花脊の苑


 苑は昔から、物怖じしない子供であった。

 誰の前であっても、そこに何千何百の人がいようとも、堂々としていられる自信があった。

 それが今はどうだ。

 ガレージに停められた軽トラックの陰に、苑は息を殺してしゃがみこんでいる。

 外に開けたガレージの入り口には、黒のセットアップ姿の雪葉が佇んでいた。

 幸いこちらに気付いた様子もない雪葉が、カツンとヒールを鳴らして巧身に近づいた。

 ヒールの爪先にあしらわれた三角形のロゴを、無駄に視力のいい苑は見逃していなかった。


 (いやめっちゃプラダやん……)


 黒のヒールに合わせたセットアップも、肩にかかったショルダーバッグも、雪葉の身なりはそれとなくハイブランド品で固められていた。

 雪葉の背後に見えている車は、一目でそれと分かるような高級外車だ。

 黙々と作業を続ける巧身の顔を、雪葉は横から覗き込んでいた。


「こないだお電話した件、考えてもらえましたか?」


 ピタリと手を止めた巧身は、雪葉に顔を背けるようにタオルの端を顔に当てた。


「……何遍もお断りしてるはずですけど」


「そやけど、なんでうちには売ってくれへんの?倍の値段出します言うてるのに」


 雪葉がニコニコと笑ってそう言うと、巧身は初めて雪葉の方に顔を向けた。


「金額の問題ちゃうんは、そちらも分かっておいでなんと違いますか」


 冷え冷えとした声で返す巧身に、雪葉は怯んだ様子もなく笑みを湛えていた。

 ふと雪葉は、土間の壁に目を留めた。
 
 そこにかかっていたのは、例の「削りカスの集合体」だった。

 雪葉はそれを指差すと、「じゃあこれは?」と小首を傾げた。


「これはいくら出せば売ってくれはるんですか?」


 巧身は目を細めると、薄ら笑いのひとつも浮かべることなく言った。


「それは売り物とちがうんで」


 予想通りの返事が返ってきたとでも言うように、雪葉はやれやれと肩をすくめた。

 巧身は目つきも声も冷ややかなままに続けた。


「ここに押しかけてくるんは、もうやめてもらえませんか。奥に苑もいてるんで」


 不意に巧身の口から出てきた自分の名前に、苑は小さく息を漏らした。

 何を勝手に呼び捨てしてくれてんねんと、軽トラックの陰から顔を出す勇気もない。

 雪葉は「へえ」と言って背を伸ばすと、ガレージの奥に向かってキョロキョロと視線を彷徨わせた。


「そのぴーは今、何してはるんですか?」


「祭りの手伝いですよ。あの子、ずいぶん筋がええから助かってます」


 雪葉のヒールが再びカツンと鳴った。
 
 艶めくローズピンクの唇を、雪葉は小さく開いた。


「……あんな犯罪者かぶれの女、どこがええんですか」


 雪葉は確かに、そう言った。
 
 驚きはしたものの、苑の腹の内に湧き上がってくるものは無い。

 ハイブランド品を上品に着こなし、外車で乗り付けてくるような女に、自分がそう見えていたとしても不思議はないと思った。

 軽トラックの陰に身を潜めながら、苑は膝の間に顔を埋めた。


「そんなもん、挙げたらキリないやろ」


 巧身はあっけらかんと言ってから、ニヤリと笑った。


「あんなオモロい女、見たことないわ」

 
 何がオモロい女や。

 苑は今度こそ、腹の底から煮えくりかえった。

 里山の老女たちだけでは飽き足らず、ダフネにまで取り行って懐柔してしまうような奴だ。

 東京から落ちぶれて帰ってきた苑という女を、こいつはさぞや面白がっているのだろう。

 犯罪者かぶれとスッパリ言われた方が、陰で馬鹿にされるよりもまだマシに思えた。

 苑がいよいよ立ちあがろうとした瞬間、ポケットに入れていたスマホが震えた。

 メッセージの差出人はアホヅミで、至急山から降りてこいとある。


 (なんやコイツは。うちは熊やないねんぞ……)


 そう思ってメッセージアプリを開くと、立て続けにアホヅミからのメッセージが連投された。

 
『ナンバー張ってる子たちがインフルなって、人が足りんくなった』

『来い。金には色つけたるってオーナー言うてんぞ』

『出町柳まで降りてこい』

『車で迎え行ったるから』

 
 
 ガレージから這って抜け出した苑は、土間に山と積まれたヒノキの短冊を通り過ぎると、その家から逃げ出した。

 初日にバイト先から飛んだのは、苑の人生でも初めてのことだった。