕も以前の仕事を辞めるとき、かなり迷いましたから」
「え……」
「着物屋を伯母から引き継ぐ前は、東京で金融の仕事をしていたんです。九年。継ぐか継がないかを決めるのに半年かかりました。着物の商売が右肩上がりでないことくらい、数字を扱う仕事をしていれば嫌でも分かります。伯母には、無理に継がなくていいと何度も言われました」
千尋は言葉が出なかった。
目の前の人は、千尋の祖母のように、着物と共に生きてきたのだとばかり思っていた。着物に着られていない立ち姿やそこから滲み出る和の気品は、もとからそこにあったものなのだと……。
「それでも、やらないままにしておくほうが嫌だったので」
伊月はそう言って、大根に箸を入れた。
「あれ、珍しい。伊月さんが自分から自分のことを喋るなんて滅多にないよ。ねぇ虎徹くん」
あおいが驚いた顔つきをしつつ、板場のほうを見る。
「着物を褒める奴に弱いんだ、こいつは。普段は客商売が務まるのが不思議なくらい、澄ました面してるくせに」
鍋の向こうから飛んできた声を聞き流して、伊月は二つに割れた大根を静かに口へ運んでいた。
やがてあおいが板場から硝子の器を意気揚々と運んできて、千尋の前へ置く。
「三枝さん、おまちどうさま! らくまつのおすすめ、車麩のフレンチトーストです」
こんがりと焼き色のついた輪が、四角いプレートの皿の真ん中に乗っていた。両面にバターで焼いた跡がまだらに残り、シュガーパウダーがほんのり。傍らにはバニラアイスがひとすくい添えられ、全体にキラキラ輝く茶色いシロップがかかっている。
「加賀棒茶のシロップは手作りなんですよ。虎徹くん、そこだけは絶対に市販のを使わないんだから」
あおいが器の縁を指して言った。板場では、当の本人がフライパンを湯に沈めている。
千尋はフォークを取って、輪の端に刃を当てた。
一瞬だけさくっとした手応えがあって、あとはフォークがするすると下に降りていく。
現れた断面がふるりと揺れた。
さくり、ふるっ。これは美味しいやつだ! 食べる前から心が弾む。
いざ口に入れると、まずバターの風味が舌の上にふわりと広がった。
さくり、ふるっ。噛むとフォークを入れたときと同じ感触がして、卵の濃厚なコクが心を満たしていく。
間を置かずアイスをすくった。
ほんのり温かかった車麩フレンチトーストと、冷たくて甘いアイスが絡み合い、頬が落ちそうだ。
噛み締めていたら、最後に加賀棒茶のシロップのどこか爽やかな香味が、極上の後味を醸し出す。
(美味しくて、夢みたい……!)
夢でないことは分かる。だって美味しいから。
千尋はゆっくりとフォークを進めた。輪の形が半分になり、四分の一になり、皿の上には溶けたアイスの跡だけが残っている。
皿の上にあった幸せなものが、千尋の中に全部移った。
お腹も、心も温かい。じわじわ引いていく後味の余韻と満足感に、じっくりと浸る。
と、何やら視線を感じて、千尋はゆっくりとあたりを見回した。伊月が、こちらを見つめている。
「すみません、不躾でした」
何か聞く前に謝られた。
改めて、伊月の容姿が整っているなぁと思った。纏っている牛首紬の素晴らしさに負けていない。
「随分美味しそうに食べていたので。そのデザート」
伊月は空っぽの皿に目を留めている。
きっと、千尋はよほどうっとりしていたのだろう。だが仕方ない。だって本当に美味しかったのだ。
「とっても美味しかったです。もう、他のフレンチトーストが食べられなくなりそう」
思っていることをそのまま伝えた。
伊月は微かに、閉じていた蕾がふわりと開くみたいに口角を上げた。フロアにいたあおいはもう、向日葵みたいな顔で笑う。
「よかったー。お口に合ったみたいで」
「ごちそうさまでした。……あの、また金沢に来ることがあったら、寄らせてもらってもいいですか。次のときも、おすすめを頼みたくて」
「もちろん! あのね、十一月に入ったらカニ面が出るんですよ。香箱蟹──ズワイガニのメスなんだけど、甲羅に身をぎゅうぎゅうに詰めて、出汁で炊くんです。金沢おでんの一番の贅沢。でも蟹が獲れる時期が短いから、出せるのは年内までなんです。だから、その頃にまた来てくれたら嬉しいな」
