恋じゃないふりをして

「おかえりなさいませ。傘は私が」

隼人が家に帰ると、家政婦の田名が手を差し出してきた。

「自分でやるので」
「わかりました。あら、肩が濡れてますね。タオルをお持ちします」
「大丈夫です。タオル、持ってるので」

隼人が鞄から、ひよりに借りたタオルを出した。

「持ってらしたんですね」

田名はくすりと笑って廊下の奥に消えた。
 隼人は鼻歌交じりに、傘を丁寧に畳んで玄関に立てかけ、階段を上った。
 
 部屋で経営学の本を広げる。だが、本の横に置いたタオルに目がいってしまう。

「また借りちゃったな」

ふっと口元が緩む。

 コンコン。

「はい」

ドアを開けると、エプロンを脱いだ田名が立っていた。

「お夕食は食卓に置いてあります。温めて召し上がってくださいね。私はこれで失礼いたします」
「ありがとうございます」

田名は笑顔で一礼して階段を降りていった。

 隼人は1人で夕飯をすませ、食器を片付けながらぼやいた。

「田名さんのご飯もうまいけど、ひよりの方が味付け濃くてうまく感じるんだよな」

食器をしまってから隼人はスマホの画像フォルダを開いてテーマパークの時に撮った、ひよりの笑ってる写真をじっと見つめて小さく息を吐く。

「やばいな。あいつのことばっか考えてる」

スマホをポケットしまって廊下に出た。
 ちょうど玄関が開き、帰宅した正蔵と目が合った。

「隼人、私の部屋に来なさい」
「何でだよ」
「いいから、来るんだ」

有無を言わせない圧力に、隼人は口をつぐんで正蔵の後についていった。

「おまえの交際相手だが」

書斎に入ってすぐ、革張りのソファに深く座った正蔵が口を開いた。

「それが何?」

隼人はドアの前で立ったまま、正蔵を睨んだ。
 正蔵は机の上にあるタブレットを操作して、テーマパークのプレオープンに関するネット記事の画面を隼人に見せ、隼人の隣に写っているひよりを拡大した。

「これ……」
「どうせ遊びなんだろ。すぐに別れろ」
「……は? 遊びじゃない。本気だ。別れるわけねえだろ」
「尚更、見過ごすわけにはいかない。この娘の親は、うち系列の平社員だというじゃないか」
「調べたのか?」

隼人の顔が歪む。

「おまえは我が社の跡取りとしての自覚が足りない。そろそろ将来を見据えて、嫁にふさわしい令嬢と婚約をするべきだ。他の娘に現を抜かしてる場合ではない」
「俺は、継がない。だから彼女も、結婚相手も自分で決めるって言ってるだろ」
「何を馬鹿なことを。おまえには鵜野森を背負う将来が約束されているんだぞ。これ以上恵まれた道はない。何のために先代から受け継いだ企業を、ここまで大きくしたと思っているんだ」
 
隼人は拳を握り締める。
 
「俺のやりたいことも知らねえくせに、生き方をおしつけるな!」
「何だ、その態度は! うちの会社を継ぐこと以上に価値のあることなどない!」
「決めつけてんじゃねえよ。俺は起業して、鵜野森グループにも負けない会社に成長させる」

憤る隼人の前に立った正蔵は、怒りを露にする。

「笑わせるな! おまえの将来は生まれた時から決まっている」
「俺はおまえの駒じゃねえ!」」

怒りと憎悪が隼人の奥底から沸き上がり、握りしめた拳が激しく震える。

「親に向かって、何だその態度は! おまえのためを思って言ってるんだぞ」

正蔵が机を強く叩く。
 隼人は鋭利な視線を正蔵に向ける。

「俺のため? どこがだよ。全部自分のためだろ。子どものやりたいこと応援するのが親じゃねえのかよ!」
「このっ、馬鹿息子が! 頭を冷やせ!」
「うるせえ、クソ親父!」

書斎を飛び出した隼人は玄関まで駆けていき、扉を開ける。どしゃ降りの雨音が、暗い外に響いている。隼人は傘もささず、門の外へ走り出した。
 

 その頃、ひよりは部屋の窓から激しさを増す雨を眺めていた。

「すごい雨。明日には止むかな」

ふと、家の前に人影が見えた気がしたが、ひよりは深く考えずカーテンを閉めた。
 その時、スマホから着信音が鳴った。
 スマホの画面には「ニセ王子」の文字。

 隼人? こんな時間にどうしたんだろう。

「もしもし?」

スマホの向こうから雨の音に交ざって隼人の掠れた低い声が聞こえる。

『……ひより』
「隼人、どうしたの?」
『ちょっと、声、聞きたくなって……』

弱々しい声が、雨の音に掻き消される。
 いつもと様子が違う。
 ひよりは心配になって早口で問いかけた。

「大丈夫? なんか変だよ。どこにいるの? もしかして外?」
『……外』
「何で外? ……まさか!」

ひよりはさっとカーテンを開けて、暗がりに目を凝らした。
 人影が動いて、顔を家の方に向けた。
 顔ははっきりとは見えないが、ひよりには分かった。
 部屋を飛び出して階段を駆け下り、玄関を開けた。

