花脊の苑


 目覚めると、苑はベンツの中にいた。


 (は……?)


 寝ぼけ眼で運転席のハンドルに目を凝らすと、やはり苑が見知ったエンブレムのそれだった。

 これまでの人生を振り返ってみても、乗せてもらったことすらない高級車だ。

 上質なレザーシートはすっかり倒されて、触り心地のいいブランケットが、苑の体をすっぽり覆うようにかけられている。
 
 苑はすっかり酔いの回った頭で、いくつかの可能性を考えた。


 (その一、木場さんの車説。金貸しの仕事してはる言うてたし、あの人ベンツとか好きそうな顔してるしな)


 しかしこれは有力な説とは言えない。

 VIPルームを出た木場が、そのまま店から出て行ったのを苑は見ている。

 あれから二、三時間は酒を浴び続けていたのだから、木場がこんなところにベンツを停めて待っているわけがない。


 (その二、菊地の車説。羽振りのええ常連客やって、アホヅミ言うてたし。金持ちなんは間違いない。……まあ、ベンツとかあんま似合わへんけど)


 これは論外だと、苑は即座に予想を引っ込めた。

 菊地は苑たちと一緒に飲んでいたのだから、車に乗ってこんな店に来るはずがない。


 (じゃあその三……。酔って知らん男の車に乗ってる説)


 これは最有力候補になりそうだと、苑はシートから起き上がって車内を見回した。

 しかしどういうわけか、見知らぬベンツには使用感というものが全く感じられず、持ち主の荷物は何ひとつ見当たらない。中にほんのりと、新車の匂いがしているくらいだ。


 (……いよいよ分からんくなってきたぞ、これは)


 とりあえず車から降りようと、苑がドアノブに手をかけた時だった。


「起きてたんか!待たせてごめんな!」


 さも当然のように運転席のドアを開けたのは、今やただのイケメンでしかない巧身だった。

 苑の私服と靴を大事そうに抱えたまま、巧身は助手席にもたれる苑を覗き込んだ。


「体調悪ないか?水あるけど飲む?」


「……なんであんた、おんの?ここに」


「あー、終わるまで待っとこう思ったんやけど。オソノちゃんが酔い潰れたーって、里奈ちゃんから連絡きてん」


 後部座席に荷物を置きながら、さらさらと流れるように巧身は言った。


「……うち、寝とったんやろか?」


「そう。客席でスコーンて倒れて、そのまま」


「……なんも覚えとらん」


「そらそうやろな。よう寝とったわ」


「……うちのこと、誰がどうやってここまで運んだん?」


 巧身は運転席のドアを開けて乗り込むと、ケロッとした顔をして言った。


「ん?俺が抱っこして運んだよ」


 声を上げまいと、苑は唇を噛んだ。
 
 寝こけた挙句に、人が大勢いたであろう中を、苑はこの男に抱かれて退場した。

 オーナーにしてみればブチギレ必至であろう、最悪のキャバクラデビューとなってしまった。

 後悔と無念に苛まれ、苑はたまらず顔を手で覆った。


「あ、そや。これオーナーから、今日のお手当やって」


 巧身が差し出してきた封筒を恐る恐るつまみ取ると、中には木こりバイト五倍分の金が入っていた。

 オーナーの情けが沁み入ると共に、もう次はないと言われているのをひしひしと感じた苑は、封筒に向かって頭を下げた。


「どやった?体入は」


 ベンツのエンジンをかけながら、巧身はこともなげに聞いてきた。


「……どやったも何も、分かるやろ。散々や」


「散々なわりには綺麗やで」


「うっさいねんホンマ……」


 眉間に深く皺を寄せた苑が窓にもたれると、巧身は少し黙ってから口を開いた。


「……めっちゃ綺麗やって、死ぬほど焦った」


 視線を悟られまいと、苑は運転席に向かって薄目を開けた。

 巧身はハンドルに手をかけたまま、深く息を吐いて項垂れた。


「ほんまに、俺もどうかしとるわ」
 

 ぽつりと呟いた巧身は、思い出したように顔を上げると、駐車場の出口に向かって車を動かし始めた。