金沢おでんカフェ らくまつ ―好きが溢れるほかほかおでん―


 一歩だけ中に入ると、温かい空気が正面から押し寄せてきた。あの美味しそうな香りが、一段濃くなる。

「おかえりなさーい」

 すぐにカウンターの内側から小柄な女性が出てきた。三十代の半ばだろうか。白いシャツに黒いエプロンを着けている。
 ここは千尋の家ではない。誰かと間違えられているのかと一瞬首を傾げたが、ほどなくして単に「いらっしゃいませ」の代わりなのだと気付いた。
 千尋は就職と同時に千葉の実家を出ている。東京で一人暮らしを始めてから、おかえりなさい、と誰かに言われたのがいつ以来なのか、思い出せない。フロアの女性の温かな声と笑顔で、張り詰めていた肩から力が少し抜けていく。
「お好きな席へどうぞ」
 フロアの女性は笑顔のまま店内を手の平で指し示した。
 カウンターが五席、四人掛けのテーブル席が四つ。カウンターの向こうは板場になっていて、大きな四角い鍋が据えられている。
 天井から和紙の丸いランプがいくつも下がり、光が柔らかく散っていた。テーブルと椅子は木脚の洋風のものだが、和の照明の雰囲気と不思議にマッチしている。夕飯にしては少し遅い時刻のせいか、他に客はいないようだ。
 千尋は入口に一番近い、壁際の席を選んだ。カウンターに座れば板場の人が目の前にいるし、声をかけられるかもしれない。今夜はもう、誰とも喋りたくない。
 キャリーケースを壁へ寄せ、椅子を引いて腰を下ろすと、フロアの女性がそれを目に留めた。
「出張でいらっしゃったんですか。お疲れさまです。まずはこちらをどうぞ。加賀棒茶です。うちではお冷やの代わりに、これなんですよ」 
 目の前に湯呑みが置かれた。琥珀色の液体から、香ばしい湯気が立ちのぼっている。
 続けて、和紙でできたメニューを手渡された。
 開いた千尋は、少し戸惑った。
 源助大根、玉子、赤巻。ふかしに車麩、ひろずにバイ貝……名前だけでは、どんなものが出てくるか分からないものが多い。大根と玉子はいいとして、それ以外は何だろう。
 金沢おでんというものがあるのは観光案内所でもらったパンフレットを見て知っていたが、こうして面と向かってみると、いつも食べている東京のおでんとは違いがありすぎる。
 そんな千尋の様子を察してか、フロアの女性がにこやかに言った。
「金沢おでんは初めてですか。なら、盛り合わせがおすすめですよ。金沢おでんならこれ! っていうのが全部入ってますから」
「じゃあ、それでお願いします」
「はぁい、盛り合わせ一つ」
 女性ははきはき注文を繰り返しながら、板場のほうへ引き返していった。
 カウンター越しに見える板場では、作務衣の袖を肘までまくった長身の男性が鍋の蓋を持ち上げている。眉が濃く、目つきの鋭い人だ。フロアは女性に任せているのか、千尋のほうを見ようともしない。
 千尋は座り心地のいい椅子の上で、一つ息を吐く。
 そのまま、加賀棒茶の湯呑みへ手を伸ばしたが、指が縁に触れる前に、かちり、と硬い音が鳴った。手首につけていたブレスレットの金具が、湯呑みに当たったのだ。
 黒い花を模したパーツがついたこの華奢なブレスレットは、二年前の冬、表参道の路面店で買った。そのとき、ショーケースには、花のモチーフが白いほうと黒いほう、色違いの二種類がディスプレイされていた。
 最初は白いほうが可愛いと思ったが、選んだのは黒だった。ショーケースを覗き込んだ広夢が黒いほうを指さして
「これが千尋に似合いそう」
 と言ったから……。
 買ってやるとも誕生日にとも言わず、広夢はすぐ次の店の話を始めた。
