大切な人を傷つける、温かい春景色

「桃香、帰ろ?」
 帰りのホームルームが終わって図書室に行こうと準備していると、珍しく夏実から声をかけてくれた。私が「一緒に帰ろう」と声をかけて、夏実が頷くのがいつもの流れだ。
 珍しいのがうれしくて、今日は図書室には行かずに夏実の誘いに乗ることにした。毎日会いに行って迷惑をかけるのは嫌だし。
「うん! 帰ろー」
 二人で学校を出るころには、夏実の頭痛も治まったらしい。結局雨は一滴も降らなかったけど。
「どっか寄ろうよ。桃香の恋の作戦会議しよ」
「え、まじ? やるやる!」
 帰り道にある逆詐欺で有名なチェーンの喫茶店に寄って、ふかふかの椅子に座る。
 ここに来たら、だいたい頼むものは決まっている。
「アイスココア二つとポテトとチキンの盛り合わせを一つお願いします」
 お水とおしぼりを持ってきてくれた店員さんに、今日も同じものを注文する。
「あたし、ここのアイスココアおいしくて好き」
「わかる! ソフトクリームと氷とココアが冷えて、シャリシャリしてるとこがいいよね」
「わかる。そこ、味薄いのにおいしいよね」
 何度も話したことを飽きもせず話して、そのあとは今日あったどうでもいい話をして注文したものが届くのを待つ。
 少ししたら、大きなアイスココアとポテトとチキンの盛り合わせがやってきた。
 それを合図に、本題が始まる。
「朝はまともに話聞けなかったけど、今結局どういう流れになってるの?」
 アイスをスプーンですくいながら、まっすぐ私を見る。
「えっと、それは――」
 私はポテトをつまみながら、昨日あったことを話していく。
 放課後の図書室で偶然会えたこと。勉強を教えてもらって、また教えてもらえることになったこと。
 そして、目の前に座って、半分本田先輩のほうに意識が飛びそうになりながら勉強したことも。
 飲むのも食べるのも途中から忘れて、また勢いよく話してしまっていた。
「頑張ったじゃん。で、どうだった?近くで見ても、記憶のままだった?」
「うん! もうそのまんま! 太陽みたいに眩しくて、笑い方はあったかい人だった」
 やっとアイスココアが私の喉を通る。
「すごいマシンガントークだね。でもほんと、うれしそうでよかったよ」
 パクパクと唐揚げとポテトを胃の中にしまい込んでいく。いつもよりよく食べている。相当お腹がすいていたみたいだ。
「食い意地は張ってないからね? お昼ご飯食べられなかったからお腹すいてるだけだからね」
「頭痛いの治ってよかったよ。いっぱい食べてね」
 私の考えを読んだかのような、タイムリーな指摘につい笑ってしまう。夏実はどこか不満気だけど。
「じゃあ、その先輩に会う口実はもうできてるわけだ」
「うん……。でも、あんまりしょっちゅう会いに行くのは申し訳なくてさ。赤本開いて勉強してたから」
「それは確かに、浮かれた気持ちで近づくのは危険だわ。空気読めなくて嫌われるコースになっちゃう」
「やだやだ。嫌われたくない」
「だーかーらー、今から作戦会議するんでしょ?」
 そう、フォークで唐揚げを思い切り刺して笑った。
「でもまあ、あたしは恋とかしないからなー。的確なアドバイスはできないかもしれないけど。とりあえず手始めに、この前のお礼ですって飲み物の差し入れとかしたらどうかな」
「え、でも私、本田先輩の好みとかなにも知らない」
「いや、一回会っただけで好み知ってます! って言われるほうが怖いわ」
 そう笑うと、少し首を左に傾けて少し考えて、得意げな顔をしてこちらを見た。
「コーラとかでいいんじゃない? 大抵の人は好きでしょ?」
「えー、私コーラ苦手」
「桃香はね。炭酸そのもの飲めないじゃん。だから一旦コーラ持って行って、もし苦手って言われたら、なにが好きですかーって聞いたらいいんじゃない?」
 なるほど。そうやって話を広げればいいのか。
 妙に納得した私は、次の日の放課後、夏実のアドバイス通りコーラを自販機で買って図書室に向かった。
