瞼の向こうが明るくなったのを感じて、苑は嫌々ながら目を開けた。
車のルームライトに照らされる巧身の顔が、心配そうに苑を覗き込んでいる。
「大丈夫?頭痛いんか?」
どうやら家に着いたらしい。フロントガラスの向こうには、すっかり暗闇に包まれた三角屋根が見える。
これでもかと眉間に皺を寄せる苑に、巧身は慌てた様子でルームライトのスイッチを切った。
「眩しいか。ごめんごめん」
雇った初日に飛び出していったバイトに、何をそこまで甲斐甲斐しく世話を焼こうとするのか。
その理由を考えるのにも嫌気がさして、苑は再びブランケットに顔を埋めた。
「おお。まだ寝んの?」
「……眠すぎてしんどい。もうちょっと休まして」
「あ、うん……」
家は目の前にあるものの、体を起こす気にもならない。
ダフネに連絡のひとつも寄越さずに、キャバクラで酒を煽って酔い潰れ、自分の足では帰っても来られなかった。
こんな夜明けも近いような時間に、どの面を下げて家に入れたものかと、苑はまた溜息をつく。
ふと、苑はドアポケットに目を留めた。
なんの痕跡も残されていなかったこの車に、その白い紙は浮き出して見えた。
のろのろと腕を伸ばし、苑はその小さな名刺を手に取った。
「……弁護士……」
「あっ」
明らかに狼狽えた様子で、運転席に収まっていた巧身が声を上げた。
弁護士事務所ユーケイフロント
労務専門弁護士
脊川雪葉
三行で分かる成功者の名刺を見ても、苑にこれと言った驚きはない。
同時に、なるほどなと思った。
こういう男にはこういう女が寄っていって、なんやかんやで絆されていき、破れ鍋に綴じ蓋といった具合になる。
「……へえ。雪ちゃんもこの車乗せたんや」
「乗っけてへんよ。窓越しに渡されただけ」
「そういやあの子、あんたんち来てたな。えらい、仲良さそうやったやん」
そうではないと知っていて、苑は皮肉を言った。
巧身は明らかに雪葉のことを袖にしていたし、少し嫌がっているようにも見えた。
「あんたのこと好きなんやない?そこんとこ、あんたはどうなん?」
寝起きの悪さも相まって、今度ばかりは棘のある聞き方をした。
巧身は目をぱちぱちと瞬かせながら、少し考え込むようにして黙り込んだ。
そしておもむろに首を傾げると、苑を振り返って言った。
「ごめん。俺は一ミリも興味ないから分からん」
苑は横目で見ていた巧身から目を逸らすと、くるりと寝返りを打って巧身に背を向けた。
「……それこそ失礼な話やな」
「でも、興味ないもんはないし」
「昔っからええ子やで。頭も性格も」
「関係ない」
巧身が少し声を大きくしたので、苑は瞬きを止めた。
「なあ、こっち向いてや」
苑の肩を掴んで振り向かせることも出来ただろうに、巧身は弱々しい声になって言った。
「なあ……」
「うちは『なあ』って名前やないで」
巧身がはたと動きを止めたのが、苑の背中越しにも伝わってくる。
白む空を見上げながら、苑はぽつりぽつりと言葉を繋いだ。
「オソノちゃんだか、若宮さんだか、呼び方なんかどうだってええけどな。……あんたに余裕くれて呼ばれるんは、うちはめっちゃ腹立つ」
苑はチラリと後ろを振り返り、トドメを刺す気で口を開いた。
「せやからバイトと雇い主として……」
続きを言おうとした苑は、目を見開いたまま固まった。
片手に顔を当てた巧身が、耳まで真っ赤になっていたのだ。
「……なんやその顔は」
「や、ごめん。続けて続けて」
「いやだから、なんで真っ赤になんねん、今ので」
「ちゃうくて、あのー……。呼び方おかしかったんは、普通に……。て、照れ隠しいうか」
「はあ?」
「せやから、それを今んなって、気付いたっちゅーか……」
もうこれ以上聞いてくれるなとばかりに、巧身は顔の前で手を振った。
「……なに言うてんのか、よう分からんけど。やっぱアホやな、あんた」
裸を見ても抱きつかれても、顔色ひとつ変えなかったくせに、よく言ったものだ。
苑はそう思いながら、大口を開いて欠伸をした。
「ふあーあ」
苑はほんの少し口元を緩めて、ブランケットに丸まった。
