「この池に大蛇がいたんだよ」
休日、隼人と薬師池公園に訪れたひよりは、池の水面を覗き込んだ。初夏の日差しが反射してきらきら輝く水中を、小さな魚たちが泳いでいる。
「天保の大飢饉の時、長雨で池が決壊しそうになった時に、女の姿で現れたっていうやつだろ」
「隼人、知ってるの?」
「ちょっと調べた。一応、俺も部員だし」
隼人が自分で調べてきた?
興味持ってくれてるってことだよね?
それとも、契約条件だからって義務感で調べたのかな? 案外真面目なところあるし……。
「黙るなよ。驚きすぎだろ」
「あ、ごめん。興味なのか、義務感なのか、気になっちゃって」
「何の話だよ。そういえばさ、昭和初期ごろまで大蛇が目撃されてたらしいな。妖怪みたいに作り話か、実話か分からない民話が近くにあるって、おもしろいよな」
隼人が微笑む。
ひよりの胸の奥がじんと熱くなる。
おもしろいって思ってくれたんだ。
それだけのことなのに、嬉しくて口元が緩んでしまう。
ひよりは誤魔化すように咳払いをして、池に沿って歩き出す。
「ねえ、町田市って他にも動物の民話がけっこう残ってるって知ってる?」
「そうなんだ。知らなかった」
「狐とかむじなとか、送り狼の話もあるんだよ」
「送り狼?」
「夜道をついてくる狼の話。他の地域では、転ぶと襲いかかってくるって話もあるんだけど、町田市の図師町には、狼の恩返しの話として伝わってるの」
「鶴の恩返しみたいな?」
「そんな感じ。当時の人たちはただ恐れるだけじゃなくて、尊重や親しみを持って自然とか野生動物と共生してたんだろうね。地域によって色々なんだけど、共通してるお約束とかルールとかもあって――」
楽しそうに早口で話し続けるひよりを、隼人は瞳を細めて見つめる。その温かい眼差しに気づいたひよりは、気恥ずかしくなって口を閉じた。
「続き、話してよ」
「だって、なんか変な目で見てくるから」
「変な目って、ひどいな。部長の話、楽しんで聞いてたのに」
「楽しんでたの? そんな顔に見えなかったんだけど」
ひよりは風に煽られる前髪を撫でつけながら、池に架かるアーチ状の橋を渡る。
「ひよりの楽しそうな顔、もっと見たいって思ってたのバレてた?」
「なっ、何言ってんの!」
振り返って隼人を見上げる。ニセ王子の顔で悪戯っぽく笑っている。
からかわれてる!?
もう、なんなの。
隼人から視線を逸らし、欄干を掴んで池を見渡す。
池の上に浮いている小さな古民家が風情を感じさせる。池の周囲に生い茂る木々が目に映えて、ひよりは思わず感嘆の声を漏らした。
「うわぁ。きれい」
「写真撮ろう。ひより、こっち向いて」
振り向くと、隼人に肩を抱かれた。
「えっ、ちょっと!」
「ほら、笑って」
隼人は腕を伸ばして片手でスマホのボタンを押した。
カシャッ。
「撮らないでよ! 絶対、変な顔してた!」
隼人から離れて顔をしかめる。
隼人はスマホを見て吹き出した。
「ぷはっ。変な顔」
ひよりが横からスマホを覗くと、キメ顔の隼人の隣で目と口が半開きになっている自分が写っていた。
「早く消して!」
「撮り直したら消してやるよ」
「何で私と撮りたいのよ」
「何でって……」
隼人はスマホを操作しながら口ごもる。
顔を上げて、ひよりに笑みを向けた。
「彼女だから」
「……っ!」
ひよりは息を呑む。喉が詰まって言葉が出ない。
ニセの彼女だって分かってるのに、そんなふうにさらっと言われたら、本当の彼女って言われてるみたいで変に意識してしまう。
「これも彼女のふりの練習な」
「練習……」
そうだった。
隼人の願いは、本当の彼女じゃない。
隼人のことを好きにならない、ニセの彼女。
