花脊の苑


 促されるまま車を降りると、ベタな夜景がそこから見えた。

 苑はこんな場所があることすら知らなかったが、市内を見下ろすように景色が広がっている。


「たまに来んねん、ここ」


 巧身は小さなレジャーシートを草むらに広げると、苑に手招きして座るよう促した。

 大人二人で座ったら、肩がくっつくくらいの距離感が想定されて、脳内の苑がまた暴れ出そうとしていた。


「ほら、おいで」


 女に「おいで」だなんて易々と言える男を、苑はそもそも好きではない。

 それなのに、つい淑やかに、膝を揃えて腰を下ろしてしまう。

 良い女ぶって隣で髪を掻き上げる苑に、巧身の横顔がぽつりと告げる。
 

「……初めてかも」


「なにが」


「俺、女の子と夜景見るとか初めてや」


「またそういう、キャバ嬢が言いそうなことを……」


「いやホンマやから。ホンマに初めてやって」


 何がそんなに可笑しいのか、巧身は顔を手で覆いながら笑い始めた。

 これがアホヅミだったなら、体をくねらせて上手いこと巧身にしなだれかかっていただろう。

 自分はそんなヘマはしないとばかりに、苑は茂みの方にそっぽを向いた。

 無駄に視力がいい苑は、茂みの奥で何かが動いたのを見た。しかしそれは風に揺れた枝葉であろうと、気にも留めなかった。

 横で胡座をかく巧身が、ちょんちょんと苑の腕を指でつついた。


「さっきの話、どう?俺んとこでバイト、やってみる?」


「……内容と時給による」


「オソノちゃんの仕事は、鉈でひたすらヒノキを割りまくる。朝の六時から十時までで、日当一万。どう?」


 早朝からというのが引っかかったが、仕事内容と時給からして破格の待遇であるのは苑でも分かった。

 何より、この男には謎が多すぎる。

 やたらと花脊の土地に馴染んでいたし、みんなからも異様に慕われている。

 ここでひとつ雇われてやることで、その秘密を暴くことができるかもしれない。

 苑はこの美味い話に乗ってみることにした。


「……分かった。やる」


「おお。そんじゃ、さっそく明日から。よろしゅうな」


 ガサガサッ。

 茂みの奥から音がした。

 恐る恐る苑が振り返ると、黒光りする目と視線が重なった。


「ぎぃやああああーー!!」


「えっ! なに!?」


「あっ! あっこ! あっこの茂みっ!」

 
 無我夢中でしがみつく苑と茂みを見比べると、巧身はふっと鼻息を漏らす。


「あはは、鹿ですやん」


 しがみついたまま後ろを振り向くと、立派な角をした雄鹿が「なんやねん」と言わんばかりに苑を見つめていた。

 雄鹿は首をひとつ傾げると、茂みの奥へと去って行った。

 巧身は両腕を上げたまま、胸にしがみつく苑の頭をぽんぽんと撫でた。


「ホンマ大胆やなぁ、オソノちゃんは」


 あっけらかんと笑うこの男に、苑は勝てる気がしなかった。

 勢いをつけて巧身から離れると、苑は手負いの獣かのごとく間合いを取った。


「こ、これからは雇い雇われの関係や! おちょくったようなこと抜かしよったら、セクハラで訴えたるからな!」


「へえ〜。雇われが雇い主に抱きつくんはセーフなんか〜?」


「アウトや! もうせえへん!」


「それはそれで寂しいなぁ〜」


「抜かせ! 雇い主ならしゃんとしとけや!」


 巧身は片膝を立てて座りながら、口元に浮かべていたニヤけ笑いをふっと消す。

 片手を苑の膝に置いて身を寄せると、巧身は苑の耳元に囁いた。


「じゃあ明日から、巧身さんって呼んでな」


 その低く甘い声の破壊力たるや、苑は人の形を保っているのがやっとだった。

 気の早いことに、苑はしっかりと目を閉じていたのだから、尚更に。


「さーて、そろそろ帰りますか。……若宮さん」


 明らかに、語尾に(笑)をつけて巧身が言った。

 苑は頭を掻きむしり、輝く夜景に向かって叫び出したい気分だった。