花脊の苑



 雪葉はダフネに促されて席に着くと、持っていた紙袋から包みを取り出した。


「おばさんこれ。仕事で四条に寄ったんで、今日買うてきたんです。良かったら食べてください」


「あら〜!鍵善の甘露竹やないの!ずっと食べたいなぁ思うてたんよぉ〜」


「良かったぁ」


 なんて気の利くいい娘だ。ダフネの心の声が聞こえてきたような気がして、苑はバツが悪くなる。


「あははっ!巧身さんてホンマおもろいわぁ」


 皿洗いに勤しむ巧身とアホヅミの声を聞きつけた苑は、しくじったとばかりに慌てて洗い場に向かった。


「……代わったろうかアホヅミ」


「はあ?お前の仕事なんかないわ。どっか行け無職」


 無職。

 その二文字は苑になかなかの打撃を与えた。

 それでも苑は食い下がった。

 
「きゅ、求職中やわ!ボケが!」


「ハッ。なんやお前。自分が無職って認めたないんか?」


 苑に背を向けたままアホヅミは、布巾で皿を拭きながら鼻で笑った。

 それでもまだ、苑の心は折れなかった。ダフネの角煮が、ふろふき大根が、腹の中から力をくれた。


「次の働き口なんか、速攻で見つけたるわ。お前みたいな商売女と、うちはちがうんや」


 巧身の視線だけが、さっと苑に向かって突き刺さる。

 その目は険しく冷たく、強い非難の色を滲ませていた。


「……でもちょっと、それは無理なんやない?」


 優しくて丸っこい雪葉の声がして、苑は言われている意味も分からず笑顔で振り向いた。


「え?なんて?」


「やから、無理やない?そのぴー、東京で事件起こして書類送検されてんねやろ?」


 言葉を失って立ち尽くす苑に、雪葉は高そうな腕時計を覗かせながら頬杖をついた。


「そういうのって、調べれば分かることやし。あんま楽観的になりすぎんのは、アカンかもなぁ」


 雪葉だけが、福の神のような笑みを湛えていた。



 *



 世界の全てを飲み込んでしまいそうな星空が、しおれた体操着に身を包む苑を見下ろしている。

 徒歩二分の道を歩き始めてから、もう十分以上は経っている。スマホを見ながら歩くアホヅミのヒールの足音が、山道に響いていた。


「おいバカ女。止まれや」


 どこに向かっているのかも分からない。

 アホヅミの家はとっくに過ぎている。それでも、苑はあの家にいられなかった。


「苑!!」


 義理堅くて、面倒見のいいやつ。

 苑が婚約者の不貞を知ったときも、真っ先に思い浮かべたのはアホヅミの顔だった。

 アホヅミなら「ザマァ見ろボケカス」と、笑い飛ばしてくれる気がしたからだ。

 肩を掴まれた苑は、アホヅミから顔を背けたまま足を止めた。


「聞いてやるから、言い訳してみろや」


「……言い訳なんか、ないわ。そこに書いてある通りや」


 小さな扱いではあったものの、苑の起こした事件はネットニュースや新聞でも報道された。

 苑の実名こそ出なかったものの、会社の名前も事件内容もハッキリと書き出されている。

 雪葉がどうして苑だと特定できたのか考えようにも、苑の頭は回らなかった。

 打ちひしがれたダフネの顔を、苑は目の当たりにしてしまったからだ。

 アホヅミの長い爪が、苑の肩に食い込んだ。


「この相手の男に、よっぽどのことされたんやな?」


 暗くてアホヅミの顔は見えないが、猫撫で声とは百八十度ちがう、低くドスの効いた声をしていた。


「お前なにされたんや」


「……ええんやもう。終わったことや」


 力無く呟く苑の横っ面に、アホヅミの薄い平手が飛んできた。


「お前が良くてもダフネちゃんは良くないやろうが!!」


 よろめくままに、苑は頰に手を当てながら俯いた。


「お前はなんも分かっとらん!大事な娘がこないなことなって、普通でいられる親がいてるかよ!」


 鈴虫の鳴き声が、アホヅミに恐れをなしたようにふっと消えた。

 ツカツカと歩み寄ってきたアホヅミは、再び苑の肩を掴んで揺さぶった。

 
「なんでっ……!なんでうちに連絡せんかったんや……!」


 苑が顔を上げると、街灯に照らされた穂積里奈の顔が、苦しそうに歪んでいた。


「お前にとってうちはそんなもんか……!そんなもんなんかよバカ女!!」


 もう泣くのは嫌だった。

 それでもアホヅミがわんわんと泣くものだから、釣られた苑も声をあげて泣いた。

 ヤなことあったら死ぬほど泣いて寝るねん。

 いつかアホヅミが言っていたことが、苑の脳裏をよぎって消えた。