 三日後、千尋は一人でその店へ行き、給料の三分の一に近い額を迷わずに払った。
 広夢がいいと言ったものを持っていれば、もっと好きになってもらえる。そう思ったのだ。
 それ以降、千尋はこのブレスレットを片時も離さず身に着けていた。──三か月前、広夢に別れを告げられた日も。
 

 あの日千尋が訪れたのは、青山の裏通りのカフェだ。
 広夢が選んだ店で、千尋は約束の三十分前に着いてしまい、窓際の席でぬるくなっていく水を眺めていた。
 着ていたのは広夢の好きな系統の、淡いベージュに小花柄のワンピース。合わせていたヒールの細いパンプスは歩くと足の指の付け根が痛むので、テーブルの下でこっそり、半分脱いでかかとを浮かせる。
 付き合って四年余り。その日は式場の話をするはずだった。春に二人で見に行った会場から、来年の秋なら空きがあると連絡が来ていたのだ。候補日を三つ書いたメモをバッグに入れてきたし、どちらの実家へ先に挨拶に行くかも、頭の中では決まっていた。
 広夢が現れたのは、約束の十五分後だった。千尋はぱっと顔を上げたが、そのまま固まってしまった。広夢の後ろに、見知った顔がある。
「……明日美(あすみ)?」
 神妙な面持ちで立っていたのは、大学時代からの友人、菱木(ひしき)明日美だった。語学のクラスで隣の席になって以来、八年の付き合いになる。今はアパレルの販売員をしていて、いつも千尋より三歩早く流行を押さえている。
 そんな明日美に「今お付き合いをしている人」だと言って広夢を紹介したのは、一年ほど前だ。
 最初の三秒、今日は三人で会う予定に変わったのだと千尋は思っていた。
 だが、席に着いた途端、広夢はがばっと頭を下げた。
「千尋──ごめん。明日美と、その、内緒で付き合ってた」
「え?」
「子供ができたんだ」
 広夢は顔を上げたが、両手をせわしなく組み換え続けていて、千尋を一度も見ない。
 店内は賑わっていて、隣の席では女性の二人連れが談笑している。有線から聞こえてくるのは、よく知っている明るい洋楽だ。
 千尋は、自分だけがそこから切り離されてしまったような気がした。頭が真っ白で、言われたことが心に入っていかない。
「どういうこと。どうして、広夢と明日美が……」
 掠れた声を絞り出すのが精いっぱいだった。
 広夢はやはり何も答えず、テーブルの上に気まずい沈黙が広がっていく。
「ごめんね……千尋」
 静寂を破ったのは明日美だった。ネイルの塗られた爪を握り込み、肩を震わせている。
 やがてその明日美の頬に、すーっと一筋涙が伝った。
「ホントにごめん、千尋。悪気はなかったの。でも、あたしどうしてもヒロくんが好きで……うぅっ!」
 そこでとうとう、明日美は顔を覆った。
 ネイルに施されたストーンがきらりと光り、ゆるく巻かれた髪が揺れて、花のような香りが漂ってくる。
 淡い色の花柄のワンピースと、履くのが面倒臭そうな靴。明日美の出で立ちは、千尋がその日着てきたものと驚くほど似ていた。広夢の好みそのままだ。それを、千尋より着こなしている。
 明日美の隣に座っていた広夢が、震える細い肩を抱き寄せた。
「千尋。俺が悪いのは分かってる。だけどじきに赤ん坊が生まれてくるんだ。な、頼むよ。許してくれ」
 広夢にぴたりと寄り添いながら、明日美も両手を合わせた。
「あのね、千尋。あたしたち共通の知り合いも多いでしょう。みんなに変に思われたくないから、千尋とヒロくんはもう別れてたってことにしたいの。順番が逆だと、ヒロくんも立場ないでしょ」
「えっ……」
 千尋はただただ呆然としていた。この人たちは、一体何を言っているの……?
