それから一年がたって、私は毎年のごとく総合病院に健康診断を受けに行った。
問診表を受付で渡して、別の用紙と一緒にバインダーに挟まれて手元に戻って来る。
採血、やだな。痛いもん。
もう会社から強制的に行かされる健康診断も六回目で。
検査する先生ごとに生年月日と名前を伝えることにも慣れた。
「一之瀬さーん。血圧と採血しますね」
看護師さんに呼ばれて、診察室の中に入る。
「生年月日とお名前をお願いします」
先生に言われて、もういい慣れた文言を口から発する。
「では、血圧から測っていきますね」
「はい」
腕まくりをして、よくわからないスポンジのようなものの上に肘を乗せる。
くるくると血圧計を巻き付けられて、ぎゅうっと締められる。
血圧と測るくらいなら全然いい。人間って本当に脈打ってるんだな、なんてぼーっと考えながら検査が終わるのを待つだけだから。
問題は、血圧計を剥がされたあとだ。
「じゃあ、次に採血しますね。研修医の先生にやってもらうから、ちょっと待ってね」
優しそうでベテランそうな看護師さんは、右隣の診察室を覗きに行った。
痛いんだろうな。どうせやらないといけないんなら、あの看護師さんにやってもらいたかった。
そんな願いは届くはずもなく。
今度は左隣に移動して、次の人を呼んでいた。
「すみません、おまたせしま……」
壁に貼ってあるいかにも病院らしいチラシを暇つぶしに眺めていると、どこかで聞いたことのある、心臓が勝手に跳ねる声が耳を貫いた。
「え、先輩……?」
そっくりさんとか、夢なんじゃないかと思って、胸元のネームプレートを見る。
『研修医 本田友貴』
そこには間違いなく、先輩の名前が記載されていた。
「久しぶりだね。元気にしてた?」
どこか上ずったような声で、脱脂綿を準備し始める。
「あ、はい。先輩は……?」
「毎日大変だけど、元気だよ。あ、アルコールでかぶれたことは?」
「ないです」
緊張して、採血どころじゃない。こんなことってあるんだ、と思いながら、右腕を差し出す。
「採血で体調が悪くなったことはある?」
「ないです、大丈夫です」
そう答えて、思い出した。そういえば、先輩って採血というか注射、苦手じゃなかったっけ。
「じゃあ、ちょっと痛いよ」
会話をする余裕なんてお互いなくて。私は毎度のごとく針が腕に刺さっているのを見るのが嫌だから、全力でそっぽを向く。
「はい、おしまい」
気付いたら腕に四角い絆創膏が貼られていた。なんか、全然痛くなかった。
「先輩の採血、痛くなかった」
「ほんと? ほら、僕って注射とか見るの苦手じゃん。だから人一倍同級生の腕を犠牲にして練習したんだよね」
「そうなんですね」
私の相槌に「うん」と答えて、五分くらい親指で絆創膏のところを押さえておいてね、と聞きなれた説明を受けた。
「先輩、おめでとうございます」
荷物を持って、扉に手をかけて振り返る。自然と口から出た、純粋な言葉だった。
先輩も次に行くために椅子から立ち上がって、あのときよりもずいぶん大人になった優しい微笑みを向けてくれた。
「ありがとう」
そして、背を向けて隣の診察室へ歩いていく。
引き留めたい。もっと話したい。あんなに大好きだったのに。あんなに泣いたのに。そんなことは全然思わなかった。
今は、あのころ、今の人生の選択をしてよかったと、素直に思えた。
もしかしたらもう会うことはないかもしれない。
また、来年の健康診断で顔を合わせるかもしれない。
どちらにしても、先輩への恋心はもう、青春の思い出として、過去の気持ちとして刻まれていた。
私は先輩の選択でこの恋が実ることはなかったけど。
今は、それでいい、と思えた。
問診表を受付で渡して、別の用紙と一緒にバインダーに挟まれて手元に戻って来る。
採血、やだな。痛いもん。
もう会社から強制的に行かされる健康診断も六回目で。
検査する先生ごとに生年月日と名前を伝えることにも慣れた。
「一之瀬さーん。血圧と採血しますね」
看護師さんに呼ばれて、診察室の中に入る。
「生年月日とお名前をお願いします」
先生に言われて、もういい慣れた文言を口から発する。
「では、血圧から測っていきますね」
「はい」
腕まくりをして、よくわからないスポンジのようなものの上に肘を乗せる。
くるくると血圧計を巻き付けられて、ぎゅうっと締められる。
血圧と測るくらいなら全然いい。人間って本当に脈打ってるんだな、なんてぼーっと考えながら検査が終わるのを待つだけだから。
問題は、血圧計を剥がされたあとだ。
「じゃあ、次に採血しますね。研修医の先生にやってもらうから、ちょっと待ってね」
優しそうでベテランそうな看護師さんは、右隣の診察室を覗きに行った。
痛いんだろうな。どうせやらないといけないんなら、あの看護師さんにやってもらいたかった。
そんな願いは届くはずもなく。
今度は左隣に移動して、次の人を呼んでいた。
「すみません、おまたせしま……」
壁に貼ってあるいかにも病院らしいチラシを暇つぶしに眺めていると、どこかで聞いたことのある、心臓が勝手に跳ねる声が耳を貫いた。
「え、先輩……?」
そっくりさんとか、夢なんじゃないかと思って、胸元のネームプレートを見る。
『研修医 本田友貴』
そこには間違いなく、先輩の名前が記載されていた。
「久しぶりだね。元気にしてた?」
どこか上ずったような声で、脱脂綿を準備し始める。
「あ、はい。先輩は……?」
「毎日大変だけど、元気だよ。あ、アルコールでかぶれたことは?」
「ないです」
緊張して、採血どころじゃない。こんなことってあるんだ、と思いながら、右腕を差し出す。
「採血で体調が悪くなったことはある?」
「ないです、大丈夫です」
そう答えて、思い出した。そういえば、先輩って採血というか注射、苦手じゃなかったっけ。
「じゃあ、ちょっと痛いよ」
会話をする余裕なんてお互いなくて。私は毎度のごとく針が腕に刺さっているのを見るのが嫌だから、全力でそっぽを向く。
「はい、おしまい」
気付いたら腕に四角い絆創膏が貼られていた。なんか、全然痛くなかった。
「先輩の採血、痛くなかった」
「ほんと? ほら、僕って注射とか見るの苦手じゃん。だから人一倍同級生の腕を犠牲にして練習したんだよね」
「そうなんですね」
私の相槌に「うん」と答えて、五分くらい親指で絆創膏のところを押さえておいてね、と聞きなれた説明を受けた。
「先輩、おめでとうございます」
荷物を持って、扉に手をかけて振り返る。自然と口から出た、純粋な言葉だった。
先輩も次に行くために椅子から立ち上がって、あのときよりもずいぶん大人になった優しい微笑みを向けてくれた。
「ありがとう」
そして、背を向けて隣の診察室へ歩いていく。
引き留めたい。もっと話したい。あんなに大好きだったのに。あんなに泣いたのに。そんなことは全然思わなかった。
今は、あのころ、今の人生の選択をしてよかったと、素直に思えた。
もしかしたらもう会うことはないかもしれない。
また、来年の健康診断で顔を合わせるかもしれない。
どちらにしても、先輩への恋心はもう、青春の思い出として、過去の気持ちとして刻まれていた。
私は先輩の選択でこの恋が実ることはなかったけど。
今は、それでいい、と思えた。


