バスタブに張られた湯の中に、薔薇の花びらが浮かんでいる。
湯の中はじんわりと温かいのに、薄荷の涼しい心地が肌をすっと冷やす。
花びらを手に掬い取ると、苑はなんだか笑えてきた。
この華やかな薔薇風呂に、落ちぶれた自分があまりに不釣り合いで、どうしようもなく滑稽に思えた。
コンコンと浴室のドアを叩く音がすると、苑の返事を待たずにダフネが顔を出す。
「洗濯機の上に、着替え置いといたで」
「……うん」
「そのお花、かいらしいやろ。庭の蔓バラや」
「……うん」
二十歳をゆうに超えていながら、こんな返答しかできない苑のことを、ダフネは一度だって嗜めたことはない。
花畑をくるくると回っていた頃と同じように、優しい微笑みを向けるだけだ。
交通事故でいっぺんに親を亡くした苑を引き取ってから、ダフネは苑に怒るということをしたことがない。
幼少期の苑が何をしでかしても、こんこんと諭してから夕食を食べさせ、温かな風呂に浸からせた。
親を亡くした可哀想な子供なのだから当然だと、苑は本気で思っていた。
そんな自分が救いようのない馬鹿であることも、いくらか大きくなったときには気付いていた。
気付いていたのに、苑は何一つ改めることをしなかった。
苑の代わりに絵本の「オソノちゃん」が、ダフネの理想の孫娘をやってくれていたからだ。
パタンと閉まった浴室のドアを振り返ると、苑は勢いよく湯船から体を引き上げた。
「……なあ、ダフネ」
脱衣所で足を止めたダフネの影が、すりガラス越しにこちらを振り向いた。
「うん?なあに?」
苑は小さく細く、息を吐いた。
なるべく興味なさげに、世間話でもするように、そんでもって穏やかに。
この三つを心がけて、苑はザラつく影に尋ねた。
「……あの巧身って人。ダフネの彼氏って、ホンマなん?」
問われた影は答えることなく、首をゆっくり傾けた。
孫娘に彼氏のことをどう説明したら良いか迷っている。影の形から、苑はそんな躊躇いを感じた。
ダフネの答えがどちらであるにせよ、苑はここに長居するつもりもない。
アルバイトでも、なんでもいい。とにかく何か仕事を見つけて、花脊以外の場所にひっそりと身を隠す。苑はそのつもりでいた。
ダフネが打ち明けやすくなるように、苑は努めて明るい声で言った。
「さっすが花脊の魔女やな。随分ええの捕まえたやん」
一糸纏わぬ姿で立ちながら、苑はうんうんとわざとらしく頷いて見せる。
「優しいし、意外と力持ちやし?顔なんかホンマ、どっかの国の王子かー!思うたしな」
一応は二十代の端くれである苑が、八十を目前にした祖母を相手に「悔しい」なんて思っているのを、認めたくはない。
それでも心の中に響き渡る声は、本当にうるさくて正直だった。
(正味な話ぃー、顔だけはマジでドタイプやんな)
(軽トラとか作業着とかダサすぎて引くけど、土台があれなら改造しがいもありそうやんなー)
(まあ向こうが?どうしてもって言うなら?付き合ってやらんこともないけどな)
——心の中の苑は、顔にぐりぐりと美顔器を押し付けながら、そんなことを宣っている。
それでも。
他ならぬダフネが、彼のことを好きだと言うのなら。
不出来な孫娘なりに、苑は二人のことを認めてやるつもりでいた。
少しの間を置いてから、影は小さくなって小刻みに揺れ始めた。
「……ふっ。ふふふっ……」
ダフネはどうやら、泣き出してしまったらしい。
苑はやれやれ首を振りながら、浴室のドアを開いて言った。
「ええんよもう、ダフネ。幸せにならはって……」
ダフネはもう耐えきれないと言わんばかりに、口元を押さえてしゃがみ込み、ひたすら肩を震わせていた。
脱衣所から廊下へ続くドアが、半開きになっている。
裸一貫で立ち尽くす苑がそれに気付いた瞬間。
——苑と巧身の視線がぶつかり合った。
「えっ、ちょっと。裸はアカンやろ、裸は」
苑の絶叫が、戸惑う巧身の声を掻き消した。