意識するなんて、バカみたい。
隼人は肩を寄せ、スマホを持った手を伸ばす。
「今度は笑えよ」
「……うん」
ひよりはスマホに向けて、薄い笑みを浮かべた。
「写真、送っとく」
隼人が撮った写真をすぐにひよりのスマホに送った。
ひよりは自分のスマホで画像を見る。さっきよりはまともな顔で写っているが、完璧な笑顔の隼人に比べると見劣りがする。
「……変な顔」
ひよりはすぐに画面を閉じた。
橋を渡り終えて少し進んだ先に、花菖蒲田が広がっている。紫、白、黄色など色とりどりの花菖蒲の間に、木道が造られている。
「ちょうど見頃だね。花菖蒲ってアヤメに似てるけど、どう違うんだろう?」
「アヤメは乾いた土地で育って、花びらの付け根に網目模様があるけど、花菖蒲は……」
隼人が木道に片膝をついて、花菖蒲の花びらの付け根を指差す。
「黄色い筋がある。これが見分け方」
「ずいぶん詳しいんだね。花好きなの?」
驚いて尋ねると、隼人は立ち上がって目を伏せた。
「これは受け売りだから」
「花に詳しい人と知り合いとか?」
「……知り合いだった」
低く呟く声が掠れている。
花菖蒲から逃れるように、隼人は大股で進んでいく。ひよりはその背中を追いかけながら、首をかしげた。
その人と何かあったのかな。
気になる。
でも、踏み込んじゃいけない壁を感じる。
ニセの彼女だからかな。
本当の彼女だったら、話してくれるのかな。
……って、何でこんなに隼人のことが気になるんだろう。
過去に何があったって、私には関係ないのに。
胸の中がもやもやする。
隼人の背中が、やけに遠く感じた。
「ひより」
花菖蒲田を抜けてから隼人が振り返る。
「何?」
「リベンジさせて」
「何の?」
「彼女の服選び。彼氏だったら彼女のこと分かっておかないと、だろ?」
いつものニセ王子の顔で、片方の口角を上げる。
「覚えてたの?」
「もちろん。彼氏だからな。なのに、ひよりの好みに合う服を選べなかったのは悔しすぎる。今日こそは絶対、選んでやる」
「ははっ、何それ。そんなに悔しかったんだ」
リベンジに燃える隼人がおかしくて、つい笑いが込み上げる。
「ひよりの好みに合う服見つけるまで付き合ってもらうから。覚悟しとけよ」
隼人は含みのある笑みを浮かべ、バス停に向かう。
「か、覚悟って……」
ひよりは顔をひきつらせ、隼人の後についていった。
町田駅前でバスを降りると、隼人は迷わず横浜線寄りのデパートに入っていった。
「ここは、ひよりっぽくないな。次だ」
隼人はレディースファッションの店を吟味しながらフロアを回り、エスカレーターで上っては「ここも違う」と、またフロアを回りを続けた。
確かに私の好みじゃないお店ばっかりだったけど、私に似合う服、分かるのかな? 自分でもどんな服を買ったらいいのかなんて、本当は分かってないんだよね……。
「この店、よさそうだな」
最上階まで行ってようやく隼人が足を止めた。
カジュアルとおしゃれなドレスが並んでいる少し大人っぽい雰囲気の店だ。普段着ている服とは雰囲気が違うが、着てみたいと思う服がいくつか目につく。
「これ、どう?」
透け感のあるフレア袖が特徴的なTシャツを、隼人が見せてきた。
「こういうのあんまり着ないかな」
「じゃあ、こっちのは?」
今度は、表の胸元に黒猫のワンポイント、裏にはもふもふの黒猫と白猫が寄り添っているイラストがプリントされているTシャツを見せてきた。
「隼人、猫派でしょ。よく猫のスタンプ送ってくるし」
「猫、かわいいじゃん。もふもふしてるし、気まぐれで自由だし。普段触らせてくれないのに、急に自分から甘えてくるところとか、かわいすぎる」