「そういうことだから、頼むよ千尋」
「ごめんね」
 いつの間にか広夢と明日美の声が聞こえなくなっていた。
 千尋が覚えているのはそこまでだ。目と耳が麻痺したように、周りから光と音が消えた。
 何が起こったのかようやく理解したときにはもう二人の姿はなく、テーブルには氷の溶けきったグラスが三つ残っていた。
 いつも身に着けていたブレスレットがその一つに当たって、かちりと音を立てた。
 
 
 顔を上げると、湯呑みから湯気がまっすぐ立ちのぼっていた。千尋は瞬きをして、手首を見る。
 そこにはやはり、あのブレスレットがあった。もう必要ないのに、今でもなんとなく身に着けてしまう。長い間についた癖は、三か月では抜けないらしい。
 手首で揺れるブレスレットを見ていたら、どんどん気が重くなる。
 広夢と一緒にいた四年間は何だったんだろう。
 社内で一番噂好きな真弥子から電話がかかってきたことも気になった。千尋たちが別れたことは、きっともうみんなに広まっている。どんな顔をして出社したらいいか分からない。
 溜息を吐きながら口にした加賀棒茶は香ばしく、後味はすっきりしている。ちびちびと飲んでいるうちに、板場からフロアの女性が出てきた。
「おまちどうさま。おでんの盛り合わせです。熱いから気を付けてくださいね〜」
 目の前に置かれたのは、口の広い洋風の器だった。縁ぎりぎりまで張られた汁は澄んでいて、底が透けて見える。
 その汁の中に、ごろごろと大きなたねが六つほど入っていた。フロアの女性は、それらを順に指し示す。
「手前が源助大根で、隣が車麩です。ぐるぐる渦を巻いてるのが赤巻で、平べったいはんぺんのようなのがふかし。こっちの四角くて大きいのはひろずで、殻ごと入ってるのがバイ貝です。ごゆっくりどうぞ~」
 女性が下がっていくと、千尋は器の上へ顔を寄せた。まずは美味しそうな香りをいっぱいに吸い込む。
 千尋が知っているおでんの汁は、醤油の色が濃い。目の前にあるのはそれと随分違っていた。どんな味がするのか、見当がつかない。
 割り箸を割る音が、静かな店内に思いのほか大きく響いた。千尋が一番先に手を付けたのは、大根だ。
(おでんといえば……大根!)
 一人だから、異論は認めない。
 器の中の大根は厚みが四センチほどだった。箸先を当てただけで、抵抗というものがまるでないまますーっと沈んでいく。
 二つに割ると、断面から湯気がほわんと上がった。芯までむらなく薄い琥珀色をしていて、味が染み込んでいるのがこれでもかというほど伝わってくる。
 熱いのを承知で、そのまま口へ運んだ。
(……!)
 箸を持ったまま、千尋は声にならない声を上げた。
 熱かったからではない。舌に乗せた大根が、噛む間もなくほろりとほどけたからだ。
 溜め込まれていた汁が一斉に溢れ出して、口の中いっぱいに広がった。大根そのものの甘みと出汁の深い旨みが、じわりゆるりとまざり合う。 
 もう一口食べてから、今度は隣の車麩へ箸を移した。
 輪の形をした麩が、汁を吸ってふっくらと厚みを増している。大きさは千尋の顔の半分くらいあり、持ち上げるとずしりと重かった。齧った瞬間、じゅわっと熱いものが溢れる。
(なにこれ、こんなの、食べたことない!)
 お吸い物の中に飾りで浮かんでいるような麩とは比べ物にならないほど噛みごたえがあった。なのに、口の中では溶けるようにほどける。煮込む前に焼いてあるらしく、香ばしさが遅れて立ちのぼってきた。最初は少し大きいな、と思ったのに、気付けばぺろりと半分消えている。
 次は赤巻だ。これは見た目がなんだか可愛らしい。フロアの女性が「ぐるぐる渦を巻いてる」と言っていた通り、白と赤のすり身を重ねて巻いたものらしい。まるで棒についたキャンディに見える。
 車麩より弾力があって、噛むと歯を弾き返してくる。生臭さは全くないのに、魚を食べていると実感できた。ポップな見た目からは想像がつかない素朴な味で、ギャップが面白い。
 はんぺんによく似たふかしは、車麩同様出汁をたっぷりと吸っている。丸みのある優しい味わいで、一口、二口と箸を進めるたびにゆるゆると心が和んでいく。
 ひろずは、いわゆるがんもどきに見えた。ただし掌に乗るほど大きい。中身は豆腐かと思ったのに、箸を入れると中から人参と木耳と銀杏が現れて驚いた。宝箱……というグルメレポーターみたいな言葉が浮かんで、思わず頬が緩む。