「隼人!」

門の外に、雨に打たれてびしょ濡れになっている隼人が立っていた。

「ああ、来てくれたんだ」

隼人は力無く笑う。

「何やってるの! 早く入って」

ひよりは慌てて傘をさして玄関の中に入れた。

「……悪いな、こんな時間に」
「それはいいけど、傘もささないでどうしたの? とにかく、お風呂入って」
「いや、さすがにそれは」
「いいから、早く! 本当に風邪ひくよ!」

ひよりが隼人の手を引いて家に上がらせようとしているところへ、あかりが現れた。

「は、隼人くん?!」
「あ、えっと……」

言い淀む隼人をひよりは風呂場に引っ張っていき、扉を閉めた。

「ひより、どういうこと?」
「分かんない。何かあったのかな……。お父さんとお母さんに、隼人のこと話してくる」
「私が行くよ。ひよりだとややこしくなりそうだし。ついでに、お父さんの服借りてくる。隼人くんの着替え、必要でしょ」

あかりは軽い足取りで階段を駆け上がっていった。

 ややこしくなりそうって……。
 確かにあかりの方がうまく説明できるだろうけど、そんな言い方しなくても。
 
 ひよりは風呂場の扉前でもやもやする気持ちを圧し殺して口を尖らせた。


「えっと、夜分遅くにすみません」

父のスウェットに着替えた隼人が、リビングに集った双葉家に戸惑いながら頭を下げた。

「気にしないでください。いつでも大歓迎ですよ」
「鵜野森グループのご令息ですもの」

父と母が媚びへつらった笑顔を隼人に向けた。

「まさかひよりとご子息が付き合っていたとは。驚きました」
「こんなにイケメンだなんて。さすがご令息ですわ。これ、よかったら召し上がってください」

母がおほほほと笑いながらお茶と有名店のカステラを隼人に勧めた。

「お気遣い、ありがとうございます。僕のことはお構いなく」

王子スマイルを浮かべる。母とあかりは見惚れるが、わずかな翳りをひよりは見逃さなかった。

「隼人、疲れてると思うから……」
「隼人くん、今日は泊まっていったら? 明日学校休みだし」

ひよりが言い終わる前にあかりが被せてきた。

「さすがにそこまでは」

遠慮する隼人に、両親は笑みを深くした。

「狭い家ですが、ゆっくりしていってください」
「ひより、客間を掃除してお布団敷いてきてちょうだい」
「……うん」

椅子から立ち上がるひよりの腕を、隼人が掴んだ。

「俺も行く」
「え?」

立ち上がる隼人を、両親とあかりは慌てて止めた。

「ひよりに任せてくつろいでいてください」
「そうですわ。お客様なんですから」
「隼人くん、もう少しお話しよう。お父さんとお母さんも隼人くんと話したがってるし」
「いや、でも……」

笑顔をひきつらせる隼人の前に、ひよりが一歩踏み出し、家族を睨み付けた。

「いい加減にしてよ。これ以上隼人に無理させないで」
「そんなこと言って、隼人くんのこと独り占めしたいだけじゃないの?」

あかりが困ったように眉を下げる。

「違う! みんな隼人のこと、鵜野森グループの息子としか見てないでしょ。何で隼人がこんな時間にうちに来たのか知ろうともしないで媚打ってさ。勝手すぎる。少しは隼人のこと考えてよ」