「意外とツンデレが好きなんだ」
「ツンデレ嫌いな男はいないだろ。人前ではツンツンしてるのに、2人きりになると楽しそうに好きなことを話してくれたり、触れたら顔を真っ赤にしたり。俺だけに見せてくれるって思うと、たまらない」
じっと見据える隼人の視線がひよりを捉えて離さない。
ひよりの心臓がきゅっと締め付けられる。
何でそんな真剣な顔で見てくるの……。
自分のことを言ってるんじゃないかって勘違いしそうになる。
本当に彼女にしたい人は、そういう人がいいって意味だよね。紛らわしい顔、しないでよ。
ひよりはTシャツに視線をずらし、隼人の手から取る。
「それより、これ、さっきのよりはいいかも」
「だろ? その白猫、ひよりっぽいし」
「そうかな?」
「これと合わせたらいい感じ」
隼人は紐ベルトがリボン結びになっているワイドパンツを手に取り、Tシャツと合わせてみせる。
「そうだね。でも、私に似合うかな」
「絶対似合う。着てみて」
「……着てみるだけだからね」
ひよりが服を受け取ると、隼人はすぐ店員を呼んだ。
試着室の前で隼人が待っていると、ほどなくしてカーテンが開き、不安そうな顔のひよりが出てきた。
「どうかな?」
隼人が口を半開きにして、目を見開いてひよりを見つめる。
「やっぱり似合わないんでしょ。着替える」
「待って」
カーテンを閉めようとしたひよりの手を隼人が咄嗟に抑える。
「似合ってる。……似合いすぎてびっくりした」
隼人の頬がうっすらと赤身を帯びる。
「大げさだよ。そんなに似合ってるかな?」
「すっげー似合ってる。でも、好みじゃなかったら他の探すから」
「……嫌いじゃない。動きやすいし、服はかわいい。似合ってるなら、買ってもいいかな」
「やった! やっと、ひよりに似合う服見つけ出せた!」
隼人は拳をぐっと握って、嬉しそうに笑った。
王子でもニセ王子でもない無邪気な隼人の笑顔。
この顔を知ってるのは自分だけかもしれない。
そう思うと、胸の中がくすぐったくなり、自然と口元が緩んだ。
試着室を出て会計をしようと、鞄の中で財布を探しているうちに、隼人がアプリ決済をしてあっという間に支払ってしまった。
「自分で買うからいいのに」
「弁当のお礼ってことで」
「ペナルティだって言ってたくせに」
「礼くらいするって。あと、これからも作ってってことで」
隼人は店員から袋を受け取り、店を出ていく。
「待ってよ」
ひよりは隼人の後を追って隣に並んだ。
「服、ありがとう」
「いいって。ひより、甘いの好き?」
「好きだけど、何で?」
「パンケーキのうまい店あるから行こう」
「え? 服買ったら帰るんじゃないの?」
「まだ時間あるだろ。服選んで終わりじゃ、デート物足りないし」
「デートじゃなくてフィールドワークに来たんだけど」
「2人で出かけてるんだからデートだろ。行くぞ」
「ちょ、ちょっと!」
隼人はひよりの手を握り、小田急線側の方に向かう。
隼人の大きな手からじんわりと体温が伝わってくる。
駅の入り口が近づくにつれて人が多くなり、行き交う人々と肩がぶつかりそうになる。
ひよりの指と指の間に、隼人の長い指がするりと絡んで優しく包み込まれた。
こ、これ、恋人繋ぎってやつ?!
なんか、指がピリピリして緊張する。
何でこんな本物の彼女みたいな繋ぎ方してくるの……。
ひよりは困惑しながら、人混みを掻き分けて進んでいく隼人の広い背中を見上げる。
隼人は駅に入らず、飲食や雑貨など様々な店が立ち並ぶ通りに進んだ。恋人繋ぎのまま、隼人はひよりの横に並んで歩き出した。
「すごい人だったな。もう少しで着くから」
「あ、うん」
手、このままなのかな。
これも彼女の練習?
