大切な人を傷つける、温かい春景色

「ありがとう。すごくうれしい」
 その声に、思わず顔を上げる。
 きっと、絶対先輩と同じ気持ちだって、その返事を聞いて確信した。
 ずっとずっとなりたかった、先輩の彼女になれるって。
 でも私を見る先輩の顔を見て、これから言われる言葉が期待している返事じゃないことがすぐにわかってしまった。
「……でも、ごめん。桃香ちゃんの気持ちには応えられない」
 ……そっか、そっかぁ……。
 頭を鈍器で殴られたような。心臓を握りつぶされたような。そんな感覚が私を襲う。
「なんで……」
「僕は、医者になる。これから、県外の大学に行って、もっと勉強しないといけない。恋愛をしてる時間なんて取れない」
 真剣な目でそう言われて、抵抗する気なんてなくなった。
 先輩の夢を近くで、隣で応援したい。
 それが私の中で一、二を争うほど強い気持ちだった。
 だから、それを邪魔してまで彼女になりたいなんて言えなかった。言えるわけ、なかった。
「……わかりました。すみません、変なこと言って。卒業しても頑張ってください。応援してます」
 それだけ言って、私は先輩の言葉を待たずに逃げた。誰も使わないトイレにこもって、声を殺して泣いた。今までにないくらい、拭いてもふいても涙が止まらなくて、ハンカチが絞れるんじゃないかってくらい涙が吸い込まれていった。
 何分経ったんだろう。もうすっかり静まり返った廊下に出て、思い出した。
 先輩に渡したお菓子の袋から、ラブレターを回収し忘れていた。
 やばい、やばいやばい。振られたくせにラブレター入れてるなんて、不可抗力だけど、重い。しつこい。
 とりあえず見つかる前に回収しないと。
 いやでも、さすがにもう帰ってるよね……。
 ダメもとで図書室を覗きに行く。足音を殺して、さっきまで話していた場所へ。
 ……まだ、いた。そして、遅かった。
 いつもと同じ場所に座って、泣きながら私の書いた手紙を読んでいた。
「ごめんね、ごめん、桃香ちゃん。僕も好きだよ。好きだけど、僕には勉強と恋愛の両立ができる気がしないんだ。ごめん、ごめん。本当に、ごめん……」
 手紙に顔を埋めて、先輩は肩を震わせて泣いていた。何粒もの大粒の涙が、机の上に落ちていく。
 その声を聞いて、その涙を見て。先輩の言葉を聞いて。私の目からも、また涙があふれてきた。
 ダメだ。これ以上、ここにはいられない。
 足音を殺すことすら忘れて、私は急いで図書室から出た。
「遅かったね。……大丈夫?」
 教室でずっと待っていてくれた夏実を見たら、もう限界だった。
 さっきあんなに泣いたのに。やっと止まったと思ったのに。
「だめだった。振られちゃった……」
 嫌われていなかっただけ、好いてくれいていただけ、うれしいけど。ありがたいけど。
 なんで、好きなのに振ったの。私は、先輩がお医者さんになるまではただ彼女っていう肩書きさえあればそれでいいのに。先輩が夢を叶えたその先で、一緒にいられる保証さえあればそれで充分なのに。
 でもきっと、先輩にとってそれは、夢を追うには重すぎるんだろうな。
 その気持ちもわからなくもないから、あきらめてあげる。頑張って、あきらめる。
 好きな人のために、大好きな先輩のために、あきらめる。先輩のためって思ったら、きっとあきらめられる。
「私、先輩のこと好きにならなければよかったな」
 好きにならなければ。出会わなければ。年齢が今と違ったら。学校が違ったら。
 そんなタラレバを考えても、時間は変えられないし、戻せないから仕方ないのだけど。つい、考えてしまう。考えずにはいられない。
 だって、少しでもなにかが違えば、先輩を苦しめずに済んだかもしれないから。
「なんで、そんなこと思うの……」
 私の心を知らない夏実は。恋に興味がない夏実は。きっとわかってくれない。
 振られたのが苦しいけど。彼女になれなくて悔しいけど。
 それが嫌なんじゃない。
 好きな人を泣かせてしまうことが、嫌なだけ。
 好きな人を苦しめていることが、嫌なだけ。
 でも、言わない。きっと夏実は私の肩を持つから。振る方が泣くなんて、とか、好きなのに振るとかわけわかんないっていうだろうから。
 この恋は、私の心の中だけで、静かに終わらせたい。
「私、明日から新しい私になる。ちゃんと、先輩のことは思い出にする」
 夏実にそれだけ言って、カバンを掴んだ。先輩を好きな私は今日でおしまい。
 おしまいにしないと、未練がましくて、いつか先輩のことを綺麗な思い出の中に置いておけなくなりそうで嫌だから。
 ちゃんと区切りをつける。そう、決めた。
 そう宣言したからか、夏実は私をカラオケに誘うことも、ケーキをやけ食いすることも誘ってくれないまま。
「帰ろ」
「……うん」
 帰り道も無言で。恋をしたばかりのころに付き合ってくれると言ったことは、たぶん夏実はもう、忘れていた。