「カニ面……」
一番の贅沢。もう十分幸せなのに、まだ上があるなんて……千尋がまだ見ぬおでんだねの美味しさを想像していると、板場から低い声がした。
「新しいデザートも考えておくからな」
目を向けると、虎徹はもう鍋の中の何かを箸の先で寄せていた。あおいがおかしそうに肩を竦める。
釣り銭を財布へ落としながら、千尋は伊月のほうを見た。箸を置いた伊月が、軽く頭を下げる。
「金沢に来るんでしたら、柊屋にもぜひ」
千尋はすぐに頷いた。
「はい! 行きます!」
4
千尋はキャリーケースの取っ手を握って、ガラスの引き戸を開けた。秋の夜の、心地いい風が頬を撫でる。
「おやすみなさーい」
背中に、あおいの声がかかった。
「また、来ます!」
千尋は振り返って頭を下げ、戸を閉めた。おでんの温かさと、あおいの笑顔を胸に感じたまま歩き出す。
しまいこんでいたスマートフォンでホテルまでのマップを見ようと思い、バッグの内ポケットへ手を入れた。
すると、細いチェーンが指先に触れた。
千尋は足を止め、自分の手首を見た。何も付いていない。
そうだ、湯呑みに当たるのが気になってブレスレットは外しておいたのだ。伊月から名刺をもらった、あのときに。
購入して以来、睡眠と入浴のとき以外はつけっぱなしだった。
ただなんとなく……いや、そうではない。広夢に褒められたくて、大金をはたいて得たブレスレット。これを外してしまったら、広夢との四年間を否定するような気がしたのだ。
なのに、さっきはすんなり外した。外したことすら、忘れていた。
らくまつに入ったときは、誰とも喋りたくなかった。
源助大根の熱さに驚いてから車麩を齧って、花嫁暖簾を見つけて。伊月が来てからは着物のことを話した。フレンチトーストにうっとりした。
『大好き〜っていうのが溢れてた』
あおいが言った通りだ。
黒い花のモチーフより、白い花のモチーフ。巻き髪より、ストレートヘア。ヒールの細いパンプスより、もっと楽な靴。
流行りのカフェより、歌舞伎。
ワンピースより、着物。
美味しいものを食べて幸せになったら、心の奥に押し込んでいたものがどんどん飛び出してくる。
だいぶ長いこと開けていない桐の箪笥を思い出したとき、バッグの中のスマートフォンが光った。
画面を開くと、通知が積み上がっていた。そのほとんどが、同期の女子社員たち専用の会話グループに届いたメッセージで占められている。
一番上に表示されていたのは、本人の顔をハートマークで半分隠した真弥子のアイコンだった。
『ねぇねぇ聞いた? 佐島くんの話』
『聞いた。人事の子が言ってたけど、どっかの誰かと結婚するらしいよ。男子社員の育休についても聞いてたみたい』
『できちゃった婚ってこと? 千尋とは円満に別れたって言い張ってたけど嘘に決まってるじゃん』
『あ〜その話、佐島の部署の係長やら課長やらにも伝わってたよ。二人ともかなりピキッてた。千尋と婚約寸前だったの知ってるから』
『うわ……佐島ってば今後どんな顔して会社くるんだろウケる』
『あの人の居場所なんてないんじゃないの?』
こんなやり取りがしばらく続いていた。やはり、真弥子の口に戸は立てられなかったようだ。
それらを眺めてから、千尋はそっとスマートフォンをしまった。
明日は九時から、加州テキスタイルでプレゼンの結果を聞く。それが終われば、東京へ戻る。
部屋に帰ったら、桐の箪笥を開けてみよう。一番好きな半幅帯、祖母からもらった着物。四年ぶりに広げてみたい。
十一月になったら、らくまつでカニ面が出る。新しいデザートも、あるかもしれない。
そのときは出張ではなく、プライベートで来ようと思った。
今度は、カウンター席がいい。そうだ、着物で行くのはどうだろう。もちろん、柊屋にもお邪魔しよう!
駅の明かりが近付いてきた。ガラスの屋根が夜空の下で白く光り、その手前に鼓門が立っている。
ライトアップされた鼓門には、昼間とは別の美しさがあった。
あ、これも好き。
新たな『好き』を胸に抱きながら、千尋は少し、歩くスピードを上げていた。
了