なのに、何でこんなにドキドキしてるの。
……意識しすぎちゃだめ。
私はニセの彼女で、これは付き合ってるふりなんだから。
カラオケ店の前を通りすぎようとした時、 同年代の男女数人がげらげら笑いながら出てきた。そのうちの1人が隼人を見て目を丸くした。
「あっ! 隼人じゃねえか。久しぶりだな」
「ああ、久しぶり」
隼人は王子スマイルを浮かべて、片手を上げた。
茶髪と金髪の派手な女子たちが隼人の傍にかけより、笑顔を向けた。
「本当だ、隼人! 相変わらずイケメン!」
「こんなところで会えるなんてラッキー!」
「あたし、この前偶然会ったんだ。あっ、彼女いるじゃん。あたしのこと覚えてる?」
ミニスカートの女子に問いかけられ、ひよりは古淵駅前で会ったことを思い出した。
「あっ、はい。覚えてます」
「マジで彼女いんじゃん。おまえ、高校でもモテてんだろ。うらやま~」
男子の1人が隼人の肩を軽く小突く。隼人は愛想笑いを浮かべて、ひよりと繋いだ手を見せびらかすように持ち上げた。
「デート中だから」
「見せつけないでよ。萎えるわあ」
「てかさ、隼人ってやっぱりこういう子、好きなんだね」
「ほんと、それ。あたしも前会った時、言っちゃった」
女子たちが値踏みするような視線をひよりに向ける。不躾な態度に不快感が込み上げ、ひよりは顔をしかめる。
「ああ、隼人の元カノか。大人しそうな感じだったな」
男子は背中を丸めてひよりと目線を合わせ、納得したように頷く。
「元、カノ?」
ひよりの胸の中に冷たい空気が広がる。
……いたんだ。彼女。
「あの子みたいにならないように、気をつけなよ」
金髪の女子が冷たい眼差しで口角を上げる。
隼人の顔から笑顔が消えた。
「どういうこと?」
「余計なこと言うなって」
ひよりが問いかけると、ミニスカートの女子が金髪の女子の肩を叩いてたしなめた。
「行くぞ」
隼人の指がきゅっと引き締まる。ひよりの手を引いて早足で歩き出す。
ひよりの足がもつれそうになり、隼人と手を離して立ち止まった。
「隼人、待って!」
隼人も立ち止まり、硬い表情で振り向く。
「ごめん、速く歩きすぎた。……さっきの、中学の時絡んできてたやつらでさ」
「そうなんだ。あのさ……、その人とは本当に付き合ってたの?」
「……ああ。初めて好きになった人」
「……!」
息が詰まって苦しい。
鈍い痛みが心臓に走る。
元カノのこと、本当に好きだったんだ。
私とは違って……。
「園芸部で花が好きだった。花菖蒲とアヤメの違い、教えてもらったんだ」
隼人は遠い目をする。その目にはひよりではなく、元カノが映っている。
こんな隼人、見たくない。
ひよりは目を伏せ、拳を握る。
「へえ、そうなんだ」
「……気にならないのか?」
「何が? 元カノのこと? 別に、気にならないよ。ニセ彼女の私には関係ないし」
隼人がじっとひよりを見る。
「嘘つくの下手だな。気になってるくせに」
「……嘘じゃない」
「そう」
隼人はひよりから目を逸らす。
「ニセ彼女の私が、隼人の好きだった人のこと聞く権利なんてないでしょ。それに、話したくなさそうだったし」
「気遣ってくれんの? 優しい彼女だな」
隼人が力なく笑う。
気遣ってるわけでも、優しいわけでもない。
隼人の言うとおり、嘘ついた。
本当は気になってしょうがない。
元カノは初恋の人ってこと?
その人に何があったの?
別れたの?
その人のこと、まだ好きなの?
ニセの彼女が必要な理由って、元カノが関係してるの?
そもそも私を選んだのって、元カノと同じようなタイプだったから?