「本田先輩」
 恐る恐る近づいて、小さく声をかける。私と先輩の距離は、一メートルくらい。届いていてほしいような、もう少しだけ、沈み切っていない太陽に照らされて真面目な顔で勉強をしている姿を見ていたいような。
 ドキドキしながら、様子をうかがおうとすると、先輩はこちらを向いた。
「あ、桃香ちゃんだ」
 そう笑った。今日も眩しい。
 それに、一回しか会っていないのに名前を覚えてくれている。それがうれしくて、思わずコーラを落としそうになってしまった。
「こんにちは、先輩、あの……」
「ん? どうした?」
 私の声に耳を傾けながら、前、私が座った席を「どうぞ」と手だけで示してくれる。
「これ、この前のお礼です。好き、ですか……?」
「お、コーラだ。しかも赤ラベル。僕が好きなやつだ」
 本当にうれしそうに、私の手からコーラを受け取って、早速プシュっと封を開ける。
 ごくごくと喉を鳴らしながら飲む姿を、正面に座ってつい見てしまう。
「ちょ、そんな凝視しないで。なんか緊張するから」
「あっ、すみません」
 ぱっと目を背けて、教科書を取り出す。
「はは、見てる見てる。大丈夫だよ。ほんとにコーラ好きだから」
 やば。無意識だった。
 手は教科書をめくっているのに、視線だけ先輩の方に向いていたなんて。
「すみません……」
「いいよ。全然。誰かになにかあげるとき、ちょっと不安になる気持ちわかるし」
 そう、一気に半分くらい飲みほしたペットボトルのキャップを閉めて、またシャーペンを握った。
 無言。ひたすら無言で、シャーペンがノートの上を滑る音や、ジェルインクボールペンが丸を描く音ばかりが二人の間で響く。
 今日の私は、明日提出の課題を持って来た。
古典の百人一首の好きな歌を一つ選ぶやつ。そして、その理由も。
 何度も教科書に載っている百人一首を一から読んで、それでも好きな歌というのはどう見つけたらいいのかすらわからない。
「うわ、懐かしいのやってる」
 今日はうなっていないはずなのに、先輩が私の教科書を見ていた。
「え、また私うなってました……?」
「あ、ごめん。そうじゃないよ。懐かしいのが目に入ったから、つい」
 そう、反対側から百人一首を読んでいる。
「先輩は、好きな歌ありますか?」
「あ、好きな歌を選んで理由を書けっていう課題だ。あったなー」
 そう言いながら、先輩はページをめくり、真ん中あたりを指さした。
「これが好きかな」
 そこに載っている歌を読む。
『もろともに あはれと思へ 山桜 花よりほかに 知る人もなし』
 六十六番の、前大僧正行尊という人の歌らしい。
「どういう意味、なんですか?」
「この人が、山桜に話しかけてるんだよ。私がお前を愛おしく思うように、お前も私を愛おしく思ってくれ。この山奥には、お前以外に私を知っている人なんていないのだから。って」
「桜に、ですか?」
「うん。山奥に一人で修行に行ったから、山桜に話しかけてるんだよ。僕は、寂しそうだけど、どこか愛がある感じがして好きなんだよね」
 そう、教科書の一首を眺めながら言う。そして私も、今この瞬間にこの歌が好きになった。
 ちょろいかな。でも、好きな人が好きというと、それはすっと頭に入って来る。
「私も好きかもです。この歌」
 つい口に出してしまった。
「あ、その、今まで意味とかよくわかってなかったけど、わかったうえで読むと心地いいというか、テンポが好きというか……」
「あ、わかる。この歌、ほかの歌よりも読んでて心地いいよね」
 え、うそ。先輩と意見が合っちゃった。
 変に思われないように必死になにか言おうって口に出したけど、私の感覚、おかしくなかったんだ。
「私もこの歌にします」
「うん。いいと思う」
 そう微笑むと、先輩はまた勉強を再開した。
 私は、好きな理由を書く欄に、つい「好きな人が好きだから」と書いていて、慌てて消しゴムで消した。