その場にいた全員が呆然とひよりを見つめる。

「行こう」
「あ、ああ」
 
ひよりは隼人の手を引いてリビングを出る。
 2階に上がり、ひよりは自分の部屋に隼人を連れて行った。
 
「とりあえず、ここにいて。客間片付けてくるから」
「待って」
 
隼人はドアに片手を押し付けて、部屋を出ようとするひよりを制した。
 ドアノブを掴もうとしたひよりは、隼人を見上げて首を傾げた。
 
「泊まってくでしょ?」
「そのつもりで来たわけじゃないから」
「じゃあ、帰るの? その格好で?」

丈の合わないグレーのスウェットを指摘され、隼人は肩をすくめた。

「さすがに、外出るの恥ずかしいな」
「でしょ。それに、帰りたくない事情でもあるんじゃない?」

見透かすようなひよりの瞳から視線を逸らして頬を掻いた。
 
「……まあ、そうだけど」
「泊まっていきなよ。服、洗濯してるから明日の朝には乾くし。そこどいて。布団敷いてくるから」

だが、隼人はドアから手を離さない。眉を下げて困ったような表情でひよりを見据えた。

「何で、何も聞かないんだよ」
「隼人は、話したかったら自分から話すでしょ」

当たり前のように言うひよりに、隼人の表情が緩む。

「さすが彼女。彼氏のことはお見通しなんだな」
「そんなことないよ。なんとなくそう思うだけ。話したくなったら言って。聞いてあげる」
「今話したくなった」
 
隼人はドアに背中を押し付け、座り込んだ。

「今? ここで?」
「聞いてくれるんだろ。ひよりも座れよ」
「私の部屋なんだけど」

ぶつぶつ言いながらも、ひよりは隼人の前に腰を下ろした。

「それで、何があったの?」
「親父がさ……」

隼人は怒りを滲ませた低い声で話し始めた。

 その頃、あかりは隼人が手を付けなかったお茶とカステラをお盆に乗せて客間に運んでいた。

「隼人くん、いる?」
 
声をかけても返事がない。ドアを開けると、暗闇が広がっていた。

「いない? ……もしかして!」

あかりは客間のテーブルにお盆を置き、急いでひよりの部屋に向かった。
 ドアに耳をつけると、隼人の話し声がうっすら聞こえた。

「やっぱり。2人で何してるのよ。ひよりのくせに。さっきの偉そうな態度も、隼人くんと2人きりなのも、ムカつく!」

奥歯を噛み締めるあかりの顔は、ひよりへの怒りで歪んだ。
 あかりが聞いていることを知らない隼人とひよりは、話を続けた。

「……で、家を飛び出した。気付いたら、ひよりの家に来てたんだ。無意識だったけど、ひよりに会いたかったのかも。情けないよな。彼女頼るとか」

隼人は自嘲気味に笑って目を伏せる。

「そんなことない。……頼ってくれて嬉しいよ。それに、私にも関係あることだし」
「ごめん。まさか親父がひよりの家族のことまで調べるとは思わなかった」
「でも、いずれバレてたんじゃない? うちのお父さん、系列会社の社員だし」
「だとしても、卒業までは彼女いるって言っておけば、婚約の話を避けられるって思ってたんだよ。そもそも、親父が決めた人と結婚するつもりなんてないけどな」

ドアに耳をつけているあかりは、隼人の言葉に眉を寄せた。

「彼女いるって言っておけばって、どういう意味?」

ひよりは隼人に同情の眼差しを向けた。

「御曹司も大変だね。でもさ、お父さんと喧嘩し続けていいの?」
「いいも何も、親父に抗わないと言いなりになるだけだ。俺は抗い続ける」
「でも、お父さんは隼人のことを思って、後を継がせたいんじゃない?」
「俺のこと本当に思うなら、口出すんじゃねえよ」

やさぐれたように口をへの字に曲げる。あまり見たことない隼人の顔だ。
 拗ねている子どもみたいで、思わず笑ってしまう。

「何笑ってんだよ」
「ごめん、ごめん。……お父さんに抗える隼人が羨ましいよ」
「はあ? 何が羨ましいんだよ」
「私は言いたいことあっても言えないから」

ひよりは膝を抱えて寂しそうに笑う。

「さっき言ってたじゃん」
「あれは、隼人のこと考えずに色々言うから、なんかムカついて、つい」
「嬉しかった」

王子でもニセ王子でもない、ひよりにだけ見せる自然な笑顔。
 ひよりの胸が小さく跳ねる。

「俺のこと分かってくれるの、ひよりだけだ。ひよりを彼女に選んで良かった」

ひよりの胸の奥から、照れ臭さと嬉しさが入り混じった感情が込み上げてくる。
 隼人を直視できず、そっぽを向いた。

「ニセの、でしょ。恋人の振りしてるだけだから」
「……ニセ?」

あかりは目を見開く。 だが、すぐに口元が緩んだ。

「やっぱり。隼人くんがひよりなんかを好きになるわけないじゃん。でも、何で彼女のふりなんか……」

考え込むあかりの顔が徐々に歪んでいく。
 
「もしかして、私への当て付け? 隼人くんの優しさにつけ込んで、無理やり付き合ってるふりしてもらってるんじゃないの!?」

ずっと感じていた苛立ちが、一気に怒りへ変わる。

「ひよりのくせに、調子に乗りすぎ!」

あかりはポケットからスマホを取り出した。

「隼人くんの彼女にふさわしいのは、私しかいない。みんなにも、本当のこと教えてあげなきゃ。みんなだってひよりがおかしいって思うはず」

口角を上げて、自分の部屋に入っていった。

 ひよりの部屋に静寂が訪れる。何も言わない隼人を、ひよりはちらっと見る。
 隼人が手を伸ばし、うっすら赤いひよりの頬にそっと触れる。
 じんわりとした温もりが頬から顔全体に広がる。
 隼人の顔が目と鼻の先まで近づいてくる。
 ひよりの心臓は爆音を上げて高鳴る。

「恋人の振りって言ったけどさ……」
「な、何?」

隼人は口を開けるが、すぐに閉じる。頬から手を離し、元の位置に戻って乾いた笑みを浮かべる。

「なんでもない」
「そう……?」

誤魔化された。
 何を言おうとしたのか、考えれば分かりそうだけど、分かってはいけない気がする。
 分かってしまったら、目を背けてきた自分の本心にも向き合わないといけない予感がする。
 
 ひよりはざわつく胸を抑えるように、胸元をきつく握り締めた。