疑問がどんどん湧いてくる。
だけど、無理に聞きたいわけじゃない。
それに、答えを聞くのも怖い……。
「いい機会かもしれない。話すよ」
「え?」
「いつかひよりに話さないとって思ってた」
隼人は一度目を伏せてからひよりに視線を戻す。
「俺がニセの彼女を欲しがった本当の理由。……元カノが原因なんだ」
休日、隼人と薬師池公園に訪れたひよりは、池の水面を覗き込んだ。初夏の日差しが反射してきらきら輝く水中を、小さな魚たちが泳いでいる。
「天保の大飢饉の時、長雨で池が決壊しそうになった時に、女の姿で現れたっていうやつだろ」
「隼人、知ってるの?」
「ちょっと調べた。一応、俺も部員だし」
隼人が自分で調べてきた?
興味持ってくれてるってことだよね?
それとも、契約条件だからって義務感で調べたのかな? 案外真面目なところあるし……。
「黙るなよ。驚きすぎだろ」
「あ、ごめん。興味なのか、義務感なのか、気になっちゃって」
「何の話だよ。そういえばさ、昭和初期ごろまで大蛇が目撃されてたらしいな。妖怪みたいに作り話か、実話か分からない民話が近くにあるって、おもしろいよな」
隼人が微笑む。
ひよりの胸の奥がじんと熱くなる。
おもしろいって思ってくれたんだ。
それだけのことなのに、嬉しくて口元が緩んでしまう。
ひよりは誤魔化すように咳払いをして、池に沿って歩き出す。
「ねえ、町田市って他にも動物の民話がけっこう残ってるって知ってる?」
「そうなんだ。知らなかった」
「狐とかむじなとか、送り狼の話もあるんだよ」
「送り狼?」
「夜道をついてくる狼の話。他の地域では、転ぶと襲いかかってくるって話もあるんだけど、町田市の図師町には、狼の恩返しの話として伝わってるの」
「鶴の恩返しみたいな?」
「そんな感じ。当時の人たちはただ恐れるだけじゃなくて、尊重や親しみを持って自然とか野生動物と共生してたんだろうね。地域によって色々なんだけど、共通してるお約束とかルールとかもあって――」
楽しそうに早口で話し続けるひよりを、隼人は瞳を細めて見つめる。その温かい眼差しに気づいたひよりは、気恥ずかしくなって口を閉じた。
「続き、話してよ」
「だって、なんか変な目で見てくるから」
「変な目って、ひどいな。部長の話、楽しんで聞いてたのに」
「楽しんでたの? そんな顔に見えなかったんだけど」
ひよりは風に煽られる前髪を撫でつけながら、池に架かるアーチ状の橋を渡る。
「ひよりの楽しそうな顔、もっと見たいって思ってたのバレてた?」
「なっ、何言ってんの!」
振り返って隼人を見上げる。ニセ王子の顔で悪戯っぽく笑っている。
からかわれてる!?
もう、なんなの。
隼人から視線を逸らし、欄干を掴んで池を見渡す。
池の上に浮いている小さな古民家が風情を感じさせる。池の周囲に生い茂る木々が目に映えて、ひよりは思わず感嘆の声を漏らした。
「うわぁ。きれい」
「写真撮ろう。ひより、こっち向いて」
振り向くと、隼人に肩を抱かれた。
「えっ、ちょっと!」
「ほら、笑って」
隼人は腕を伸ばして片手でスマホのボタンを押した。
カシャッ。
「撮らないでよ! 絶対、変な顔してた!」
隼人から離れて顔をしかめる。
隼人はスマホを見て吹き出した。
「ぷはっ。変な顔」
ひよりが横からスマホを覗くと、キメ顔の隼人の隣で目と口が半開きになっている自分が写っていた。
「早く消して!」
「撮り直したら消してやるよ」
「何で私と撮りたいのよ」
「何でって……」
隼人はスマホを操作しながら口ごもる。
顔を上げて、ひよりに笑みを向けた。
「彼女だから」
「……っ!」
ひよりは息を呑む。喉が詰まって言葉が出ない。
ニセの彼女だって分かってるのに、そんなふうにさらっと言われたら、本当の彼女って言われてるみたいで変に意識してしまう。
