スマホと財布だけ入ったエコバッグを持って、苑はサンダルで山を駆け抜けた。
さすがに体操着ではないものの、無地のTシャツも黒いジャージも中学時代の私服である。
次を逃せば八時間後の巡回バスに、苑はそんな格好のまま飛び乗った。
一時間かけて出町柳駅に着くと、苑は駅前のロータリーでアホヅミを待ちながら、ダフネの顔を思い浮かべた。
( 昼間に話そうって言うてたんに、こんなとこまで来てしもうた…… )
ダフネに電話一本でも入れようか迷っていると、すぐ近くからクラクションの音が聞こえてきて、苑はびくりと体を揺らした。
黒いサングラスをかけたアホヅミが、いかついSUV車の窓から顔を出す。
「乗れ」
親指で助手席を指し示しながら、アホヅミは短く言った。
あまりのガラの悪さに吹き出しそうになりながら、苑はアホヅミの車に向かって足を弾ませた。
*
アホヅミがまず向かったのは、自分が行きつけにしていると言う美容室だった。
「急で悪いんやけど、電話した通りやから。こいつ、使いもんになるようにしたってくれる?」
贔屓にしているらしい担当スタイリストに苑を預けると、アホヅミはふらりと店を出て行った。
「っまあ〜!えっらい美人さんやね!里奈ちゃんの友達なんやって?」
「はあ、まあ……。腐れ……いや、なんでもない」
「ほんじゃカラーから入らせてもらいますね〜!シャンプー台いきましょか〜」
最後に美容室に行ったのがいつだったか、苑はもう思い出せないくらいになっていた。
あれよあれよと施術は進み、カラー剤の浸透を待っている間にネイリストまで現れた。
「あっちゃ〜。これもう、だいぶ時間空いてますよね〜?」
「空いてます空いてます。なんなら今日、鉈で削ぎ落とそうか〜思ったくらい」
「鉈っ!?爪どころか指まで落ちてまうやん!やめて!」
髪も爪もすっかり出来上がった頃になって、アホヅミが再び店に顔を出した。
「どないやろ〜?」
「里奈ちゃん里奈ちゃん!この子ヤバい!まつ毛バッサバサ!マツエクいらん!」
「せやろ〜。めっちゃムカつくわ〜」
うざったそうに髪をかきあげながら、アホヅミが苑の後ろに回る。
鏡越しに苑と目が合うと、アホヅミはニヤリと笑って苑の肩を引っ叩いた。
「い゛っ!たっ!」
「よっしゃ!やっぱお前はこうやないとな!」
「……おまっ」
苑はアホヅミを相手に上手く口が回らなかった。
くすんだ髪色も、枝毛だらけだった毛先も、剥げてとれかかっていたネイルも、見違えるような仕上がりにしてもらった。
髪にネイルにと、これだけの施術を受ければ数万は軽く飛ぶ。
苑の懐事情では支払いをしようにも、一旦アホヅミに金を借りる他に手立てがない。
そんな苑の苦悩を見透かしたかのように、アホヅミは苑の鼻先を指で弾いた。
「いった!やめろや!」
「心配すんな。これはうちからのご祝儀や」
ご祝儀と聞いたスタイリストとネイリストが、不思議そうに顔を見合わせると、苑も同時に眉根を寄せた。
「ご祝儀て、なんの?」
腰に手を当てたアホヅミは、苑やスタイリストたちにくるりと背を向けると、よく通る声を張り上げた。
「バカな男とキレイさっぱり別れて、おめでとうって言うてんの!」
苑の返事など元から求めていないように、アホヅミはお会計!と声をかけながら、支払いカウンターへと歩いて行った。
苑は目に力を入れて、ひたすらに堪えた。
嬉しい、ありがとうだなんて、苑には言えなかった。
ただいつか、いつの日にか、この借りは倍にして返してやると、苑は深く胸に刻みつけた。
