大切な人を傷つける、温かい春景色

 完全に寝不足である。
 夜、ぐっすり眠れなかった。そもそもいろいろ考えていたせいで寝る時間はいつもより二時間も遅い深夜一時。起きたのは朝の四時半で、目がさえて二度寝なんてできなかった。
 目の下のクマをコンシーラーで隠して、いつものスクールメイクをする。お母さんが作ってくれたお弁当を持って、家を出る。
「もう出るのか?」
「うん。早く起きちゃったから」
 車のロックを解除したばかりのお父さんと鉢合わせた。いつも通りのスーツを着て、毎日磨いている革靴を履いている。
「家具は身だしなみが綺麗な人から買いたいだろう? 清潔感がなかったりすると、買う人が不安になるからな」と、両親の仕事を知ろうみたいな小学生の頃の宿題でいろいろ聞いたときに言っていた。
「乗ってくか? 今日も寒いだろ」
 いつもお父さんのが早く出るから、学校まで送ってもらったことなんてなかったけど、お父さんと過ごす時間は嫌いじゃないから甘えることにした。
「冷蔵庫のお菓子、桃香が作ったんだって?」
「あ、うん」
 手元にある、先輩へのバレンタインを見て、頷いた。
「詩織がくれたから食べたけど、美味かったぞ。相手の子も、こんなに美味いものもらったら胃袋掴まれちゃうんじゃないか?」
 おちゃらけているように言うけど、運転して前を見ている横顔はどこか寂しげに見える。というか、私、お父さんに好きな人がいるなんて言った覚えないんだけど。
「いい人なら、いいんだ。桃香が幸せなら、それでいいと思うぞ」
 いや、泣きそうじゃん。泣いてないけど、声ちっちゃいし。てか、バレてるじゃん。恋してるって。
 きっとお母さんが話したんだろうな。詩織にもお母さんにも、口留めしてなかったし。バレて困ることと言えば、この話題になったときにちょっと、いや、結構恥ずかしいような気持ちになるくらいだ。
「行ってらっしゃい。渡せなかったら、お父さんが食べえてやるから、無理するなよ」
 学校の前で車を止めると、私が降りる前にそれだけ言った。気負いするなという意味に捉えると背中を押されている気もするし、寂しいから渡さなくてもいいんじゃないか? と言われているような気もする。
 車から降りて、動き出すまでお父さんに手を振って、正門をくぐる。
 いつもより早いから、人は少なくて。
 いるとしたら、グラウンドで朝練をしている人くらいだ。
「いつ渡そう……」
 一人の静まり返った教室で、机の上に保冷バッグに入れた生チョコサンドクッキーを眺めながら本命と気付かれない渡し文句を考える。
『これ、もしよければどうぞ』
 ……ちょっと冷たいかな。
『先輩のために作りました』
 ……。これは、絶対なし。本命ってバレるし、本命じゃないなら重すぎる。
『これ食べて受験頑張ってください』
 いや、なに様? 上から過ぎるよね。
『応援してます。頑張ってください』
 あ、これいいかも。上からでもないし、重くもない。
 バツが並ぶ文の中のこれに丸を付けて、心の中でイメトレをする。
 まず、先輩と会う。帰りの図書室でいいかな。そこでカバンからバレンタインを取り出して、先輩に渡す。邪魔をしないように、渡し終えたらすぐに帰る。
 うん。いい感じ。
「おはよ。今日、早いね。緊張して寝れなかったの?」
 人が増えてきたころ、夏実が私の顔を覗き込む。
「なんでわかるの?」
「だっていつもより来るの早いし。真剣な顔で昨日作ったお菓子見つめてるし」
 そう言いながら、カバンの中をガサガサ漁って、私の前に小さい紙袋を置いた。
「バレンタイン。友チョコあげる」
「昨日一緒に作ったじゃん」
「それとはまた別。開けて見て」
 催促されて、紙袋の中を覗く。そこには、かわいくラッピングされたカヌレが三つも並んで入っていた。
「え、すごっ! これ昨日帰ってから作ったの?」
 夏実は毎年のごとく静かにこくりと頷いて、パタパタと自分の席に向かっていった。