「これも彼女のふりの練習な」
「練習……」
そうだった。
隼人の願いは、本当の彼女じゃない。
隼人のことを好きにならない、ニセの彼女。
意識するなんて、バカみたい。
隼人は肩を寄せ、スマホを持った手を伸ばす。
「今度は笑えよ」
「……うん」
ひよりはスマホに向けて、薄い笑みを浮かべた。
「写真、送っとく」
隼人が撮った写真をすぐにひよりのスマホに送った。
ひよりは自分のスマホで画像を見る。さっきよりはまともな顔で写っているが、完璧な笑顔の隼人に比べると見劣りがする。
「……変な顔」
ひよりはすぐに画面を閉じた。
橋を渡り終えて少し進んだ先に、花菖蒲田が広がっている。紫、白、黄色など色とりどりの花菖蒲の間に、木道が造られている。
「ちょうど見頃だね。花菖蒲ってアヤメに似てるけど、どう違うんだろう?」
「アヤメは乾いた土地で育って、花びらの付け根に網目模様があるけど、花菖蒲は……」
隼人が木道に片膝をついて、花菖蒲の花びらの付け根を指差す。
「黄色い筋がある。これが見分け方」
「ずいぶん詳しいんだね。花好きなの?」
驚いて尋ねると、隼人は立ち上がって目を伏せた。
「これは受け売りだから」
「花に詳しい人と知り合いとか?」
「……知り合いだった」
低く呟く声が掠れている。
花菖蒲から逃れるように、隼人は大股で進んでいく。ひよりはその背中を追いかけながら、首をかしげた。
その人と何かあったのかな。
気になる。
でも、踏み込んじゃいけない壁を感じる。
ニセの彼女だからかな。
本当の彼女だったら、話してくれるのかな。
……って、何でこんなに隼人のことが気になるんだろう。
過去に何があったって、私には関係ないのに。
胸の中がもやもやする。
隼人の背中が、やけに遠く感じた。
「ひより」
花菖蒲田を抜けてから隼人が振り返る。
「何?」
「リベンジさせて」
「何の?」
「彼女の服選び。彼氏だったら彼女のこと分かっておかないと、だろ?」
いつものニセ王子の顔で、片方の口角を上げる。
「覚えてたの?」
「もちろん。彼氏だからな。なのに、ひよりの好みに合う服を選べなかったのは悔しすぎる。今日こそは絶対、選んでやる」
「ははっ、何それ。そんなに悔しかったんだ」
リベンジに燃える隼人がおかしくて、つい笑いが込み上げる。
「ひよりの好みに合う服見つけるまで付き合ってもらうから。覚悟しとけよ」
隼人は含みのある笑みを浮かべ、バス停に向かう。
「か、覚悟って……」
ひよりは顔をひきつらせ、隼人の後についていった。
町田駅前でバスを降りると、隼人は迷わず横浜線寄りのデパートに入っていった。
「ここは、ひよりっぽくないな。次だ」
隼人はレディースファッションの店を吟味しながらフロアを回り、エスカレーターで上っては「ここも違う」と、またフロアを回りを続けた。
確かに私の好みじゃないお店ばっかりだったけど、私に似合う服、分かるのかな? 自分でもどんな服を買ったらいいのかなんて、本当は分かってないんだよね……。
「この店、よさそうだな」
最上階まで行ってようやく隼人が足を止めた。
カジュアルとおしゃれなドレスが並んでいる少し大人っぽい雰囲気の店だ。普段着ている服とは雰囲気が違うが、着てみたいと思う服がいくつか目につく。
「これ、どう?」
透け感のあるフレア袖が特徴的なTシャツを、隼人が見せてきた。
「こういうのあんまり着ないかな」
「じゃあ、こっちのは?」
今度は、表の胸元に黒猫のワンポイント、裏にはもふもふの黒猫と白猫が寄り添っているイラストがプリントされているTシャツを見せてきた。
「隼人、猫派でしょ。よく猫のスタンプ送ってくるし」
