恋じゃないふりをして

「小テストを参考にして、来週のテスト週間までに復習しておくように」

数学の教師が言った途端、チャイムが鳴り、教室が騒がしくなった。

「隼人くん、特待だよね? 私、数学自信なくて。教えてくれない?」

あかりが隼人に頼むと、周りにぞくぞくと女子たちが集まり出した。

「王子、私も数学教えて!」
「私も! 数学マジでわかんない」
「俺、教えるの下手だから。先生に聞いた方が分かると思うよ」

隼人は王子スマイルで女子たちの頼みをさらりとかわした。だが、あかりは引かず、一歩踏み込んだ。

「一問だけでも、ダメかな?」
「王子、一問だけでいいから!」
「ね、お願い!」

あかりに続いて、次から次へと女子たちが隼人に食い下がる。隼人は引きつりそうになる頬に力を入れて、王子スマイルを保った。

「一問、だけなら」

歓声が上がり、教室中の視線が集まった。
 ひよりは一瞬目を向ける。

 また王子の顔で無理してる。
 ニセ王子で塩対応したらいいのに。
 ……隼人のこと考えてる場合じゃない。

 青ざめた顔で、バツが目立つ小テストに目を落とす。
 横から優依が心配そうにひよりの顔を覗き込んだ。

「ひよりん、顔死んでない?」
「数学、ヤバい。ついてけない……」

机に突っ伏するひよりの頭を、誠が軽く叩いた。

「中学の時から数学苦手だったもんな。とうとう赤点か?」
「回避する予定なの!」

ひよりは顔を上げて誠を睨んだ。

「俺が教えてやろうか?」
「若松くん、勉強もできるの?」
「誠、数学だけはできるんだよね」
「だけって言うなよ。放課後、図書室で勉強な」
「教えてくれるの?」
「1人で赤点回避できるのか?」

ひよりの小テストを見て誠が苦笑した。 
 ひよりは素早くテストを裏返しにして眉を下げた。

「……教えてください」
「素直でよろしい」

ニヤニヤ笑いながら2人の掛け合いをみていた優依が、ひよりの背後を見てあっと声を上げた。

「優依、どうしたの?」

ひよりが振り向くと、目の前に隼人がいた。

「は、隼人! びっくりした。……こっちに来てよかったの?」

隼人の周りにいた女子たちが恨めしそうな目でこちらを見ている。唇を引き結んでいるあかりと目が合い、ひよりは目を逸らした。

「なんかおもしろそうな話、してるなと思ってさ」

隼人が伏せられたひよりの小テストをさっと手に取り、瞬きを繰り返した。

「見ないでよ!」

ひよりは小テストを奪い返して、引き出しに押し込んだ。

「ひどいな」
「うるさいっ! 誠に教えてもらうからいいの!」
「若松くん、数学得意なんだな」
「まあな」
「でも、俺の方が教えるのうまいと思うんだよね」

ひよりは顔をしかめて隼人を見上げた。

 さっきあかりたちに、教えるの下手だって言ってたよね?
 
「何で言い切れるんだよ。俺は中学の時からひよりに教えてたんだぞ」
「その時から数学苦手なままってことは、教え方が悪かったんじゃない?」
「なっ……!」

たじろぐ誠と得意気な顔の隼人を交互に見ながら、ひよりは肩をすくめた。

「2人とも、何で張り合ってるの? 教えてくれるならどっちでもいいんだけど」
「じゃあ、彼氏優先な」
「関係なくね? 俺が先に言ったんだけど」

睨み合う2人の間に挟まれたひよりは、楽しそうに成り行きを見ている優依に助けを求めた。

「優依、この2人なんとかして~」
「ひよりたち見てるとおもしろいよ。3人で勉強会したらいいじゃん。私は邪魔にならないように、こっそり覗くから」
「おもしろがってる場合じゃないよ。ていうか、こっそり覗くなら優依も一緒にやろうよ」
「いいの?」
「むしろ一緒にいて。3人で勉強できる気がしない……」
「ひよりん、モテ期だねえ」
「全然、嬉しくない」