 朝が早かったせいか小腹が空いていて、早速一口食べてみる。
 中も茶色い、チョコレートカヌレだった。おいしい。お店で買って来たと言われても疑わないレベルだ。
 夏実の席の方を向いて、グッドサインを送る。すると、夏実もうれしそうにグッドサインをした。
 授業中もひたすらイメトレを繰り返して、とうとうやってきた放課後。
 保冷バッグの中の大量の保冷材はまだカチカチに凍っていて、その中から先輩に渡すお菓子を取り出す。キンキンに冷えているそれを別で持ってきていたちょっといい質の紙袋の中に移して、図書室に向かう。
 いつもの場所。寒くなってからはファミレスでやるようになったから、ここにいるかな。もしいなかったら、連絡してみよう。
 本棚の間から、あの席を覗く。
 いた。再会したあの日みたいに、一人で黙々と勉強している。
 声をかけていいかな。今、すごく集中していたら、迷惑かな。
 悩んでいると、先輩が顔をあげてこっちを見た。
「あれ、桃香ちゃんだ。どうした?」
 この場所で話しかけられるのが久々で、胸がキューッと締め付けられる。幸せな気持ちで頭の中がいっぱいになる。
「あの、あの、今いいですか……?」
 一歩ずつ先輩に近づく。我ながらロボットみたいな動きだな、と思いつつ、かくかくな動きは先輩の目の前に立つまで治らなかった。
「どうしたの。そんな緊張して」
 やめて、言わないで。わかってて自覚させないようにしてたんだから。
 でも言われた言葉なんて時間を戻せない限り取り消せないし。そもそも言われた側が時間を戻したところで記憶があるなら意味ないじゃん。
 必死に変なことを考えて緊張から気を逸らそうとするも、一度言葉に変えられたものは消えるはずもなく。
 私はロボットのまま先輩にバレンタインを差し出した。
「その、今日、バレンタインなので、その、もしよければ……」
「え、いいの?」
「はい。その、受験応援してます」
 なんか、緊張しすぎて好きな人にチョコを渡すというよりもファンが推しに会って緊張した真っ白な頭の中で、必死に絞り出したみたいな渡し方になったな。
「うわ、うれしい。ありがとね」
 早速紙袋の中から取り出して、袋の中に入った生チョコサンドクッキーを見ている。
「これ、手作り?」
「あ、はい、一応……」
 あ、作って持ってくる前に、手作りに抵抗がない人か確認するべきだったかな。押し付けるのは違うし。
「手作り、嫌ですか……? もしそうなら無理しないでください! 私が勝手に作って持って来ただけなので」
「いやいや、そんなことないよ。手作りのお菓子なんてもらったことないからさ。すごいなと思って。上手だね。めっちゃおいしそう」
 そう、袋を開けてぱくりと一口食べてくれた。
 おいしいかな。口に合うかな。
 不安でじっと先輩の口元を眺めてしまう。
「ん、店で買ったみたいだね。めっちゃうまい。三つしかないの、足りないくらいだよ」
 また一つ、袋を開けて食べる。本当に吸い込まれるように先輩の胃の中に吸収されていく。そして、三つ目を食べ終わって、それでもなお紙袋の中に手を突っ込んで中身を探していた。
「え、もうない? 僕、もう三つ食べた?」
「あ、はい、食べてました」
 先輩は残念そうな顔をして、名残惜しそうに紙袋を眺めている。
「もしよければ、その、卒業式の日とかに、作りましょうか……?」
 気付いたころには、もう口から飛び出していた。
 言ってから後悔した。あんなに大変な思い、もうしたくなかったのに。自分からやると宣言したようなものだ。
 でも、だって。先輩がおいしそうに食べてくれる顔があまりにもかわいかったし、おいしいって言って食べてくれるのはものすごくうれしかったから。
「まじ? いいの?」
「はい、もちろんです」
 言ってしまった。やっぱりちょっと……。なんてもう言えない。
 先輩がこんなによろこんでくれるなら、まあいいか。頑張ろう。先輩も受験勉強ラストスパートで頑張っているんだから。