大切な人を傷つける、温かい春景色

 先月、大学を卒業した。
 特に意味もない毎日を過ごして、特定の誰かと絡むこともしない。椅子に座り、机に向かい、ただマイクで話す教授の話を適当にパソコンに打ち付けている日々だった。
 正直、就職でもよかった。でも、桃香が就職することを選んだから、あたしは進学を選んだ。
 本田友貴とかいう先輩の話を、たとえ過去の話でも、もう聞きたくなかったから。就職と進学という、絶対にクラスが離れる選択をした。
 桃香は、「大学に行くなんてすごい!」と純粋無垢な気持ちで応援してくれたけど、全然すごくない。あたしは桃香と一緒にいる時間を少しでも減らそうと必死になっているだけなんだから。
 桃香と連絡も取らず、あたしなりに穏やかな大学生活を四年間過ごせたという自覚がある。そして、あと五年くらいはこういう日々を過ごしたかった。
 高校よりも難しいことを学んで、進級するためにテスト勉強に躍起になって取り組む日々は、桃香と過ごす時間と同じくらいあっという間で。大切な人を忘れるには今の日々はもってこいだったのに。
「夏実、卒業おめでとう」
 一足先に大学生という肩書きを失った翠くんが、あたしの卒業式に花束を持って現れたときは、驚いた。仕事があるはずなのに、なにしてるんだろう。そんな冷めた気持ちしか湧き出てこなかったけど、その場に現れたことにびっくりした。
 あのとき言われた言葉を、あたしはずっと考えている。
「夏実が桃ちゃんのこと、中学のころから好きなのは知ってるよ。桃ちゃんに友貴っていう好きな人ができて、苦しかったことも知ってる。桃ちゃんの告白が失敗して、かわいそうとか言いながら実際はうれしかったことも、知ってる。だから、俺が夏実の気持ちを全部受け止めるから。俺と一緒に生きていこう」
 一見すると、まるでプロポーズみたいで。きっと恋人から、桃香から。同じ言葉を伝えられたら。これ以上ないくらい幸せだったと思う。
 でも、相手は大好きな桃香じゃなくて、幼なじみの翠くんで。
 あたしが欲しいのは、彼氏でも旦那さんでもなく、どれだけ頑張って離れても忘れられなかった桃香で。
 首を横に振るのは、簡単なはずだった。反射でそうなってもおかしくないくらい簡単なはずなのに。保留にしたのは、本田友貴を思い出にできた桃香が、高校の卒業式のとき、すごく大人に見えたから。
 この恋が叶わないなら、桃香みたいにあたしも前に進みたい。そう思う自分がいたからかもしれない。
「……ちょっとだけ考えさせて」
 そう、翠くんが半ば強引に押し付けてきた花束を受け取って、一か月。
 いつしか花瓶に生けた花束は枯れてゴミ箱に消えて、桜も散って。もう春が終わろうとしている。
 そろそろ答えをださないと申し訳ないような気がして、ほとんどわかりきっている賭けに出た。
 桃香に、「夏実が誰かのものになるなんて寂しい」って。そう言ってもらえたら。あたしは桃香のために生きていく。この恋を、一生の恋にする。一生恋心を隠して、桃香の親友として高校時代と同じ関係で過ごす。
 アルコール度数三パーセントの缶チューハイを一缶飲んで。酔えるはずないのにお酒を飲んだという既成事実だけで気持ちを奮い立たせて。そのままの勢いでもう二十二時が過ぎているなかでメッセージを送って、約束を取り付けた。
 久しぶりに会った桃香は、あたしよりずいぶん大人に見えた。
 社会で働いているだけあって、ふわっとした雰囲気も薄れて、どこか凛としている。
 それがかっこよくて。あたしはまた、桃香のことが好きになる。
 その姿も、話し声も、甘い香りも。全部、離れて薄れる予定だった恋心を再熱させる。
「翠くんと生きていくって決めたんだ」
 告白されてないけど、プロポーズみたいなことはされた。ちょっと嫉妬してくれたりしないかな。この期に及んでそんな下心があった。だから、あえてそう伝えた。
 嫌って言って。「私のが夏実のこと好きなのに」って言って。
 下を向いて、ひたすらそう願った。
 静かすぎて、あたしの心臓の音と、桃香が息を吸う音が鮮明に聞こえる。
「おめでとう。石田先輩と夏実、お似合いだもん」
 ……あ、終わった。
 そんな祝福みたいな言葉、聞きたくなかった。
 あたしが桃香が恋をしたのが嫌だったように、嫌がってほしかったのに。
 同じ温度で愛してほしかったのに。
 せめて上辺だけでも、そんな言葉をもらえたら。それでよかったのに。
 その日、どうやって家に帰ったのか。桃香になにか言ったのか。全然覚えていない。
 桃香から来ていたメッセージも、既読だけつけてブロックした。
 この恋は、ここで終わり。終わらせる。
 たとえ縁が切れたとしても。桃香の中には残酷でも記憶が残ってくれたら。
 それだけで充分だよ。
「もしもし、翠くん。この前の話、いいよ。あたし、翠くんと生きてく」
 真夜中に翠くんに電話をして、やっと返事をした。
 翠くんはしばらく無言で、少ししたら鼻をすするような音がした。
「うん。ありがとう。夏実、俺にはどんな嫌なことも、いいことも言っていいからね。気持ちを殺さなくていいから。全部、俺が受け止めるから。だから、二人で明るい未来、作ろう」
「……うん。ありがとう。これからよろしくね、翠くん」
 これでいい。これであってる。
 だって世の中、恋だけが幸せじゃない。
 そんなこと、桃香に出会ってからいっぱい感じてきた。
 他愛のない話をしているとき。
 どうでもいいことで笑いあったとき。
 そういうときは、きっと恋をしているか否かは関係ないくらい、幸せだった。
 ただあたしが、あたしじゃない人をどんどん好きになっていく桃香を見るのがつらくなっただけ。
 桃香と一緒にいるときの幸せとつらさのゲージが、つらいほうに傾いてしまっただけだから。
 桃香が恋を思い出にできたように、あたしもきっと、思い出にできる。
 そしたら、きっと。きっと。
 今よりも生き方がうまくなって。
 今よりもっと幸せになれるはずだから。