花脊の苑


 深夜の国道は車通りも少なく、すれ違う対向車は一様にスピードを出して走り去っていく。

 重厚な造りゆえか、高級車の助手席に伝わってくる振動は少なく、走行音も極めて静かだ。

 山道の振動がダイレクトに伝わってくる軽トラックが、苑は少しばかり恋しかった。

 あれはあれで良い車なのだと、苑は思い直していた。

 助手席からの目線が高くて気分が良いし、ジェットコースターに乗っているようでワクワクする。

 酒に当てられて吐き気を催していたなら、全く違う感想だったとも思う。

 それでも軽トラックには、もう一ついいところがあるのを苑は思い出した。

 軽トラックは、ベンツよりも運転席と助手席がずっと近い。

 ただそれだけのことに胸を高鳴らせていた自分が、馬鹿で間抜けに思えて仕方なかった。


「……この車、あんたのなん?」


 苑がポツリと尋ねると、青に変わった信号にアクセルを踏みながら、巧身は「あー」と声を伸ばした。


「友達にディーラーやってる奴がおって、そいつに売りつけられたかんじやな」


「へえ……。すごいやん、買えるんやから」


「でもほとんど使ってへんよ。軽トラのが小回りきくし楽」


「……たしかに。あの山ん中なら、軽トラのがええかもな」


「そそ。軽トラ最高や」


 この男は自分とは違い、なんでも持っている。

 整った容姿に、大金を生み出すことのできる才能、それに人望だってある。おまけに南北戦争の主役キャストときたもんだ。

 それなのにこの男は、ぼうぼうと鳴く雉鳩よろしく、呑気に笑ってベンツを走らせている。

 作業着姿で電ノコやらチェーンソーを振り回しているときには、あれだけ近くに感じていたのに。

 地べたに這いつくばっている自分からすれば、まるで天上人のようにすら思えてきて、苑は深く溜息をついた。


「……あのさ。さっき、ごめんな」


 遠くに見える赤信号にスピードを落としながら、巧身が呟いた。


「松上げで勝ったら、俺と龍ちゃんがオソノちゃんのことどうこうするって……。あんなん、普通に失礼やったよな」


 車が停止したのを見計らうと、巧身は苑に向かって深々と頭を下げた。


「ホンマにごめん」


「……ええよ別に。どっちが勝っても、うちには関係ないもん」


 拗ねたように見せてやろうとか、それで駆け引きをしてやろうとか。少し前の自分なら、一秒でそんな企てをしていただろう。

 それなのに今は、そんな気は毛ほども起こらなかった。

 車内がしんと静まり返ると、巧身は躊躇いがちに口を開いた。


「……それは、ちょっと悲しいな」


「何が」


「だって俺、松上げ本気でやるし」


「うん。やりゃええやん」


「だから、その……。応援、してほしいというか」


「青やで、信号」


 苑が短く告げると、巧身はまだ何か言いたげな顔をしながら、ゆっくりとアクセルを踏み込んだ。

 巧身に何を言われても、胸が高鳴ることもなければ心の声が暴れ出すこともない。

 これで良いと、苑は窓にもたれて目を閉じた。
 はじめからこうあるべきだったのだと、妙に納得していた。