 最後に残ったバイ貝は、添えられていた爪楊枝で刺してみた。よく分からないままゆっくり回すと、渦を巻いた身がするりと抜けてくる。ぱくり、とかぶりつくと、潮の風味が鼻腔を駆け抜けた。こりこりの食感がやみつきになりそうだ。
 今、器に残っているのは、大根と車麩が半分ずつ。どちらから食べようか迷って、大根に手を伸ばす。
 ほくほく、ほろり。全部なくならないうちに、レンゲで汁をすくって口に運んだ。
 ああ、と声が出そうだった。
 溶け込んでいるものすべてが千尋の身体に行き渡る。舌が、とろけそうだ。
 深呼吸をすると、鼻腔から入ってきた風味と口の中に残っている心地よい後味が千尋の中でまざり合う。
 全部食べ終えると、心がほわんとした。椅子の上でゆるりと力を抜いたまま、千尋の目は自然と、卓上に置いてあるおすすめメニューの文字に吸い寄せられる。
 パフェ、アイスクリーム、ぜんざい。並んでいるのはスイーツばかりだ。
 おでん屋で、甘いもの。看板に『カフェ』とあったのはこういうことか。千尋は姿勢を正して今一度文字を追う。
「よかったら、食後にもう一品いかがですか?」
 顔を上げると、フロアの女性が空の器へ手を伸ばしていた。品書きに夢中になっていたところを覗き込まれていたらしく、千尋は少し気恥ずかしくなる。
「おすすめは車麩のデザートです。おでんに入ってたでしょう、あの輪っかの」
「え、あれをデザートにするんですか」
 おでんの車麩は、汁を吸ってふっくらと重くなっていた。甘いものになるのがどうしても想像できなくて、千尋は思わず身を乗り出す。
 その拍子に、板場の奥が見えた。
 カウンターの脇に板場へ続く出入り口があって、そこに布が掛かっている。戸口に立ったときも席に着いたときも視界に入っていたはずなのに、今になってようやく、その存在を認識した。
 暖簾にしては丈が長い。床に届く手前まで垂れていて、幅は襖一つ分ほどもあった。紺の地に白と薄紅で梅の枝が描かれ、花びらの一枚ずつが細い白い線で縁取られている。
 布の上部には、丸に剣片喰の家紋。形は暖簾だが、まるで可憐な着物のようだ。
「あの、あれ……花嫁暖簾じゃないですか」
 千尋が板場の出入り口を指さすと、フロアの女性の顔がぱあっとほころんだ。
「わぁ、よく知ってますね。わたしがここへ嫁いでくるときに持ってきたの。実家の紋を入れて、母が誂えてくれてね」
「金沢の風習ですよね。嫁ぐ日に、仏間の入口へ掛けるっていう」
「そうそう。花嫁がそれをくぐって座敷に入るの。一度きりですけどね」
 言いながら、フロアの女性は板場のほうをちらりと見た。鍋の前に立つ屈強そうな人物は、手拭いを巻いた頭を僅かに上下させる。
 千尋はそこで、二人が夫婦なのだと初めて気付いた。
「ごめんなさい。わたし、まだ名乗ってなかったですね。南あおいです。ここのフロア担当」
「あ、私は、三枝千尋です」
 フロアの女性──あおいの笑顔につられて、千尋もついつい名乗ってしまった。飲食店の人に自己紹介なんて、今までしたことがないのに。
「三枝さん、改めておかえりなさい! でね、板場にいるのがわたしの夫。うちの店、らくまつの板前で──」
「板前じゃねぇ。シェフだ」
 鍋の向こうから、低い声が飛んでくる。あおいは大袈裟に肩を竦めた。
「作務衣を着込んで、頭に手拭い被った人が『シェフ』なんて。おかしいー」
「これが一番動きやすいんだから仕方ねぇだろ」
「あーそれは分かる。虎徹(こてつ)くんの作務衣、十日町紬の職人さんが作った一点ものだもんねー。丈夫だから板前にぴったり」
「だから、シェフだって言ってんだろ」
 あおいの夫は虎徹という名前らしい。夫婦のやり取りを聞いて、千尋は噴き出していた。
 笑っているのだと自覚して、少し驚く。ついさっきまで、多分泣きそうな顔でスーツケースを引きずっていたのに……。
「ちなみに、店の名前の『らくまつ』は、金沢の方言で『おおらか』とか『のんき』っていう意味なんですよ」
 あおいが卓上メニューに描かれていた店の名を指さして言う。
 おおらか、のんき。ぴったりだと千尋は思った。ここに来れば、美味しそうな出汁の香りを吸い込むだけでゆるゆると身体の力が抜ける。
「──あ、そうそう。車麩のデザートっていうのはね」