「猫、かわいいじゃん。もふもふしてるし、気まぐれで自由だし。普段触らせてくれないのに、急に自分から甘えてくるところとか、かわいすぎる」
「意外とツンデレが好きなんだ」
「ツンデレ嫌いな男はいないだろ。人前ではツンツンしてるのに、2人きりになると楽しそうに好きなことを話してくれたり、触れたら顔を真っ赤にしたり。俺だけに見せてくれるって思うと、たまらない」
じっと見据える隼人の視線がひよりを捉えて離さない。
ひよりの心臓がきゅっと締め付けられる。
何でそんな真剣な顔で見てくるの……。
自分のことを言ってるんじゃないかって勘違いしそうになる。
本当に彼女にしたい人は、そういう人がいいって意味だよね。紛らわしい顔、しないでよ。
ひよりはTシャツに視線をずらし、隼人の手から取る。
「それより、これ、さっきのよりはいいかも」
「だろ? その白猫、ひよりっぽいし」
「そうかな?」
「これと合わせたらいい感じ」
隼人は紐ベルトがリボン結びになっているワイドパンツを手に取り、Tシャツと合わせてみせる。
「そうだね。でも、私に似合うかな」
「絶対似合う。着てみて」
「……着てみるだけだからね」
ひよりが服を受け取ると、隼人はすぐ店員を呼んだ。
試着室の前で隼人が待っていると、ほどなくしてカーテンが開き、不安そうな顔のひよりが出てきた。
「どうかな?」
隼人が口を半開きにして、目を見開いてひよりを見つめる。
「やっぱり似合わないんでしょ。着替える」
「待って」
カーテンを閉めようとしたひよりの手を隼人が咄嗟に抑える。
「似合ってる。……似合いすぎてびっくりした」
隼人の頬がうっすらと赤身を帯びる。
「大げさだよ。そんなに似合ってるかな?」
「すっげー似合ってる。でも、好みじゃなかったら他の探すから」
「……嫌いじゃない。動きやすいし、服はかわいい。似合ってるなら、買ってもいいかな」
「やった! やっと、ひよりに似合う服見つけ出せた!」
隼人は拳をぐっと握って、嬉しそうに笑った。
王子でもニセ王子でもない無邪気な隼人の笑顔。
この顔を知ってるのは自分だけかもしれない。
そう思うと、胸の中がくすぐったくなり、自然と口元が緩んだ。
試着室を出て会計をしようと、鞄の中で財布を探しているうちに、隼人がアプリ決済をしてあっという間に支払ってしまった。
「自分で買うからいいのに」
「弁当のお礼ってことで」
「ペナルティだって言ってたくせに」
「礼くらいするって。あと、これからも作ってってことで」
隼人は店員から袋を受け取り、店を出ていく。
「待ってよ」
ひよりは隼人の後を追って隣に並んだ。
「服、ありがとう」
「いいって。ひより、甘いの好き?」
「好きだけど、何で?」
「パンケーキのうまい店あるから行こう」
「え? 服買ったら帰るんじゃないの?」
「まだ時間あるだろ。服選んで終わりじゃ、デート物足りないし」
「デートじゃなくてフィールドワークに来たんだけど」
「2人で出かけてるんだからデートだろ。行くぞ」
「ちょ、ちょっと!」
隼人はひよりの手を握り、小田急線側の方に向かう。
隼人の大きな手からじんわりと体温が伝わってくる。
駅の入り口が近づくにつれて人が多くなり、行き交う人々と肩がぶつかりそうになる。
ひよりの指と指の間に、隼人の長い指がするりと絡んで優しく包み込まれた。
こ、これ、恋人繋ぎってやつ?!
なんか、指がピリピリして緊張する。
何でこんな本物の彼女みたいな繋ぎ方してくるの……。
ひよりは困惑しながら、人混みを掻き分けて進んでいく隼人の広い背中を見上げる。
隼人は駅に入らず、飲食や雑貨など様々な店が立ち並ぶ通りに進んだ。恋人繋ぎのまま、隼人はひよりの横に並んで歩き出した。
「すごい人だったな。もう少しで着くから」
「あ、うん」
手、このままなのかな。
これも彼女の練習?