いがみあっている隼人と誠を見て、ひよりは大きな溜息を漏らした。
 その様子を見ていたあかりは、口角を上げた。

 放課後、4人で図書室に行き、奥の席を陣取ってひよりは数学の問題集を広げた。解き始めるが、すぐに手が止まる。

「……分かんない」
「ひよりん、早くない? 1問目だよ」
「だって、yとaとか、pとqとか、数字以外が多すぎる」

目が回りそうなひよりを、左隣に座る誠が呆れ顔で見た。

「授業中何聞いてたんだよ」
「意味分からず、板書をノートに書き写す作業してた……」
「ぷっ。作業って」
 
ひよりの右隣に座る隼人がおかしそうに吹き出し、ひよりは睨みつける。

「しょうがないじゃん。先生の言ってること呪文にしか聞こえないし」
「グラフ、平方完成、最大値・最小値、これも呪文か?」

隼人が鼻で笑う。ひよりはムカッとするものの、言い返せず悔しそうに押し黙る。
 
「……っ!」
「やばいな。テストまでに間に合うか?」
「だからやばいんだって!」
 
シャーペンを握りしめて問題集とにらめっこするが、答えが浮き出てくることはなく、ひよりは項垂れた。

「……やっぱり無理」

誠がノートに問題を書き写して、スラスラと数式を書きながら解説を始めた。
 
「だから、この問題はまず、ここをこうして……」
 
次から次へと出てくる数字とアルファベットにひよりの頭は混乱していく。

「ひより、全然分かってないだろ」

横からひよりの顔を覗く隼人に言い当てられ、ひよりは小さく頷いた。

 その時、鞄を抱えたあかりが現れ、目を丸くした。

「隼人くんたちもいたんだ。偶然だね。私も図書室で勉強しようと思って」
「そうなんだ」
 
隼人は引きつった王子スマイルを浮かべる。
 あかりはひよりのまっさらな問題集を見て眉を下げた。
 
「ひより、相変わらず数学だめなんだね」
「教えてもらってるところだから」
「誠くん、面倒見いいもんね。ひよりのこと、よろしくね」

よろしくね、なんてわざわざ言わなくてもいいのに。
 
 ひよりが顔をしかめる。

「私も一緒にやっていい?」

返事を待たず、あかりは隼人の向かいの席に座って教科書やノートを広げて隼人に笑顔を向けた。
 
「隼人くん、さっきはありがとう。教えるの上手だね」
「そう?」
「また教えてもらえると、嬉しいんだけど」

あかりの甘えた声に、ひよりは鳥肌が立ち、腕をさすった。

 あかり、隼人のことまだ狙ってる?
 まさか隼人、いいよって言うつもり?

 ひよりが隼人を横目で見る。
 
「ごめん、俺も自分の勉強あるから」

口元は微笑んでいるが、目が笑っていない。
 ひよりは胸を撫で下した。

 あれ、何でほっとしてるんだろう。
 
「そうだよね。ごめんね」

あかりは気にしていない風を装って問題集に取り組む。だが、シャーペンを握る手に力が入り、芯がボキッと折れた。

「ひよりんの周り、見てて飽きないなあ」

優依が頬杖をついて、楽しそうに表情を緩める。

「優依、何楽しんでんの?」
「別に~。ひよりん、若松くんから教えてもらうんでしょ」
「あ、そうだった」

誠のノートにはいつの間にか解答ができあがっていた。

「誠、すごい。……全然分かんなかった」
「それじゃ困るって。もう一回説明するからちゃんと聞いとけよ」
「……はい」

殊勝な態度で誠の説明を聞くひよりだが、誠の説明が進むほど、眉間の皺が深くなっていった。
 ひよりの顔を見た隼人はまた吹き出しそうになり、咳払いをして誤魔化すが、口元が明らかに緩んでいる。
 それに気付いたひよりは机の下で隼人の足を蹴った。

「いって。何すんだよ」

小声で文句を言う隼人をひよりは無視して、誠の説明に耳を傾ける。

「ひとつも理解できてないだろ」

耳元で囁かれ、ひよりの肩がびくっと反応する。

「ひより、分かった?」
「あー、うん。多分」
 
誠に聞かれ、ひよりは曖昧に頷いた。

「じゃあ、次の問題自分でやってみて。解き方はさっきのと同じだから」
「う、うん」

シャーペンを握るものの、目の前で誠が解説してくれた数式がぐるぐる回るだけで、手が動かない。

 どうしよう。分からない……。でも、分かったって言っちゃったし……。

「そもそも、関数の意味が分かってないんだろ」
「え?」

隼人が腕を伸ばして、ひよりのノートを奪った。

「そもそも、何のためにこの式変形してるか分かってないだろ」
「……答えを出すため?」
「ざっくりしすぎ。これ見て」
 
y=x²−4x+5
 隼人がノートに、さらさらと問題を書く。
 それを見たあかりが一瞬驚き、ひよりに剣呑な眼差しを向けた。
 ひよりはそれに気づかず、ノートを凝視しながら隼人の説明に耳を傾ける。
 