「フレンチトーストだ」
 板場の方から低い声が飛んできて、あおいの説明を遮った。
 千尋がそちらを振り返ると、虎徹がカウンターから半分身を乗り出している。
「おでんに使うのと同じ麩を、卵と牛乳と砂糖の液に一晩漬ける。麩は乾物だから、パンより吸い込み具合がいい。芯まで含ませてからバターで両面を焼いて、バニラアイスを添える。上から加賀棒茶で拵えたシロップをかけて出す」
 虎徹の声は低いままなのに、言葉の運びが急に生き生きとしていた。喋りたくて仕方がないといった感じだ。
「あの人、普段はほとんど喋らないのに、料理の話になるとああやって急に饒舌になるの。おかしいでしょう」
 あおいがふふっと笑いながら声をひそめる。千尋は心を決めた。
「いただきます。このフレンチトースト」
「はぁい、車麩のフレンチトースト一つ」
 注文を通す声が、店の奥まで気持ちよく通る。
 すると、板場で虎徹が卵液の入ったバットを冷蔵庫から出した。それから作務衣の袖を軽くまくり、フライパンを手に取る。
 千尋はあおいに尋ねた。
「虎徹さんの作務衣、絣ですよね」
「そう。あの人身体が大きいから、特注になっちゃうんです」
「十日町紬を織る職人さんが作ったって言ってましたけど、糸も織りもきっと一級品です。丈夫で、着るほど身体に馴染むって聞いたことがあります。作務衣にするなんて贅沢……羨ましいです」
 十日町紬は、牛首紬と並んで北陸名産の絹織物だ。
「え、三枝さん、生地のことや織物のこと、なんでそんなに詳しいの。さっき花嫁暖簾のことも知ってましたよね。もしかして、着物とか好きなんですか? まだ若いのに珍しい」
 あおいは目を丸くした。千尋は少し照れながら答える。
「祖母が着付け教室の師範をしていて、小さいころから家に着物があったんです」
 千尋は、自分でも着付けができること、学生の頃はよく着物姿で出かけたことをさっと説明した。あおいは「へぇー」と感心した様子で言う。
「そういうの、いいなぁ。着物は今も着てるんですか?」
「……それが、ここ何年か袖を通してないです。周りに、着ている人があまりいなくて」
 正確には四年余り、着物をしまい込んだままだ。
 広夢と出かける場所は、いつも決まっていた。天井の高いカフェ、ガラス張りのレストラン、夜景の見えるバー。着物で行くと、少し浮いてしまうような流行りのスポットばかり。
 歌舞伎座へ行きたいと一度だけ口にしたことがある。あのとき返ってきたのは『俺そういうの興味ない』という一言だった。結局千尋も行っていない。四年間、プライベートで身に着けていたのはいつも、広夢の好きなワンピースやロングスカートだ。
 あおいはほんの少し眉尻を下げた。
「えー、持ってるのに着ないなんてもったいない。金沢は結構、着物姿の人が多いですよ。うちの常連さんの中には、普段から着物っていう方がいますし」
「普段から、ですか」
 千尋の祖母もそういう人だ。出かけるときはもちろん、庭の草を抜くときも、居間でくつろいでいるときも、たいてい着物姿。いつかは自分もああなりたいと、ずっと思っている。
「普段着なら、木綿とか麻とか、汚しても洗えるものがいいですよね」
 千尋がぽつりと言うと、あおいはうんうんと首を上下に振った。
「そうそう。手入れのしやすさは大事です!」
「半幅帯なら締めるのも簡単ですし、貝の口にすれば背中も潰れないので、椅子に座っても楽なんですよね。柄も自由に選べますし。着物が縞なら帯は無地とか、派手な柄どうしをぶつけてみるとか、組み合わせを考えるのが楽しくて」
「わぁ、面白そう。三枝さん、着物のコーディネート得意そうですね!」
 あおいはぱちんと両手を合わせる。
 そこで千尋ははっとした。
 カウンターを避けて隅の席を選んだのは、板場の人と目が合わないようにするためだ。今夜はもう誰とも喋りたくないと、確かにそう思っていた。なのに、今はこうして喋り続けている。
「いいなぁ。わたしも今度の定休日、虎徹くんと着物でどこか行こうかな」
 あおいが暖簾を見上げて言ったとき、店のガラス戸がからりと開いて、誰かが入ってきた。
「こんばんは」
「あ、伊月(いつき)さんだ。おかえりなさーい!」
 千尋は、息を呑んだ。
 深い茶の地に、細かな節が浮いた見事な牛首紬──立っていたのは、金沢駅で見かけたあの人だった。