杉の木立がひしめく坂道を、真っ赤な靴裏のハイヒールで挑もうとする女がいた。
「ありえん……。ありえんわホンマ……。ようこんなとこ住んどったわ……」
五年ぶりの帰郷だというのに、この女にはタクシーで乗りつけられるような金のゆとりもない。
この若宮苑はつい先日、器物損壊容疑で書類送検された女である。
同僚でもあり婚約者だった男の高級国産車を、ゴルフクラブで滅多打ちにしたためだ。
車のフロントガラスを叩き割り、ボンネットを穴ボコだらけにしてやった。
浮気相手もろとも婚約者を穴ボコだらけにすることも考えたが、それをしなかったのは苑なりの温情だった。
後悔も反省もなかったが、苦労して入った会社はクビ。そのうえ賠償金まで支払って、今や一文無しだ。
綺麗な洋服、ブランド物のバッグやアクセサリーに、靴裏の赤いハイヒール。どれも自分の力で勝ち取ってきた品々だ。
しかし苑の手元に残ったのは、このハイヒールだけ。
他は全部、御徒町の質屋に流した。
「もうちょっと、なんとかなりませんか」
質屋で突き出された電卓を前に、そんな言葉をこぼした自分が惨めでならなかった。
住宅補助ありきで借りていたマンションも、引き払うほかなかった。
端金を握りしめ、一時避難と称して、苑はこの花脊の山に帰ってきた。
なんとか坂を上がりきると、苑は国道と書かれた看板に目を留めた。
こんな曲がりくねった細道が国道を名乗るなど、厚かましいにも程がある。
苑がヒールで看板を蹴飛ばすと、頭上で何かが羽ばたいた。
鴉か、あるいは雉鳩か。存外に大きな羽音であったために、慌てた苑は尻もちをつきそうになった。
「まっじで最悪や……。早よ東京帰ろ……」
雨水を含んだ土の道へ、苑は決意新たに一歩踏み出した。
「……あ゛っ!?」
苑は勢いよく泥だまりに突っ込んだ。
ぬかるみに足をとられて、自慢のハイヒールが脱げたのだ。
高見えというワードに惹かれて買ったブラウスもパンツも、最早お陀仏となった。
あまりの衝撃と絶望に、苑は飛んでいったヒールの片方を探すことすらしない。
「……なんなんや」
鼻の先から泥水を滴らせ、苑は呟いた。
「なんなんやこのバチクソど田舎は!!」
苑の叫びに呼応するように、雉鳩がぼうぼうと鳴く。
低くて鈍い、そして腹立たしいほど呑気な鳴き声だ。
「……死にさらせアホ鳥が!!」
「えー?なんてー?」
腹立たしいほど呑気な、人の声がした。
苑が顔を上げると、藪の中から顔を出した男と目が合った。
一秒で我に返った苑は、泥まみれのハンドバッグから、手探りでスプレー缶を掴み取った。
東京では一度も出番のなかった催涙スプレーの、初お披露目である。
剥げかかったジェルネイルの指先が、噴射ボタンを力一杯押し込めた。
藪に向かって白煙が立ち昇るが、男の反応は簡素なものだった。
「……ええ匂いやなぁ」
苑はゆっくりと、手に持ったスプレー缶に顔を近づけた。
それは汗っかきな苑の、長年の相棒であった。
白い煙は花の香りだけを残して、花脊の山に霧散した。