「このままだと、一番小さくなるxが分かりにくい。だから——」
 
y=(x−2)²+1
 
「こういう形にする」
「……何で?」
「二乗した数字って、マイナスにならないだろ」
「あ……そっか。ゼロが一番小さい?」
「そう。じゃあ、(x−2)²がゼロになるのは?」
「xが……2?」
「正解。だからx=2のとき、yが一番小さくなる。で、最小値は?」
「1!」
「できるじゃん」
「……あれ? 分かった」

頭の中を覆っていた濃い霧が晴れたみたいにすっきりした。
 分からないと思い込んでいた世界に少しだけ入り込めた気がして、嬉しくなる。

「なんか解けそうな気がする! 隼人、教えるの上手いんだね」

ひよりが嬉しさのあまり満面の笑みを隼人に向ける。
 ひよりの笑顔が隼人の心臓を貫く。
 桜の笑顔と泣き顔が一瞬頭をよぎるが、上書きするようにひよりの笑顔が広がる。
 隼人は急激に熱くなった頬を隠すように頬杖をついて誤魔化した。
 
「ひより、俺の教え方、ダメだった?」

不安そうな顔の誠に聞かれ、ひよりは慌てて首を横に振った。

「私が理解できなさすぎて、ついていけなかっただけで、誠がダメってわけじゃないよ」
「分かってないやつに、先に進んだ説明してもついていけるわけないよな」

隼人がニヤリと口角を上げる。
 
「分かってなくて悪かったですね。しょうがないじゃん。授業は止まってくれないし、先生に質問しようにも何から聞いたらいいかも分からないし」
「ひよりがどこで躓いてるか、俺には分かる。何でも1人で抱え込みすぎなんだよ。勉強なら教えてやれるから、これからは俺に聞けばいい」
「……隼人だって自分の勉強しなきゃじゃん。迷惑じゃないの?」
「そういうとこ。いいって言ってんだから甘えればいいだろ」

ふっと自然に微笑む隼人の顔が、やけに輝いて見える。
 甘える……。 
 そんなこと、したことないし、甘えていいなんて言われたこともない。
 両親に甘えるのはいつもあかりの役目。
 ひよりはしっかりしてるから、自分でやりなさいって言われ続けてきた。
 甘えちゃいけない、頼っちゃいけない、1人でやらなきゃいけない。
 知らない内にこびりついていた思い込みの壁を、隼人は簡単に壊してくる。
 
「じゃあ、次これ、解いてみて」

隼人が問題集を見ながらノートに書き写す。
 
 今なら、解ける気がする。
 
 意気込んで問題に取り組む。
 だが、しばらくしてひよりはシャーペンを放り、天井を仰いだ。
 
「分かんない」
「マジか。さっきと解き方ほとんど変わらないけど」
「だって、分かんないんだもん……」

自分の馬鹿さ加減に嫌気がさして泣きそうになる。
 せっかく隼人に教えてもらったのに。
 甘えていいって言ってくれたのに。
 これじゃあ、呆れられて教えてくれないかもしれない。
 
「一緒にやればできるって」
「え? いいの?」
「分かるまでやればいいだけだろ」
「でも、絶対時間かかるよ。途中で面倒くさくなるよ。隼人だって勉強しなきゃでしょ」
「アホ。特待なめんなよ」

隼人は得意げな笑みを浮かべ、ひよりの頭をシャーペンでこつんと叩いた。

 その顔はずるい……。
 
 ひよりは熱を帯びた頬を覚ますように両手で顔を包んで俯く。

「ひよりばっかりずるいよ。隼人くん、私も一緒に教えて。ね、いいでしょう?」

小首を傾げるあかりに、隼人は王子スマイルを向け、ひよりのノートを自分の方へ引き寄せた。

「悪いけど、俺、彼女専用の家庭教師だから」

あかりが顔を強張らせ、絶句する。誠は唖然として、ひよりの肩を抱く隼人を見る。

「か、家庭教師? いつの間にそんな」
「今決めた。じゃあ、俺ら2人で勉強するから」
「えっ、何で!?」

抵抗しようとするひよりに隼人が耳打ちをする。

「妹から離れないとだろ。あと、幼馴染とも」
「何で誠まで……」
「おまえのこと狙ってんだろ。傍においとけねえよ」
「……ほんと子ども」 

ひよりは呆れながらも問題集を閉じる。

「優依、誠、ごめん。今日は隼人に教えてもらうね。あかりも……ごめん」

ひよりがあかりを見下ろして、心のこもっていない謝罪をする。
 隼人と一緒に出て行くひよりを、あかりは睨みつけた。