黄色い花畑の真ん中で、幼い苑を抱き上げたダフネがくるくると回る。それは苑の頭に残っている中で、最も古い記憶だ。
「Deux pommes dans mon panier, un petit chou dans mon panier……」
なんの歌かは知らないままだが、歌詞の音だけは耳に残っている。
「ソノール、私のかわいい子。大好きよ」
苑の頬や鼻をちょんちょんとつついて、愛おしそうに微笑むダフネの顔が、今も目に焼きついている。
その花畑をいたく気に入ったダフネは、縁もゆかりもない花脊に、この家を建てた。
可愛らしいトンガリ屋根に、木枠の格子窓、モザイク柄の石畳。そして、ダフネ自慢のローズガーデン。
花脊の人々は親しみを込めて、その家を「魔女さんの家」と呼んだ。
魔女は変わり果てた孫娘を見上げると、か細い腕で抱きしめた。
「おお、ソノール!どないしたの、こない泥んこになって!」
「……ヒールでこけたんや」
「まあ〜、また派手にやりはったわなぁ。怪我はしとらんの?」
苑が首を振って答えると、ダフネの視線は軽トラックへと向けられた。
荷台にぎっしりと積まれた丸太の隙間から、巧身が苑の手荷物を取り出している。
「……あの子とどこで会うてきたん?」
「国道抜けたとこ。うちがズッコケてたら、声かけてきた」
苑が言うなり、ダフネは口を開いて首を振る。
「オ〜ララ!そんなんまるで、お話の通りやないか」
項垂れる苑の頰を両手で包みこむと、ダフネはエメラルドの瞳を優しく細めた。
「オソノちゃんと木こりさんが、ホンマに出会いはったなんて。これだから人生って、面白いんや」
この魔女はいつも、朗らかな声で歌うように話す。
こんな姿で現れた孫娘を前にしても、ダフネはダフネのままだった。
ダフネは苑の手を取ると、玄関口に向かって歩き出した。
「さあさ、お家はいりましょ。まずはお風呂やね。ああ、薄荷のお風呂にしよか。すぅっとして気持ちええから」
よたよたとダフネの後に続きながら、玄関扉まであと一歩というところで、苑はガクンと膝から崩れ落ちた。
「ソノール!」
叫び声を上げたダフネが、慌てて苑の前に跪く。
苑に立ち上がる力は、もう残っていなかった。
元婚約者の浮気を知った時は、体の底から力が湧き上がってくるようだった。
警察署に連行された時も、会社をクビになった時も、周りを睨め付ける気力があった。
質屋の査定に苦言を呈した時だって、背筋を伸ばして座っていられた。
またも足元に転がるハイヒールに目を向けた苑は、声にならない声を上げた。
初任給で買ったルブタンは、こんな持ち主に履かれることを嫌がっているようだった。
喉の奥が震えだし、苑の目からぼたぼたと熱い涙が溢れ出した。
「うっ……! ふうぅっ……!」
この美しい家から飛び出せば、思い描いた通りの自分になれると、二十歳の苑は思っていた。
手に入れた洋服も靴も、バッグもアクセサリーも、表面を飾り立てる鍍金にしかならなかった。
鍍金が剥がれて泥に汚れた苑を、ダフネとこの家は変わることなく優しく出迎えた。
こんなはずではなかった。
こんなはずではなかったのだ。
「ううう〜っ……!」
泣きじゃくる苑の背中に、固い生地の感触と柔らかな温もりが伝わってくる。
「よいしょっと」
振り向く間もなく、苑の体がふわりと浮いた。
「……へえ。女の子って、こんな軽いんや」
花嫁姿で、お姫様抱っこをしてもらうのが夢だった。
国内だったら一流ホテル、海外だったらハワイの式場で、婚活戦争に勤しむ女友達にブーケを投げて、勝ち逃げするのが目標だった。
この花脊で苑を抱き上げたのは、鼠色の作業着を着た男だった。
「何があったか知らんけど、ここで羽休めしてったらええやん。人生、まだまだ長いんやから」
洛中出身のあんたに、都落ちした私の何が分かるんや。
心の中でそう毒づきながらも、苑はどうしようもなくほっとしていた。
元婚約者よりもずっと顔のいい男に抱き上げられていることだけが、苑にとって唯一の救いだった。
