花脊の苑


 ……誰やこれは。

 いや巧身やけど。
 
 苑は混乱を極める脳内で、そのやり取りを繰り返した。
 
 ゆったりしたシルエットのシャツに、細身のテーパードパンツ、革張りのドライビングシューズ。
 
 全身を黒でまとめているのが、均整のとれた巧身の体つきを際立たせていた。

 巧身はボックス席に歩み寄ってくるなり、なんの躊躇もなく木場の手首を捻り上げた。


「なあ、離れろ言うてんねんけど」


 ゾッとするほど冷ややかな巧身の声に、苑の方が身を固くした。

 (マ、マジで誰やねん!!怖すぎるやろ!!)

 パッと木場の手が離れると、苑はボックス席の端っこに逃げ込んだ。

 すっかり怯え切った苑を他所に、男二人は睨み合いを始める。


「なんやねん、お前。何しに来た」


「だから言うてんねやろ。その子は俺んとこのバイトさんや」


「んなもん知らんわ。俺の女や」


 鼻先を突き合わせて睨み合う二人に、苑はあわあわと視線を泳がせる。

 初日で飛んだバイト先の雇用主に、今まさに自分を取って食おうとしていた伝説のヤンキー。

 ここにきてまた、どっちに転んでも、だ。
 机の下にもぐって逃走を図ろうとする苑に、木場が手を伸ばした瞬間だった。

 巧身はその手を払い落とし、木場の胸ぐらを掴んだ。


「触んな言うてるやろ」


 木場はわずかに目を見開くと、巧身の手を振り解いてニヤリと笑う。


「……なんや巧身。お前もこいつに惚れとんのか?」


 巧身は眉間に皺を寄せ、木場から目を逸らした。


「んなもん関係ないやろ」


 いつもとはちがう刺々しい顔つきと声色に、苑の心の声が暴れ出すゆとりもない。

 うろたえるばかりの苑の前に、巧身がゆらりと立ちはだかった。


「……ほら、帰るよ」


 思いのほか優しい声で言われ、苑は差し出された手を思わず取ってしまった。
 
 そんな苑と巧身の顔を見比べると、木場はまたも不敵な笑みを浮かべ、巧身の胸ぐらを引っ掴んだ。


「……俺の女やいうたんが、聞こえんかったか?」


 巧身は苑の手を取ったまま、自分の方へ軽く引き寄せた。


「俺の後ろいてな」


 花脊の山を越え、洛北中の不良にその名を轟かせた木場龍司に、巧身は一歩も引こうとしない。
 
 こうして背中越しに見ると、巧身は細いながらに肩や背中に筋肉がしっかりと乗っている。

 どっと巧身の肩を押し込めた木場は、地を這うような低い声で言った。


「……今やお前が洛北、俺が洛南や。あん時と反対やな、巧身」


 黙ったままの巧身に、木場は睨みを効かせたまま続けた。


「若宮がかかってんねやったら、俺はもっぺんやったるで。……十年ぶりの、南北戦争や」


 十年ぶりの、南北戦争。
 
 意味を推し量ろうとする苑を他所に、苑の目の前で巧身は肩を揺らした。
 

「……ふっ。くくっ……」

 
 巧身が吹き出して笑い始めると、木場は急にバツが悪そうな顔になって、巧身の肩を強めに引っ叩いた。


「おいコラ、バカにしとんのか」


「いやすまん。ひさびさに龍ちゃんのアツい顔見たら、急に笑けてきてん……」


「なにがやねん。南北戦争バカにしよったら殺すぞ」


「やってあんなん、どう考えても黒歴史やろ!」


「黒歴史ちゃうわ!俺の青春黄金期や!」


 苑の頭の中で、点と点が繋がれた。
 
 洛北と洛南の不良グループが起こした、花脊山での抗争は、南が勝ったことによって南北戦争と語り継がれた。

 南北戦争の勝敗を決した男二人が、苑の目の前で肩を組んで笑っていた。