なのに、何でこんなにドキドキしてるの。
……意識しすぎちゃだめ。
私はニセの彼女で、これは付き合ってるふりなんだから。
カラオケ店の前を通りすぎようとした時、 同年代の男女数人がげらげら笑いながら出てきた。そのうちの1人が隼人を見て目を丸くした。
「あっ! 隼人じゃねえか。久しぶりだな」
「ああ、久しぶり」
隼人は王子スマイルを浮かべて、片手を上げた。
茶髪と金髪の派手な女子たちが隼人の傍にかけより、笑顔を向けた。
「本当だ、隼人! 相変わらずイケメン!」
「こんなところで会えるなんてラッキー!」
「あたし、この前偶然会ったんだ。あっ、彼女いるじゃん。あたしのこと覚えてる?」
ミニスカートの女子に問いかけられ、ひよりは古淵駅前で会ったことを思い出した。
「あっ、はい。覚えてます」
「マジで彼女いんじゃん。おまえ、高校でもモテてんだろ。うらやま~」
男子の1人が隼人の肩を軽く小突く。隼人は愛想笑いを浮かべて、ひよりと繋いだ手を見せびらかすように持ち上げた。
「デート中だから」
「見せつけないでよ。萎えるわあ」
「てかさ、隼人ってやっぱりこういう子、好きなんだね」
「ほんと、それ。あたしも前会った時、言っちゃった」
女子たちが値踏みするような視線をひよりに向ける。不躾な態度に不快感が込み上げ、ひよりは顔をしかめる。
「ああ、隼人の元カノか。大人しそうな感じだったな」
男子は背中を丸めてひよりと目線を合わせ、納得したように頷く。
「元、カノ?」
ひよりの胸の中に冷たい空気が広がる。
……いたんだ。彼女。
「あの子みたいにならないように、気をつけなよ」
金髪の女子が冷たい眼差しで口角を上げる。
隼人の顔から笑顔が消えた。
「どういうこと?」
「余計なこと言うなって」
ひよりが問いかけると、ミニスカートの女子が金髪の女子の肩を叩いてたしなめた。
「行くぞ」
隼人の指がきゅっと引き締まる。ひよりの手を引いて早足で歩き出す。
ひよりの足がもつれそうになり、隼人と手を離して立ち止まった。
「隼人、待って!」
隼人も立ち止まり、硬い表情で振り向く。
「ごめん、速く歩きすぎた。……さっきの、中学の時絡んできてたやつらでさ」
「そうなんだ。あのさ……、その人とは本当に付き合ってたの?」
「……ああ。初めて好きになった人」
「……!」
息が詰まって苦しい。
鈍い痛みが心臓に走る。
元カノのこと、本当に好きだったんだ。
私とは違って……。
「園芸部で花が好きだった。花菖蒲とアヤメの違い、教えてもらったんだ」
隼人は遠い目をする。その目にはひよりではなく、元カノが映っている。
こんな隼人、見たくない。
ひよりは目を伏せ、拳を握る。
「へえ、そうなんだ」
「……気にならないのか?」
「何が? 元カノのこと? 別に、気にならないよ。ニセ彼女の私には関係ないし」
隼人がじっとひよりを見る。
「嘘つくの下手だな。気になってるくせに」
「……嘘じゃない」
「そう」
隼人はひよりから目を逸らす。
「ニセ彼女の私が、隼人の好きだった人のこと聞く権利なんてないでしょ。それに、話したくなさそうだったし」
「気遣ってくれんの? 優しい彼女だな」
隼人が力なく笑う。
気遣ってるわけでも、優しいわけでもない。
隼人の言うとおり、嘘ついた。
本当は気になってしょうがない。
元カノは初恋の人ってこと?
その人に何があったの?
別れたの?
その人のこと、まだ好きなの?
ニセの彼女が必要な理由って、元カノが関係してるの?
そもそも私を選んだのって、元カノと同じようなタイプだったから?
疑問がどんどん湧いてくる。
だけど、無理に聞きたいわけじゃない。
それに、答えを聞くのも怖い……。
「いい機会かもしれない。話すよ」
「え?」
「いつかひよりに話さないとって思ってた」
隼人は一度目を伏せてからひよりに視線を戻す。
「俺がニセの彼女を欲しがった本当の理由。……元カノが原因なんだ」


